作中に書かれている、かっこ付きの平仮名語。
「ろおれんぞ」「しめおん」「さんた・るちあ」「ぐろおりや」「いるまん」「ぜんちよ」「でうす」「こんたつ」「ぜす・きりしと」などなど。
 これらをすべてカタカナあるいは漢字に置き換えてみました。



 これで、ストレスなく読めるようになったと、思えます。
 ローレンゾが、シメオンが、傘張の娘が、その他の登場人物が、語り手が、実際にどうだったのかが、把握できるのではないでしょうか。
 

 

■置き換え版 奉教人の死

 


たとえ三百歳の齢を保ち、
楽しみ身に余ると云ふとも、
未来永々の果しなき楽しみに比ぶれば、
夢幻の如し。
―慶長訳 Guia do Pecador―

善の道に立ち入りたらん人は、
御教みをしへにこもる不可思議の甘味を
覚ゆべし。
―慶長訳 Imitatione Christi―





  去んぬる頃、
日本長崎のサンタ・ルチアと申す寺院に、
ローレンゾと申すこの国の少年が
ござつた。

これは或年 御降誕の祭の夜、
その寺院の戸口に、
餓ゑ疲れてうち伏して居つたを、

参詣の奉教人衆が介抱し、
それより
バテレンの憐みにて、
寺中に養はれる事となったげで
ござるが、
何故か その身の素性を問へば、
故郷は天国 父の名はゼウス(天主)などと、
何時も事もなげな笑に紛らいて、
とんとまことは
明した事もござない。

なれど親の代から
異教徒(異教徒)の輩であらなんだ事だけは、
手くびにかけた
青玉の念珠を見ても、
知れたと申す。

されば
伴天連はじめ、
多くの法兄弟衆も、
よも怪しいものではござるまい
とおぼされて、
ねんごろに扶持して置かれたが、
その信心の堅固なは、
幼いにも似ず
長老衆が舌を捲くばかり
であつたれば、

