■太宰治『逆行』論⑤ 

 入り口は単純だった。

 くろんぼ→決闘→盗賊→蝶蝶

に並び替えればよかった。

 

 

■本文

 太宰治の『逆行』を、くろんぼ→決闘→盗賊→蝶蝶の順に並び替えたもの

 

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くろんぼ

 くろんぼは
檻おりの中にはいっていた。

檻の中は
一坪ほどのひろさであって、
まっくらい奥隅に、
丸太でつくられた
腰掛がひとつ置かれていた。

くろんぼは
そこに坐って、
刺繍ししゅうをしていた。

このような暗闇のなかで
どんな刺繍ができるものかと、
少年は抜けめのない紳士のように、
鼻の両わきへ
深い皺をきざみこませ
口まげてせせら
笑ったものである。

 日本チャリネが
くろんぼを
一匹つれて来た。

村は、どよめいた。

ひとを食うそうである。

まっかな角が生えている。
全身に花のかたちの
むらがある。

少年は、
まったくそれを
信じないのであった。
少年は思うのだ。

村のひとたちも
心から信じて
そんな噂うわさをしている
のではあるまい。

ふだんから
夢のない生活を
しているゆえ、
こんなときにこそ
勝手な伝説を作りあげ、
信じたふりして
酔っている
のにちがいない。

少年は
村のひとたちの
そんな安易な嘘を聞くたびごとに、
歯ぎしりをし耳を覆い、
飛んで彼の家へ
帰るのであった。

少年は
村のひとたちの噂話を
間抜けていると思うのだ。

なぜこのひとたちは、
もっとだいじなことがらを
話し合わないのであろう。
くろんぼは、
雌だそうではないか。

 チャリネの音楽隊は、
村のせまい道をねりあるき、
六十秒とたたぬうちに
村の隅から隅にまで
宣伝しつくすことができた。

一本道の両側に
三丁ほど
茅葺かやぶきの家が
立ちならんでいる
だけであったのである。

音楽隊は、
村のはずれに出てしまっても
あゆみをとめないで、
蛍の光の曲を
くりかえしくりかえし
奏しながら
菜の花畠のあいだを
ねってあるいて、
それから田植まっさいちゅうの田圃たんぼへ出て、
せまい畦道あぜみちを
一列にならんで進み、
村のひとたちを
ひとりも見のがすことなく
浮かれさせ
橋を渡って森を通り抜けて、
半里はなれた隣村にまで
行きついてしまった。

 村の東端に
小学校があり、
その小学校のさらに東隣りが
牧場であった。
牧場は
百坪ほどのひろさであって
オランダげんげが
敷きつめられ、
二匹の牛と
半ダアスの豚とが
遊んでいた。

チャリネは
この牧場に
鼠色したテントの
小屋をかけた。
牛と豚とは、
飼主の納屋に
移転したのである。

 夜、村のひとたちは
頬被ほおかむりして
二人三人ずつかたまって
テントのなかに
はいっていった。

六、七十人のお客であった。

少年は
大人たちを殴りつけては
押しのけ押しのけ、
最前列へ出た。

まるい舞台のぐるりに
張りめぐらされた
太いロオプに顎あごをのせかけて、
じっとしていた。

ときどき眼を
軽くつぶって、
うっとりしたふりをしていた。

 かるわざの曲目は
進行した。
樽たる。
メリヤス。
むちの音。
それから金襴きんらん。
痩せた老馬。
まのびた喝采。
カアバイト。
二十箇ほどのガス燈が
小屋のあちこちに
でたらめの間隔をおいて
吊つるされ、

