[コピー]記事練習中m(_”_)m 読解力とは~ポンコツな日本語~
記事編集の練習ですm(_”_)m■これから書くこと 「読解力」が、どういう意味なのかを、追求することではありません。 われわれは、読解力を普通に使いこなしています。 だから、われわれは、読解力を知っています。 その知っている事を、文章で表現しようとしたとき、 英語と日本語とで、どのような違いになるのかを、 書いてみます。読解力とは■2つの言語で表現されている文章 前回の記事で触れた、 国際的な学習到達度調査(PISA調査)における 読解力の定義文 を例にあげて、記事を書きます。◆「国立教育政策研究所」の訳読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。◆PISAの読解力:Reading literacy の定義Reading literacy is understanding, using and reflecting on written texts, in order to achieve one's goals, to develop one's knowledge and potential and to participate in society. 日本語も英語も達者な方は、 2つの文が「対訳」になっていることが、 おわかりと思います。 注意すべきは、 英文がオリジナルであること。、 日本語訳は、国家機関によって訳された「一定の水準を満たした」訳であること。です。 英語に通じている人は、一目で言いたい事がわかるかもしれません。 しかしここはブログ記事なので、英語がほとんどわからない人向けに、書きます。 この2つの文章は、オリジナルの英語文章と、日本語に訳された文章です。 定義文なので、重要な位置にあります。 重要ではない部分なので、てきとーに訳したことは、ありえません。 意味が変わらないように、訳されなければなりません。 テーマは「読解力そのもの」ですから、うかつな訳はできないものです。 いうまでもなく、その道のプロが訳したものです。 「翻訳者の低スキルが低すぎる」と言った非難をするつもりもありません。 「私なら、こう翻訳する」という考えも、とりあえず置いてください。 牛頭は、日本語自体のポンコツさを指摘したいのです。■Q節:読解力とは。 この節を便宜上、Q節と呼びます。 まずは 日本語の定義文の意味を くみ取ってみてください。 中学生くらいの子供に、 「読解力ってなに?」 というピュアに質問をされた場合、 あなたは、どう答えるでしょうか。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 この文章を読解してください。 ヘンな意図は、ありません。 純粋に、この文章の意味を汲み取って、欲しい。■X節:まず日本語訳の理解を試みる。 この節を便宜上、X節と呼びます。 牛頭は、小説に限らず、文章は「編集して」読みます。 まずは、原文に句読点の読点(、)があるので、 単純に それを利用します。 原文に改行を加えただけです。読解力とは、 自らの目標を達成し、 自らの知識と可能性を発達させ、 効果的に社会に参加するために、 書かれたテキストを理解し、 利用し、 熟考する力である。 まず抽象的に把握します。 主部はどれでしょうか? 述部はどれでしょうか?読解力とは、 自らの目標を達成し、 自らの知識と可能性を発達させ、 効果的に社会に参加するために、 書かれたテキストを理解し、 利用し、 熟考する力である。 正しいのでしょうか。(もちろん間違っています) これまで「前後の文脈から解釈をする」と教わった記憶がありますが、 この文章は「定義文」なので、 自分の知識で解釈するのはNGです。 書き手は「こうなのだ!」と表明しているのに、 読み手が「こういう意味に受け取りました」では、 …ダメですよね。 以下のような意味にも取れます。(意図的にふざけてやってますから) 読解力は、自らの目標を達成する。 読解力は、自らの知識と可能性を発達させる。 読解力とは、 社会参加するために、 書かれたテキストを理解し、 利用し、 熟考する 力である。 読解力とは、自分の目標を達成する力である。 読解力とは、自分の知識と可能性を高める。 読解力とは、社会参加するために、テキストを理解する力である。 読解力とは、利用する力である。 読解力とは、熟考する力である。 皆さん、いかがでしょうか。 力がみなぎる、前向きな意味になってませんかね。 (意図的にふざけてやってますから、ご注意ください。) ツッコむとすれば、 「何を」利用するんですか? 「何を」熟考するんですか?があると思います。 善意に解釈するなら、「書かれたテキスト」でしょうか。 しかし、読点の位置を考えると、「書かれたテキスト」は間違いですよ。 