一同も
ローレンゾは 天童の生れがわりであらうず
など申し、
いづくの生れ、
だれの子とも知れぬものを、
無下にめでいつくしんで居つたげ
でござる。



  して又
このローレンゾは、
顔かたちが 玉のやうに清らかであつたに、
声ざまも 女のやうに優しかつたれば、
一ひとしほ
人々のあはれみを惹いた
のでござらう。

中でも
この国の法兄弟にシメオンと申したは、
ローレンゾ
弟のやうにもてなし、
寺院の出入りにも、
必らず 仲よう手を組み合せて
居つた。

このシメオンは、
元さる大名に仕へた、
槍一すぢの家がらなもの
ぢや。

されば
身のたけも抜群なに、
性得の剛力であつたに由つて、
伴天連が
異教徒ばらの石瓦に
うたるるを、
防いで進ぜた事も、
一度二度の沙汰
ではごさない。

それが
ローレンゾ
睦まじうするさまは、
とんと鳩になづむ荒鷲
のやうであつたとも
申さうか。

或は
レバノン山の檜に、
葡萄が纏ひついて、
花咲いたやうであつた
とも申さうず。



  さる程に
三年あまりの年月は、
流るるやうにすぎたに由つて、
ローレンゾはやがて
元服もすべき時節
となった。

したがその頃
怪しげな噂が伝はった
と申すは、

サンタ・ルチアから
遠からぬ町方の傘張の娘が、
ローレンゾと親しうする
と云ふ事ぢや。

この傘張の翁も
天主の御教を奉ずる人故、

ともども
寺院へは参る慣はし
であったに、

御祈の暇にも、

香炉をさげたローレンゾの姿から、
眼を離した
と申す事がござない。

まして
寺院への出入りには、
必ず髪かたちを美しうして、
ローレンゾのゐる方へ
眼づかひをするが定
であつた。

さればおのづと
奉教人衆の人目にも止り、

が行きずりに
ローレンゾの足を踏んだ
と云ひ出すものもあれば、
二人が艶書をとりかはす
をしかと見とどけたと申すものも、
出て来たげでござる。



  由つて
伴天連にも、
すて置かれず
思おぼされたのでござらう。

或日
ローレンゾを召されて、
白ひげを噛みながら、

  「その方、
  傘張の娘と兎角の噂ある由を聞いたが、
  よもや まことではあるまい。
  どうぢや」

と もの優しう尋ねられた。

したがローレンゾは、
唯 憂しげに
頭を振つて、

  「そのやうな事は
  一向に存じよう筈もござらぬ」

と、涙声に繰返すばかり故、
伴天達も
さすがに我を折られて、
年配と云ひ、
日頃の信心と云ひ、
かうまで申すものに
偽はあるまい
と思されたげでござる。



  さて一応
伴天連の疑ひは 晴れてぢやが、
サンタ・ルチアへ参る人々の間では、
容易に とかうの沙汰が
絶えさうもござない。

されば
兄弟同様にして居つた
シメオン
気がかりは、
又人一倍ぢや。

始は
かやうな淫らな事を、
ものものしう詮議立てするが、
おのれにも恥しうて、
うちつけに 尋ねようは 元より、
ローレンゾの顔さへ
まさかとは
見られぬ程であつたが、

或時サンタ・ルチアの後の庭で、
ローレンゾ
宛てたの艶書を
拾うたに由つて、

人気ない部屋にゐたを 
幸いはひ、
ローレンゾの前に
その文をつきつけて、
嚇おどしつ賺すかしつ、
さまざまに問ひただいた。


なれどローレンゾは唯、
美しい顔を赤らめて、
   「
  私に心を寄せましたげ
  でござれど、
  私は
  文を貰うたばかり、
  とんと口を利きいた事も
  ござらぬ」
と申す。

なれど
世間のそしりも ある事でござれば、
シメオン
猶なおも押して
問ひ詰なじつたに、

ローレンゾ
わびしげな眼で、
ぢつと相手を見つめた
と思へば、
  「私は
  お主ぬしにさへ、
  嘘をつきさうな人間に
  見えるさうな」
と、咎とがめるやうに云ひ放つて、
とんと燕か何ぞのやうに、
その儘つと
部屋を立つて行つてしまうた。

かう云はれて見れば、
シメオン
己の疑深かつたのが
恥しうもなつた
に由つて、
悄々すごすご その場を 去らうとしたに、

いきなり
駈けこんで来たは、
少年のローレンゾぢや。
それが
飛びつくやうに
シメオンの頸うなじを抱くと、
喘ぐやうに
  「私が悪かつた。
  許して下されい」
と囁ささやいて、

こなたが
一言も答へぬ間に、
涙に濡れた顔を隠さう為か、
相手をつきのけるやうに
身を開いて、
一散に又元来た方へ、
走つて往いんでしまうた
と申す。

されば
その「私が悪かつた」
と囁いたのも、

と密通したのが
悪かつたと云ふのやら、

或は
シメオンにつれなうしたのが悪かつた
と云ふのやら、
一円合点の致さうやうがなかつた
との事でござる。



  するとその後 間もなう
起つたのは、

その傘張の娘が孕みごもつた
と云ふ騒ぎぢや。

しかも
腹の子の父親は、
サンタ・ルチアのローレンゾぢやと、
正まさしう
父の前で
申したげでござる。

されば傘張の翁は
火のやうに憤いきどほつて、
即刻伴天連のもとへ
委細を訴へに参つた。

かうなる上はローレンゾも、
かつふつ云ひ訳の
致しやうがござない。

その日の中に
伴天連を始め、
法兄弟衆一同の
談合に由つて、
破門を
申し渡される
事になつた。

元より
破門の沙汰がある上は、
伴天連の手もとをも
追ひ払はれる事でござれば、

糊口のよすがに
困るのも目前ぢや。

したが かやうな罪人を、
この儘サンタ・ルチアに止めて置いては、
御主おんあるじの栄光にも
関かかはる事ゆゑ、
日頃親しう致いた人々も、
涙をのんでローレンゾを追ひ払つた
と申す事でござる。