夜の昆虫こんちゅうどもが
それにひらひら
からかっていた。

テントの布地が
足りなかったのであろう、

小屋の天井に
十坪ほどのおおきな穴が
あけっぱなしにされていて、
そこから
星空が見えるのだ。

 くろんぼの檻が、
ふたりの男に押されて
舞台へ出た。

檻の底に
車輪の脚がついているらしく
からからと音たてて
舞台へ滑り出たのである。

頬被りしたお客たちの
怒号と拍手。
少年は、
ものうげに眉をあげて
檻の中をしずかに
観察しはじめた。


 少年は、
せせら笑いの影を
顔から消した。

刺繍は
日の丸の旗で
あったのだ。

少年の心臓は、
とくとくと幽かすかな
音たてて鳴りはじめた。

兵隊やそのほか兵隊に
似かよったような概念
のためではない。

くろんぼが
少年をあざむかなかった
からである。

ほんとうに
刺繍をしていたのだ。

日の丸の刺繍は簡単であるから、
闇のなかで手さぐりしながら
でもできるのだ。
ありがたい。
このくろんぼは正直者だ。

 やがて、
燕尾服えんびふくを着た
仁丹の鬚ひげのある太夫たゆうが、
お客に彼女のあらましの
来歴を告げて、

それから、ケルリ、ケルリ、
と檻に向って二声叫び、
右手のむちを
小粋こいきに振った。

むちの音が
少年の胸を鋭く
つき刺した。

太夫に
嫉妬を感じたのである。
くろんぼは、
立ちあがった。


 むちの音に
おびやかされつつ、

くろんぼは
のろくさと二つ三つの芸をした。

それは
卑猥ひわいの芸であった。

少年を置いて
ほかのお客たちは
それを知らぬのだ。

ひとを食うか食わぬか。
まっかな角があるかないか。
そんなことだけが
問題であったのである。

 くろんぼのからだには、
青い藺いの
腰蓑こしみのがひとつ、
つけられていた。

油を塗りこくってあるらしく、
すみずみまで
つよく光っていた。

おわりに、
くろんぼは謡うたを
ひとくさり唄った。

伴奏は
太夫のむちの音であった。

シャアボン、シャアボンという
簡単な言葉である。

少年は、
その謡のひびき
を愛した。

どのようにぶざまな言葉でも、
せつない心がこもっておれば、
きっとひとを打つひびきが
出るものだ。
そう考えて、
またぐっと眼をつぶった。


 その夜、くろんぼを思い、
少年はみずからを汚した。

 翌朝、少年は登校した。
教室の窓を乗り越え、
背戸の小川を飛び越え、
チャリネのテント
めがけて走った。

テントのすきまから、
ほの暗い内部を
覗いたのである。

チャリネのひとたちは
舞台にいっぱい
蒲団ふとんを敷きちらし、
ごろごろと
芋虫いもむしのように
寝ていた。

学校の鐘が鳴りひびいた。
授業がはじまるのだ。
少年は、うごかなかった。

くろんぼは寝ていないのである。

さがしてもさがしても
見つからぬのである。
学校は、しんとなった。

授業がはじまったのであろう。

第二課、
アレキサンドル大王と医師フィリップ。

むかしヨーロッパに
アレキサンドル大王
という英雄があった。

少女の朗朗と
読みあげる声をはっきり聞いた。

少年は、うごかなかった。

少年は信じていた。
あのくろんぼは、
ただの女だ。
ふだんは檻から出て、
みんなと遊んでいるのに
ちがいない。

水仕事をしたり、
煙草をふかしたり、
日本語で怒ったり、
そんな女だ。

少女の朗読がおわり、
教師のだみ声が
聞えはじめた。

信頼は美徳であると思う。
アレキサンドル大王は
この美徳をもっていたがために、
一命をまっとうした
ようであります。
みなさん。

少年は、
まだうごかずにいた。
ここにいないわけはない。

檻は、
きっとからっぽの筈はずだ。

少年は肩を固くした。
こうして覗いているうちに、
くろんぼは、
こっそりおれのうしろにやって来て、
ぎゅっと肩を抱きしめる。

それゆえ背後にも油断をせず、
抱きしめられるに
恰好のいいように
肩を小さく固くしたのであった。

くろんぼは、
きっと刺繍した日の丸の旗を
くれるにちがいない。

そのときおれは、
弱味を見せず
こう言ってやる。

僕で幾人目だ。

 くろんぼは
現れなかった。
テントから離れ、
少年は着物の袖で
せまい額の汗を拭って、
のろのろと
学校へ引き返した。

熱が出たのです。
肺がわるいそうです。

袴はかまに編みあげの靴を
はいている男の老教師を、
まんまとだました。

自分の席についてからも、
少年は
ごほごほと贋にせの咳せきばらいに
むせかえった。


 村のひとたちの話に依れば、
くろんぼは、
やはり檻につめられたまま、
幌馬車ほろばしゃに
積みこまれ、
この村を去ったのである。

太夫は、
おのが身をまもるため、
ピストルを
ポケットに忍ばせていた。




