鶏そばを食べた後、2カ月ほど前に、栄のクリスタル広場に名古屋2店目としてオープンした「嵜本」のパンを買いに寄りました。もう一段落したのか予約なしで購入することができました。

人気の 極生“ミルクバター”食パン(950円)をいただきます。先ずそのままで一枚。甘ーい そして後味がとてもいいです。その後トーストしても食べましたが、個人的には生の方が好きかも。それにしても次から次へと、よくもまあこんなにおいしいパンがどんどん出てくることに驚き、とてもいい時代になったなぁと思います。ただひとつ 950円は少し高いかな?ごちそうさまでした。

 

嵜本 名古屋サカエチカ店

名古屋市中区栄3 クリスタル広場

 

寒い日が続きますが、今日は無性にラーメンが食べたくなり、自転車で丸の内の「鶏そば 啜る」へお昼を食べに行きました。鶏そば全のせ(900円)をいただきます。泡立てたエスプーマのスープはまろやかで麺とよく絡み、レアチャーシューがこのスープと麺によくあってとてもおいしいです。全然重たくないので一人で、二人でと女の人も来店していました。今度はお腹を空かせてレアチャーシュー丼も食べてみたいです。ごちそうさまでした♪

 

鶏そば 啜る 

名古屋市中区丸の内2

 

こちらもパンがおいしいとTV「大徳さん」で取り上げられていたお店「ブレッド&コーヒー ウゾウ」へパンを買いに行きました。みなさんもTVを観たのか結構な行列ができていました。ブリオッシュ食パンがおすすめとのことですが、予約をしていない人は買えず、もう売り切れの商品も多く、チョコチップのブリオッシュ(280円)とクルミとチョコのブリオッシュ(300円)をいただきます。ところでブリオッシュって何?調べてみると 【バター・卵・砂糖をたっぷりと配合し、生地を時間をかけて発酵させて作る菓子のようなパン】 とのこと。どおりでパンというより、ケーキを食べているような味と食感でとてもおいしいです。また平日にでも、他のパンをゲットしに行ってみよ。ごちそうさまでした♪。

 

ブレッド&コーヒー ウゾウ

愛知県海部郡大治町堀之内大堀

 

 

今日のお昼は少し変わったカレーパンということでTV等にも取り上げられている「かれいぱんや」へかれいぱん(280円)を買いに行きました。注文を受けてからパン生地にカレーのルウとお肉を載せて餃子のような形にして揚げてくれます。お肉がたっぷりなのはいいのですが、カレーがもう少しスパイスの効いたルウの方がいいかな。

実はこのお店は「ラーメン考房 平成呈」の居抜き物件のお店です。常滑の「麺創房 昭和呈」と同じ海老花塩麺が近くで食べられると喜んでいたのに……。あんなにおいしい人気のラーメン店でも、このコロナ禍で閉店していまうなんて……。ラーメンはテイクアウトできないので大変だと思いますが、どうにかこのコロナ禍を乗り切ってください。

 

かれいぱんや

名古屋市西区名駅2

 

あらすじ
マッカーサーによる6年足らずの統治下において、さまざまな大変革が成された。そして、それらはいまだに、憲法問題、国防問題、教育問題、沖縄問題、人権問題などなど、世論を二分して、この国を揺り動かしている。先の大戦から70年を経て、日本人にとっては、これらの問題の現代的事情をふまえた解決が、当面の問題となるだろう。そして、新たな国家目標をもって未来に漕ぎ出すために、“あの時代"に行われたことを振り返っておくべきである。

ひと言
先に読んだ「昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989」と被る部分も多いが、半藤 一利さんの本を もう一冊。 