  その中でも
哀れをとどめたは、
兄弟のやうにして居つたシメオン
の身の上ぢや。

これは
ローレンゾが追ひ出される
と云ふ悲しさよりも、
ローレンゾに欺かれた
と云ふ腹立たしさが一倍故、

あのいたいけな少年が、
折からの凩こがらしが吹く中へ、
しをしをと戸口を出かかつたに、
傍から拳こぶしをふるうて、

したたかその美しい顔を打つた。

ローレンゾ
剛力に打たれたに由つて、
思はずそこへ倒れたが、

やがて起きあがると、
涙ぐんだ眼で、
空を仰ぎながら、

  「御主も 許させ給へ。
  シメオンは、
  己おのが仕業もわきまへぬもの
  でござる」
と、
わななく声で祈つた
と申す事ぢや。

シメオン
これには気が挫けたのでござらう。
暫くは唯戸口に立つて、
拳を空くうにふるうて居つたが、

その外の法兄弟衆も、
いろいろと とりないたれば、
それを機会に手を束つかねて、

嵐も吹き出ようず空の如く、
凄すさまじく顔を曇らせながら、
悄々すごすごサンタ・ルチアの門を出る
ローレンゾの後姿を、
貪るやうにきつと見送つて居つた。

その時 居合はせた奉教人衆の
話を伝へ聞けば、
時しも
凩にゆらぐ日輪が、
うなだれて歩むローレンゾの頭のかなた、
長崎の西の空に沈まうず景色であつた
に由つて、
あの少年のやさしい姿は、
とんと一天の火焔の中に、
立ちきはまつたやうに見えたと申す。



  その後のローレンゾは、
サンタ・ルチアの内陣に
香炉をかざした昔とは
打つて変つて、

町はづれの非人小屋に
起き伏しする、
世にも哀れな乞食であつた。

まして その前身は、
異教徒の輩には
ゑとりのやうに さげしまるる、
天主の御教を 奉ずるものぢや。

されば町を行けば、
心ない童部に嘲あざけらるる
は元より、
刀杖瓦石の難に遭うた事も、
度々ござるげに聞き及んだ。

いや、
嘗かつては、
長崎の町にはびこつた、
恐しい熱病にとりつかれて、
七日七夜の間、
道ばたに伏しまろんでは、
苦み悶もだえたとも申す事でござる。

したが、
ゼウス無量無辺の御愛憐は、
その都度ローレンゾ
一命を救はせ給うたのみか、
施物の米銭のない折々には、
山の木の実、
海の魚介など、
その日の糧かてを恵ませ給ふのが常であつた。

由つて
ローレンゾも、
朝夕の祈はサンタ・ルチアに在つた昔を忘れず、
手くびにかけた念珠も、
青玉の色を変へなかつたと
申す事ぢや。

なんの、それのみか、
夜毎に更闌かうたけて
人音も静まる頃となれば、

この少年はひそかに
町はづれの非人小屋を脱け出いだいて、

月を踏んでは
住み馴れたサンタ・ルチアへ、
御主イエス・キリストの御加護を祈りまゐらせ
に詣でて居つた。






  なれど
同じ寺院に詣づる奉教人衆も、
その頃は とんとローレンゾを疎じはてて、
伴天連はじめ、
誰一人憐みをかくるものも
ござらなんだ。

ことわりかな、
破門の折から
所行無慚の少年と思ひこんで居つたに由つて、
何として夜毎に、
独り寺院へ参る程の、
信心ものぢやとは知られうぞ。

これもゼウス千万無量の御計らひの一つ故、
よしない儀とは申しながら、
ローレンゾが身にとつては、
いみじくも亦哀れな事でござつた。




  さる程に、
こなたはあの傘張の娘ぢや。
ローレンゾが破門されると間もなく、
月も満たず女の子を産み落いたが、

さすがに
かたくなしい父の翁も、
初孫の顔は憎からず
思うたのでござらう、

ともども大切に介抱して、
自ら抱きもしかかへもし、
時にはもてあそびの人形なども
とらせたと申す事でござる。

翁は元より
さもあらうずなれど、
ここに
稀有なは
法兄弟のシメオンぢや。

あの悪魔をも挫ひしがうず大男が、
に子が産まれるや否や、
暇ある毎に傘張の翁を訪れて、

無骨な腕に
幼子を抱き上げては、
にがにがしげな顔に涙を浮べて、
弟と愛いつくしんだ、
あえかなローレンゾの優姿を、
思ひ慕つて居つたと申す。

唯、
のみは、
サンタ・ルチアを出でてこの方、
絶えてローレンゾが姿を見せぬのを、
怨めしう歎きわびた気色けしきで
あつたれば、
シメオンの訪れるのさへ、
何かと快からず思ふげに見えた。