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決闘

 それは外国の真似ではなかった。
誇張でなしに、
相手を殺したいと
願望したからである。

けれどもその動機は
深遠でなかった。

私とそっくりおなじ男がいて、
この世にひとつものが
ふたつ要らぬという心から
憎しみ合ったわけでもなければ、

その男が
私の妻の以前のいろであって、
いつもいつもその二度三度の事実を
こまかく自然主義ふうに
隣人どもへ言いふらして
歩いている
というわけでもなかった。

相手は、
私とその夜はじめてカフェで
落ち合ったばかりの、
犬の毛皮の胴着をつけた
若い百姓であった。
私はその男の酒を
盗んだのである。
それが動機であった。

 私は
北方の城下まちの高等学校の
生徒である。
遊ぶことが
好きなのである。

けれども金銭には
割にけちであった。

ふだん友人の煙草ばかりをふかし、
散髪をせず、
辛抱して五円の金がたまれば、
ひとりでこっそりまちへ出て
それを一銭のこさず使った。

一夜に、五円以上の金も使えなかったし、
五円以下の金も使えなかった。

しかも私は
その五円でもって、
つねに最大の効果を
収めていたようである。
私の貯めた粒粒の小金を、
まず友人の五円紙幣と
交換するのである。

手の切れるほど
あたらしい紙幣であれば、
私の心は
いっそう跳おどった。

私はそれを無雑作らしく
ポケットにねじこみ、
まちへ出掛けるのだ。

月に一度か二度のこの外出のために、
私は生きていたのである。

当時、
私は、わけの判らぬ憂愁に
いじめられていた。

絶対の孤独と
一切の懐疑。
口に出して言っては汚い!
 ニイチェやビロンや春夫よりも、
モオパスサンやメリメや鴎外のほうが
ほんものらしく思えた。

私は、
五円の遊びに
命を打ち込む。

 私がカフェにはいっても、
決して意気込んだ様子を
見せなかった。
遊び疲れたふうをした。

夏ならば、
冷いビールを、
と言った。

冬ならば、
熱い酒を、
と言った。

私が酒を呑むのも、
単に季節のせいだと
思わせたかった。

いやいやそうに
酒を噛かみくだしつつ、

私は美人の女給には
眼もくれなかった。

どこのカフェにも、
色気に乏しい慾気ばかりの
中年の女給が
ひとりばかりいるものであるが、

私はそのような女給にだけ
言葉をかけてやった。

おもにその日の
天候や物価について
話し合った。

私は、
神も気づかぬ素早さで、
呑みほした酒瓶さかびんの数を
勘定するのが上手であった。

テエブルに並べられた
ビイル瓶が六本になれば、
日本酒の徳利が十本になれば、
私は思い出したように
ふらっと立ちあがり、
お会計、
とひくく呟くのである。

五円を越えることは
なかった。

私は、
わざとほうぼうのポケットに
手をつっこんでみるのだ。

金の仕舞いどころを
忘れたつもりなのである。

いよいよおしまいに
かのズボンのポケットに
気がつくのであった。

私はポケットの中の右手を
しばらくもじもじさせる。

五六枚の紙幣を
えらんでいるかたちである。

ようやく、
私はいちまいの紙幣を
ポケットから抜きとり、

それを十円紙幣であるか
五円紙幣であるか
確かめてから、
女給に手渡すのである。
釣銭は、少いけれど、
と言って見むきもせず
全部くれてやった。

肩をすぼめ、
大股をつかって
カフェを出てしまって、

学校の寮につくまで
私はいちども振りかえらぬのである。

翌あくる日から、
また粒粒の小銭を
貯めにとりかかるのであった。


 決闘の夜、
私は「ひまわり」という
カフェにはいった。
私は
紺色の長いマントを
ひっかけ、
純白の革手袋を
はめていた。

私はひとつカフェに
つづけて二度は行かなかった。

きまって五円紙幣を出す
ということに
不審を持たれるのを
怖れたのである。

「ひまわり」への訪問は、
私にとって二月ぶりであった。

 そのころ
私のすがたに
どこやら似たところのある
異国の一青年が、
活動役者として
出世しかけていたので、
私も少しずつ
女の眼をひきはじめた。

私が
そのカフェの隅の倚子いすに坐ると、
そこの女給四人すべてが、
様様の着物を着て
私のテエブルのまえに立ち並んだ。

冬であった。
私は、熱い酒を、と言った。

そうしてさもさも寒そうに
首筋をすくめた。

活動役者との相似が、
直接私に
利益をもたらした。

年若いひとりの女給が、
私が黙っていても、
煙草をいっぽん
めぐんでくれたのである。

 「ひまわり」は
小さくてしかも汚い。

束髪を結った一尺に二尺くらいの
顔の女の
ぐったりと頬杖をつき、
くるみの実ほどの
大きな歯をむきだして
微笑ほほえんでいるポスタアが、
東側の壁に
いちまい貼られていた。

