あらすじ
切腹した父の無念を晴らすという悲願を胸に、武家の出を隠し女中となった菜々。意外にも奉公先の風早家は温かい家で、当主の市之進や奥方の佐知から菜々は優しく教えられ導かれていく。だが、風早家に危機が迫る。前藩主に繋がる勘定方の不正を糺そうとする市之進に罠が仕掛けられたのだ。そして、その首謀者は、かつて母の口から聞いた父の仇、轟平九郎であった。亡き父のため、風早家のため、菜々は孤軍奮闘し、ついに一世一代の勝負に挑む。

ひと言
本の帯に「日本晴れの読み心地!」と書いてありましたが、まったくその通りの本でした。それもその筈、NHKで菜々役が清原果耶さんでドラマ化されていたとのこと。レンタルDVDはあるのかなぁ。2021年最初の一冊にふさわしい本でした。



和歌がいっぱい書いてあるらしいが、菜々は和歌を学んだことがないので戸惑った顔をしていると、佐知は指差して、 「ここを読んでごらんなさい」 と言った。菜々は、たどたどしく声に出して読んだ。 
月草の仮なる命にある人を いかに知りてか後も逢はむと言ふ 
という和歌だった。万葉集に作者未詳としてある歌だという。「庭の露草は螢草とも月草とも呼び名があると話しましたが、これは月草を詠っていますから、露草の歌でもあるのです」佐知はそう言って、和歌の意味をよくわかるように説いてくれた。露草の儚さにたとえ、わたしは仮初の命しかないことを知らないのだろうか、後に逢おうとあの方は言っているけれど、という意味だという。菜々がいまひとつ意味をつかみかねて首を傾げると、佐知は微笑んで、「一夜の逢瀬を重ねた後、女人が殿方から又会おうと言われた際に、わたしは露草のようにはかない命なのに、また逢うことなどできるのだろうか、と嘆く心を詠った和歌かもしれませんね」佐知が説いてくれる話を聞いて、菜々はせつない心持ちがした。「菜々にはまだ早いかもしれませんが、ひとは相手への想いが深くなるにつれて、別れる時の辛さが深くなり、悲しみが増すそうです。ひとは、皆、儚い命を限られて生きているのですから、いまこのひとときを大切に思わねばなりません」佐知にそう言われて、なぜか目に涙が滲んできたことが脳裏によみがえった。
(九)

「質屋をやっていると、いろんな商売人が来るんでね。商売がうまくいくやり方はわからないけど、どうやったらしくじるかはわかるようになったよ」お舟は煙草の煙をふうと吐き出して、にやりと笑った。菜々はすがる思いで訊いた。「どうしてしくじるんですか」「続けないからだよ。うまくいかないからって、すぐにあきらめてしまうのさ」「じゃあ、あきらめないで続けたら、うまくいきますか」それなら自分にもできるかもしれないと思って菜々は目を輝かせたが、お舟は頭を振った。「そうとは限らないよ。いくら続けてもうまくいかない商売なんてざらにあるからね。だけど、続けないことには話にならないのさ。物を売るってのはお客との真剣勝負だと思うね。勝負するには、まずお客に信用してもらわなきゃいけない。あいつは、雨の日だろうが、風の日だろうが、いつもそこにいるってね」「いつもいるんですね」「そうでなきゃお客はつかないよ。あいつは変わらないなって思ってもらえた時に、ぼつぼつ買ってくださるお客がつくようになるのさ」
(十七)

「人助けでございます。義を見てせざるは勇なきなり、と先生から教わったと正助坊っちゃまがおっしゃっておられました」「なに、わしの教えをさように覚えておるのか」節斎は満更でもない、という顔になった。機を逃さずに菜々は、「学問をしていると、ひとの姿がよく見えてくるのでございますね」とすかさず言った。「ほう、書物を読まぬそなたにして、さような見識を得たとはな」「はい、生きていると楽しいことばかりではありません。辛いことがいっぱいあるのを知っているひとは、悲しんでいるひとの心がわかり、言葉でなく行いで慰めてくれます。昔の偉い方は、そんなことができるひとの見分け方を学問として教えてくれたような気がするのです」菜々は心の底から思ったことを口にした。「そうだな。ひとの心を癒すのは言葉をかけることも大事だが、要は心持ちだ。何も言わず、ただ行うだけの者の心は尊いものぞ」そう言った後で、やむを得ぬ、頼みは引き受けた、と節斎は少し苦々しげに言った。
(二十)

「兄上、菜々のことは、きょうから違う呼び方をしなければいけません。父上がそうおっしゃったではありませんか」正助は頭に手をやって、「しまった。さっそく間違えてしまった」と照れ笑いした。菜々はふたりが何を言っているのか、さっぱり意味がわからなかった。正助ととよは顔を見合わせてから、声をそろえて口にした。「母上 ――」
(二十七)