  この国の諺ことわざにも、
光陰に関守せきもりなし
と申す通り、
とかうする程に、
一年ひととせあまりの年月は、
瞬またたくひまに過ぎたと
思召おぼしめされい。

ここに思ひもよらぬ大変が起つた
と申すは、
一夜の中に長崎の町の半ばを焼き払つた、
あの大火事のあつた事ぢや。

まことにその折の景色の凄じさは、
末期の御裁判の喇叭の音が、
一天の火の光をつんざいて、
鳴り渡つたかと思はれるばかり、
世にも身の毛のよだつものでござつた。

その時、あの傘張の翁の家は、
運悪う風下にあつたに由つて、
見る見る焔に包れたが、

さて親子眷族、
慌てふためいて、
逃げ出いだいて見れば、
が産んだ女の子の姿が見えぬ
と云ふ始末ぢや。

一定、一間どころに寝かいて置いたを、
忘れてここまで逃げのびたのであらうず。

されば
翁は足ずりをして罵りわめく。
も亦、人に遮さへぎられずば、
火の中へも馳はせ入つて、
助け出さう気色けしきに見えた。

なれど風は益ますます加はつて、
焔の舌は天上の星をも焦さうず吼たけり
やうぢや。

それ故
火を救ひに集つた町方の人々も、
唯、あれよあれよと立ち騒いで、
狂気のやうなをとり鎮めるより外に、
せん方も亦あるまじい。

所へひとり、
多くの人を押しわけて、
馳かけつけて参つたは、
あの法兄弟のシメオンでござる。

これは矢玉の下もくぐつたげな、
逞しい大丈夫でござれば、
ありやうを見るより早く、
勇んで焔の中へ向うたが、
あまりの火勢に辟易へきえき致いた
のでござらう。

二三度煙をくぐつたと見る間に、
背そびらをめぐらして、
一散に逃げ出いた。


して翁ととが佇たたずんだ前へ来て、

  「これもゼウス万事に かなはせたまふ
  御計らひの一つぢや。
  詮ない事とあきらめられい」

と申す。

その時 翁の傍から、
誰とも知らず、
高らかに
  「御主、助け給へ」
と叫ぶものがござつた。

声ざまに聞き覚えもござれば、
シメオンが頭をめぐらして、
その声の主をきつと見れば、
いかな事、
これは紛まがひもないローレンゾぢや。

清らかに痩せ細つた顔は、
火の光に赤うかがやいて、
風に乱れる黒髪も、
肩に余るげに思はれたが、

哀れにも
美しい眉目みめのかたちは、
一目見てそれと知られた。

そのローレンゾが、
乞食の姿のまま、
群むらがる人々の前に立つて、
目もはなたず燃えさかる家を眺めて居る。

と思うたのは、
まことに瞬またたく間もない程ぢや。


一しきり焔を煽あふつて、
恐しい風が吹き渡つたと見れば、
ローレンゾの姿はまつしぐらに、
早くも火の柱、
火の壁、
火の梁うつばりの中に
はいつて居つた。

シメオンは思はず遍身に汗を流いて、
空高くクルス(十字)を描きながら、
己も
  「御主、助け給へ」
と叫んだが、

何故かその時 心の眼には、
凩こがらしに揺るる日輪の光を浴びて、
サンタ・ルチアの門に立ちきはまつた、
美しく悲しげな、
ローレンゾの姿が浮んだ
と申す。



  なれど
あたりに居つた奉教人衆は、
ローレンゾが健気な振舞に驚きながらも、
破戒の昔を忘れかねた
のでもござらう。

忽たちまち兎角の批判は風に乗つて、
人どよめきの上を渡つて参つた。

と申すは、
  「さすが親子の情あひは
  争はれぬものと見えた。
  己が身の罪を恥ぢて、
  このあたりへは影も見せなんだ
  ローレンゾが、
  今こそ一人子の命を救はうとて、
  火の中へはいつたぞよ」
と、
誰ともなく罵りかはしたのでござる。

