初めてバターロールを焼いた!

友人が、「最近バターロールに凝ってるのよ」と言ってたのを思い出し、
バターロールを焼いてみた。

難しかったのは、円錐形にするところ。
どうしたらいいのか分からない。
円錐形に出来なかったので、こんな形になった。
ひとつめで円錐形の作り方が皆目分からず、
もういいやってことで、円錐にならないまま麺棒で伸ばして行ったので、
まあ、開き直ってこんな形になった。

ついでに、急に作ったので、卵が一つしかなかった。
パン生地に卵を入れたので、パンの表面に塗る卵黄がなかった。
ということで、表面のテカリもカットされた。
で、こんなバターロールになった。

旦那が「コッペパンだ」と言って食べ始めた。
ひとつ食べた時に「何パンだ?」と聞くと、
また「コッペパン」と繰り返した。
見た目だけではなく、味もコッペパンらしい。

それでもいいのだ。
完璧である必要はないのだ。
パン屋になる予定はないので。

どれほど失敗しても、手作りにかなうものはない。
焼きたてより美味しいモノはない。

あと何回焼いたら、バターロールになるかは分からないけれど、
あと何回焼いたら美味しいパンになるかはわからないけれど、
手作りは、いい!
本当に、いい!

節約生活をすると、何でも手作りになってゆく。
仕事は増えるばかりだが、食品はそれなりに安全になってゆく。
何故なら、中に入っているモノがクリアになってゆくから。

中華料理でよく使用する甜麺醤は、買うとかなり高価なモノだ。
そこで、作った。

今はネットがあるので本当に便利。
ネットに「甜麺醤 作り方」とか打ち込めば、
色々な人が教えてくれている。
その中から都合の良いモノをピックアップしてその通りに作ればよい。

甜麺醤があると結構便利。
野菜と肉を炒めて、甜麺醤で和えるだけでも、結構いい感じの料理になる。
ひと工夫ある感じ?

さて、写真の甜麺醤の後ろに映りこんでいるのは、
我が家の猫、パトラだ。
いくつになっても子猫の顔をした珍しい猫。
そして人間の食べ物には目のない子。
そこで映りこんだのか?
しかし、甜麺醤を舐めてみる気にはならなかったらしく助かった。

今パトラがどこにいるかというと……
PCに向かっている時は、基本的に私の膝の上で丸くなっている。
外は今日も冷たい雨。
膝の上だけ妙に温かい (=^・^=)

スーパーマーケットの袋の有料化が当たり前になった。

有料だったり、袋を要らないと言うと割引になったり、

それぞれのスーパーが違ったやり方をしているが、

基本的にいままでサービスでつけていたモノがなくなった。

エコという名の元に。

 

いいことだと思う、勿論。

 

因みに、私がドイツ旅行をしたのは1991年秋

スーパーマーケットで買い物をしたら、当たり前にそのまま商品だけ渡された。

つまり袋がなかった。

「要りますか?」とも聞かれなかった。

ドイツでは、25年前にすでにそうなっていた。

旅行者の私は、どうしよう~と、周りをきょろきょろしながら、

仕方がないので、バックパックに買った食品をそのまま入れた。

日本はもの凄く遅れているのだ。

未だに、「袋はどうなさいますか?」と聞いてくるし(別にいいけど)

私の印象では、2人に1人は、袋を貰っている。

 

スーパーの袋の有料化は、いいことではある。

だが、どうもおかしい。

 

スーパーマーケットの袋よりも、

お弁当やお総菜が入っているプラスチックのパックの方がよっぽど罪が重いと私は思うのだ。

寿司のプラ皿には、絵まで描かれている。

 

スーパーは、買い物後の袋は有料にするくせに、

こちらのプラパックは、相変わらずたっぷりと使ってくれる。

何故か?

