ある友人が言った言葉である

「本当に格好いいのは、有言実行よ」

 

その言葉は、私の脳裏にずーっと焼きついている

 

私は、人生、その殆どが、不言実行なのだ

誰かに宣言することが好きではない

少し秘密主義である

 

やると決めたことは、誰にも言わずに「やる」

だって誰かのためではない

やればいいのだ

すべての約束は、誰かとしているのではなく、自分自身とやっている

 

明日、ある行動をする予定を立てる

予定を遂行するかどうかは、自分との約束を守るかどうか

それだけ

 

友人の言葉を聞いた時、

そうなのか…と思ったけれど、

もちろん自分のやり方や性格を変えることは出来ない

 

それから30年以上経つが、私はいまだに不言実行である

友人の言葉がずーっと残っているのは、

多分、それ以前は、「不言実行」の方が格好いいと考えていたのだと思う

 

「有言実行」というと思い出す人は、

本田圭佑さんです

確かに格好いいと思う

「男らしい」とも思う←もう言ってはいけない言葉なのかな、ちょっと寂しい

我が長野県代表 長野東が2連覇

1区から1位を譲らない快走でした

 

ゴール後、監督と最終区の選手がインタビューに応じる

 

実はこの大会は、SGホールディングスが特別協賛している

どんなスポーツ大会でも、どこかの企業がスポンサードしている

SGホールディングス つまり佐川急便を軸としたグループは、

今回も特別協賛ということで、選手全員のゼッケンの上部にSGホールディングスと書かれている

 

最後のインタビューの時、監督と選手にSGホールディングスと書かれた長い垂れ幕?を持たせた

これの冴えないこと

 

もちろん、スポーツのインタビューの時に、選手の背後にスポンサーの名前はいつも並んでいる

 

プロの選手と今回のようにアマチュアの選手とは、全く意味合いが違うと思う

 

インタビューで精一杯なのに、手に持たせるという余計なことをやらされ

お陰で、垂れ幕は、垂れ下がり美しくもない

 

放送は、企業コマーシャルを流さないNHKである

 

どーなってるんだ?!

 

男子は、福島の学法石川が、やはり1区からずっと1位で優勝

そして、監督と選手のインタビューで会社名の入った垂れ幕を持たせた

 

スポーツや芸術に企業がお金を出すことは、

もちろん企業にしてみれば企業宣伝

宣伝効果がなければお金は出さない?

宣伝効果をなるだけあげたいに違いない

 

でももう少しセンスのあるやり方をしてもらいたい

 

実際、やっている

駅伝やマラソンのスポンサーのCMは、

レース中継は続けたまま、選手の映像を小さくして流すなど工夫がされていることの方が多い

 

今回の大会は、プロフェッショナルではない高校生

ただ真面目にトレーニングを積んできた高校生選手にあのような会社の宣伝をさせるという行為に、私は辟易とした

今日は冬至

一年で一番昼が短い日

なのに、心はウキウキ

だって、この日を過ぎると、日が長くなる一方なんだもの

心はポジティブそのもの

 

だんだん、日が長くなっていくこの感じはたまらないですね

 

実際、今は5時を過ぎると結構暗くて、

ここは田舎なので、街灯が少なく(ちなみに我が家の周りは街灯はありません)

車の運転もなかなか怖い

 

対向車のヘッドライトが目潰しになり、

それでなくても暗闇の視力は落ちる一方なので、

俄然、夜は出歩かなくなる

 

実際は、これからが冬本番

寒冷地のここは、雪も降るし、何より道路が凍る

それでも、冬至からは、気持ちが前向きになる

 

これが何よりも大切

数字的にいうと、成人になることを大人と呼んだりする

今は18歳が成人=大人

でもなってみれば分かるけれど、何も変わらない

昨日までと何も変わらない自分

 

ただ、周囲の人は、歳を取るにつけ、大人として扱うようになる

 

誰でも、幾つになっても、心は子どもの頃と何も変わらない

大人になりたくないということではない

日々、経験を経て知識を得、その場に見合った振る舞いができるようになっているだけだ

 

ある日、大人にならざるを得ない状況がやってくる

 

それは、自分が親になった時

自分の子どもに対して、人は否が応でも大人になるのだと思う

 

私は、大人になるチャンスを持てなかった

 

誰が見たって、高齢のおばさん(女性)であっても

心は、子どものままの場合は多々ある

 

でも周囲の人が私に大人を期待しているので、

それなりに対応している

それなりに対応できる能力は身につけてきた

 

それが大人?