これには
翁さへ同心と覚えて、
ローレンゾの姿を眺めてからは、
怪しい心の騒ぎを隠さうず為か、
立ちつ居つ身を悶えて、

何やら愚おろかしい事のみを、
声高こわだかわめいて居つた。

なれど
当のばかりは、
狂ほしく大地に跪ひざまづいて、
両の手で顔をうづめながら、
一心不乱に祈誓を凝こらいて、
身動きをする気色さへ
もござない。

その空には
火の粉が雨のやうに
降りかかる。
煙も地を掃はらつて、
面おもてを打つた。

したがは黙然と頭を垂れて、
身も世も忘れた祈り三昧ざんまいでござる。



  とかうする程に、
再び火の前に群つた人々が、
一度に どつと どよめくかと見れば、
髪をふり乱いたローレンゾが、
もろ手に幼子をかい抱いて、

乱れとぶ焔の中から、
天あまくだるやうに
姿を現あらはいた。

なれどその時、
燃え尽きた梁うつばりの一つが、
俄にはかに半ばから折れたのでござらう。

凄じい音と共に、
一なだれの煙焔が
半空に迸しつたと思ふ間もなく、

ローレンゾの姿は
はたと見えずなつて、
跡には唯火の柱が、
珊瑚の如くそば立つた
ばかりでござる。



  あまりの凶事に心も消えて、
シメオンをはじめ翁まで、
居あはせた程の奉教人衆は、
皆目の眩くらむ思ひ
がござつた。

中にもはけたたましう泣き叫んで、
一度は脛もあらはに躍り立つたが、

やがて雷に打たれた人のやうに、
そのまま大地にひれふした
と申す。

さもあらばあれ、
ひれふしたの手には、
何時かあの幼い女の子が、
生死不定の姿ながら、
ひしと抱かれて居つた
をいかにしようぞ。

ああ、
広大無辺なるゼウスの御知慧おんちゑ、
御力は、
何とたたへ奉る詞ことばだ
にござない。

燃え崩れる梁に打たれながら、
ローレンゾが必死の力をしぼつて、
こなたへ投げた幼子は、
折よくの足もとへ、
怪我もなくまろび落ちた
のでござる。



  されば
が大地にひれ伏して、
嬉し涙に咽むせんだ声と共に、
もろ手をさしあげて立つた翁の口からは、
ゼウスの御慈悲をほめ奉る声が、
自らおごそかに溢れて参つた。

いや、
まさに溢れようず けはひ であつた
とも申さうか。

それより先にシメオンは、
さかまく火の嵐の中へ、
ローレンゾを救はうず一念から、
真一文字に躍りこんだに由つて、
翁の声は 再び気づかはしげな、
いたましい祈りの言ことばとなつて、
夜空に高くあがつたのでござる。

これは元より翁のみではござない。
親子を囲んだ奉教人衆は、
皆一同に声を揃へて、
  「御主、助け給へ」
と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。