ところで、いまの東京である。どこを探しても、神社(記念館)もなければ、銅像もない。ただ一つ厚木の米軍基地に本書巻頭写真ページに掲示してあるように銅像があるが、わたくし自身は確認してはいない。せっかくの「名誉国民」の名も、とうに忘れられている。なぜか? そのわけをハッキリ記憶している。こっちが一所懸命に永遠に褒め讃えようとしているのに、実に余計なことをマッカーサーがいってのけたのである。「(日本人は)まず十二歳の少年である」と。それが日本にただちに伝えられてきたときから、日本人のかれにたいする気持が百八十度ひっくり返ってしまった。その日、五月五日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で、マッカーサーは米国の対外政策、軍事戦略などについて広範な証言を行った。ここで問われるままにかれ一流の日本人観を開陳した。……。……。
(ロング議員) ドイツと日本の違いはどうか?
(マッカーサー) 科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロサクソンは
四十五歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人はそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず十二歳の少年である。ドイツ人が現代の道徳や国際道義を怠けたのは、それを意識してやったのである。国際情勢にたいする無知識の故ではない。その失敗は、日本人が犯した失敗とは少しくおもむきを異にする。ドイツ大は自分がこれと信ずることに再び向かって行く。日本人はこのドイツ人と違う。
要は、戦争犯罪国としてのドイツ人と日本人との違いを問われ、マッカーサーの答えは、ドイツ人は明らかに確信犯なれども、日本人はとてもそこまではいっていない、といくらか憐れんでの言ともとれる。ところが、その「十二歳」という言葉だけを知らされたとき、日本人はひとしくカッとなった。これは神社建設や銅像建立と、われらが満腔(まんこう)の敬意をもって寄せたかれへの信頼にたいする裏切りに非(あら)ずや。侮蔑の言そのものだ。許せぬ。かくして六月ともなると、怒りは頂点に達し、すべての計画ははかない一場の夢と化していった。
(前口上 神社と銅像)



マッカーサーが全責任を負って、軍事的占領を成功させるべく降り立った敗戦国日本の現状は、。”惨憺”そのものであった。厚木から二時間もかかって、目的地の横浜のホテル・ニューグランドに、汗とはこりまみれで着いた一行を迎えたのは、まず遅い昼食がわりとして、スケソウダラにサバ、それにたっぷり酢をかけた生キュウリのお菜。これがその時点でホテルのできる精一杯の料理であったのである。戦塵の将マッカーサーもさすがに辟易し、無言で見つめただけで手をつけようともしなかった。と、ホテルの会長野村洋三が進みでていった。
「日本人はいまあなた方が食べようともしなかったものより、もっとひどいものを食べているのです。たとえばカボチャを主食にしている、といったら驚かれるだろうが、それでもあればまだよいほうです。これがいまのわが国の現実の姿なのであります。だから、あなた方が、日本人の心を真剣につかもうと思っておられるのなら、まずこの深刻な食糧難の現状を打開するため、食糧の放出を是非おすすめする」
この直言はマッカーサーの胸に響いた。どんなに理想に燃えていようと、占領政策は初めから日本国民にとって苛烈なものであってはならない、優しいものでなければならない、との決心を固めさせた。しかも翌朝の第11空挺師団長の報告が、かれをいっそう驚かせた。師団の兵全員で一晩じゅう探したにもかかわらず、最高司令官用にたった一個の卵しか手に入らなかった、というのである。かれはただちに横浜に布かれていた戒厳令と夜間禁止令を解いている。占領軍は日本人の食糧を調達してはならぬ、占領軍は自分たちの軍用食のみをとるべし。およそ過去の征服軍の歴史のなかに例のない命令を、マッカーサーは発した。日本改革の第一歩は占領軍がまず寛大であり、同情的であることからはじめねばならぬ、それがかれの信念となった。
(第一話 「青い眼の大君」の日々)

三日後の九月二日午前九時、東京湾上の戦艦ミズーリ号で行われた降伏調印式でも、マッカーサーは「自由と寛容と公正」を訴える演説を行っている。わずか三分間の演説だったが、抑えた張りのある一語一語は、居ならぶかつての敵味方の将兵の心をうった。その格調の高さと流麗さとで、とくに日本全権一行に消え難い印象を残した。
「……私たちは、地球の大多数の人々の代表として、不信や悪意や憎悪をぶつけあうためにここに来たわけではありません。……私は、いや全人類は、心から祈念します。今日この場で行なわれる荘重な儀式よりのち、過去の流血と虐殺の惨事から得た教訓をもとに、より良い世界がはじまりますように。すなわち、信仰と相互理解を基礎とし、人類の尊厳、そして人類が最も強く希求する自由と寛容と公正さへの願いがかなえられる世界となりますように」

(黒田敏彦訳)
世界史上でも類のないこの完全勝利の瞬間を、連合国軍最高司令官は大いに満喫するであろうと、ミズーリ艦上にある者はだれもが思った。最前列にならんだ各国代表は、だから、華美な勲章で身を飾っていた。だがマッカーサーは例の色あせたカーキ服に、ネクタイもせず、勲章もつけていなかった。なんの儀式ばったこともなく、出てくるなりつかつかとマイクロホンの前に進みでただけなのである。そしてしゃべりだした。それもまたかれの演出であったかもしれない。が、日本全権には、自分たちのもったいぶった帝国のなかへ、丸腰の開襟服姿でのりこんできた征服者、それだけでも驚きであるのに、その人が「正義と寛容と公正」を説くとは……。隠しきれぬ讃嘆の眼をもって、まじまじと眺めつづけるほかはなかったのである。
(第一話 「青い眼の大君」の日々)

