あらすじ
マッカーサーによる6年足らずの統治下において、さまざまな大変革が成された。そして、それらはいまだに、憲法問題、国防問題、教育問題、沖縄問題、人権問題などなど、世論を二分して、この国を揺り動かしている。先の大戦から70年を経て、日本人にとっては、これらの問題の現代的事情をふまえた解決が、当面の問題となるだろう。そして、新たな国家目標をもって未来に漕ぎ出すために、“あの時代"に行われたことを振り返っておくべきである。
ひと言
先に読んだ「昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989」と被る部分も多いが、半藤 一利さんの本を もう一冊。
ところで、いまの東京である。どこを探しても、神社(記念館)もなければ、銅像もない。ただ一つ厚木の米軍基地に本書巻頭写真ページに掲示してあるように銅像があるが、わたくし自身は確認してはいない。せっかくの「名誉国民」の名も、とうに忘れられている。なぜか? そのわけをハッキリ記憶している。こっちが一所懸命に永遠に褒め讃えようとしているのに、実に余計なことをマッカーサーがいってのけたのである。「(日本人は)まず十二歳の少年である」と。それが日本にただちに伝えられてきたときから、日本人のかれにたいする気持が百八十度ひっくり返ってしまった。その日、五月五日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で、マッカーサーは米国の対外政策、軍事戦略などについて広範な証言を行った。ここで問われるままにかれ一流の日本人観を開陳した。……。……。
(ロング議員) ドイツと日本の違いはどうか?
(マッカーサー) 科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロサクソンは
四十五歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人はそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず十二歳の少年である。ドイツ人が現代の道徳や国際道義を怠けたのは、それを意識してやったのである。国際情勢にたいする無知識の故ではない。その失敗は、日本人が犯した失敗とは少しくおもむきを異にする。ドイツ大は自分がこれと信ずることに再び向かって行く。日本人はこのドイツ人と違う。
要は、戦争犯罪国としてのドイツ人と日本人との違いを問われ、マッカーサーの答えは、ドイツ人は明らかに確信犯なれども、日本人はとてもそこまではいっていない、といくらか憐れんでの言ともとれる。ところが、その「十二歳」という言葉だけを知らされたとき、日本人はひとしくカッとなった。これは神社建設や銅像建立と、われらが満腔(まんこう)の敬意をもって寄せたかれへの信頼にたいする裏切りに非(あら)ずや。侮蔑の言そのものだ。許せぬ。かくして六月ともなると、怒りは頂点に達し、すべての計画ははかない一場の夢と化していった。
(前口上 神社と銅像)

マッカーサーが全責任を負って、軍事的占領を成功させるべく降り立った敗戦国日本の現状は、。”惨憺”そのものであった。厚木から二時間もかかって、目的地の横浜のホテル・ニューグランドに、汗とはこりまみれで着いた一行を迎えたのは、まず遅い昼食がわりとして、スケソウダラにサバ、それにたっぷり酢をかけた生キュウリのお菜。これがその時点でホテルのできる精一杯の料理であったのである。戦塵の将マッカーサーもさすがに辟易し、無言で見つめただけで手をつけようともしなかった。と、ホテルの会長野村洋三が進みでていった。
「日本人はいまあなた方が食べようともしなかったものより、もっとひどいものを食べているのです。たとえばカボチャを主食にしている、といったら驚かれるだろうが、それでもあればまだよいほうです。これがいまのわが国の現実の姿なのであります。だから、あなた方が、日本人の心を真剣につかもうと思っておられるのなら、まずこの深刻な食糧難の現状を打開するため、食糧の放出を是非おすすめする」
この直言はマッカーサーの胸に響いた。どんなに理想に燃えていようと、占領政策は初めから日本国民にとって苛烈なものであってはならない、優しいものでなければならない、との決心を固めさせた。しかも翌朝の第11空挺師団長の報告が、かれをいっそう驚かせた。師団の兵全員で一晩じゅう探したにもかかわらず、最高司令官用にたった一個の卵しか手に入らなかった、というのである。かれはただちに横浜に布かれていた戒厳令と夜間禁止令を解いている。占領軍は日本人の食糧を調達してはならぬ、占領軍は自分たちの軍用食のみをとるべし。およそ過去の征服軍の歴史のなかに例のない命令を、マッカーサーは発した。日本改革の第一歩は占領軍がまず寛大であり、同情的であることからはじめねばならぬ、それがかれの信念となった。