してビルゼン・マリヤの御子、
なべての人の苦しみと悲しみとを
己おのがものの如くに見そなはす、
われらが御主イエス・キリストは、
遂にこの祈りを聞き入れ給うた。

見られい。

むごたらしう焼けただれたローレンゾは、
シメオンが腕に抱かれて、
早くも火と煙とのただ中から、
救ひ出されて参つたではないか。



  なれど その夜の大変は、
これのみではござなんだ。

息も絶え絶えなローレンゾが、
とりあへず奉教人衆の手に舁かかれて、
風上にあつたあの寺院の門へ横へられた
時の事ぢや。

それまで幼子を胸に抱きしめて、
涙にくれてゐた傘張の娘は、
折から門へ出でられた伴天連の足もとに跪ひざまづくと、
並み居る人々の目前で、

  「この女子をなごは
  ローレンゾ様の種ではおぢやらぬ。

  まことは妾が
  家隣の異教徒の子と密通して、
  まうけた娘でおぢやるわいの」

と思ひもよらぬ懴悔を仕つかまつた。

その思ひつめた声ざまの震へと申し、
その泣きぬれた双の眼のかがやきと申し、
この懴悔には、
露ばかりの偽さへ、
あらうとは思はれ申さぬ。

道理ことわりかな、
肩を並べた奉教人衆は、
天を焦がす猛火も忘れて、
息さへつかぬやうに
声を呑んだ。



  が涙ををさめて、
申し次いだは、

  「妾は
  日頃ローレンゾ様を恋ひ慕うて居つたなれど、
  御信心の堅固さからあまりにつれなくもてなされる故、
  つい怨む心も出て、
  腹の子をローレンゾ様の種と申し偽り、
  妾につらかつた口惜しさを思ひ知らさう
  と致いたのでおぢやる。

  なれどローレンゾ様のお心の気高さは、
  妾が大罪をも憎ませ給はいで、
  今宵は御身の危さをもうち忘れ、

  インフェルノ(地獄)にもまがふ火焔の中から、
  妾娘の一命を辱かたじけなくも救はせ給うた。

  その御憐み、
  御計らひ、まことに
  御主イエス・キリストの再来か
  ともをがまれ申す。

  さるにても
  妾が重々の極悪を思へば、
  この五体は忽たちまち悪魔の爪にかかつて、

  寸々に裂かれようとも、
  中々怨む所はおぢやるまい。」


懴悔を致いも果てず、
大地に身を投げて泣き伏した。



  二重三重に群つた奉教人衆の間から、
殉教ぢや、殉教ぢやと云ふ声が、
波のやうに起つたのは、
丁度この時の事でござる。

殊勝にもローレンゾは、
罪人を憐む心から、
御主イエス・キリストの御行跡を踏んで、
乞食にまで身を落いた。

して
父と仰ぐ伴天連も、
兄とたのむシメオンも、
皆その心を知らなんだ。

これが殉教でなうて、
何でござらう。



  したが、
当のローレンゾは、
の懴悔を聞きながらも、
僅に二三度頷うなづいて見せたばかり、

髪は焼け肌は焦げて、
手も足も動かぬ上に、
口をきかう気色けしきさへも
今は全く尽きたげでござる。

の懴悔に胸を破つた翁とシメオンとは、
その枕がみに蹲うづくまつて、

何かと介抱を致いて居つたが、
ローレンゾの息は、
刻々に短うなつて、
最期も もはや遠くはあるまじい。

唯、日頃と変らぬのは、
遙に天上を仰いで居る、
星のやうな瞳の色ばかりぢや。



  やがての懴悔に耳をすまされた伴天連は、
吹き荒すさぶ夜風に白ひげをなびかせながら、

サンタ・ルチアの門を後にして、
おごそかに申されたは、

  「悔い改むるものは、幸さいはひぢや。

  何しにその幸なものを、
  人間の手に罰しようぞ。

  これより益ますます、
  ゼウスの御戒めを身にしめて、
  心静に末期の御裁判の日を待つたがよい。

  又
  ローレンゾがわが身の行儀を、
  御主ゼウス・キリストとひとしく奉らうず志は、
  この国の奉教人衆の中にあつても、
  類たぐひ稀なる徳行でござる。

  別して少年の身とは云ひ――」

ああ、
これは又何とした事でござらうぞ。

ここまで申された伴天連は、
俄にはかに はたと口を噤つぐんで、
あたかも天国の光を望んだやうに、
ぢつと足もとのローレンゾの姿を
見守られた。

その恭うやうやしげな容子は
どうぢや。

その両の手のふるへざまも、
尋常よのつねの事では
ござるまい。

おう、
伴天連のからびた頬の上には、
とめどなく涙が溢れ流れるぞよ。



  見られい。シメオン
見られい。傘張の翁。
御主イエス・キリストの御血潮よりも赤い、
火の光を一身に浴びて、
声もなくサンタ・ルチアの門に横はつた、
いみじくも美しい少年の胸には、
焦げ破れた衣ころものひまから、

清らかな二つの乳房が、
玉のやうに露あらはれて居るではないか。

今は焼けただれた面輪おもわにも、
自おのづからなやさしさは、
隠れようすべもあるまじい。

おう、ローレンゾは女ぢや。
ローレンゾは女ぢや。
見られい。


猛火を後にして、
垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、
邪淫の戒を破つたに由つて
サンタ・ルチアを逐おはれたローレンゾは、
傘張の娘と同じ、
眼まなざしのあでやかなこの国の女ぢや。



