読んだり観たり聴いたりしたもの -167ページ目

オンエアバトル爆笑編/NHK総合

2005年2月19日放送分

さて、今回はちょっと特別な事をしてみよう。
芸人たちの芸が、TVで観てから1週間たってどこまで印象に残っているのか、チェックしてみようというのだ。(ただ、書くのを忘れていただけですがな…)

NON STYLE
しんにょう、しか覚えてない。多分そこしか笑うところがなかったのかも。書いていたら思い出してきた。10回クイズネタはいい加減飽きた。

南野やじ
人間には、思い出したい・理解したい、という知的な処理に対する根元的な欲求がある。欲求は満たされると快感をもたらす。なかなか思い出せない有名人の名前を考え続け、ついに思い出した時の快感を見よ。この原理を応用している。かも。
「ドラえもん」を漢字を使って表したパネルを出して一瞬場を止め、「…これは何だ?!」と思わず引きつけられた瞬間に「ドラえもん~」と解答が発せられる、あの間は絶妙だった。工夫がある。頑張って欲しい。

キャン×キャン
変な人がいました系ネタ。新聞勧誘員だったか。ネタの程度は低かった。

髭男爵
キャラクターは一瞬新鮮に見える。だが、ちょっと中途半端だ。生かし切れてないかも。コンビ名がこれなのに、片割れはヒゲもないし、納得しているのだろうか?
このバラはあなたより美しい、にはつい笑ってしまったが。この手のギャグ路線で行ったらどうだろうか。

18KIN
素直に面白かった。自殺しようとする人を止める事ができるか?というシチュエーションで、十分に観客を引き込むネタを演じていた。こういう雰囲気を醸せるところが芸だと思う。そこそこ売れていると思うのに頑張ってオンエアバトルに出ているところも感心だ。

NON STYLEに限らず、ワンパターンが多いと思う。
はいどーもー。がんばっていきましょー。イヤー小さい頃はいろいろな遊びをして楽しかったねー。どんな遊びをしてたん。ほんならちょっとやってみようか。
いい加減こればっか。もう飽きた。プロなら少しは工夫しろ。
早くビッグになってCMにでたいパターン。ドラマに出たいパターン。おまえのために戦隊物を考えてきたパターン。etc。パターンばっかり。

客を引き込める話芸の技術もないくせに、内容猿まねで笑えると思っているのか。ブームのためか、安易に芸人になろうとしているとしか思えない。才能もないし、努力するつもりもないのなら、どのみち消えるしかない。

学校や子供時代、TVネタばかりというのも見ていて虚しい。その芸人は、それだけしか世界を知らない、と言う事なのだから。

禁じられた死体の世界/布施英利

人間の死体を見た事があるだろうか。

この本ではまず死体と遺体の違いを述べている。近親者や知人などの身近な人物の亡骸を葬儀の際に見る事は多い。しかし、それは遺体である。またたとえ関係の薄い人であっても、葬儀という舞台空間の中に安置されたそれは、社会性というフィルターを通して、あくまで遺体としか感じられない。そうした社会性を排除した心の前に現れる物、それが人間という単なる動物の死体だ。

都市化が進んだ現代では、他の動物のものであっても、もともと死体そのものを見る事が少ない。あるとしたら交通事故の犠牲となった動物が多いだろうか。人間の死体は、カラスの死体並に、早急に社会の表舞台から連れ去られる仕組みができているので、ほとんど眼にする事はないのが現状だ。

この状況を、著者は危惧する。人間は、いつか、だれでも、100%、死ぬ。動物も、死ぬ。植物も、死ぬ。個体生命は、必ず死ぬ。この真理がぼやけてしまうからだ。

死を見つめる事は、とても理知的な行為だ。生半可な知性では、死は恐れるばかりで正視できない現実となる。それゆえ古代には宗教が発達し、また、死体を早急に処理する文化が生まれてきたのだと思う。しかし、ある偉人は彼の朋友について尋ねられてこう答えたという。「私の右肩に乗っている死神こそ、人生をもっとも実り多くしてくれる朋友だ」

幼い日、自分がいつか死ぬ、と言う事を初めて理解した夜、想像し得ないその死の瞬間の感覚と、それ以上に想像できないその後の自分の行方を案じて眠れなかった事を今でも覚えている。

死体を見つめる事は、死を見つめる事だ。そして真実の探求からは科学が生まれる。今こうして医療を受けられる現代の基盤は、切り刻まれた幾万の死体が支えているのだと思う。

近親者の葬儀に参列する事によって、何度も遺体は見てきた。しかしきれいに整えられた遺体は生前の人物そのものであったし、焼かれた遺骨は、その連続性を突然断ち切られた、まるで異質な物体であった。死体とはこの中間に位置する物だ。

私が初めてまじまじとじっくり人間の死体を見る事ができたのは、96年大阪であった、人体の不思議展というプラスティネーション標本の展示会でだった。
人間、つまり動物の構造の精緻さに驚いた。そして生きている動物とその死体のどうしようもないほどかけ離れてしまったその質感の違いにも驚いた。古代の人が「アニマ」の存在を想定せざるを得なかった気持ちが分かる。こうした違いは現代の日常ではほとんど眼にできない。

プラスティネーション処理された死体は、標本として様々な観察ができるよう切開されたり切断されたりしている。骨や肉、臓器がむき出しになっている様子は、非常に知的な興奮を与えはする物の、恐怖や嫌悪は全く感じなかった。しかし、ただ一カ所だけは違った。