ここ数年、

夫が部屋の中をうろうろする光景を目にすることが増えた

 

ボケているわけではない

理由が分かっているので放っておく

参加すると、イライラがこちらにも伝染させられるから

 

家中をうろうろする時、

たいてい、何かが見つからなくて探しているのだ

 

歳をとると、自分がどこに仕舞ったのか覚えていられなくて、

探し物をすることが増える

 

私が読書をしている周囲をうろうろしていて邪魔な感じなのだけれど、とにかく声を掛けない。掛けるとイライラが伝わり、私も探さなければならなくなる

 

私の場合は、よほど緊急性のあるもの以外は、

見つからない場合探すことをやめる

通常は、自分が仕舞ったのだから、仕舞いそうなところを探せば出てくるのだけれど、探していても見つからないことも多いのだ

 

時々、探し物が積み重なって、3つも4つも見つからないものが頭の片隅にあることもあるが、見つからないのだから仕方がない

 

家の中にあれば、そのうち出てくる

 

今日も大事なものが見つからない夫に、いつまでも無駄にうろうろされるとうるさいので、

年末だし、ちょうどいいから、端から引き出しなど開けてみて、いらないものを処分したら?と提案する

 

ものが見つからなくても、部屋がすっきり片付いたら、私はとっても嬉しい

私が5本指の靴下を履き始めたのは、

ヨガを始めた頃だから、35年くらい前

まだデザインを選べるほど種類はなかった

 

今は、可愛い柄も色も探せば色々ある

 

ヨガは基本的に素足でやるけれど、

寒い時や、靴下を履く必要がある場合は、五本指ソックスが必須

ヨガに関わらず、そちらの方が体にいいことも間違いない

 

先日、知り合いが冬用に暖かい靴下を手に入れたが

娘に「五本指ソックスなんて、まだ(若いので)格好悪いから嫌だ」と返品されたらしい

 

そうか、五本指ソックスは格好悪いのか…と、考える私

 

もちろん、指がない靴下も引き出しの中に少しは入っている

重ね履きする場合、上も5本指にすると少々気持ち悪いので、

シルクの五本指ソックスの上に、普通のソックスを履くこともある

 

冬になって、先日来、そうやって履いてみているのだけれど、

どうも普通の靴下が格好悪くて好きではない

 

そもそもは、5本指が離れていた方が、体にいいし、快適だから履き始めたのだけれど、

今はデザイン的にも、こちらの方が素敵に見えていたことを知って驚く

 

人の感覚や趣味は、変化するものですね

東京にいた時も、運転はしていたけれど、それは目的に応じて電車にしたり、自家用車にしたりする暮らしだった

 

田舎に移住してから、生まれて初めての車生活というわけ

 

車の便利なところは、荷物を持つ必要がない

だから、トートバックには色々便利グッズが溜まっていく

いつも助手席に座っているトートバックはとても便利だ

 

体が疲れていても、近距離ならば、楽に帰宅できる

ZUMBAを踊って、膝がガクガクで、汗まみれで、くたくたでも、

車に乗って、(汗まみれなので)背もたれにしっかり寄り掛からなくても

たった5分で家に着いて、そのままの格好で風呂に突入できる

 

都会の時は、現地で汗を拭き(シャワーを浴びたり)、着替えて、

大きな荷物を持って、帰宅した

 

都会にいた時、車が不自由だったのは、

時間通りに目的地に着けないからだった

 

日本の電車は優秀で、時間通りに目的地に連れていってくれる

混んでいたり、体力的に大変なこともあるけれど、

座って本を読んだり(最近はみんなスマホ見ているけど)していれば

自ずと目的地に到着する

 

しかし!

ここ、原村には渋滞がないのだ

だから、予定通りに目的地に着くことが可能

 

となると、悪いことは殆どない

 

前方の車の運転がイマイチでイライラすることはあるけれど、

混んだ電車の中でのストレスとは比べ物にならない

 

あった、あった、

田舎の車生活の欠点。

 

「歩かない!」

 

今日も同じ敷地内にある薬局とスーパーに行ったのだけれど、

まず薬局のそばに停めて、用事を済ませた後、

スーパーの真ん前まで、つまり10メートルちょいを移動して買い物を済ませた

荷物を持って、数十メートルとか、もう歩きたくないの

 

車の運転が嫌いでなくて良かった

車は、私にとっては、快適で楽で、自由自在の機械だった

英語を必死に勉強していた頃、よくそう思っていた

英語が大好きで、私の感情表現には似つかわしく感じられ、

英語を喋っている時はcomfortableだった

日本語の方が母国語で何の問題もなかったにも関わらず。

 