一九五一年(昭和二十六年)四月十一日に、この戦争遂行の戦略論争の対立から、トルーマンによって解任されるまでのことは、よく知られている。だが一つ、この終幕に達する前に、昭和二十五年七月、予備隊創設を命じたマッカーサーの指示のことにふれておかねばならない。マッカーサーは吉田首相に書簡を送った。 「私は日本政府にたいし、人員七万五千名からなる国家警察予備隊を設立する権限を認める」 朝鮮戦争で米軍七万五千名が出払ってしまったあとの真空を埋めるため、というさし迫った理由があるにせよ、この指示が戦後日本の再軍備への第一歩となったことは疑いがない。これを戦争放棄を新憲法にもりこませ、「太平洋のスイスたれ」と説きつづけてきたその人が命じたのである。これほどの背信はなかったであろう。おのれの信念のもとに、という美意識で常に行動してきたマッカーサーにとって、ワシントンからの命令とはいえ、これはどの屈辱はなかったであろう。自己欺瞞はなかったであろう。もはや日本は「マッカーサーの日本」ではなくなっていたのである。かれは日本人が仰ぎみた「全知全能の人」という看板を、とうにおろしてしまったのである。いや、おろさせられていたのである。
(第一話 「青い眼の大君」の日々)

昭和二十二年九月十九日、これを非常に大事な日として私なんかは目をとめるのです。このとき、アメリカ軍が日本を守るために基地を設けて駐留するという話が日本政府に伝わってきました。まだ吉田さんが首相になっておらず、片山・芦田の連立内閣で、外務大臣の芦田均さんが専ら交渉に当たりました。そこでアメリカ軍の日本駐留は政府としてはやむを得ないこととして認め、その場合どこに基地をおくのが一番いいかについて、あっさりと、「日本本土のどこでもよろしい」と言ったらしいんです。『戦後篇』でふれておきましたので、お読みになった方は思い出していただきたいんです。
このことが耳に入った天皇は「それはまずい」と寺崎さんを呼び、自分の意思をきちんと言い含め、そのうえで寺崎さんを介して、GHQに親書といいますか、天皇陛下はこう考えておられるという形で寺崎さんが書いた文書を、メッセージとして届けた。それが九月十九日です。天皇の意向とは、日本本土はまずい、沖縄がよろしい、沖縄をお貸しする、「二十五年から五十年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍に沖縄占領の継続を認めるという内容で、それをアメリカ軍のシーボルトという方を通じてGHQに届けました。これは「寺崎日記」にはっきり出てきます。
『戦後篇』でもふれましたが、のちに昭和天皇が倒れられたとき、ベッドの上で「沖縄には行かなければならなかった」と何度も言ったといいます。新聞にそう報じられました。実際、直前に沖縄に行かれる予定だったのが倒れて叶わなかったので、「残念だ、沖縄には行かなければならなかった」と病床で話されたというりです。天皇は太平洋戦争の最後の激戦であったいわゆる沖縄決戦、そして本土決戦までの時間を稼ぐため沖縄軍に頑張って最後まで戦ってもらおうというので、兵隊さんばかりでなく市民、学生さん、女学生さんまで動員して抵抗したことが心にずっと大きくひっかかっていて、「沖縄には行かねばならなかった」と言ったんだなと思っていた。
これは別に間違ってはないんですね、そのこと自体。だけれども、それだけではないんだということがわかったわけです。そうだ、天皇は国防のための本土駐留に関して沖縄を二十五年から五十年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション、つくりものの契約として、沖縄に軍隊を駐留してもらいたいと自らアメリカにメッセージを与えた。そのことのお詫びのために沖縄へ行かねば、と言っていたのではないか。
(第三話 十一回の会談・秘話)

