マルティン・ルタドイツ農民戦争
(1483年11月10日 - 1546年2月18日)
ドイツの神学者、教授、作家、聖職者である。
1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。
マルティン・ルターは1483年11月10日にドイツの小さな村に生まれました。
法学を専攻し官僚を目指していましたが、ロースクールに入学した22歳のとき、突如修道士になることを決意。
大学を離れ聖アウグスチノ修道会に入ります。
当時ドイツでは、聖ピエトロ大聖堂の再建費用の名目で贖宥状が大々的に販売されていました。
贖宥状とは、それを買った人は罪が軽減されて救われるという、教会が販売して収入にしていた一種のお札です。贖宥状は免罪符です。
ルターは、それを購入するだけでありとあらゆる罪から免れられるという主張は、あまりにも安易ではないかと疑問をもちました。
そこで彼は、1517年に「95ヶ条の論題」を作成します。
これは、贖宥状を販売していたドミニコ修道会に対し、学術討論を呼びかけた文書でした。
しかしこれが、彼の意図とは違った形で大きな反響となり、宗教改革へとつながっていくのです。
彼の主張は教会の支配に疑問をもっていた民衆の支持を集め、教会側も無視できなくなり、両者は対決を始めます。
そして1521年、ローマ教皇は、自説を曲げず教会批判を展開するルターを破門しました。
彼はザクセン選帝侯フリードリヒ3世に保護され、ヴァルトブルク城にかくまわれます。
そこで彼は新約聖書のドイツ語訳を完成させました。
彼は教皇の権威ではなく、聖書の権威を前面に押し出したのです。
彼が不在になると、ヴィッテンベルクの街では教会の破壊など過激な改革がおこなわれるようになりました。
これを見かねたルターは、1年もたたないうちに再び人々の前に姿を現し、行き過ぎた行為を警告します。
しかし事態は、彼に共鳴した人々が暴動を起こすまでに発展しました。
彼の同志であったトマス・ミュンツァーは、「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルター説を根拠に農民たちを率い、暴動を起こします。
さらに、1524年には、西南ドイツの農民たちが、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こしました。
ドイツ農民戦争と呼ばれるものです。
ルターは、宗教や神の名のもとで戦ってはならないと、農民側を戒めます。
これは、彼のお墨付きがほしかった農民側には納得のいかない話でした。
彼の忠告を無視して戦い続ける農民たちをみて、彼は領主たちに徹底的に鎮圧することを求めます。
やがて農民たちは鎮圧され、ミュンツァーも捕らえられて処刑されました。
この出来事により、ルターは南ドイツでの支持を失い、この地では改革があまり浸透しなかったといわれています。
その後彼は、大学で講義を続けながら、執筆や旧約聖書のドイツ語訳、領邦教会の成立などを進め、1546年、故郷アイスレーベンで静かに息を引き取りました。62歳でした。
そして彼の死からおよそ10年後の1555年には、ルターの考えを踏襲したプロテスタントが新しい宗派として認められることになるのです。