『ゴーストライター』で、

遠野リサが、認知症の母親とカレーを作るシーンがある。

思い出したことがあるので、今日はそのことについて書きたい。

 

私の母が亡くなってもうすぐ20年経つ。

私の周りでは、親の病気や認知症などの介護が真っ盛り(失礼)

日本人は80歳を超えると、4人に1人が認知症。

それ以外の病気や足腰の衰えなど、長生きすれば確実に介護する人が必要になってくる。

 

私の母は、脳卒中で倒れ手術して、

その後2年間は、私に介護させてくれた。

親の介護の何が大変って、終わりが見えないことだ。

癌のように余命が割と分かりやすい病気と違って、

今のこの状態がいつまで続くかわからないので介護者の方が参ってしまうのだ。

看病や、介護そのものは必ずしも辛いことではない。

勿論、人によるのだろうが、誰かに必要とされているその瞬間は、

大変でもそれなりに頑張れるものだ。

 

数年前から少し時間に余裕が出来た私は、(母が生きていてくれたらなぁ)とよく思う。

今なら、余裕があるから、もっといろいろなことをしてあげられたと思うからだ。

今なら車もあるから、どこにだって連れて行ってあげられる。

ひとりで、八ヶ岳に来るのが嫌な時は、母を誘ってきたら、

女同士楽しく会話しながら過ごせたに違いないとよく思う。

その中で、ある種、もっとも一緒にやりたかったことが料理だ。

餃子の具を作って、二人でテーブルに向かい会話しながら餃子を包む。

鞘をとるとか、野菜の下ごしらえをする。

年を取ると、立って仕事するのは大変だから(料理は実際重労働だ)

テーブルに座って、二人で会話しながらのんびりできること。

つまりルーティンワークだから頭を使わなくていいけど、

手先を使い、ついでに後で美味しいモノが食べられる。

そんなうまい話だ。

 

若年期、忙しく過ごした人は、

遅かれ早かれそういったのんびりした時間に憧れるのではないかと私は思っている。

でも、その時間が来たら、それはそれでたいくつかもしれない。

遠野リサが作家を引退した後の生活はそう見えた。

自分の思い通りにゆったりと時間を過ごす幸せ。

それを毎日幸せと感じながら生き続けるためには、あと、いったい何が必要なのだろう?

一度、楽しいお仕事を経験してしまった人には無理なのだろうか?

 

のんびりと平和な時間は、

忙しい毎日の合間にあるから楽しめるのだろうか?

毎日のんびりと平和な生活は、結局は退屈へ向かっているのだろうか?

 

出来るならば、

旦那しか家族がいない私は、

餃子の具をテーブルに置いて、

旦那と二人で夕焼けでも見ながら餃子を包み、

『綺麗だねぇ』と夕焼けを仰ぎ、幸せをかみしめられるおばあさんになりたいのだ。