 

売るためでしょうね。

 

お総菜をプラパックに綺麗に詰め、見栄えをよくした方が売れるから。

寿司は、ちょっと高級感のある絵皿に並べた方が高くても売れるから。

そしてスーパーの袋は、購入後に使うモノなので、販売への影響が少ない。

 

そんなことが考えられる。

 

企業のエコはこの程度だ。

売ることが先決であって、エコは二の次。

袋だけ有料にして、【このスーパーマーケットはエコに貢献しています】と印象付けても
それは違うように感じる。

 

お弁当は、弁当箱が必要だから、パックに入っているのはまだ仕方がないとしても、

肉や魚をプラ皿に並べるのは、消費者からすると全く無駄だ。

つまりあの皿は、スーパーの為だけにある。

肉を購入する。

家に帰って、パックをあける。
綺麗に見えるように折りたたんである肉を一枚一枚引きはがす。
冷凍する物は、肉をわざわざ開いてラップで包み冷凍庫へ。

肉が乗っていたプラ皿は、すぐに不要のモノになる。
時々は、塩こしょうして乗せておく皿になるが、それだけのことだ。

洗ってリサイクルごみ箱へ。

あの不用感。

あの罪悪感。

 

肉屋のように油紙で包んで輪ゴムで止めてくれれば十分なのに。

そこには戻れない販売者の都合。

 

それをしないで【エコをやっています!】的な宣伝に惑わされず、

私たちは、もっと個々人が、利口に努力していかなければならないのだと切実に思う。

私の周りから花粉症の人が減ったように感じる。

以前は、強度の花粉症で、

3月ごろからいつも目を真っ赤にして、

鼻をズルズルさせていた人が数人いたが、

最近は、「あれっ?確か花粉症だったよね」と忘れるほど、

その症状を見せない。

 

早めの対策がうまく行っていたり、

耐性が出来るっていうの?だったり、

ベテラン花粉症になって、その症状が薄まっていったり

しているのかしらん?

 

先日久々に若い子たちの中にかなり酷い状態の人がいて、

芝居の稽古中に、ズルズル音がどんどん増えて行った。

最初はみんな平気だったのだけど、

2時間を超えたあたりから、ズルズル音がひとり、またひとり

そして合唱になっていった。

それで、花粉症の話になったのだが、

田舎の方が、花粉は飛んでいるのに、

実は、田舎にいた時は平気だった人が、東京に出てきてから花粉症になった。
そういう話を聞いた。

東京は、すべてがアスファルトで覆われているので、

一度道路に落ちた花粉が舞い上がることで、

落ちた花粉を再度吸い込む。らしい。
つまり延々吸い込むってこと?

 

そういえば、山登りをしている時に、

風が吹くと、木々から花粉が、それこそ桜吹雪のように舞っている光景を何度か見たことがある。

こんな所を、花粉症の人が歩いたら、一体どんな症状になるんだ?と恐ろしくなった。

実際、鼻をズルズルしながら山歩きをしている人はいるようだが、

東京の方がもっとよくないらしい。

 

都会というモノを作って、

あらゆるところをコンクリートで固めた。

便利だからだ。

土のままにしておくと草が出てくる。

草は処理しないと、毎年毎年出てくる。

コンクリートで固めると、その後は何もしなくていい。

便利。

 

便利の裏側には、恐ろしいモノがたくさん潜んでいる感じがする。

 

東京の夏が恐ろしく暑いのも、コンクリート化のせいだ。

太陽光の照り返しがきつい。

そして一度熱せられた道路は、なかなか温度を下げない。

そして熱帯夜になる。
深夜でもコンクリートの温度が下がらない。
夏の間、延々それを繰り返す。

 

田舎が涼しいのは、土が残っているからだ。

そして木々が、通過する風を優しくしてくれる。

 