(第一話 「青い眼の大君」の日々)
三日後の九月二日午前九時、東京湾上の戦艦ミズーリ号で行われた降伏調印式でも、マッカーサーは「自由と寛容と公正」を訴える演説を行っている。わずか三分間の演説だったが、抑えた張りのある一語一語は、居ならぶかつての敵味方の将兵の心をうった。その格調の高さと流麗さとで、とくに日本全権一行に消え難い印象を残した。
「……私たちは、地球の大多数の人々の代表として、不信や悪意や憎悪をぶつけあうためにここに来たわけではありません。……私は、いや全人類は、心から祈念します。今日この場で行なわれる荘重な儀式よりのち、過去の流血と虐殺の惨事から得た教訓をもとに、より良い世界がはじまりますように。すなわち、信仰と相互理解を基礎とし、人類の尊厳、そして人類が最も強く希求する自由と寛容と公正さへの願いがかなえられる世界となりますように」
(黒田敏彦訳)
世界史上でも類のないこの完全勝利の瞬間を、連合国軍最高司令官は大いに満喫するであろうと、ミズーリ艦上にある者はだれもが思った。最前列にならんだ各国代表は、だから、華美な勲章で身を飾っていた。だがマッカーサーは例の色あせたカーキ服に、ネクタイもせず、勲章もつけていなかった。なんの儀式ばったこともなく、出てくるなりつかつかとマイクロホンの前に進みでただけなのである。そしてしゃべりだした。それもまたかれの演出であったかもしれない。が、日本全権には、自分たちのもったいぶった帝国のなかへ、丸腰の開襟服姿でのりこんできた征服者、それだけでも驚きであるのに、その人が「正義と寛容と公正」を説くとは……。隠しきれぬ讃嘆の眼をもって、まじまじと眺めつづけるほかはなかったのである。
(第一話 「青い眼の大君」の日々)
一九五一年(昭和二十六年)四月十一日に、この戦争遂行の戦略論争の対立から、トルーマンによって解任されるまでのことは、よく知られている。だが一つ、この終幕に達する前に、昭和二十五年七月、予備隊創設を命じたマッカーサーの指示のことにふれておかねばならない。マッカーサーは吉田首相に書簡を送った。 「私は日本政府にたいし、人員七万五千名からなる国家警察予備隊を設立する権限を認める」 朝鮮戦争で米軍七万五千名が出払ってしまったあとの真空を埋めるため、というさし迫った理由があるにせよ、この指示が戦後日本の再軍備への第一歩となったことは疑いがない。これを戦争放棄を新憲法にもりこませ、「太平洋のスイスたれ」と説きつづけてきたその人が命じたのである。これほどの背信はなかったであろう。おのれの信念のもとに、という美意識で常に行動してきたマッカーサーにとって、ワシントンからの命令とはいえ、これはどの屈辱はなかったであろう。自己欺瞞はなかったであろう。もはや日本は「マッカーサーの日本」ではなくなっていたのである。かれは日本人が仰ぎみた「全知全能の人」という看板を、とうにおろしてしまったのである。いや、おろさせられていたのである。
(第一話 「青い眼の大君」の日々)
昭和二十二年九月十九日、これを非常に大事な日として私なんかは目をとめるのです。このとき、アメリカ軍が日本を守るために基地を設けて駐留するという話が日本政府に伝わってきました。まだ吉田さんが首相になっておらず、片山・芦田の連立内閣で、外務大臣の芦田均さんが専ら交渉に当たりました。そこでアメリカ軍の日本駐留は政府としてはやむを得ないこととして認め、その場合どこに基地をおくのが一番いいかについて、あっさりと、「日本本土のどこでもよろしい」と言ったらしいんです。『戦後篇』でふれておきましたので、お読みになった方は思い出していただきたいんです。
このことが耳に入った天皇は「それはまずい」と寺崎さんを呼び、自分の意思をきちんと言い含め、そのうえで寺崎さんを介して、GHQに親書といいますか、天皇陛下はこう考えておられるという形で寺崎さんが書いた文書を、メッセージとして届けた。それが九月十九日です。天皇の意向とは、日本本土はまずい、沖縄がよろしい、沖縄をお貸しする、「二十五年から五十年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍に沖縄占領の継続を認めるという内容で、それをアメリカ軍のシーボルトという方を通じてGHQに届けました。これは「寺崎日記」にはっきり出てきます。
