牛頭が2読して感じたのは、
ろおれんぞの聖人さ よりも
むしろ
しおめんのクソ野郎さ だった。
ろおれんぞがどんなに聖人であっても、結局は作者が作ったものであり、その行いに敬意を感じることはない。所詮は作られたものという割り切りがある。
むしろ気になるのは。
語り手を含めて多くの登場人物が気づいていない しおめんのクソ野郎さだった。
また、傘張の娘も、改心していそうで、そうでもないような気がする。
ろおれんぞが、それでも深くしおめんを愛していた、とも思えない。
牛頭がそう感じるのは、牛頭の勝手な感想であることは、承知している。
その感想を客観的な説明として【行えるかどうか】が、最近の牛頭の興味になっている。
しかし『奉教人の死』を繰り返し読むのは、正直【精神衛生上悪影響】がある。
わかりやすく言えば。
読みにくい・しんどい・頭が重くなる・眠くなる・髪の毛がすべて抜ける(実話)。
これが、芥川龍之介固有の文章表現だとしたら、仕方がないのだろうけど。
同年の『蜘蛛の糸』では、そうではない(普通に大正時代の文章)。
ウィキペディアでは「安土桃山時代の京阪地方の話し言葉」だとしている。
芥川は、読者に対して読みにくいように、わざとこのような文章を書いている。
牛頭は「自分の感想が妥当なものか」確かめたい。
しかし『奉教人の死』の文章は毒を含んでいる。
しかも、その先にあるものはなんだろう。
「しおめんのクソ野郎さ」の再確認か?
だから『奉教人の死』は、それ以上期待がなくて、放り出していた。
■3読目の入り口
今週に入ってから、ふと、3読目の入り口を、思いついた。
本作が読みにくい原因は、
「」かっこで括られた平仮名 用語で
書かれているから。
「」かっこで括られた平仮名 用語を
カタカナに
機械的に置き換えれば、
作品を、ストレスなく読めるのではないかな。
ということで次回は、牛頭翻訳版『奉教人の死』