ポスタアの裾すそには
カブトビイルと
横に黒く印刷されてある。

それと向い合った
西側の壁には
一坪ばかりの鏡が
かけられていた。

鏡は金粉を塗った額縁に
収められているのである。

北側の入口には
赤と黒との縞しまのよごれた
モスリンのカアテンがかけられ、

そのうえの壁に、
沼のほとりの草原に
裸で寝ころんで
大笑いをしている
西洋の女の写真が
ピンでとめつけられていた。

南側の壁には、
紙の風船玉がひとつ、
くっついていた。

それがすぐ私の頭のうえに
あるのである。

腹の立つほど、
調和がなかった。

三つのテエブルと
十脚の椅子。

中央にストオヴ。
土間は板張りであった。
私はこのカフェでは、
とうてい落ちつけないことを
知っていた。
電気が暗いので、
まだしも幸いである。

 その夜、
私は異様な歓待を
受けた。

私が
その中年の女給に
酌をされて
熱い日本酒の最初の徳利を
からにしたころ、

さきに私に煙草を
いっぽんめぐんで呉れた
わかい女給が、
突然、
私の鼻先へ右のてのひらを
差し出したのである。

私はおどろかずに、
ゆっくり顔をあげて、
その女給の小さい瞳の奥を
のぞいた。

運命をうらなって呉れ、
と言うのである。

私はとっさのうちに
了解した。

たとえ私が黙っていても、
私のからだから予言者らしい
高い匂いが発するのだ。

私は女の手に触れず、
ちらと眼をくれ、
きのう愛人を失った、
と呟いた。

当ったのである。

そこで異様な歓待が
はじまった。

ひとりのふとった女給は、
私を先生とさえ呼んだ。

私は、みんなの手相を見てやった。
十九歳だ。
寅とらのとし生れだ。
よすぎる男を思って
苦労している。

薔薇ばらの花が好きだ。
君の家の犬は、
仔犬こいぬを産んだ。
仔犬の数は六。
ことごとく
当ったのである。

かの痩やせた、
眼のすずしい中年の女給は、
ふたりの亭主を失ったと言われて、
みるみる頸くびを
うなだれた。

この不思議の的中は、
みんなのうちで、
私をいちばん興奮させた。

すでに六本の徳利を
からにしていたのである。

このとき、
犬の毛皮の胴着をつけた
若い百姓が入口に
現われた。


 百姓は
私のテエブルのすぐ隣りのテエブルに、
こっちへ毛皮の背をむけて坐り、
ウイスキイと言った。
犬の毛皮の模様は、
ぶちであった。

この百姓の出現のために、
私のテエブルの有頂天は
一時さめた。
私はすでに六本の徳利を
からにしたことを、
ちくちく悔いはじめたのである。

もっともっと
酔いたかった。

こよいの歓喜を
さらにさらに誇張して
みたかったのである。

あと四本しか呑めぬ。

それでは足りない。
足りないのだ。
盗もう。
このウイスキイを盗もう。

女給たちは、
私が金銭のために盗むのでなく、
予言者らしい突飛な冗談と
見てとって、
かえって喝采かっさいを
送るだろう。

この百姓もまた、
酔いどれの悪ふざけとして
苦笑をもらすくらい
のところであろう。

盗め! 
私は手をのばし、
隣りのテエブルの
そのウイスキイのコップをとりあげ、
おちついて呑みほした。

喝采は起らなかった。

しずかになった。

百姓は私のほうをむいて
立ちあがった。
外へ出ろ。

そう言って、
入口のほうへ歩きはじめた。
私も、
にやにや笑いながら
百姓のあとについて歩いた。

金色の額縁におさめられてある鏡を
通りすがりにちらと覗のぞいた。

私は、
ゆったりした美丈夫であった。

鏡の奥底には、
一尺に二尺の
笑い顔が沈んでいた。

私は
心の平静を
とりもどした。
自信ありげに、
モスリンのカアテンを
ぱっとはじいた。

 THE HIMAWARI と
黄色いロオマ字が書かれてある
四角の軒燈の下で、
私たちは立ちどまった。
女給四人は、
薄暗い門口に
白い顔を四つ
浮かせていた。

 私たちは
次のような争論を
はじめたのである。
  ――あまり馬鹿にするなよ。
  ――馬鹿にしたのじゃない。
    甘えたのさ。
