ガダルカナル戦書籍一覧   
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ソロモン諸島 ガダルカナル島 御戦没者名簿(鋭意整理入力中)

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母娘ふたりガダルカナルの旅 目次

母娘ふたりガダルカナルの旅 第八話 より続いております。 

 

母娘ふたりガダルカナルの旅 第九話

日本軍はガダルカナル島という遠い地までどうして行かなければならなかったのか。

米豪分断のための作戦である。

 

そもそもなぜ日本は大東亜戦争をしなければならなかったのか。

昭和12年あたりから昭和18年ガダルカナル撤退までの歴史をごくごく簡単にノートにまとめてみた。

『戦争は人の殺し合いだ。するべきではない』そのとおりである。

ただその大前提をもってしても『あのときの状況からして大東亜戦争はやむなし』とおっしゃる元将兵の方は少なくない。

 

実際にあの過酷な戦争に行かれた方のこの御意見を、どうしてもわたしは理解することができなかった。

あれだけの国民の命と引き換えになにを得たものがあるのかと。その答えを見つけるために昭和史や戦争に関する本を読んでみたり、日本という国がどういうものなのかを知るために講習などを聞きに行ったりした。

 

昭和12年の日中戦争前後、いやそれ以前から他国を併合する国は他にもたくさんあったのにもかかわらず日本だけがそれを理由に燃料・物資を止められるという致命的な制裁を受けた。

東洋人だからなのであろう。

一生懸命探してみたがほかに理由は見当たらない。

ただじっとしていたら日本という国は直ぐに亡くなっていたと思う。

 

昭和16年12月、日本は生き残りをかけて行動に出る。

昭和17年、若者たちは自分の命と引きかえに日本を守るため遠いガダルカナルまで行った。

でもこれ以降は、沖縄戦まで壊滅的な大打撃だった。

なんで戦争なんてやったのという言葉しか出てこない・・・良いことなんて何もなかったはずだ。

 

 

福島県実家近くの大東亜戦争戦没者遺族会慰霊碑

 

しかし日本という国は結果として残った。

欧米列強にアジアの中で唯一日本という国は東洋人の意地を見せたからである。

そしてあの忌まわしい軍国主義もなくなった。

 

『大東亜戦争』を言いあらわす良い日本語が見つからない。

私なりに考えた言葉

It could be worse.

とでもいうよりほかない。

 

 

鉄底海岸・アイアンボトムサウンドにいた可愛いサンゴや貝たち

タサファロングに向かう途中、叔父も踏破した話からフランシスが「丸山道を見てみるかい」というので丸山道を望むことが出来る「九〇三高地」に行くことになった。

 

一木・川口両支隊の2度の総攻撃失敗をうけ、第3次総攻撃のため上陸した第二師団はルンガ飛行場を正面から攻撃せよとの命令により輸送船団で強行揚陸を行った。

 

10月中旬にタサファロングに到着した第二師団、総勢1万~1万5千人。

しかし揚陸できた糧秣・弾薬等は三分の一にも満たない。

正面攻撃をかけるだけの砲弾が無くなり思案している第二師団司令部に、大本営派遣参謀が訪れ「正面攻撃」から「密林迂回攻撃」へと強引に作戦転換をゴリ押ししたあげく、「密林迂回攻撃」を第二師団の意向として第17軍へ報告した。

第17軍命令が「密林迂回攻撃」へとなった経緯だ。

 

詳細は勇さんの記事を参照

903高地 迂回作戦

903高地 その二 参謀の戯言

第二師団上陸後、米軍陣地を監視したこの九〇三高地で砲兵の座標測定観測所が設けられていた。

高地西の谷間には38師団の野戦病院が設けられ多くのご遺骨が収集された。

高地南の密林には第17軍司令部が位置し勇川に沿って上流が丸山道となる。

この司令部跡は第17軍参謀越次少佐が敵砲撃により戦死された場所でもある。

ちょっとだけ「丸山道」

ちょっとだけ「丸山道」2 

ちょっとだけ「丸山道」3

ちょっとだけ「丸山道」4 完 

 