「書かれたテキストを」と「理解し」は読点なしでひっついているのですから。 また、 読解力は、自らの目標を達成する。 読解力は、自らの知識と可能性を発達させる。というのも、妙に精神論っぽく見えます。 最初に、「読点で区切った」のが、間違いなのでしょうか。 もう一度、原文を眺めます。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 この文章は、どういう意味なのでしょうか。 このX節を読んだ印象として、 原文も、牛頭の意図も、両方とも意味がわからない状態になっていると思います。 それは。 牛頭が、意図的にふざけた意味のとり方を示したので、そのような感じを受けているのです。 牛頭はミスリードを仕掛けています(正直)。 ですから。 このX節で読んだことは、すっかり忘れましょう。■英語だとどうなるか。 英語では、元の文章の意図も、単語の意味もわからなくても、 ある程度文章を構造化できます。 それを示します。 英語では。 並列を示す AND接続詞( and アンド そして) は 「○,○,○,○,○,○ and ○ 」 という形で、「カンマ(,)」を併用して、 どの文節が並列になっているかを示すルールがあります。 OR接続詞( or オア または)も、同じです。 このルールを元に、文章を「構造化」してみます。Reading literacy is understanding, using and reflecting on written texts, in order to achieve one's goals, to develop one's knowledge and potential and toparticipate in society. カンマと and だけに注意して、改行します。個々の単語に注目しません。Reading literacy is understanding, using and reflecting on written texts ,in order to achieve one's goals, to develop one's knowledge and potential and to participate in society. 一部、「knowledge and potential」の and の取扱いに困りましたが、 in oeder to (~のために)を並列表記する場合は in oeder to ○○○ , to ○○○ , to ○○○ and to ○○○と書くので、助かりました。 ここから、英単語を日本単語に置き換えます。 リーディングリテラシーとは、 理解すること 利用すること 熟考すること。 書かれたテキストについて その目的は 自らの目標を達成するため、 自らの知識と可能性を発展させるため、 社会に参加するため。 ヘンな外国人が使うヘンな日本語みたいですね。 実は、外国人には、母国語がこういう風に、見えています。 文章の冒頭で、すでに、読解力って、理解・利用・熟考することだと、見えています。 つづく「書かれたテキストについて」については、理解すること・利用すること・熟考することの3つに掛かっています。 冗長に書けば、 書かれたテキストを理解・書かれたテキストを利用・書かれたテキストを熟考ということです。 そしてその後に「その目的は(in order to)」が続いて、 「はいはい。そういうつもりなんですね」となります。 こういう風に見えているわけです。 英語では、 重要なことが先に書いていますし 「カンマ」を使って、文章の構造を示しています。Reading literacy is understanding, using and reflecting on written texts, in order to achieve one's goals, to develop one's knowledge and potential and to participate in society.■日本語訳をもう一度読んでみる。 英文で意味を把握したので、 それを元に 日本義文を構造化します。 (文章の意味が初めからわかっている、事に注意) 原文はこうでした。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 英原で意味を把握してから、日本語定義文を改行してみます。 以下のような構造でしょう。読解力とは、 自らの目標を達成し、 自らの知識と可能性を発達させ、 効果的に社会に参加する ために、 書かれたテキストを 理解し、 利用し、 熟考する 力である。 これが正しい解釈です。(英文のオリジナルが存在するのですから) 原英文と照らし合わせて、日本語原文を改行しました。 