    いいじゃないか。
  ――おれは百姓だ。
    甘えられて、
    腹がたつ。

 私は
百姓の顔を
見直した。

短い角刈にした
小さい頭と、
うすい眉と、
一重瞼ひとえまぶたの
三白眼さんぱくがんと、
蒼黒あおぐろい皮膚
であった。

身丈は私より
確かに五寸は
ひくかった。
私は、
あくまで
茶化してしまおう
と思った。

 ――ウイスキイが呑みたかったのさ。
  おいしそうだったからな。
 ――おれだって呑みたかった。
  ウイスキイが惜しいのだ。
  それだけだ。
 ――君は正直だ。
  可愛い。
 ――生意気いうな。
  たかが学生じゃないか。
  つらにおしろいを
  ぬたくりやがって。
 ――ところが僕は、
  易者だということ
  になっている。
  予言者だよ。
  驚いたろう。
 ――酔ったふりなんかするな。
  手をついてあやまれ。
 ――僕を理解するには
  何よりも勇気が要る。
  いい言葉じゃないか。
  僕はフリイドリッヒ・ニイチェだ。

 私は
女給たちのとめて呉れるのを、
いまかいまかと待っていた。

女給たちはしかし、
そろって冷い顔して
私の殴られるのを待っていた。
そのうちに私は
殴られた。

右のこぶしが
横からぐんと
飛んで来たので、
私は首筋を
素早くすくめた。

十間ほど
ふっとんだ。

私の白線の帽子が
身がわりになって
呉れたのである。

私は微笑みつつ、
わざとゆっくり
その帽子を拾いに
歩きはじめた。

毎日毎日の
みぞれのために、

道はとろとろ
溶けていた。

しゃがんで、
泥にまみれた帽子を
拾ったとたんに、
私は逃げようと考えた。

五円たすかる。

別のところで、

もいちど呑むのだ。
私は二あし三あし
走った。

滑った。

仰向に
ひっくりかえった。

踏みつぶされた雨蛙あまがえるの姿に
似ていたようであった。

自身のぶざまが、

私を少し
立腹させたのである。

手袋も上衣もズボンも
それからマントも、
泥まみれになっている。

私はのろのろと
起きあがり、
頭をあげて
百姓のもとへ引返した。

百姓は、
女給たちに取りまかれ、
まもられていた。

誰ひとり味方がない。

その確信が
私の兇暴きょうぼうさを
呼びさましたのである。

 ――お礼をしたいのだ。

せせら笑って
そう言ってから、
私は手袋を脱ぎ捨て、
もっと高価なマントをさえ
泥のなかへかなぐり捨てた。

私は自身の
大時代なせりふと
みぶりにやや満足していた。
誰かとめて呉れ。

 百姓は、
もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、
それを
私に煙草をめぐんで呉れた美人の女給に手渡して、
それから懐のなかへ片手をいれた。

 ――汚い真似をするな。

 私は身構えて、
そう注意してやった。
懐から一本の銀笛が出た。
銀笛は軒燈の灯にきらきら反射した。
銀笛は
ふたりの亭主を失った中年の女給に
手渡された。

 百姓のこのよさが、
私を夢中にさせたのだ。
それは小説のうえでなく、
真実、
私はこの百姓を殺そうと思った。
 ――出ろ。

 そう叫んで、
私は百姓の向う臑ずねを
泥靴で力いっぱいに
蹴けあげた。

蹴たおして、
それから澄んだ三白眼を
くり抜く。
泥靴はむなしく
空を蹴ったのである。

私は
自身の不恰好ぶかっこう
に気づいた。
悲しく思った。
ほのあたたかいこぶしが、
私の左の眼から
大きい鼻にかけて
命中した。

眼からまっかな焔ほのおが
噴き出た。
私はそれを見た。
私はよろめいたふりをした。
右の耳朶みみたぶから
頬にかけてぴしゃっと
平手が命中した。

私は泥のなかに
両手をついた。
とっさのうちに
百姓の片脚を
がぶと噛んだ。
脚は固かった。
路傍の白楊は
こやなぎの杙くいであった。

私は泥にうつぶして、
いまこそおいおい
声をたてて
泣こう泣こう
とあせったけれど、
あわれ、
一滴の涙も出なかった。



 

