■本作の問題点

、問題は、2点あります。

・「れげんだ・おうれあ」という架空の書物を持ち出した点。
・「ろおれんぞ」について、少年なのか女なのか 地の文で嘘を書いている点。

前者は、
多くの人を混乱させ、
多くの時間を無駄にした
意味で、問題があります。


後者は、たぶん
物語を書く技術上での問題があります。

地の文に嘘があると、
読者は何を信じたらいいのかわからなくなります。
後から書いただけで本当だという、合理的な根拠はありません。
「ろおれんぞ」の場合、
他の登場人物も気づいているのならともかく、
女だと言っているのは、語り手だけなので、
さらに始末が悪いです。

下手をすると、しめおん や 傘張の娘の 人物像さえ怪しくなります。


この2つの問題は、いかの解釈によって、解決されます。
 

 

 

■牛頭の解釈

 以下Q&A形式で、牛頭の解釈を述べます。

Q:『奉教人の死』の登場人物は何人か?
A:1人です。


Q:『奉教人の死』の時代はいつか?
A:大正時代の現代です。


Q:『奉教人の死』の舞台はどこか?
A:たぶん東京でしょう。長崎ではないです。


Q:『奉教人の死』の主人公は誰か?
A:自分を「予」と呼ぶ、自己放漫で未熟な人。
  名前は明らかにされていません。
  作品の未熟さから言って、プロの作家ではありません。
  もちろん芥川龍之介ではありません。


Q:『奉教人の死』は何人称小説か?
A:一人称小説。


Q:『奉教人の死』は作者は?
A:芥川龍之介。印税を受け取る権利は芥川龍之介にあります。


Q:『奉教人の死』は書き手は?
A:自分を「予」という人


Q:『奉教人の死』の主人公は?
A:自分を「予」という人


Q:「れげんだ・おうれあ」とは?
A:予という人が所蔵している書物。
  予という人は「れげんだ・おうれあ」を持っていて、愛読しています。
  予という人は嘘をついていません。
  「れげんだ・おうれあ」は作品内に実在しています。


Q:二章は何なのか?
A:予という人の、私小説。


Q:一章は何なのか?
A:予という人が、
  所蔵している「れげんだ・おうれあ」を元案に書いた
  三文小説。


Q:地の文で虚偽を書いて良いのか?
A:良いも悪いも、
  予という人が、
  マナーも知らず
  そういう三文小説を書いたのだから、
  仕方ありません。


Q:一章の読みにくさの意図は?
A:予という人が、この文章がカッコイイと思ってるらしい。
  もちろん、これを美文と感じるのは自由です。


Q:ろおれんぞ について?
A:単なる聖人でしょう。予という人が書いた都合のいい聖人。
  「水戸黄門」でいうと黄門さまみたいな人。


Q:しめおん について?
A:予という人が書いた都合のいいクソ野郎。
  「水戸黄門」でいうと悪代官みたいな人。


Q:傘張の娘 について?
A:予という人が書いた都合のいい不幸な娘
  「水戸黄門」でいうと悪代官に「あーれーー」と乱暴される村娘みたいな人。


Q:そのほかの登場人物について?
A:予という人が書いた都合のいい間抜けな世間


Q:タイトル『奉教人の死』の意味は?
A:「胸の大きい ろおれんぞ の死」
  「豊胸人の死」
  ダジャレですね。


Q:「れげんだ・おうれあ」について もう少し
A:予という人が、
  つかまされた贋書(まがい物 ニセモノ)。

  表紙には、
  西暦 1596年 慶長元年二月/五月と書かれているけど、そんな年はありえない。
  識者が、その点を指摘して、
  芥川はいわれるままに訂正したけど
  西暦 1596年 慶長二年もありえない。
  贋書(まがい物 ニセモノ)には変わりない。


Q:本作を読んで思い浮かべる情景は?
A:高価そうなコレクションに埋め尽くされた書斎で、
  表紙の文言さえ怪しい「れげんだ・おうれあ」の上下2巻と
  それを元にほぼ丸写しした「奉教人の死」と題する三文小説を
  机の上に置いて、
  誇らしげに「予は」「予は」と、
  腕組みして能書きを述べる
  自称小説家のジイさん。


Q:本作における芸術とは?
A:芥川が言う芸術の定義は、
  「表現物と、
   鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、
   精神的・感覚的な変動を得ようとする活動」
  だと思われます。

  テクストは単なる文字の並びであって、
  精神的・感覚的な変動があるのは、【読者の側】だけです。
  芥川はずっと昔に亡くなっているので、精神的活動は読者にしかありません。
  存命中であっても、目の前に存在するものは文字の並びだけです。

  「れげんだ・おうれあ」が実在するのか/しないのか、
  表紙の年の表記は、間違っているのかどうか、
  地の文に嘘があっていけないのか/いいのか、
  原文のかっこ平仮名を、カタカナに書き直すとか、
  二章の古文を訳してみるとか、

  最後の一分の古文を正しく読めるかどうか、
  いずれも
  読者の側の精神的活動です。

  芥川は、
  自分の文章の美しさを誇っている わけでもなく、
  自分の知識をひけらかしている のでもなく、
  一部の識者の指摘に応ずる わけでもなく、
  現実の自分を表現したい わけでもない。
  私小説などとんでもない。


  自分の書いたテクストと、読者が交流することを
  望んでいます。

  当時の知識人の指摘や批判にも、即答で受け流します。

  知ったかの知識人を、からかっているとも言えますが、
  牛頭は、やんちゃな26歳若手の作家だと思います。



Q:志賀直哉に批判されて返した返答で、省略されていた主語とは?
A:「あなたは」
  この逸話が残っているのは、
  堀辰雄は(志賀直哉も?)意味がわかっているのでしょう。