使われている漢字・かな・句読点は、ノータッチです。 改行しているところが、読点と無関係だとわかります。 つまり、 日本語での読点は、意味を汲み取る役に立たないと言う事です。 息継ぎのためと、善意に解釈することもできますが、 目的は意味を解釈することなので、「そもそもなんのための息継ぎか」と考えます。 また、現代のわれわれは、文章をほとんど音読しません。ですから「息継ぎ」のための記号が必要なのか疑問です。 息継ぎのための区切りだとしても、 そこで、 そこまでの、 意味を汲み取ろうとするかもしれません。 原文の、一番肝心な部分(主部と述部)は、下に示す部分にありました。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 肝心な部分が分断されていて、肝心な部分を見抜くことが難しくなっています。 これは良く知られたことです。 それだけでは、ありません。 英語の原文には、<定義>と<目的>の両方を含んでいました。Reading literacy is understanding, using and reflecting <定義> on written texts, in order <目的> to achieve one's goals, to develop one's knowledge and potential and to participate in society. それが日本語訳では、こうなっています。読解力とは、 自らの目標を達成し、 自らの知識と可能性を発達させ、 効果的に社会に参加する ために、 <目的> 書かれたテキストを 理解し、利用し、熟考する力である。 <定義> 「ために」という<目的>を示す単語が、後だし的に位置しています。 読解力【とは】と、 定義文として始まっていたのに、 せっかく3行を読んだ後に、 「ために」と来て、そこまでは<目的>だったのです。 定義ではありませんでした。 肩透かしもいいところですよ。 しかも3行とも並列関係にある<目的>だった とは夢にも思いません。 なぜなら。「ために」が3行に掛かっている という文法的表記がありません。 英語文で、あらかじめ意味がわかっていても、 自らの目標を達成するため・ 自らの知識と可能性を発達させるため・ 効果的に社会に参加するため を意図しているとは、文法的に特定できないのです。 もう一度、原文のままで、眺めてみます。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 この文章が、<定義>と<目的>の両方を含んでいることを見抜かないといけなかったのです。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 こういう形で、<目的>と<定義>が、一文章内にいっしょに書かれていたと、あなたは見抜くことができたでしょうか。 この文章を何週間後か何ヶ月後に見て、即座に見抜くことができるでしょうか。 牛頭は、できません。 繰り返しますが、 この文章は定義文です。 「読解力ってなに?」という質問に、 答えられなければなりません。 もっとも短い答え方は、 「読解力とは、理解・利用・熟考だ」 になりますが、 ここに辿りつくのに、文章をこねくり回さないとわからない。 英語だったら、先頭だけでも良かったのです。Reading literacy is understanding, using and reflecting <定義> on written texts,in order to (以下どうでもいい)■牛頭が編集して読む理由。 牛頭が、文書を(古い小説も、メールやWeb上の文章も) 編集して読むのは、 こねくり回しているのに、他なりません。 日本語は、 解釈処理にコストがかかりすぎるので、 解釈した結果を、 テクストとして残し、 脳の外側記憶 すなわちPCに記憶します。 解釈は、複数回しないように、再利用します。 そして必要に迫られない限り( それは解釈処理で問題がある場合で、頻繁に起こる ) 同じコトを繰り返しません。 かなり以前から、 多くの人間が、文章を読むのに メガネを使います。 現代は、 漢字を 手で書く事は稀で、 パソコンやスマホが提示する 候補の中から選択する 時代です。 文章も パソコンを使って こねくり回して理解する 時代でいいんじゃないでしょうか。■日本語構文のどこが問題なのか。●SOV文法であること SOV文法とは、主部S 目的部O 述部Vの順番になっていることです。 肝心なこと(主部と述部)が、どうでもいい目的部に分断されているから 肝心なことが伝わらないのです。●並列接続詞が、あいまいであること 並列接続詞(AND接続詞 OR接続詞)について、 並列要素があいまいであることです。 