  まことにその刹那せつなの尊い恐しさは、
あたかもゼウスの御声が、
星の光も見えぬ遠い空から、
伝はつて来る
やうであつたと申す。

さればサンタ・ルチアの前に居並んだ奉教人衆は、
風に吹かれる穂麦のやうに、
誰からともなく頭を垂れて、
悉ことごとくローレンゾのまはりに
跪ひざまづいた。


その中で聞えるものは、
唯、空をどよもして燃えしきる、
万丈の焔の響ばかりでござる。

いや、
誰やらの啜すすり泣く声も聞えたが、
それは傘張の娘
でござらうか。

或は又自ら兄とも思うた、
あの法兄弟のシメオン
でござらうか。

やがて
その寂寞じやくまくたるあたりをふるはせて、

ローレンゾの上に高く手をかざしながら、
伴天連の御経を誦ずせられる声が、
おごそかに悲しく耳にはいつた。

して御経の声がやんだ時、
ローレンゾと呼ばれた、
この国のうら若い女は、
まだ暗い夜のあなたに、
天国の栄光を仰ぎ見て、
安らかなほほ笑みを唇に止めたまま、
静に息が絶えた
のでござる。……



 その女の一生は、
この外に何一つ知られなんだげ
に聞き及んだ。

なれどそれが、
何事でござらうぞ。

なべて
人の世の尊さは、
何ものにも換へ難い、
刹那の感動に極るものぢや。


暗夜の海にも譬たとへようず
煩悩心の空に一波をあげて、
未いまだ出ぬ月の光を、
水沫の中に捕へてこそ、
生きて甲斐ある命とも申さうず。

さればローレンゾが最期を知るものは、
ローレンゾの一生を知るものではござるまいか。





  予が所蔵に関る、
長崎耶蘇会出版の一書、
題してレゲンダ・オウレアと云ふ。

蓋けだし、LEGENDA AUREA の意なり。

されど内容は必しも、
西欧の所謂いはゆる「黄金伝説」ならず。

彼土の使徒聖人が言行を録すると共に、

併せて本邦西教徒が
勇猛精進の事蹟をも採録し、
以て福音伝道の一助たらしめんとせしものの如し。



  体裁は上下二巻、
美濃紙摺みのがみずり草体交さうたいまじり平仮名文にして、

印刷甚しく鮮明を欠き、
活字なりや否やを明にせず。

上巻の扉には、
羅甸ラテン字にて書名を横書し、
その下に漢字にて

「御出世以来千五百九十六年、慶長二年三月上旬鏤刻るこく也」
の二行を縦書す。

年代の左右には
喇叭らつぱを吹ける天使の画像あり。

技巧頗すこぶる幼稚なれども、
亦掬きくす可き趣致なしとせず。


下巻も扉に
「五月中旬鏤刻也」の
句あるを除いては、
全く上巻と異同なし。





  両巻とも
紙数は約六十頁にして、
載のする所の黄金伝説は、
上巻八章、下巻十章を数ふ。


その他
各巻の巻首に著者不明の序文

羅甸ラテン字を
加へたる目次あり。

序文は
文章雅馴がじゆんならずして、
間々まま欧文を直訳せる如き語法を交へ、
一見その伴天連たる西人の手になりしやを疑はしむ。



  以上採録したる「奉教人の死」は、
該がい
レゲンダ・オウレア
下巻第二章に依るものにして、
恐らくは当時長崎の一西教寺院に起りし、
事実の忠実なる記録ならんか。

但、
記事中の大火なるものは、
「長崎港草」以下諸書に徴するも、
その有無をすら明にせざるを以て、
事実の正確なる年代に至つては、
全くこれを決定するを得ず。



  予は「奉教人の死」に於て、

発表の必要上、
多少の文飾を敢あへてしたり。

もし原文の平易雅馴なる筆致にして、
甚しく毀損せらるる事なからんか、
予の幸甚とする所なり
と云爾しかいふ。