九〇三高地麓、娘とガイドのフランシス

後方九〇三南高地

現在地は九〇三高地南麓

九〇三高地をいったん降り今度は水無川ナナ村慰霊碑に向かう。

ナナ村慰霊碑。そこに慰霊碑とともにあった牽引車が印象的である。

 

この牽引車は野戦重砲兵第四連隊の十五糎榴弾砲を牽引した車輛で、撤退のときには傷病兵を載せ後退した。

 

ここであのマイケルに会った。

マイケルは事故で腕を失った後も水無川慰霊碑の管理人をして、また日本の慰霊団の遺骨収集にも協力し遺骨を荼毘に付す場所としてここを提供してくれている。

フランシスが「彼女たちマイケルのことを知っているよ」というとマイケルは「そうなんだ!ありがとう」と嬉しそうに左手を出して握手をしてくれた。

 

次は丸山道起点三角記念碑 

これは現地の方が日本軍の慰霊のために建設してくれたものだ。

 

「丸山道」は以前にも触れたが、まず工兵たちが鉈や斧を使って木を伐り獣道を作る。

兵隊たちはあとに続くが、崖を登ったり下ったりでとても行軍といえるようなものではない。

砲兵たちにいたっては何門もある大砲を分解してこれをみんなでかついでいく。

始まってすぐにこれは無理だと誰しもが思った。

 

この密林を拓くために配属されたのは工兵第二連隊の一個中隊だけだった。

叔父の部隊は疲れ果てた工兵連隊の将兵を手伝い共に「丸山道」を切り開き、総攻撃地点「ムカデ高地」へと向かったのだ。

携行食料もほとんどなく、真っ暗闇の厳しい行軍で目的の場所に到達することもままならない。

 

おまけに突撃直前になって突撃予定地点の写真が届き、米軍の防御陣地が強化されていることに気づいた川口支隊長・川口少将は突撃地点の変更が必要と悟る。

更に叔父の部隊より後方を進まされながらより遠い右翼からの攻撃地点までは到達は不可能であると日程の延期を通りがかった大本営派遣参謀へ依頼する。

その場では快諾した筈の派遣参謀だったが第二師団司令部から川口少将へ届いた連絡は「罷免」だった。

根拠のない進軍計画により日程の延期を余儀なくされ、予定していた海軍からの援護射撃も受けられなくなった。

ようやく敵の陣地に到達した歩兵二十九連隊の尖兵中隊が突撃を敢行するも敵陣第一線を越えたのは一部の将兵だけだった。

敵の鉄条網を超えた一部の将兵に連隊長と軍旗が含まれていた。

再度翌日の夜、歩兵十六連隊が突撃を行ったが圧倒的砲撃で失敗に終わり同じ道を戻ることになった。

 

今も丸山道に残る御遺品

2015年 勇一三〇二撮影

 

叔父の部隊は連隊長、軍旗捜索、負傷兵後送の命令を受ける。

負傷兵の後送はいつしか機関銃の後送へと命令が代わり、第一線より転進命令が出たのは総攻撃から一週間を経た11月だった。

達者な兵隊が軽傷者に肩を貸し数週間かけてまたここに戻ってきたのだ。

 

九〇三高地南麓より南方の丸山道を吞み込む密林を望む。

 

無謀な作戦もそうだがそれ以前に食べることができないという苦しみは味わったものでなければわからないだろう。

彼らの多くはひとことで戦病死と言われているがその亡くなる有り様は「人間としての尊厳」が失われている。

九死に一生を得て生き延びで帰って来られた方は、戦友の親に亡くなったときの様子を絶対に話すことはできなかったという。

「息子さんは潔く突撃して敵の弾に当たり立派に戦死しました」

 

 

 

「敵さんたちがすぐそこで珈琲をいれる匂いがしてきた」

糧秣の補給が数ヶ月無かった、ギフ高地で第一線を死守していた日本兵の証言である。

一粒のお米も食べられない日本兵に対して・・・米軍の物量・・・この差である。

 

つづく

 

 

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文中、勇さんの名で出てくるのが不肖当ブログ管理人・勇一三〇二となります。

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