要は、 何と何と何と何が、ANDなのかが、わからない。 何個の要素がANDになっているかさえ、わからない。 文章が、<定義>と<目的>の2個の意図が、AND結合されているのに、 それさえもあいまいです。 今回の記事では、 この2要素をもって 物事を正確に記述するためのツールとして 日本語が、ポンコツである。 と結論します。 前回の記事で言った、日本語の欠陥の理由 ●文字について ・文字数が多い ・漢字の読み方が統一されていない ・平仮名の読み方も複数ある ●文法について ・関係詞がない ・敬語 ・動詞の受動・可能・自発・尊敬が全て同じ活用変化をする。なんて、些末なことなんですよ。 これは、外国人に日本語を教えるときの難しさに過ぎないと思います。 そういう場面で、持ち上がった問題だと思います。■A節:リフレクション ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 では。ここから本題です。 日本語がポンコツである、真の怖ろしさです。 Q節で、以下のように、日本語文の解釈を、お願いしました。 読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 この文章を読解してください。 率直に「よくわからない」と思った方。 あなたは、正しい。 読解力が足りないのではなく、 書かれている文章自体が、意味を伝える役目を果たしていない。のです。 唯一に解釈できない文章を、読み取れと言われても、 それは「できません」。 英語原文を読んでいるから、日本語文を読むことができたのです。 そしてその読みで正しいと、日本語文法は裏づけしてくれません。 では。ちゃんと意味をくみ取れた方。 「読解力とは、理解し・利用し・熟考だ」と読み取れた方。 たぶんいらっしゃると思うのですが。本当に大丈夫ですか? あなたは、その結論に、引っかかりを持ちませんでしたか? 読解力とは 理解である。 利用である。 熟考である。 引っかかりを感じたとしたら、 あなたには「定義通りの読解力」があります。 引っかかりを感じなかったとしたら、 あなたは、残念ながら、「定義通りの読解力」がありません。ピュアに質問します。「熟考」とは、どう言う意味なのですか?り‐かい【理解】 内容、意味などがわかること。他人の気持や物事の意味などを受けとること。相手の気持や立場に立って思いやること。了解。 <精選版 日本国語大辞典> 「理解」は、まだ意味が明確です。 内容・意味のあることが前提なので、それを受け取る事が可能です。じゅっ‐こう 【熟考】 十分に考えること。よくよく思案すること。熟慮。 <精選版 日本国語大辞典> しかし 「熟考」の意味はどうでしょうか。 「考える」とは違うようです。 十分に考える・よくよく考える。 どこまで考えたら、「十分」なのでしょうか。 どこまで考えたら、「よく考えた」ことになるのでしょうか。 際限がないのです。 最低限のラインもないのです。 あることについて、どんなに考えて、その考えを説明しても、 まったく違う方向から異論を言い返されたら、 熟考したことにならないのです。 「熟考」が単純な「考える」という意味だとしても、 「読解力」と関係するのでしょうか。 読解力に「考える」が含まれるとすると、 なんでもかんでも「考える」が含まれます。 たとえば、野球をするにしても、プラモデルを作るにしても、写真を撮るのにしても、園芸にしろ、ペットでも、「考える」が含まれるような気がします。◆俯瞰してみます。 あなたではなく、 牛頭の経験です。 牛頭は「読解力」の定義文章を、読解しようとしました。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 そして、このように、読解しました。 読解力とは 理解である。 利用である。 熟考である。 これで「読解できた」と自分では、思っていました。 そして。 原文ではなく、 編集した文を眺めていて、 思ったのです。 「熟考ってどんな意味?」 読解力とは 理解である。 利用である。 熟考である。 最後に潜んでいた、あいまいな言葉「熟考」について、 「十分に考えていなかった」ということです。 いいかえれば「熟考できていなかった」ということです。 PISA読解力の定義は 理解・利用・熟考であり。 牛頭は、熟考できていなかったのですから、 結論として、 牛頭には、読解力がありません。 そういう事になります。 主観(自分の価値判断)によって、 「読解力が無い」と言っているのではありません。 読解力の定義に含まれている要素を満たしていないので、 「読解力が無い」と言っているのです。◆さらにもっと 俯瞰してみます。 ただでさえ意味を正しく伝えようとしない文章を、読まされて。 