ただ単に、便利にしたら弊害があることにたくさん気づいた。

それでも田舎をも都会化しようとする人たちがいる。

インフラを整えると住んでいる人がみんな喜ぶと思われている。

みんなではない。

決してみんなではない。
田舎が都会化してしまったら、
田舎に住みたい人が困るもん。

先月北陸新幹線が開通した。

それに伴って、長野新幹線という名前はなくなった。

長野オリンピックの時に出来た新幹線だが、

随分長いプランで金沢まで伸びたということだ。

金沢は、素敵な町だが、東京から行くにはかなり不便なところという印象がある。

だから、この新幹線はきっと便利に違いない。

 

しかし、異常だったのは、そのニュースだ。

昨年秋から、テレビではしょっちゅう北陸新幹線開通のニュースをやっていた。

昨年からカウントダウンまでしていた。

そして3月は大騒ぎ。

でも、騒ぎは一時で、そこで生活して行く人たちは一生だ。

あれから一か月経って、どうなったんだろう?

 

新幹線が出来ると、

新幹線が止まる駅の周辺では、喜んでいる人びとがテレビで映し出される。

別にみんながみんな喜んでいるわけでもないと、私は思うのだが、

喜んでいる映像が多過ぎる。

 

便利になる。

誰のための便利だろう?

新幹線は高すぎる。

仕事で東京と金沢を行き来する人は経費だからいい。
が、一般の人にはどうなんだろう?
結局は、仕事する人のためだけのような気がする。

つまり経済効果しか考えられていない。

旅行に行くなら、新幹線は高すぎるし早すぎる。

 

新幹線が開通することで、便利になって、

地方都市が、中途半端に都市化して、

どこもかしこも同じ景色になり、

同じレストランが並び、モールが出来て、

どこもかしこも変わらない都市が出来てしまったら、

もうわざわざ高いお金払って新幹線に乗って遠くまで行く必要がなくなってしまうんじゃないだろうか?

と、地方の都市化が不安になる。

 

地方に出かけて、どこにもある同じレストランで食事をして、

コンビニで買い物して、

そんなのつまらないじゃない?

 

昨年沖縄に行った。

仕事だったので、ほとんどモールで過ごした。

モールに丸二日いたら、それは別に東京近郊のモールと同じだ。

確かに雰囲気は違った。

沖縄なので、とにかく暑かった。

お蔭で着ているモノが違うから、景色が違った。

あと中国人がとっても多かった。

でもショッピングモールの中は、快適で便利で、

別に沖縄まで来る必要のないモノだ。

 

地方は、不便でいいと思う。

住んでいる人のどれほど多くの人が、都会のように便利になることを望んでいるのかは分からない。

不便と言ったって、生活している以上は、

行政サービスや学校、病院など、行ける距離に欲しいのは事実だと思う。

でも、ファミレスはいらない。

その土地のモノを食べるのは旅の一番の楽しみだもの。

ファミレスは、長い時間やってて、いつ行っても同じモノが食べられて
金額も料理も予測が出来て安心で、本当に便利だけれど……。

 

都会に疲れたり、飽きたりして田舎に移住する人がいる。

IターンでもUターンでも同じこと。

田舎に行くのは、田舎が好きだからだ。

そこが都市化して行くことは基本的に求めていない。

どこもかしこも同じような都市になって欲しくない。

 

そう望んでいる人は、やはり少数派なのだろうか?

ドラマを見始めて、脚本家が岡田恵和さんであると知ってビックリ。

火曜日22時枠は、大人のドラマをはずさずにやってくれる枠なので、

なあんにも調べずに毎回見ています。

親友である2人が、ある日入れ替わってしまう話と知っていたので、

まさか岡田恵和さんのオリジナル脚本とは思わず……。

 

入れ替わるという基本的な無理。

その事実を、誰にも言わずに入れ替わって生活するという無理。

それがドラマの根底にあるので、リアリティという点では難しい話ですが、

テーマは、親友の生活をしてみることで学ぶこと、発見する事。

そして、病気という形で身体と心を失う事。

家族の形。

などなど奥深く、

それを描くための、ドラマならではの設定になってる。

 