天皇の戦争責任を問い、東京裁判の被告とすべきかどうか。ワシントンがその調査の全責任をマッカーサーにかぶせてきたのは、結局のところ、かりに天皇を逮捕して裁判にかけるとしたら、それでも占領政策の遂行はうまくいくかどうか、をワシントンが問うてきたにひとしい。いいかえれば、マッカーサーが天皇なしで、日本の占領をうまくやっていける、というのであれば、天皇を逮捕し、戦犯として訴追する用意があると、ワシントンはいってきているのである。求められているのは、高度の政治的判断であり、法律的な判断などではぜんぜんなかったのである。……。昭和二十一年一月二十五日、マッカーサーはついに決断を下し、長文の最終結論をまとめあげた。くりかえすが、マッカーサーは、天皇の戦争責任について実際の証拠調べや、極秘の世論調査をまったく行わなかった。するつもりもなかった。そして、決断は極東国際軍事裁判(東京裁判)が開設された三日後、オーストラリアが天皇の戦犯指名要求を伝えてきた四日後に当たっている。ギリギリの時点までこの卓越した軍人政治家は、じっと”機”をみていたのである。マッカーサーは書いた ―― 過去十年間にさかのぽり、徹底的に調査したが、天皇を戦犯として起訴するような証拠はなんら発見できなかったと。さらにつづけて綴った。「もしも天皇を裁判にかけるなら、占領政策に大きな変更が必要であり、したがって、実際に裁判をはじめる前に、しかるべき準備を完了しておかなければならない……。天皇はすべての日本人を統合するシンボル(象徴)である。かれを滅ぼすことは国を崩壊させることになる……。日本人は、連合国の天皇裁判を自国の歴史にたいする背信とみなし、憎悪と怒りを、予見しうるかぎり長期にわたって永続させるであろう……。天皇裁判が行われれば、すべての政府機関が崩壊し、行政活動が停止し、地下活動による混乱、山岳部および周辺地域におけるゲリラ戦による秩序不安などが醸成されることは、予想されないことではない……。これは現在とはまったく異なった占領問題を提起する。占領軍を大幅に増強することが必須となろう。最小限にみても百万の軍隊が、はかり知れないほど長年月にわたって駐留されなければならなくなろう……」この文面には、本国政府や連合国がタバになってこようとも、天皇を渡すものか、という気迫がこめられている。天皇を裁判にかけるなら、百万人の軍隊をよこせというワシントンヘの脅迫でもある。それでなくとも、占領軍総司令官としての判断には、おのずから権威と現実感と重量感があった。これ以後は、結果として、ワシントンはそれ以上なんの註文も出せなくなる。天皇の身柄に関して、いかにアメリカ国内で意見対立があろうと、もはや討議に終止符を打たざるを得なくなった。この激越ともいえる文章を記す前日、マッカーサーは幣原喜重郎首相と会談をして、新憲法に。”戦争放棄”条項を入れることに合意している。そして二月三日、腹心のホイットニー准将を呼んで、憲法草案の起草を命じた。新憲法の最大の骨子は、象徴天皇制の存続と戦争放棄条項である、とマッカーサーはいった。かれは天皇制も天皇裕仁も存続させる決意を固めていた。
(第四話 「ヒロヒトを吊るせ」)

 

先日のテレビ番組「教えてもらう前と後」で唐揚げLOVER100人が選んだ唐揚げ専門店No.1の「鶏笑」。今まで食べたことがなかったのでお昼に鶏笑ミックス弁当(690円)をいただきました。鶏のモモ、ムネ、チキン南蛮が1つずつ入ったお弁当で、えっ!これはちみつが入っているの!?というぐらい甘くジューシーな鶏肉です。タルタルソースを頼んでいないのにサービスで入れてくれたのかこちらもグッド!ライスの大盛り無料なので、次はライスを増やしてもらおっと。唐揚げ弁当を頼むのならこれからはこれだなというぐらいおいしかったです。ごちそうさまでした♪。

 

鶏笑 浄心駅前店

名古屋市西区浄心1

 

あらすじ
語り終わっていま考えることは、幅広く語ったつもりでも、歴史とは政治的な主題に終始するもんだな、ということである。人間いかに生くべきかを思うことは、文学的な命題である。政治的とは、人間がいかに動かされるか、動かされたか、を考えることであろう。戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば……という時代がくるやもしれない。そんな予感がする。(あとがきより)

ひと言
2021年1月12日 大好きな「歴史探偵」の半藤一利さんがお亡くなりになりました。550ページを超える本でしたが、グイグイ引き込まれて読みました。途中 どうしてこんなに緻密に、それでいてわかりやすく、私たちに「昭和」を教えてくれた半藤さんはもういないんだ ととても悲しい気持ちになりました。90年間ほんとうにお疲れさまでした。唯々感謝の気持ちで一杯です。心よりご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。(合掌)