英語原文まで調べさせられて、 ようやくある結論に、至ったのに。 その結論に疑いを持てなかった。 ポンコツの日本語に、ミスディレクションされて、 壊れかけた文章を解釈する事ばかりに気を取られて、 得られた結論が正しいと信じた。 書かれている文章が間違っていることを疑わなかった。 これが、ポンコツな日本語の、怖ろしさです。 文章の解釈が困難であるために、 肝心なことがおろそかになります。■種明かし 熟考とはなにか? 様々な概念を名辞化して、コミュニケーションコストを下げようとする欧米人が「熟考」というあいまいな言葉を、定義文に入れるはずがないのです。 (そもそも「言葉を定義する」という行為にピンと来ない人も多いでしょうね。そのくらい日本人と欧米人の考え方には差が開いているのです) 英語原文はこうでした。Reading literacy is understanding, using and reflecting reflecting 外国の人だって、「reflecting」には、引っかかるハズです。 そして訳者は、reflectingを「熟考」と訳しました。 「熟考」に対する英語は、think か consider でしょう。 しかし英語原文では、 think でも consider でもなく、 reflecting です。 理系の牛頭は、reflectingで思い浮かぶのは「反射」です。光の反射です。 自転車のお尻についている黄色いのが、リフレクターです。 もちろん PISAは「反射」という意味で reflecting を使っているはずがありません。 英和辞典を引くと、「反省」になりますが コトバンクすると「内省」になります。 「反省しなさい」は、叱責のニュアンスしかないので、 「反省」の意味は、すでに変化しています。 「内省」は、あまり知られていない言葉で、 一部では「内省しなさい」という表現が増えているのかもしれません。 おそらく。 一部で、Reflecting が輸入されているのだと思います。 それがカタカナの「リフレクション」でしょう。 比較的新しい用語かもしれません。 「リフレクション」という概念は、日本でも世界でも古くからありました。 欧米人は、その概念を、 Reflecting 日本ではリフレクション と新しく名辞しているのでしょう。 例えば、以下の記事などは、良い記事だと思います。 企業の人材育成を目的としていますが、 リフレクションとは「もっといいもの」です(今は、これ以上の表現を思いつかない笑)◆リフレクションとは? 意味・定義、内省と反省の違い、育成研修について-カオナビhttps://www.kaonavi.jp/dictionary/reflection/■まとめ 読解力とは 理解である。 利用である。 リフレクションである。 理解も利用も、基本的にはよく知られていることです。 ただし、リフレクションは、むしろはじめて聞く言葉です。 こういうことを言いたかったのぢゃない(笑)Reading literacy is understanding, using and reflecting on written texts, 欧米人は、いきなり 「なんだよ reflecting て。どんなミーン なんだ? お前知ってるか?」状態だと思います。 日本人は、 「熟考」 あるいは「内省」「反省」とかかれていてさえも、 それで納得してしまいます。 日本語文章を、解釈するコストは非常に大きいのです。読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する力である。 文章全体を解釈するのに疲れて、 肝心なところで、 疑問に思うべきところに気がつけません。■わかりにくい! そりゃそうでしょう。 2つのことを同時に話しました。 「読解」という言葉の意味を追求する「具体」の話と その追求が上手くいかないという「抽象」の話を 同時にしているからです。 日本語が、抽象的に把握できる、文法になっていません。 その日本語に慣れ親しんで、 それを使って考えるので、 この記事を読むこと自体、具体に引っ張られます。 かといって、 抽象だけで、書いたとしても、 うまくいかないことを 牛頭は知っています。 具体に取り組みつつも、抽象的に考えることが、重要です。 英語は、まず抽象的に把握できる文法なので、 彼らの頭の中は、 具体に取り組みつつも、抽象的に考えることが、可能なのでしょう(全員が全員そうだという証拠はありませんが。そしてその弊害もたぶんあります)。 結論として 物事を正確に記述するツールとして、 日本語はポンコツである。 あくまで、愛着があって「ポンコツ」と呼ぶ。 ポンコツ自動車を、新型スポーツカーのように、扱ってはいけない。 ポンコツ車は、ポンコツであることを意識して、乗るものだ。