
あらすじ
語り終わっていま考えることは、幅広く語ったつもりでも、歴史とは政治的な主題に終始するもんだな、ということである。人間いかに生くべきかを思うことは、文学的な命題である。政治的とは、人間がいかに動かされるか、動かされたか、を考えることであろう。戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば……という時代がくるやもしれない。そんな予感がする。(あとがきより)
ひと言
2021年1月12日 大好きな「歴史探偵」の半藤一利さんがお亡くなりになりました。550ページを超える本でしたが、グイグイ引き込まれて読みました。途中 どうしてこんなに緻密に、それでいてわかりやすく、私たちに「昭和」を教えてくれた半藤さんはもういないんだ ととても悲しい気持ちになりました。90年間ほんとうにお疲れさまでした。唯々感謝の気持ちで一杯です。心よりご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。(合掌)

内務省が中心となり、連合軍の本土進駐を迎えるにあたって十八日に打ち出した策に出ています。戦時、「敗けたら日本女性はすべてアメリカ人の妾になるんだ。覚悟しておけ」と盛んにいわれた悪宣伝を日本のトップが本気にしていたのか、いわゆる「良家の子女」たちになにごとが起こるかわからないというので、その”防波堤”として、迎えた進駐軍にサービスするための「特殊慰安施設」をつくろうということになりました。そして早速、特殊慰安施設協会(RAA)がつくられ、すぐ「慰安婦募集」です。いいですか、終戦の三日後ですよ。
(天皇・マッカーサー会談にはじまる戦後)
当時、マッカーサーが何者であるかなど日本国民は誰も知りません。タラップを降りてきて大演説をぶつかと思いきや、こう言いました。 「メルボルンから東京まで思えば長かった。長い長いそして困難な道のりであった。しかし、これで万事終わったようだ」 いいセリフですねえ。
(天皇・マッカーサー会談にはじまる戦後)
二月十九日(松本さんがGHQ草案のことを閣議で報告した日ですね)から天皇が地方巡幸をスタートさせました。これは天皇が「国民にも親しく会い、戦争で苦労をかけたことをひとことお詫びしたい」という気持ちから自らが言い出して、日本中を歩いたのです。 まず神奈川県へ、三台の車を連ねて赴き、 戦災した子供たちを訪ねたり、工場の職工さんと話をしたり。めったにないことですから大きなニュースとして報じられ ました。その時の有名なせりふですが、「お父さんは元気かな」「お父さんは戦死しました」「アッ、ソウ」この、なにかというと「アッ、ソウ」と言うのが当時はやりまして、悪ガキどもは、「おい、ノート貸してくれよ」「アッ、ソウ」なんて真似したもんでした。
(「自分は象徴でいい」と第二の聖断)
新憲法において天皇は政治に関与せずですから「そうかそうか」と聞いているほかないのですが、じつは別の記録によれば、日付もはっきりと昭和二十二年(一九四七)九月十九日、つまり外務省案ができた一週間後、天皇が自らの構想を、宮内府(新憲法施行により宮内省改め)御用掛でマッカーサーとの会談にも通訳として同行した寺崎英成さんを通してアメリカの連合軍に伝えた記録が残っているのです。
「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球ほかの諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし日本を守ることにもなる。(中略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させたかたちで長期 ―― 二十五年から五十年ないしそれ以上 ―― の貸与をするという擬制のうえになされるべきである」
つまり、日本本土はもってのほかで、沖縄諸島をこのまま軍事占領していくほうがいい。で
すよ、それも主権は日本にあるのをアメリカが長期間借りる ―― いささかおかしなかたちなんですが ―― ことをお互いに承認し合って沖縄の軍事占領を続けたらいかがですか、そう天皇の方から言ったことになる。そして結果的には、アメリカ軍は「なるほど、名案」とばかりにこのアドバイスに乗っかり、後にはグアム、沖縄、そして台湾を結ぶ弧状の線をアジア戦略の防衛線にするのです。朝鮮半島に大部隊を置くとか余計なことをせずに、大きな弧を描くようにアジアの防衛線をつくることをアメリカは目論んだのです。考えようによってはこれは、昭和天皇がものすごく戦略的にすぐれた頭をもっていたことになるのであって、片山首相以下、芦田外相ら政府の連中はいったい何を考えているんだ、という話になるんですね。そして後になりますが、昭和天皇が亡くなる前にお倒れになった時、新聞にも出ましたが、「沖縄へは、私はどうしても行かなければならなかった」と言っていた。その時私は、本土決戦の時間稼ぎのため米軍と戦い、徹底的にやられた沖縄の人にはたいへんな迷惑をかけた、そんなお詫びの心を込めての言葉だと思ったのですが、その後、以上のような話を知り、そうか、こっちだと納得しました。地上戦が終わった直後から軍事占領され、そのまま沖縄を四十年以上米軍の占領下に置いたことに対して、もちろんこれは政治的な介入ですから公式に言ったわけではないにしろ、結果的にそうなったことを本当に悪かった、そういう思いを昭和天皇はずーっと抱いていての言葉だったのだなと、私などは後で唸りました。
(新しい独立国日本の船出)
さて昭和三十六年(一九六一)です。一月、ケネディがアメリカ大統領に就任し、かの名演
説を行ないます。英語で聴いていても「なんだかいいことを言ってるなあ」と、わかったわけじゃないのに感心していましたが、後で翻訳を見るとやはり名文でしたねえ。
「同胞のアメリカ国民諸君、国が何をしてくれるかではなく、国のために自分が何をできるかを問うてもらいたい。世界の同胞諸君、アメリカが何をしてくれるかではなく、人類のため、みんなで何かできるかを問うてもらいたい」
これはなかなかいい言葉でねえ、私たちはいつだってそうでなきゃいけないと思うのです。してもらうのでなく、自分が社会や国のために何ができるのかを常に問うことは、これからの人類にとってたいへんに必要なことじゃないかと思うのですが、まあねえ、実際そんなことやってるヒマもなくて、自分のほうが大事だという人も多いわけです。
(嵐のごとき高度経済成長)
そして、昭和天皇がお亡くなりになったその年(一九八九・平成元年)の十二月二十九日、経済大国日本は最高に輝ける日を迎えました。東京証券取引所の平均株価が三万八千九百十五円の最高値を記録したのです。もう永遠に出てこないであろう史上最高値です。
(日本はこれからどうなるのか)