単に西洋人かぶれだったのかもしれない

実際、ティーンエイジャーの頃は、当たり前にアメリカ大好き少女だったのだから

 

今は、アメリカではなく欧州人を崇拝している

彼らは、文化的に優れているし、一歩も二歩も先を歩いている

日本人は、頭の良い人も、勤勉な人も多いけれど、

文化的にはかなりレベルが低い

そして、その変化(進化)は遅く、遅々として進まない

 

一番尊敬しているのは、ドイツ人(ゲルマン民族)

彼らは、日本人と共通している面も多いので理解しやすいし、

優れている

 

東日本大震災で福島第一原発事故が起こって

ドイツは、原発廃止に動いた

地震のほとんどない国にも関わらず。

原子力というものが、人間の力の及ばないところにあるものだと頭のいい人はみんな知っているのに、一部の金至上主義者のために、隠されたり、都合よく言われたりする

ドイツに出来るのに、事故の当事者である日本はどうして出来ないのだろう?と残念に思う

 

それに比べて、イタリア人(ラテン系民族)は、何でも適当

尊敬には全く値しない

時間も約束も守らない

とにかくテキトー

 

ただ、

日本人よりも人生を楽しむことの才能はずば抜けている

彼らと比較すると

日夜、勤勉にコツコツ働く日本人を見ていると

何のために働いているのだろう

人生を楽しめているのだろうか?

と都度、考えさせられる

 

しかし、そんなイタリア人でも、

地震大国なので、原発はとうに廃止した

 

あああ、こんな話に持っていくつもりはなかったのに、

結局は、原発で終わってしまった…

私は、次のふたつを得た人が、自分の人生を成功させると考える

 

それは

自分にとって正しい仕事と正しいパートナーを得ること

 

天職と呼ばれるものがある

私もやっていて、これは天職だなぁと感じたことがある

その後、30年以上、その仕事を続けた

仕事なので思い通りにならないことはあったし、難しく辛いこともあった

でも最初にやった時、(天職に違いない)と感じるほどの幸福感と満足感があった

 

それは、本職の役者 ではなく、

養成所の演技講師の仕事だった

 

仕事を選ぶ前に判断できればいいけれど、

やってみて感じることもあると思う

若いうちに色々トライ出来るならば、

やってみて見つけていくことはその後の人生を成功に導くために価値のあることだと思う

何故なら、もうひとつの条件よりは、達成出来る根拠があるから

 

もうひとつの大切な条件

自分にとって正しいパートナーを得ること

これは容易くない

何故なら、自分1人ではどれだけ努力しても得られないから

相手がいる以上、相手の気持ち次第だし、

運にも左右される

 

そしてある年齢になった時に、

自分の持っている仕事とパートナーが、

自分にとって正しかったかどうかを感じられる時が来る(かもしれない)

 

それは死ぬ直前の最後の一瞬かもしれない

 

その時に、自分の人生が大成功だったことを知る

 

お金より、地位より、名誉より、何より、

誰かと比較することなく、単に自分の人生の成功を感じる

 

それは幸せなことであり、最も成功した人だと思う

私の時代でも夢を持てないで悩んでいた人はたくさんいた

悩んでいたというか、羨ましがられたことがある

 

私が女優になると決めたのは中学3年生の時

高校生活は演劇部とバイトのみ

卒業した時にそれまで貯めておいたお金で入れる養成所を受けた

 

担当の先生は、そっち方面は全然わからないからと、進路指導の時も私の意思を尊重して、放っておいてくれた

 

一応進学校だったので、高三になると周囲は受験勉強に励んでいたので、私の、クラスでの成績順位はどんどんと下がっていった

しかし、私には迷いがなかったので何も気にすることはない

たいていは、教科書を立てて、その裏に、図書館で借りた戯曲を置いて、読みあさっていた

 

必死に受験勉強に励む空気感の中、

必死さに欠ける私に、当時、声をかけてくれた人がいた

あまり親しくない人だったので特によく覚えている

珍しい人が、私にこう言った

「やりたいことがあっていいね」

 

高校三年生とはそう言うものなのかもしれない

多くは大学に行くけれど、これになりたいという確たる夢を持っているわけではない人も多かったのだろう。

実際、大学に入ることが目標になっている人もいたように感じる

 

だから、遅いことはない

大学に行ってから、いろいろな人と出会い、勉強し、遊んでから

将来の夢が持てるに違いない

 

「やりたいことが見つかるといいですね。」

 

追伸:因みに、高三で大学に進学しなかった私は、32歳の時に、大学生になる。つまり遅いことはない。