内務省が中心となり、連合軍の本土進駐を迎えるにあたって十八日に打ち出した策に出ています。戦時、「敗けたら日本女性はすべてアメリカ人の妾になるんだ。覚悟しておけ」と盛んにいわれた悪宣伝を日本のトップが本気にしていたのか、いわゆる「良家の子女」たちになにごとが起こるかわからないというので、その”防波堤”として、迎えた進駐軍にサービスするための「特殊慰安施設」をつくろうということになりました。そして早速、特殊慰安施設協会(RAA)がつくられ、すぐ「慰安婦募集」です。いいですか、終戦の三日後ですよ。
(天皇・マッカーサー会談にはじまる戦後)

当時、マッカーサーが何者であるかなど日本国民は誰も知りません。タラップを降りてきて大演説をぶつかと思いきや、こう言いました。 「メルボルンから東京まで思えば長かった。長い長いそして困難な道のりであった。しかし、これで万事終わったようだ」 いいセリフですねえ。
(天皇・マッカーサー会談にはじまる戦後)

二月十九日(松本さんがGHQ草案のことを閣議で報告した日ですね)から天皇が地方巡幸をスタートさせました。これは天皇が「国民にも親しく会い、戦争で苦労をかけたことをひとことお詫びしたい」という気持ちから自らが言い出して、日本中を歩いたのです。 まず神奈川県へ、三台の車を連ねて赴き、 戦災した子供たちを訪ねたり、工場の職工さんと話をしたり。めったにないことですから大きなニュースとして報じられ ました。その時の有名なせりふですが、「お父さんは元気かな」「お父さんは戦死しました」「アッ、ソウ」この、なにかというと「アッ、ソウ」と言うのが当時はやりまして、悪ガキどもは、「おい、ノート貸してくれよ」「アッ、ソウ」なんて真似したもんでした。
(「自分は象徴でいい」と第二の聖断)

新憲法において天皇は政治に関与せずですから「そうかそうか」と聞いているほかないのですが、じつは別の記録によれば、日付もはっきりと昭和二十二年(一九四七)九月十九日、つまり外務省案ができた一週間後、天皇が自らの構想を、宮内府(新憲法施行により宮内省改め)御用掛でマッカーサーとの会談にも通訳として同行した寺崎英成さんを通してアメリカの連合軍に伝えた記録が残っているのです。

「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球ほかの諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし日本を守ることにもなる。(中略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させたかたちで長期 ―― 二十五年から五十年ないしそれ以上 ―― の貸与をするという擬制のうえになされるべきである」
つまり、日本本土はもってのほかで、沖縄諸島をこのまま軍事占領していくほうがいい。で
すよ、それも主権は日本にあるのをアメリカが長期間借りる ―― いささかおかしなかたちなんですが ―― ことをお互いに承認し合って沖縄の軍事占領を続けたらいかがですか、そう天皇の方から言ったことになる。そして結果的には、アメリカ軍は「なるほど、名案」とばかりにこのアドバイスに乗っかり、後にはグアム、沖縄、そして台湾を結ぶ弧状の線をアジア戦略の防衛線にするのです。朝鮮半島に大部隊を置くとか余計なことをせずに、大きな弧を描くようにアジアの防衛線をつくることをアメリカは目論んだのです。考えようによってはこれは、昭和天皇がものすごく戦略的にすぐれた頭をもっていたことになるのであって、片山首相以下、芦田外相ら政府の連中はいったい何を考えているんだ、という話になるんですね。そして後になりますが、昭和天皇が亡くなる前にお倒れになった時、新聞にも出ましたが、「沖縄へは、私はどうしても行かなければならなかった」と言っていた。その時私は、本土決戦の時間稼ぎのため米軍と戦い、徹底的にやられた沖縄の人にはたいへんな迷惑をかけた、そんなお詫びの心を込めての言葉だと思ったのですが、その後、以上のような話を知り、そうか、こっちだと納得しました。地上戦が終わった直後から軍事占領され、そのまま沖縄を四十年以上米軍の占領下に置いたことに対して、もちろんこれは政治的な介入ですから公式に言ったわけではないにしろ、結果的にそうなったことを本当に悪かった、そういう思いを昭和天皇はずーっと抱いていての言葉だったのだなと、私などは後で唸りました。
(新しい独立国日本の船出)

さて昭和三十六年(一九六一)です。一月、ケネディがアメリカ大統領に就任し、かの名演
説を行ないます。英語で聴いていても「なんだかいいことを言ってるなあ」と、わかったわけじゃないのに感心していましたが、後で翻訳を見るとやはり名文でしたねえ。
「同胞のアメリカ国民諸君、国が何をしてくれるかではなく、国のために自分が何をできるかを問うてもらいたい。世界の同胞諸君、アメリカが何をしてくれるかではなく、人類のため、みんなで何かできるかを問うてもらいたい」