『戦後篇』でもふれましたが、のちに昭和天皇が倒れられたとき、ベッドの上で「沖縄には行かなければならなかった」と何度も言ったといいます。新聞にそう報じられました。実際、直前に沖縄に行かれる予定だったのが倒れて叶わなかったので、「残念だ、沖縄には行かなければならなかった」と病床で話されたというりです。天皇は太平洋戦争の最後の激戦であったいわゆる沖縄決戦、そして本土決戦までの時間を稼ぐため沖縄軍に頑張って最後まで戦ってもらおうというので、兵隊さんばかりでなく市民、学生さん、女学生さんまで動員して抵抗したことが心にずっと大きくひっかかっていて、「沖縄には行かねばならなかった」と言ったんだなと思っていた。
これは別に間違ってはないんですね、そのこと自体。だけれども、それだけではないんだということがわかったわけです。そうだ、天皇は国防のための本土駐留に関して沖縄を二十五年から五十年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション、つくりものの契約として、沖縄に軍隊を駐留してもらいたいと自らアメリカにメッセージを与えた。そのことのお詫びのために沖縄へ行かねば、と言っていたのではないか。
(第三話 十一回の会談・秘話)
天皇の戦争責任を問い、東京裁判の被告とすべきかどうか。ワシントンがその調査の全責任をマッカーサーにかぶせてきたのは、結局のところ、かりに天皇を逮捕して裁判にかけるとしたら、それでも占領政策の遂行はうまくいくかどうか、をワシントンが問うてきたにひとしい。いいかえれば、マッカーサーが天皇なしで、日本の占領をうまくやっていける、というのであれば、天皇を逮捕し、戦犯として訴追する用意があると、ワシントンはいってきているのである。求められているのは、高度の政治的判断であり、法律的な判断などではぜんぜんなかったのである。……。昭和二十一年一月二十五日、マッカーサーはついに決断を下し、長文の最終結論をまとめあげた。くりかえすが、マッカーサーは、天皇の戦争責任について実際の証拠調べや、極秘の世論調査をまったく行わなかった。するつもりもなかった。そして、決断は極東国際軍事裁判(東京裁判)が開設された三日後、オーストラリアが天皇の戦犯指名要求を伝えてきた四日後に当たっている。ギリギリの時点までこの卓越した軍人政治家は、じっと”機”をみていたのである。マッカーサーは書いた ―― 過去十年間にさかのぽり、徹底的に調査したが、天皇を戦犯として起訴するような証拠はなんら発見できなかったと。さらにつづけて綴った。「もしも天皇を裁判にかけるなら、占領政策に大きな変更が必要であり、したがって、実際に裁判をはじめる前に、しかるべき準備を完了しておかなければならない……。天皇はすべての日本人を統合するシンボル(象徴)である。かれを滅ぼすことは国を崩壊させることになる……。日本人は、連合国の天皇裁判を自国の歴史にたいする背信とみなし、憎悪と怒りを、予見しうるかぎり長期にわたって永続させるであろう……。天皇裁判が行われれば、すべての政府機関が崩壊し、行政活動が停止し、地下活動による混乱、山岳部および周辺地域におけるゲリラ戦による秩序不安などが醸成されることは、予想されないことではない……。これは現在とはまったく異なった占領問題を提起する。占領軍を大幅に増強することが必須となろう。最小限にみても百万の軍隊が、はかり知れないほど長年月にわたって駐留されなければならなくなろう……」この文面には、本国政府や連合国がタバになってこようとも、天皇を渡すものか、という気迫がこめられている。天皇を裁判にかけるなら、百万人の軍隊をよこせというワシントンヘの脅迫でもある。それでなくとも、占領軍総司令官としての判断には、おのずから権威と現実感と重量感があった。これ以後は、結果として、ワシントンはそれ以上なんの註文も出せなくなる。天皇の身柄に関して、いかにアメリカ国内で意見対立があろうと、もはや討議に終止符を打たざるを得なくなった。この激越ともいえる文章を記す前日、マッカーサーは幣原喜重郎首相と会談をして、新憲法に。”戦争放棄”条項を入れることに合意している。そして二月三日、腹心のホイットニー准将を呼んで、憲法草案の起草を命じた。新憲法の最大の骨子は、象徴天皇制の存続と戦争放棄条項である、とマッカーサーはいった。かれは天皇制も天皇裕仁も存続させる決意を固めていた。
(第四話 「ヒロヒトを吊るせ」)