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盗賊

 ことし落第ときまった。
それでも試験は
受けるのである。

甲斐かいない努力の
美しさ。

われは
その美に
心をひかれた。

今朝こそ
われは早く起き、
まったく一年ぶりで
学生服に腕をとおし、

菊花の御紋章かがやく
高い大きい鉄の門を
くぐった。

おそるおそる
くぐったのである。

すぐに
銀杏いちょうの並木
がある。

右側に十本、
左側にも十本、
いずれも巨木である。

葉の繁るころ、
この路は
うすぐらく、
地下道の
ようである。

いまは一枚の葉もない。

並木路のつきるところ、
正面に赤い化粧煉瓦れんがの
大建築物。

これは講堂である。

われはこの内部を
入学式のとき、
ただいちど見た。

寺院の如き
印象を受けた。
いまわれは、
この講堂の塔の
電気時計を
振り仰ぐ。

試験には、
まだ十五分の間があった。

探偵小説家の
父親の銅像に、
いつくしみの瞳を
そそぎつつ、
右手のだらだら坂を下り、
庭園に出たのである。

これは、むかし、
さるお大名のお庭であった。

池には
鯉と緋鯉ひごいとすっぽんが
いる。

五六年まえまでには、
ひとつがいの
鶴が遊んでいた。

いまでも、
この草むらには
蛇がいる。

雁や野鴨のがもの渡り鳥も、
この池で
その羽を休める。

庭園は、
ほんとうは二百坪にも足りない
ひろさなのであるが、
見たところ千坪ほどの
ひろさなのだ。

すぐれた造園術の
しかけである。

われは
池畔の熊笹のうえに
腰をおろし、

背を樫かしの古木の根株に
もたせ、
両脚をながながと
前方になげだした。

小径こみちをへだてて
大小凸凹の岩がならび、
そのかげから
ひろびろと池がひろがっている。

曇天の下の
池の面は
白く光り、
小波さざなみの皺しわを
くすぐったげに
畳んでいた。

右足を左足のうえに
軽くのせてから、
われは呟く。

――われは盗賊。
まえの小径を
大学生たちが一列に並んで通る。
ひきもきらず、
ぞろぞろと流れるように
通るのである。
いずれは、
ふるさとの自慢の子。
えらばれた秀才たち。
ノオトのおなじ文章を読み、
それをみんなみんなの大学生が、
一律に暗記しよう
と努めていた。
われは、
ポケットから
煙草を取りだし、
一本、
口にくわえた。

マッチがないのである。
――火を借して呉れ。


 ひとりの美男の
大学生をえらんで
声をかけてやった。

うすみどり色の
外套がいとうにくるまった、
その大学生は立ちどまり、
ノオトから眼をはなさず、
くわえていた
金口の煙草を
われに与えた。

与えてそのまま
のろのろと歩み去った。

大学にも
われに匹敵する男がある。

われはその金口の
外国煙草から
おのが安煙草に
火をうつして、
おもむろに立ちあがり、
金口の煙草を
力こめて地べたへ
投げ捨て靴の裏で
にくしみにくしみ
踏みにじった。