今回のこのドラマを見て、私がどうして岡田恵和さんの作品が好きなのか分かりました。

私の書く話に似ているのです。

話しというよりも、根本的に大切に思っていることが似ているのだと思います。

 

家族の大切さ、愛情の大切さと言うモノは多くの人が書いているのだけど、

こんな家族があってもいいじゃないか。

ってところが、今回見ていて、あらあらと思いました。

癌になった友人の家には、子どもと家の広さに余裕があり、

そこにその家の子どもの本当の母親と、(入れ替わった親友の身体をしている)

旦那と別居状態の親友とその二人の子どもが同居する。

それを成立させるためには、

ちょっと変わったドライな旦那(藤木直人演じる)が必要だったのだと分かりました。

 

私が書いた『忘却』という脚本では、

若年性アルツハイマーになった独身の女性の家に、

親友二人が、父と母という形で入ってくる。

そして同居する男は、記憶を無くした若い男。

 

そういう少し普通じゃない男を入れることで、

女三人の同居を、バランスのとれた家族的な環境にしたかったのだと。

 

女優三人の力がどうしても比較されてしまうドラマ。

主演 永作博美、石田ゆり子、佐藤仁美

うーん、やはり石田ゆり子さんが、ぐっと演技力で落ちます。

佐藤仁美さんが、好き勝手に楽しんで演じていて、

セリフや演じる技術を持っている人は、

自由自在にこうやって楽しむことが出来るなと感心して見ていました。

永作博美さんは、相変わらずの童顔ですが、

すっかりお母さんらしい雰囲気も出て、

一瞬の表情が天才的な演技をされる方。
雰囲気で役を掴む、つまりセンスのある役者さん。

それに比べて石田ゆり子さんが、可哀そうなくらい演技力がない。

でも、魅力があるんですね。

まず、美しいということ。
年齢的にその美しさは衰えを見せているけれど、
一瞬の美しさは、時々垣間見られ、
それが非常に印象的に残る。

観客は、一瞬の美しさで目を奪われるモノですから。

でも今後は、顔の美しさではないところで勝負して行かないと、ですね。

 

佐藤仁美さん演じる妻と谷村美月さん演じる愛人が

レストランで隣り合わせに座って会話するシーン。

岡田さん得意のセリフ芝居を楽しませてくださいました。

これがまた私の好みなのだと。

 

そもそも私が書きたかった脚本は、ほとんどこのテンポの好い会話。

この二人のやり取り素晴らしかったですね。

 

私の執筆と比較するのはおこがましいのですが、

力とか面白さとか凄さとかそういうことではなく、

求めていたモノ、好きなモノが同じという意味で、

ちょっとだけ比較させて貰っちゃいました。

 

それにしても、最近、岡田恵和さんの作品が続いています。

 

実は、以前から大好きなシナリオライターでしたが、

しばし作品がなくなっていた感じがするのです。

調べてみたら同年代。

ってことは、これからもっともっとどんどん新作を書いてくださるということですよね。

大期待しております。

 

4月からの新番組にもありました!!

いい感じで筆が進んでいらっしゃるのだと思います。
本当に嬉しいです。

フジテレビの『心がポキッとね』 楽しみにしています。

書く仕事をしている人たちの苦しみは、締め切りをまもること。

脚本家も締め切りを守らない人がたくさんいる。

私は、そういうい人はプロではないと思っている。

だから、私は締め切りを落としたことは一度もない。

 

でも、実際は、天才的な戯曲家に締め切りを守れない人が数人いる。

三谷幸喜さんも何度かニュースになっているし、

やはり私が大好きだった、井上ひさしさんは、

ご自身の劇団こまつ座の初日に幕が開けられなかったこともあった。

締め切り間際になると、予想外の力が働き、物凄いアイデアが湧き上がるモノ。

そういうパワーが実際存在するのだが、

それを締め切りを守れなかった言い訳に使う人がいる。

それはこういった実績と才能のある作家だけ言ってもいいこと。

締め切りを守れないのは、プロではない。

 

