あらすじ
「歴史の大きな部分ではなく、小さな部分を見つめることで、日本と日本人を知りたい」そんな思いに突き動かされ、九州から京都を中心にした旅エッセイの単行本化。西郷隆盛、坂本龍馬、木戸孝允をはじめとする幕末の志士から、遠藤周作、島尾敏雄などの文豪まで、幅広い歴史的事実の背景を深く読み解く。同時に、著者が発表してきた作品の裏側も見ることができる珠玉のエッセイ集。葉室史観の集大成となる一冊。


ひと言
昨年末から葉室 麟さんの作品を多く借りて読んでいます。2017年12月23日に亡くなられて、はや3年が過ぎてしまいました。カスタマーレビューで、司馬遼太郎の「街道を行く」を思い出させる と書かれた方が多数みえました。もし葉室さんがまだまだお元気であったなら、「街道を行く」のような、日本国中の歴史の裏通りや脇道を描いてくれただろうに……。66歳の早すぎる死。ほんとうに残念でなりません。改めてご冥福をお祈りいたします。


古川 薫さんは去年(2015)、沖縄での特攻隊を描いた小説『君死に給ふことなかれ 神風特攻龍虎隊』を刊行した。終戦間際、特攻用の飛行機が無くなったため、「赤トンボ」と呼ばれる木枠布張りの複葉練習機までもが特攻作戦に使われた。飛行機会社に勤める主人公の深田隆平は、赤トンボを修理していたが、召集されることになり、最後に修理した機の操縦室計器盤の下へひそかに、栄光ノ赤トンボニ祝福ヲ。武運長久ヲ祈リツツ本機ヲ誠心整備ス。と名前とともに書きこんだ。するとある日、隆平のもとに兵士から手紙が届いた。(略)間もなく九三中練で特攻出撃します。(略)深田さんが誠心整備された栄光の赤トンボを操縦して行きます。 かなわぬまでもやれるだけの事はやってまいります。(中略)貴方の未来に祝福を。その未来のなかに俺の時間も少しばかり入れてください。手紙にはM・Kとイニシャルだけが書かれていた。
昭和20年(1945)7月29日夜、宮古島から「神風特別攻撃隊第三次龍虎隊」が出撃した。赤トンボの特攻隊だ。いずれも18、19歳の隊員たちが乗り込んでいた。粗末な練習機は、250キロ爆弾を搭載しての長距離飛行は難しく、最短距離から出撃しなければならなかった。しかも、作戦は月夜に限られた。この中にM・Kがいた。特攻隊は沖縄沖の夜の海上で目的のアメリカ艦を見つけた。練習機だけに夜の海を海上すれすれにゆっくりと進んだ。1隻の駆逐艦が大破、炎上して沈没、ほかの艦にも大きな被害を与えた。特攻隊は1回の出撃で成功したのではない。逡巡するかのようにエンジン不調で何度も引き返す機がある。そのとき、どのような思いが隊員たちの胸に兆していたのか。敗戦のわずか2週間余り前のことである。すでに沖縄戦も終わっており、赤トンボ特攻隊の戦果は広く知られることはなかった。
(戦の世 見つめる大先輩)

「人生は挫折したところから始まる」が、私の小説のテーマ。小説とは、喜びや悲しみ、憤りといった感情が基軸になる。50歳を過ぎて作家デビューするまでに人生の経験を積み、さまざまな感情を味わってきました。それらを思い起こし、一つひとつを物語にしているという感じがあります。若い作家と比べ、経験の数が私の強みです。過去を思い出して物語にしたい、という衝動は、ある程度の年齢を経れば、誰しもあるのではないでしょうか。それは、かつての自分を正当化するというのではなく、「傷ついた」という悔しさ、あるいは「人を傷つけたかもしれない」という反省を、物語にすることで救おうという衝動です。表現の仕方は文章だけでなく、絵や音楽など、人によってさまざまですが。
(インタビュー 「司馬さんの先」私たちの役目)

葉室さんは、こうも書いた。勝者ではなく敗者、あるいは脇役や端役の視線で歴史を見たい。歴史の主役が闊歩する表通りではなく、裏通りや脇道、路地を歩きたかった。
そのまま葉室さんの小説に通じる言葉だろう。一連の旅で主に訪ねたのは、挫折や敗北を知る人、しかし屈することなく再生をめざした人たちだった。
(時代詠う旅 思い引き継ぐ)

葉室さんは唐の詩人杜甫の詩句「片雲頭上黒 応是雨催詩」(宴の最中、空に黒いちぎれ雲がかかり始めた。もうすぐ雨となり、詩を作るように促されるだろう)を引き、「この詩を時代に暗雲がかかる時は詩人の出番だ、と読み替えてみたら、どうだろう」と書いた後、こう続けた。
近頃の世の中の流れを見ていると頭上に黒雲がかかる思いがするし、今にも降りそうな雨の匂いもかいでいる。時代を詠(うた)う詩人は、今でいうジャーナリストの側面も持っていたのではないか、と思うからだ。我々は、どのような時代に生きているのか、何を喜び、何を悲しんでいるのかを告げたのが、詩人ではないか。詩を読み、人の心が動くとき、世界が変わる。今は、そんな詩人が求められている時代だ。明治維新から150年、そして平成が終わろうとする今は、葉室さんこそが求められていた。今なら、どこに旅をして、誰に会い、何を語ったろうか。惜しまれてならない。だからこそ、曙光を探す旅を引き継いでいかなければ、と思う。新たな旅は、葉室さんの言葉を受け取った読者一人ひとりの旅なのかもしれない。
(時代詠う旅 思い引き継ぐ)