それから、
ゆったり試験場へ
現れたのである。



 試験場では、
百人にあまる大学生たちが、
すべてうしろへうしろへと
尻込みしていた。

前方の席に坐るならば、
思うがままに
答案を書けまいと
懸念しているのだ。

われは秀才らしく
最前列の席に腰をおろし、

少し指先をふるわせつつ
煙草をふかした。

われには机のしたで
調べるノオトもなければ、
互いに小声で相談し合う
ひとりの友人もないのである。

 やがて、
あから顔の教授が、
ふくらんだ鞄かばんを
ぶらさげて
あたふたと試験場へ
駈け込んで来た。

この男は、
日本一のフランス文学者
である。

われは、
きょうはじめて、
この男を見た。

なかなかの柄であって、
われは彼の眉間みけんの皺に
不覚ながら
威圧を感じた。

この男の弟子には、
日本一の詩人と
日本一の評論家が
いるそうな。

日本一の小説家、
われはそれを思い、
ひそかに頬を
ほてらせた。

教授が
ボオルドに
問題を書きなぐっている間に、

われの背後の大学生たちは、
学問の話でなく、
たいてい満州の景気の話を
囁ささやき合っている
のである。

ボオルドには、
フランス語が五六行。

教授は教壇の肘掛ひじかけ椅子に
だらしなく坐り、
さもさも不気嫌そうに
言い放った。

――こんな問題じゃ
落第したくてもできめえ。

 大学生たちは、
ひくく力なく笑った。
われも笑った。
教授はそれから
訳のわからぬ
フランス語を
二言三言つぶやき、
教壇の机のうえで
なにやら書きものを
始めたのである。

 われはフランス語を知らぬ。
どのような問題が出ても、
フロオベエルは
お坊ちゃんである、
と書くつもりでいた。

われはしばらく
思索にふけったふりをして
眼を軽くつぶったり
短い頭髪のふけを
払い落したり、
爪の色あいを
眺めたり
するのである。

やがて、
ペンを取りあげて
書きはじめた。

 ――フロオベエルはお坊ちゃんである。
弟子のモオパスサンは大人である。
芸術の美は所詮しょせん、
市民への奉仕の美である。

このかなしいあきらめを、
フロオベエルは知らなかったし
モオパスサンは知っていた。

フロオベエルはおのれの処女作、
聖アントワンヌの誘惑に対する
不評判の屈辱を
そそごうとして、
一生を棒にふった。

所謂いわゆる刳磔こたくの苦労をして、
一作、一作を書き終えるごとに、
世評はともあれ、
彼の屈辱の傷は
いよいよ激烈にうずき、
痛み、
彼の心の満たされぬ空洞が、
いよいよひろがり、
深まり、
そうして死んだのである。

傑作の幻影に
だまくらかされ、
永遠の美に魅せられ、
浮かされ、
とうとうひとりの近親はおろか、
自分自身をさえ
救うことができなんだ。

ボオドレエルこそは、
お坊ちゃん。以上。


 先生、
及第させて、
などとは
書かないのである。

二度くりかえして読み、
書き誤りを見出さず、
それから、
左手に
外套と帽子を持ち
右手にそのいちまいの答案を持って、
立ちあがった。

われのうしろの秀才は、
われの立ったために、
あわてふためいていた。

われの背こそは、
この男の防風林に
なっていたのだ。

ああ。
その兎に似た愛らしい
秀才の答案には、
新進作家の名前が
記されていたのである。

われはこの有名な新進作家の
狼狽ろうばいを
不憫ふびんに思いつつ、

かのじじむさげな教授に
意味ありげに一礼して、
おのが答案を提出した。

われはしずしずと試験場を、
出るが早いか
ころげ落ちるように
階段を駈け降りた。

 戸外へ出て、
わかい盗賊は、
うら悲しき思いをした。

この憂愁は何者だ。
どこからやって来やがった。

それでも、
外套の肩を張り
ぐんぐんと大股おおまたつかって
銀杏の並木に
はさまれたひろい砂利道を
歩きながら、
空腹のためだ、
と答えたのである。

二十九番教室の地下に、
大食堂がある。
われは、
そこへと歩をすすめた。


 空腹の大学生たちは、
地下室の大食堂からあふれ、
入口よりして長蛇の如き列をつくり、
地上にはみ出て、
列の尾の部分は、
銀杏の並木のあたりにまで
達していた。
ここでは、
十五銭でかなりの昼食が
得られるのである。
一丁ほどの長さであった。

 ――われは盗賊。
希代のすね者。
かつて芸術家は人を殺さぬ。
かつて芸術家はものを盗まぬ。
おのれ。ちゃちな小利巧の仲間。

 大学生たちを
どんどん押しのけ、
ようやく食堂の入口に
たどりつく。
入口には小さい貼紙はりがみがあって、
それには
こう書きしたためられていた。
 ――きょう、みなさまの食堂も、
はばかりながら創業満三箇年の日
をむかえました。
それを祝福する内意もあり、
わずかではございますが、
奉仕させていただきたく存じます。