実際、小劇場界には、そういう人がたくさんいて、

その人がその劇団の主宰の場合は、周りの人が文句を言えない。

全ての芝居作りは、戯曲が出来てから始まるのだから

なるだけ早く脚本を仕上げるのが礼儀。
 

『ゴーストライター』で、作家が「書けなくなった」状態が描かれている。

締め切りを落とすレベルではなく、

筆が進まない、何も書けない状態。

 

小説家でも戯曲家でもアイデアが溢れている時期には、

何も書けない人のことなど想像出来ないだろう。

が、書けなくなる恐怖というものは、私も最初から持っていた。

 

私の身近にいた人が、遅筆だったせいもあるかと思う。

 

彼は、本当に書けないのか?書いてないのか?

何を悩むのか?天才なのか?愚鈍なのか? 単なる甘えなのか分からないが、

稽古場に来るといつも向こうからこう言った

「来週には台本持ってくるから」

稽古は始まっている。台本がないと稽古は出来ない。

月曜日になる。

彼が持ってきた台本がたった1ページだったこともあった。

そして言う 「週末には書き上げる」

聞いてもいないのに、いつもそうやって自分から言って、

そして約束を守れないことを繰り返した。

なんであんな嘘言うんだろう?と思った。

書けないならば、もう少し待ってくれと言えばいいのに。と思った。

 

言い訳なのか?それともそう言うことで自分にプレッシャーをかけているのか?

私とはタイプが違うので分からない。

分かろうともしなかった。

私にとって大切なことは、

稽古を進めることだったからだ。

 

だから私が戯曲を書くときは、決して遅れないように

いつも準備を万全にしていた。

 

準備中に、書きたくなることがある。

が、絶対に中途半端な状態では書き始めない。

怖ろしいのは途中で筆が止まることだ。

だから、途中で止まらないように、準備万端になるまで書き始めないのだ。

 

おかげさまで一番つらい、書けない、締め切りに間に合わないという

怖ろしい経験をしなくて済んだ。

 

そもそも私は超計画性のある人間なのだ。

 

つまり天才ではないということにもつながっているように思う。

一応、上演された脚本だけでも20冊を超えているので、

戯曲家と名刺に名前を書いている。

戯曲を書いているせいか、『小説を書けばいいのに』と言われることもある。

その度に、『シナリオと小説は全く別。無理』と答えている。

実際、そうだと思う。

戯曲は面白くかけても、文章も面白く書けるわけではない。

 

そう確信をしたのは、三谷幸喜さんのエッセイを読んでからだ。

三谷さんのように優れたシナリオライター、

それもコメディを書かせたら天下一品の方が、

実は文章を書かせると、普通になってしまう。

それはエッセイの中でご本人も言ってらして、

当時の奥様、小林聡美さんの方が、文章を書かせたら上手いんです。

だそう。

 

でも、文章を書くことが好きなので、

頭の隅に小説書いてみたいなぁとか、本を出せたら素敵だなとか

考えたことはある。

 

『ゴーストライター』を見ていて、

実は、小説が書きたくなったのだ。

番組後半で楽しそうにキーボードを叩く二人の小説家を見ていて、

私もああやって小説を書きたい!と改めて感じた。

あわよくばプロの作家になろうとか考えているわけではない。

一冊でいいから小説を書いて自分の本棚に並べたい。

自費出版ってやつだってあるし。

戯曲はいくら書いても本になりにくい。

売れないからだ。

でも小説は、本になる可能性がある。

 

考えてみたら、子どもの頃、小説を書いていたことがある。

それは単なる空想小説。

小学校高学年から中学にかけて書いていたものだと思う。

空想することが好きだった。

それを文章にしただけだ。

その後、演劇をメインにやってゆくようになるから、

必然的に書くモノは小説からシナリオに変わって行った。

そんなことなのではないかと思う。

 

つまり小説だって子どもの頃書いていたよりは上手に面白く書けるのではないか?