これはなかなかいい言葉でねえ、私たちはいつだってそうでなきゃいけないと思うのです。してもらうのでなく、自分が社会や国のために何ができるのかを常に問うことは、これからの人類にとってたいへんに必要なことじゃないかと思うのですが、まあねえ、実際そんなことやってるヒマもなくて、自分のほうが大事だという人も多いわけです。
(嵐のごとき高度経済成長)

そして、昭和天皇がお亡くなりになったその年(一九八九・平成元年)の十二月二十九日、経済大国日本は最高に輝ける日を迎えました。東京証券取引所の平均株価が三万八千九百十五円の最高値を記録したのです。もう永遠に出てこないであろう史上最高値です。
(日本はこれからどうなるのか)

 

定例の水汲みの途中、大垣の「朝日屋」さんへお昼を食べに寄りました。カツ丼(690円)と大盛中華そば(630円)をシェアしていただきます。

 

 

昔ながらの中華そばという感じで、スープとチャーシューがとてもおいしいです。そしてこれを食べるためにお店を訪れた、他のお店では見たこともないようなカツ丼は、メレンゲのようなフワフワ玉子でダシも効いていてとてもおいしいです。満席でしたが多くの方がカツ丼を注文されていました。食べログ 3.62 (今日現在)、中華そばもカツ丼も納得のおいしさです。ごちそうさまでした♪

 

朝日屋

大垣市東長町

 

あらすじ

どこでもいい。いつでもいい。一緒に行こう。旅に出よう。人生を、もっと足掻こう ――。
恋も仕事も失い、絶望していたハグ。突然「一緒に旅に出よう」と大学時代の親友ナガラからメールが届いた。以来、ふたりは季節ごとに旅に出ることに。ともに秘湯に入り、名物を堪能し、花や月を愛でに日本全国駆け巡る、女ふたりの気ままな旅。気がつけば、四十路になり、五十代も始まり……。人生の成功者になれなくても、自分らしく人生の寄り道を楽しむのもいい。心に灯がともる六つの旅物語。

 


ひと言
あれ、これどこかで読んだことある、最後に書かれた出典を見て納得。「さいはての彼女」「星がひとつほしいとの祈り」「あなたは誰かの大切な人」。アート小説もいいけれど、御八屋千鈴さんとの旅物語もすごくイイね。私も気の合う仲間と「3人旅」を続けてもう十年以上になるし、親父が他界して7年 大阪でお袋が一人で暮らしている。このコロナが終息したら、京都の今宮神社の炙り餅を食べてみたいと言っていたお袋を連れて旅行に行きたいなぁ。


FROM : ナガラ   SUB : 旅に出よう
元気? なんでだかわからへんけど、今朝起きたとき、あっ、旅に出よう! と思いました。同時にこれまたなんでだかわからへんけど、一緒に行く相手は、ハグや! とも。『会社を辞めた』 ってメールから、しばし時間が経過したよね。もう、行けるかな。そろそろかな。ね、行かへん? どこでもいい、いつでもいい。
一緒に行こう。旅に出よう。人生を、もっと足掻こう。
(旅をあきらめた友と、その母への手紙)

ごめんな、よっちゃん、ごめんなさい……と、小さく小さく、縮こまって、母は何度もあやまったのだった。―― 帰ってこないなんて言わんといて。お母さん、ひとりっきりで、さびしいねん。そう言われて、私は、震えが足下から上がってきた。そのとき、私の目の前にいたのは、母ではなかった。私自身だった。私は、急にさびしくなった。そしてこわくなった。私だって、いずれ、ひとりになる。頼れる夫も子供もなく、ひとりになって、さびしい思いをするはずなのだ。父が他界して以来、母は、ずっとひとりで暮らしてきた。娘が帰ってくるのは盆と正月だけ。それでも、私の仕事や体を気遣って、ひとりでも大丈夫だからと強がり続けて。大学進学のために私か家を出て、もう三十年近く経っていた。一緒に暮らしていた時間よりも、別々に暮らしていた時間のほうが、はるかに長くなっていた。母を、彼女の人生の最後まで、ひとりっきりにしておいていいんだろうか。母と私、お互いに、別々のままで終わっていいんだろうか。できれば、一緒に暮らしたい。けれど、……。
(波打ち際のふたり)