 その奉仕の品品が、
入口の傍の硝子棚のなかに
飾られている。

赤い車海老くるまえびは
パセリの葉の蔭に憩い、
ゆで卵を半分に切った断面には、
青い寒天の「壽」という文字が
ハイカラにくずされて
画かれていた。

試みに、
食堂のなかを覗くと、
奉仕の品品の饗応きょうおうにあずかっている
大学生たちの黒い密林のなかを
白いエプロンかけた給仕の少女たちが、
くぐりぬけすりぬけして
ひらひら舞い飛んでいるのである。
ああ、天井には万国旗。

 大学の地下に匂う青い花、
こそばゆい毒消しだ。
よき日に来合せたるもの哉かな。
ともに祝わむ。
ともに祝わむ。
 盗賊は
落葉の如くはらはらと退却し、
地上に舞いあがり、
長蛇のしっぽにからだをいれ、
みるみるすがたを
かき消した。





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蝶蝶

 老人では
なかった。

二十五歳を越した
だけであった。

けれどもやはり
老人であった。
ふつうの人の一年一年を、
この老人は
たっぷり三倍三倍にして
暮したのである。

二度、自殺を
し損った。
そのうちの一度は
情死であった。

三度、留置場に
ぶちこまれた。
思想の罪人として
であった。
ついに一篇も
売れなかったけれど、
百篇にあまる小説を
書いた。

しかし、
それはいずれも
この老人の本気で
した仕業ではなかった。

謂いわば
道草であった。

いまだに
この老人の
ひしがれた胸を
とくとく打ち鳴らし、

そのこけた頬を
あからめさせるのは、
酔いどれることと、
ちがった女を
眺めながら
あくなき空想を
めぐらすことと、
二つであった。

いや、
その二つの思い出
である。

ひしがれた胸、
こけた頬、
それは
嘘うそでなかった。

老人は、
この日に
死んだのである。

老人の永い生涯に於いて、
嘘でなかったのは、
生れたことと、
死んだことと、
二つであった。

死ぬる間際まで
嘘を吐ついていた。


 老人は今、
病床にある。

遊びから受けた
病気であった。

老人には
暮しに困らぬほどの
財産があった。

けれどもそれは、
遊びあるくのには
足りない財産であった。

老人は、
いま死ぬることを
残念である
とは思わなかった。

ほそぼそとした暮しは、
老人には
理解できないのである。



 ふつうの人間は
臨終ちかくなると、
おのれの両のてのひらを
まじまじと眺めたり、
近親の瞳ひとみを
ぼんやり見あげている
ものであるが、

この老人は、
たいてい眼をつぶっていた。

ぎゅっと固く
つぶってみたり、

ゆるくあけて
瞼まぶたを
ぷるぷる
そよがせてみたり、

おとなしく
そんなことを
しているだけなのである。

蝶蝶が
見えるというのであった。

青い蝶や、
黒い蝶や、
白い蝶や、
黄色い蝶や、
むらさきの蝶や、
水色の蝶や、
数千数万の
蝶蝶が
すぐ額のうえを
いっぱいに
むれ飛んでいる
というのであった。

わざと
そういうのであった。

十里とおくは
蝶の霞かすみ。

百万の羽ばたきの音は、
真昼のあぶの唸うなり
に似ていた。

これは
合戦をしている
のであろう。

翼の粉末が、
折れた脚が、
眼玉が、
触角が、
長い舌が、
降るように落ちる。


 食べたいものは、
なんでも、
と言われて、
あずきかゆ、
と答えた。

老人が十八歳で
始めて小説というものを
書いたとき、

臨終の老人が、
あずきかゆ、
を食べたいと呟つぶやく
ところの描写を
なしたことがある。


 あずきかゆは
作られた。

それは、
お粥かゆに
ゆで小豆を散らして、
塩で風味をつけた
ものであった。

老人の田舎の
ごちそうであった。

眼をつぶって
仰向のまま、
二匙さじすすると、
もういい、
と言った。

ほかになにか、と問われ、
うす笑いして、
遊びたい、
と答えた。

老人の、
ひとのよい
無学ではあるが
利巧な、
若く美しい妻は、
居並ぶ近親たちの手前、
嫉妬しっとでなく
頬をあからめ、
それから匙を握ったまま
声しのばせて
泣いたという。