新人賞に応募してみるか?

とか、考えてみた。

 

どんな人でも一冊だけならば小説を書けるというではないか。

自伝という名の小説。

書いてみればいいと思う。

出版して儲けたいとさえ思わなければ、

書くことは誰にも迷惑を掛けない自由で魅力的な作業だ。

 『ゴーストライター』で、

遠野リサが、認知症の母親とカレーを作るシーンがある。

思い出したことがあるので、今日はそのことについて書きたい。

 

私の母が亡くなってもうすぐ20年経つ。

私の周りでは、親の病気や認知症などの介護が真っ盛り(失礼)

日本人は80歳を超えると、4人に1人が認知症。

それ以外の病気や足腰の衰えなど、長生きすれば確実に介護する人が必要になってくる。

 

私の母は、脳卒中で倒れ手術して、

その後2年間は、私に介護させてくれた。

親の介護の何が大変って、終わりが見えないことだ。

癌のように余命が割と分かりやすい病気と違って、

今のこの状態がいつまで続くかわからないので介護者の方が参ってしまうのだ。

看病や、介護そのものは必ずしも辛いことではない。

勿論、人によるのだろうが、誰かに必要とされているその瞬間は、

大変でもそれなりに頑張れるものだ。

 

数年前から少し時間に余裕が出来た私は、(母が生きていてくれたらなぁ)とよく思う。

今なら、余裕があるから、もっといろいろなことをしてあげられたと思うからだ。

今なら車もあるから、どこにだって連れて行ってあげられる。

ひとりで、八ヶ岳に来るのが嫌な時は、母を誘ってきたら、

女同士楽しく会話しながら過ごせたに違いないとよく思う。

その中で、ある種、もっとも一緒にやりたかったことが料理だ。

餃子の具を作って、二人でテーブルに向かい会話しながら餃子を包む。

鞘をとるとか、野菜の下ごしらえをする。

年を取ると、立って仕事するのは大変だから(料理は実際重労働だ)

テーブルに座って、二人で会話しながらのんびりできること。

つまりルーティンワークだから頭を使わなくていいけど、

手先を使い、ついでに後で美味しいモノが食べられる。

そんなうまい話だ。

 

若年期、忙しく過ごした人は、

遅かれ早かれそういったのんびりした時間に憧れるのではないかと私は思っている。

でも、その時間が来たら、それはそれでたいくつかもしれない。

遠野リサが作家を引退した後の生活はそう見えた。

自分の思い通りにゆったりと時間を過ごす幸せ。

それを毎日幸せと感じながら生き続けるためには、あと、いったい何が必要なのだろう?

一度、楽しいお仕事を経験してしまった人には無理なのだろうか?

 

のんびりと平和な時間は、

忙しい毎日の合間にあるから楽しめるのだろうか?

毎日のんびりと平和な生活は、結局は退屈へ向かっているのだろうか?

 

出来るならば、

旦那しか家族がいない私は、

餃子の具をテーブルに置いて、

旦那と二人で夕焼けでも見ながら餃子を包み、

『綺麗だねぇ』と夕焼けを仰ぎ、幸せをかみしめられるおばあさんになりたいのだ。

1話から最終話まで一気に見られました。

こういう時間が持てることが私の幸せかなぁ。

面白いと確信が持てるドラマのいくつかは、

1話だけ見て、それ以降は全部録画してまとめ見。

今回選ばれたのは、この作品でした。

実際は、『問題のあるレストラン』の方が面白かったかも(まだ途中なので)

でも、主演女優、中谷美紀、水川あさみで、

脚本が橋部敦子さんなので、間違いはなかったのです。

(その点、『問題のあるレストラン』の方が、出演者がクエスチョンだったし、何より、初回が全員の紹介になってしまった分、ひきつけるまでに至らなかった)

 

さて、『ゴーストライター』

予想以上にドラスティックな展開でした。

特に後半の展開は凄かったですね。

橋部敦子さん、凄いです。

 

簡単に言うと、

遠野リサ引退に伴い、

自分の作家生命を奪われた川原由樹が、復讐とばかりに映画の完成試写会のステージに突然上がる。

当然、川原の勝利かと思いきや、力によってねじ伏せられる。

それどころか裁判で訴えられる。

ここから裁判ドラマになるのかと思ったら、

裁判はあっという間に遠野の勝利。

川原はある種病んでしまう。

ここから話はどこへ行くの?