「でも、もし、ここで乗り越えられへんかったら、私、このさきずうっと、それこそ母がいなくなるまで、ナガラと旅できへんな、って思ってん。そしたら、なんだかすごくさびしくなってしまって……」しばらく旅に出かけられずにいた。けれど、いつかまた、再起動して旅に出るんだ。それを励みに、一日いちにちを頑張ってきたのだ。それなのに、母の命が続く限り旅に出られない、なんてことになったら、申し訳ないじゃないか。ナガラにも、がんばって生き抜いているナガラのお母さんにも、これからがんばって生き抜いてほしい母にも。そして、がんばっている自分にも。わかってもらえるかどうか、わからないけど、とにかく母に話してみよう。そして、すっきりした気持ちで旅に出るんだ。そう決心して、私は、母に打ち明けた。―― お母さん。あのね、私、旅してくるよ。お母さんもよう知ってる、大学時代の友だち、ナガラと一緒に。……。……。
旅立つ日が近付くにつれ、やっぱり伝わらなかったのかな、大丈夫だろうか、と不安が頭をもたげたが、腹をくくった。これを乗り越えなければ、この先、もう旅はないのだ。そうして迎えた ―― 今日。出発まえに、ホームに立ち寄った。帽子を被り、ボストンバッグを提げて、旅のいでたちで現れた私を、母はいつになくむっつりとした表情で迎えた。これはまずいかも、と、また不安が立ち上ってきた。が、もうどうすることもできない。 出発の時間ぎりぎりまで、私は母と過ごした。壁の時計を確認して、私は傍らに置いていたボストンバッグを手に提げた。そして、じゃあいってきます、と強ばった笑顔を 母に向けた。すると ――。 そこまで話して、私は、これで三度目、言葉を詰まらせた。

息をひそめて聴き入っていたナガラが、さすがに我慢できないように訊いてきた。 「……それで、お母はん……どうしはったん?」 私は、うつむけていた顔を上げて、答えた。 「……いってらっしゃい。そう言ってくれた」 と、その瞬間、こらえていた涙がこぼれ落ちてしまった。―― いってらっしゃい、喜美ちゃん。ナガラちゃんに、よろしゅうな。いつか私も、 あんたらの旅に連れてってや。 そう言って、母は、満面の笑みを浮かべたのだ。 そして、部屋を出ていく私に向かって、手を振ってくれた。遠足に出かける私を玄関先で見送ってくれた、遠い日の母そのままに。 「ちょっとお。何それ、反則やろ」 突然、ナガラのブーイングが沸き起こった。 見ると、いつもの笑顔がくしゃくしゃになっている。友は、泣いていた。私以上の盛大な泣きっぷりだった。 「うわっ、どしたん。泣きすぎやろ」 友があんまり泣くので、私はなんだかおかしくなって、笑い出してしまった。 「笑うんか。そこ、笑うとこか。あんたのせいで泣いてるんやで。あんたのお母はんのせいで。あんたらめっちゃええ母娘のせいで」 ナガラが言えば言うほど、私はおかしくて、うれしくて、笑ってしまった。そして、 やっぱり泣いた。いっぱい、泣いた。友と一緒に。
(遠く近く)

 

 

あらすじ
女絵師・春香は博多織を江戸ではやらせた豪商・亀屋藤兵衛から「博多八景」の屏風絵を描く依頼を受けた。三年前、春香は妻子ある狩野門の絵師・杉岡外記との不義密通が公になり、師の衣笠春崖から破門されていた。外記は三年後に迎えにくると約束し、江戸に戻った。「博多八景」を描く春香の人生と、八景にまつわる女性たちの人生が交錯する。清冽に待ち続ける春香の佇まいが感動を呼ぶ。


ひと言
読み終えてすぐ「博多八景」ってどんな絵なんだろうと調べてみました。福岡市博物館のホームページに何点かの絵がありました。一番印象に残った章「博多帰帆」がこの絵です。


すべての章がとても哀しくて、この本の言葉を借りるなら挙哀(こあい)に満ちた本でした。でも哭(こく)したからといって、心が慰められはしないだろうが、地中から湧き出る清水のように、清冽(せいれつ)な心持が胸にあふれてくるのが感じられる(本文より)一冊でした。


「わたしもいままで外記様と同じように、ひとを不幸にした者は自分が幸せになったらいけん、と思うとりました。ばってん、今度、弥市が助かってみて、気のついたことがあるとです」「どのようなことでしょうか」うかがうように、里緒は与三兵衛を見返した。与三兵衛は何を言おうとしているのだろうか。

