あらすじ
女絵師・春香は博多織を江戸ではやらせた豪商・亀屋藤兵衛から「博多八景」の屏風絵を描く依頼を受けた。三年前、春香は妻子ある狩野門の絵師・杉岡外記との不義密通が公になり、師の衣笠春崖から破門されていた。外記は三年後に迎えにくると約束し、江戸に戻った。「博多八景」を描く春香の人生と、八景にまつわる女性たちの人生が交錯する。清冽に待ち続ける春香の佇まいが感動を呼ぶ。


ひと言
読み終えてすぐ「博多八景」ってどんな絵なんだろうと調べてみました。福岡市博物館のホームページに何点かの絵がありました。一番印象に残った章「博多帰帆」がこの絵です。


すべての章がとても哀しくて、この本の言葉を借りるなら挙哀(こあい)に満ちた本でした。でも哭(こく)したからといって、心が慰められはしないだろうが、地中から湧き出る清水のように、清冽(せいれつ)な心持が胸にあふれてくるのが感じられる(本文より)一冊でした。


「わたしもいままで外記様と同じように、ひとを不幸にした者は自分が幸せになったらいけん、と思うとりました。ばってん、今度、弥市が助かってみて、気のついたことがあるとです」「どのようなことでしょうか」うかがうように、里緒は与三兵衛を見返した。与三兵衛は何を言おうとしているのだろうか。

「弥市が助かったのは、高麗人参のおかげだと思うとりますけど、ずっと前から弥市の命は守られとったとやなかろうかとわたしは思いが至ったとです。いまになってみれば、師匠は弥市が生まれるのを待って命を絶ったような気がするとです。わたしととみが出ていった時、師匠はすぐにでも死にたかったとじゃなかでしょうか。でも、師匠が命を絶ったととみが聞けば、お腹の子に障るだろうから、弥市が生まれるまで待ってくれたとでしょう。わたしがとみや弥市と幸せになることをあきらめたら、師匠の思いは虚しくなります。ひとを不幸にしたからというて、自分は幸せになれんと思うたらいけんとです。みんな幸せになりたかとです。けど、そうなれん者もおる。だったら、幸せになれる者が懸命に幸せにならんといかんじゃなかですか」与三兵衛は気強く言い切った。その言葉にはひとを納得させる力があった。
(箱崎晴嵐)

〈博多八景〉を描こうと巡り歩いたそれぞれの景勝地で出会ったのは、さまざまな哀しみだった。兄弟子の春楼が思いをかけた遊女の千歳は、男と冬の海に身を投げて生を終えた。若いころ駆け落ちしたいと思い詰めた男の最期を看取り、夫のもとへ帰ったお葉、新内の師匠の幸薄い生涯を見つめながら懸命に生きる与三兵衛ととみ夫婦、役者として辛い宿命を生きる清吉と出会った。自分のために亭主が人殺しをしてしまったおりう、師である春崖の想い人であり、武家の奥方として忍従を強いられたお雪たちと巡り会い、誰もが、せつなさを胸に納め、懸命に自らの道を求めて歩んでいるのを知った。
里緒が描く〈博多八景〉には、出会ったひとびとの哀しみが込められていた。下絵を見る度に、胸にこみ上げるものがあった。筆をとろうとする際、女たちの顔が目に浮かび、心が千々に乱れて気持が落ち着かなくなるのだった。しかし、絵筆をとる手を重くさせているのは、それだけではないことも里緒にはわかっていた。
いつの日か外記は博多に戻ってくれるかもしれない、とひそかに心待ちしていた。だが、その望みはかなわないのではないか、と近頃では思うようになっていた。それならそれで女絵師としてひとりで生きていけばいいのだからと思いを定めていたはずなのに、虚ろな風が吹き抜けていく胸の内をどうにも埋められず、里緒は自分の心を持て余していた。
(博多帰帆)

仙崖の手は温かい。胸の内にまで仙崖の温かさが伝わってくる気がした。「これが血の熱さじゃ。血は心の熱さを伝えるものじゃから、心が死んでしもうたら、ひとの肌もつめとうなってしまう。体が死んでしまうのは、どうにもならぬことじゃが、心を死なせてはいかん」「和尚様、死なせてはならない心とは何なのかお教えくださいませ」里緒は胸に響いてくるものをかすかに感じながら、仙崖に教えを請うた。「ひとを愛おしむ心じゃ。ひとはひとに愛おしまれてこそ生きる力が湧くものじゃ。たとえ、その身は朽ち果てようが、愛おしむひとがいてくれたと信じられれば、現世でなくともいずこかの世で生きていけよう。この世を美しいと思うひとがいて、初めてこの世は美しくなる。そう思うひとがいなくなれば、この世はただの土塊となるしかないのじゃ。心が死ねばこの世のすべてのものは無明長夜の闇に落ちる。死を望んでおるのなら、死ぬがよい。されど、おのれの心を死なせてはならぬ」脳裏に外記の面影が浮かび、里緒の胸に深い哀しみが満ちた。抑えていた悲嘆にくれる心が解き放たれたのか、里緒の目から涙がとめどなく流れ落ちた。
「おお、存分に泣いたか。挙哀じゃな」仙崖が顔をほころばせて言った。控えていた藤兵衛が首をかしげて訊いた。「和尚様、こあいとは何でございましょうか」「禅家では葬儀のおり、仏事が終わってから後に参列の僧が哀、哀、哀と三度声を挙げる。これを挙哀というのじゃ。唐の国では、葬いのおりに棺の側にあって泣き声をあげるのが礼であったそうな。泣くことによって亡き者の霊を慰めたのであろうな」仙崖は藤兵衛に目を向けつつ、続けてゆっくりと里緒の手をなでさすっている。
(挙哀女図)