と思ったら、遠野がTVで真実をぶちまけてしまう。

そして川原が元ゴーストライターという立場を利用して作家にのし上がっていく。

その後、今度は川原が書けなくなり、

久しぶりに書きたいことを楽しく書いた遠野が自分の作品を彼女にたくす。

なになに、ここから大逆転劇?

遠野がゴーストライターになるの?みたいなフリ。

そして共同執筆。

実は、これは私がかなり当初から考えた二人の解決策だった。

のだけど、こういう展開は全く予想しなかった。

最後はすべての人たちが救われて終わる。

ものすごいハッピーエンドだ。

 

ただ、いくつか気になることはある。

 

ひとつは、水川あさみさん演じる川原由樹のキャラクター

水川さんは、とても瑞々しくこの役を好演されていたのでいいのだが、

中谷さんのナレーションで、当初から、

彼女、川原の恐ろしさについては気づかなかった(言葉が少し違います)と

言っている。

実際、この文章は、二人の共作『偽りの日々』の中に書かれる文章のようで、

何度かナレーションで読まれるのだ。

これは必要なかったと思う。

川原由樹は最初から最後まで、遠野りさの熱烈なファンであり、

長野の田舎から出てきた純粋無垢な、小説家志望の、

しかしうっかり執筆の才能があった女性。

それでよかったのに。

まるで彼女に裏があり、何かがこれから展開しますよぉ~的なナレーションを作る必要があったのか?

としか考えられない。

 

キャラクターという意味では、小柳友演じる尾崎浩康についても、

遠野は、助手席に自分より下の女を座らせておきたい男と何度か言ってるが、

全体を通して彼はそうは見えない。

ま、これは遠野の読み違いということにしてしまえばいいのだけれど。

 

そして一番気になったのが、

全編通じて非常に重要な役割、遠野リサの母親、遠野元子である。

江波杏子さんが演じている。

かなり進行した認知症の役なのだが、

私は、こんな症状の認知症の人を見たことがない。

最初に登場した時、そもそも江波さんが認知症の役をやることにもずれがあったし、

実際、あの素晴らしい女優さんがうまく見えなかった。

しかし、話の流れで、回想シーンもあるし、これは江波さんに合っている役なのだとは分かった。

どんな人だって認知症になる可能性があるのだから、

それなら江波杏子さんが認知症の役をやったって問題はない。

しかし……

引っかかるのは、整合性だ。

娘の顔を、それもあれほど娘命だった母親が、

その娘の顔を忘れるくらい認知症が進んでいる場合。

あのような言動は、やはりないと思う。

それはかなりの重症であるから、

例えば、会話にならないとか、感情表現が自然ではないとか、

そういった症状が出ているのが普通だと思う。

なのに彼女は、都合よく、知的な会話も出来るし、優しい笑顔も見せる。

認知症の方の色々な症状を都合よく繋ぎ合わせたような感じがした。

私が、知らない、そういった理想的な進行をする認知症の患者さんが

ゼロでないならば、それでいいのだけれど。

 

どんなキャラクターの人物を登場させてもいいが、

整合性がなければならない。

それでなければ人間を描く意味がない。

『ウロボロス』というドラマを見ていて、

大けがをしても死なない主人公を見ると、

それだけで冷めてしまう私なのだ。

でも、これは重要なことだ。

なんでもアリなら、誰でもどんなコトでも出来てしまう。

制約があるからドラマチックになるのであり、

制約のないところに、本当のドラマは生まれない。