「弥市が助かったのは、高麗人参のおかげだと思うとりますけど、ずっと前から弥市の命は守られとったとやなかろうかとわたしは思いが至ったとです。いまになってみれば、師匠は弥市が生まれるのを待って命を絶ったような気がするとです。わたしととみが出ていった時、師匠はすぐにでも死にたかったとじゃなかでしょうか。でも、師匠が命を絶ったととみが聞けば、お腹の子に障るだろうから、弥市が生まれるまで待ってくれたとでしょう。わたしがとみや弥市と幸せになることをあきらめたら、師匠の思いは虚しくなります。ひとを不幸にしたからというて、自分は幸せになれんと思うたらいけんとです。みんな幸せになりたかとです。けど、そうなれん者もおる。だったら、幸せになれる者が懸命に幸せにならんといかんじゃなかですか」与三兵衛は気強く言い切った。その言葉にはひとを納得させる力があった。
(箱崎晴嵐)

〈博多八景〉を描こうと巡り歩いたそれぞれの景勝地で出会ったのは、さまざまな哀しみだった。兄弟子の春楼が思いをかけた遊女の千歳は、男と冬の海に身を投げて生を終えた。若いころ駆け落ちしたいと思い詰めた男の最期を看取り、夫のもとへ帰ったお葉、新内の師匠の幸薄い生涯を見つめながら懸命に生きる与三兵衛ととみ夫婦、役者として辛い宿命を生きる清吉と出会った。自分のために亭主が人殺しをしてしまったおりう、師である春崖の想い人であり、武家の奥方として忍従を強いられたお雪たちと巡り会い、誰もが、せつなさを胸に納め、懸命に自らの道を求めて歩んでいるのを知った。
里緒が描く〈博多八景〉には、出会ったひとびとの哀しみが込められていた。下絵を見る度に、胸にこみ上げるものがあった。筆をとろうとする際、女たちの顔が目に浮かび、心が千々に乱れて気持が落ち着かなくなるのだった。しかし、絵筆をとる手を重くさせているのは、それだけではないことも里緒にはわかっていた。
いつの日か外記は博多に戻ってくれるかもしれない、とひそかに心待ちしていた。だが、その望みはかなわないのではないか、と近頃では思うようになっていた。それならそれで女絵師としてひとりで生きていけばいいのだからと思いを定めていたはずなのに、虚ろな風が吹き抜けていく胸の内をどうにも埋められず、里緒は自分の心を持て余していた。
(博多帰帆)

仙崖の手は温かい。胸の内にまで仙崖の温かさが伝わってくる気がした。「これが血の熱さじゃ。血は心の熱さを伝えるものじゃから、心が死んでしもうたら、ひとの肌もつめとうなってしまう。体が死んでしまうのは、どうにもならぬことじゃが、心を死なせてはいかん」「和尚様、死なせてはならない心とは何なのかお教えくださいませ」里緒は胸に響いてくるものをかすかに感じながら、仙崖に教えを請うた。「ひとを愛おしむ心じゃ。ひとはひとに愛おしまれてこそ生きる力が湧くものじゃ。たとえ、その身は朽ち果てようが、愛おしむひとがいてくれたと信じられれば、現世でなくともいずこかの世で生きていけよう。この世を美しいと思うひとがいて、初めてこの世は美しくなる。そう思うひとがいなくなれば、この世はただの土塊となるしかないのじゃ。心が死ねばこの世のすべてのものは無明長夜の闇に落ちる。死を望んでおるのなら、死ぬがよい。されど、おのれの心を死なせてはならぬ」脳裏に外記の面影が浮かび、里緒の胸に深い哀しみが満ちた。抑えていた悲嘆にくれる心が解き放たれたのか、里緒の目から涙がとめどなく流れ落ちた。
「おお、存分に泣いたか。挙哀じゃな」仙崖が顔をほころばせて言った。控えていた藤兵衛が首をかしげて訊いた。「和尚様、こあいとは何でございましょうか」「禅家では葬儀のおり、仏事が終わってから後に参列の僧が哀、哀、哀と三度声を挙げる。これを挙哀というのじゃ。唐の国では、葬いのおりに棺の側にあって泣き声をあげるのが礼であったそうな。泣くことによって亡き者の霊を慰めたのであろうな」仙崖は藤兵衛に目を向けつつ、続けてゆっくりと里緒の手をなでさすっている。
(挙哀女図)