あらすじ

天領の豊後日田で、私塾・咸宜園(かんぎえん)を主宰する広瀬淡窓と、家業を継いだ弟・久兵衛。画期的な教育方針を打ち出す淡窓へも、商人としてひたむきに生きる久兵衛へも、お上の執拗な嫌がらせが続く。大塩平八郎の乱が起きるなど、時代の大きなうねりの中で、権力の横暴に耐え、清冽な生き方を貫こうとする広瀬兄弟。理不尽なことが身に降りかかろうとも、諦めず、凛として生きることの大切さを切々と訴えた歴史長編。


ひと言
「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味で、塾生の意志や個性を尊重する理念が込められているとのこと。天保の飢饉に苦しむ人々を町奉行所が救わないことを批判し、大坂市内の豪商の屋敷などを襲撃した 大塩平八郎の乱 1837年(人はみな)。大坂町奉行所の元与力であった大塩平八郎。その役人が起こした幕府のやり方を批判した反乱ということで、幕府は百姓一揆とはまた違う衝撃を受けたのであろう。学問についてもいろいろと考えさせられ勉強になった一冊でした。


「兄の学問は、商売では見ることのできない世の中をわたしに見せてくれます。わたしはそのことを楽しんでいるのです」「学問を楽しまれていると言われますか」千世は怪訝(けげん)そうな顔を向けた。「さようです。生きることに値打ちがあるのだ、と教えてくれるのが学問ではありますまいか。おのれが生きることが無駄ではないと知れば、おのずから楽しめるというものです」久兵衛は静かな眼差しで千世を見つめた。
(底霧 四)

「いや、つい塾を始めたころを思い出してな。当時は塾生も少なく、盛大とは言えなかったが、皆で学ぶ喜びがあった」淡窓がしみじみ言うと、真道は頭を振った。「何を仰せになられます。何を仰せになられます。それはいまも変わりませぬ」真道は膝を正して詩を口にした。淡窓の〈桂林荘雑詠諸生に示す〉四首のうちの一首である。
道(い)うことを休(や)めよ 他郷苦辛多しと
同袍(どうほう)友有り 自ら相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し
君は川流(せんりゅう)を汲め 我は薪を拾わん
他郷での勉学は苦労や辛いことが多いと弱音を吐くのは止めにしよう。一枚の綿入れを共有するほどの友と自然に親しくなるものだ。朝早く柴の戸を開けて外に出てみると、降りた霜がまるで雪のようだ。寒い朝だが炊事のため、君は小川の流れで水を汲んできたまえ。わたしは山の中で薪を拾ってこよう、と詠っている。故郷を遠く離れた地での勉学には苦労も多いが、寮での友達との共同生活も、人生の中で味わい深く楽しいものだ、という詩である。
(雨、蕭々 一)

「ひとは悲しみを抱いてしか生きられないのでしょうか」「いいえ。ひとが一度、抱いた思いは、それがたとえかなえられなかったとしても胸の奥深くで生き続けるのではありますまいか。大切なのはひとを思う気持を失わないことです」久兵衛がかけてくれた言葉は千世の胸に沁みた。「大切なのは、ひとを思う気持を失わないこと……」満天の星が瞬く空を見上げながら千世がつぶやいた時、白い尾を引いて星が流れた。
(天が泣く 二)

「久兵衛殿は、千世様が見つかればいかがなされるおつもりでございますか」「無論のこと、いままで通り博多屋で手伝うてもらい、咸宜園に通って学問をするのがよかろうか、と」困惑した面持ちで久兵衛は答えた。「想いをかけた女子をそば近くに置きながら、深い縁(えにし)を結ぼうとはなされないのですね。それは女子の身にとって辛いことだとはお思いになりませんか」「それは ――」答えに詰まった久兵衛が口をつぐむと、ななは話を続けた。「たとえ身を滅ぼすことになりましょうとも、思いがかなうのであれば、生きて参れましょうが、思いを寄せ合っているとわかりながら何事もなく時が過ぎていくのは女子にとって酷(むご)うございます」久兵衛が苦しげにうつむくのを見たななは淡々と言葉を継いだ。「千世様はさような思いを胸に日田を出ようと心を決められたのではないでしょうか。久兵衛殿の危難を救うために身を退くことで、自らの胸の内を伝えたかったのでございましょう」
(天が泣く 三)