プラスティネーション標本とは、組織の水分を樹脂で置換した標本である。腐敗せず、匂わず、吸湿もせず、ほとんど元の組織のままの色形を保つ事が可能な技術である。しかし、例えば眼球のようなほとんど水分で構成された組織は、完全に元のままと言う訳にはいかない。どうしても、しぼみ、変形し、黒ずんでしまう。そのため、多くの標本では、眼だけは義眼に代えてあった。

じっくりと内臓を観察してゆき、ゆっくりと頭を動かしてゆくと、ふと、その義眼と目が合ってしまう。

その瞬間、どうしても彼が、死体から遺体に変わってしまうのだ。彼がこっちを見つめているような気がしてくる。彼の人生を想像し始めてしまう。どうして死んだのだろう。何を思って標本になったのだろう。どんな気持ちだったのだろう…。

この展示会は大盛況で、多くの人が訪れたが、怖いとか気持ち悪いと言った感想はあまり聞かれなかったときく。私もそうだった。しかし、あの眼だけはなぜだか違和感を感じて、今でもその不思議な気持ちを覚えている。

著者も書いているが、本当に、死体はちっともこわくない。

著者はかつて深夜の研究室で一人で解剖を行って遅くなり、さてと帰る時、急に死者の傍らにいる事を意識して恐怖する事があったという。今にも起きあがってくるのではないか、という気がして仕方なくなるとか。しかし、そんなときは、死体を覆っているカバーをはねのけて、解剖途中の死体をじっと見る。すると、そこにあるのはさっきまで解剖していた、単なる死体のままで変わりなく、すっと恐怖心も霧散するという。死体は怖くない。怖いものは人間の想像のなかに棲んでいるのだと、著者は言う。これは非常に得心したエピソードだった。

人間には、もっと死を、そして死体を見つめ、考え、感じる事も必要だ。その入門には適当だと思う。

著者: 布施 英利
タイトル: 禁じられた死体の世界―東京大学・解剖学教室でぼくが出会ったもの

富豪刑事/ABC

第7回

今回はギャグ&恋モノ?あるいはドリフか。

盗まれた異国の至宝を取り戻せ!日本の名誉のために、そしてなにより鎌倉警部の首の皮をつなぐために!偽物を闇ルートで流せば犯人は自分の盗品が本物である事を証明するために、世界で只一人この「真実を見つめる肖像」を鑑定できる人物に接触するはず。しかし古美術品の裏ルートでは殺人事件も発生し…。と言う内容。

今回、富豪のキレはイマイチ。振る舞いもギャグ系が多く、それはそれで面白かったのではあるが、慣れもあって平民化著しい様相を呈してきた。おまけに恋愛色を強めてきたのは、この先の展開が不安だ。きちんと富豪の持つ隔絶感を保って欲しいと切に願う。

やっちゃんの瀬崎様は、なんだかよく分からないキャラクターになってきた。あの秘書はなぜ背後から襲っていたのだろうか。ともかく、やっちゃんが尺八で木刀を受け止めるのだが、いくらスローで見せたからって、腕がぶれすぎ。もう少し撮り方があるだろうに。惜しい。

番組の最後に、とうとう発売になった番組の主題歌CDプレゼントのお知らせがあったが、そのバックにさりげなく「真実を見つめる肖像」がおいてあったのが笑えた。こっちもプレゼントにしたら良かったのに。

新シルクロード「第2集 トルファン 灼熱の大画廊」/NHK総合

2005年2月20日放映

トルファンは豊かなオアシスの街だった。天山山地の南、火焔山(西遊記に登場するあの山)の南に広がる盆地だ。シルクロード天山南路の主要な中継地として古来栄えてきた。北方よりモンゴルの末裔が、東より漢民族が、そして西よりインド・ペルシャなど多数の民族がその地で拮抗し、そして融和してきた。

それを見事に表しているのが、ベゼクリク千仏洞にかつて存在し、今回取材班と龍谷大学、そして各国の協力で完成した、仏教美術の壁画たちであった。

もともとマニ教信であったトルファンの王族が、仏教の伝播とともに帰依し、11世紀頃に山裾に日干し煉瓦で作った巨大な回廊に一大仏教壁画を作り上げた。ベゼクリク千仏洞と呼ばれるその仏教美術の運命は、しかし悲壮であった。やがて到来する、偶像崇拝を禁ずるイスラムの波にさらされ、次々に破壊されていった。砂に埋もれ生き延びたわずかな壁画は、近代の列強探検隊が、その保存を名目に、(今キトラでやっているように)持ち帰ったのだ。

こうして世界中に分散した壁画の破片(失われた物も多い)から復元された「誓願図」と呼ばれる、釈迦の前世を描いた15枚の壁画は、その登場人物として多種多様な民族が登場している、という点において実に刮目すべき内容だった。

現代でもそうだ。トルファンの市街を行き交う人々は、多くの民族の面影が混じり合い融和していた。素晴らしいと思った。世界中がこのような融合を迎えた暁には、どれほどの数の難題が直ちに霧散する事だろうか。かつてこの地を訪れた古代中国の使者も同様な感想を書き残していたのが驚きでもあり、かつ残念でもあった。

火焔山を仰ぎ、世界でもっとも暑い地域の一つであるかの地ではあるが、とうとうと流れくる天山の雪解け水が育む豊かな緑が、それゆえ逆に際だって豊かさを感じさせるような気がした。豊かさとは決して量だけではかれる物ではなく、質ではかる物なのだろう。

このシリーズでは、25年前の旧シルクロードシリーズの同地域分の放送を、同日に続けて放送する、という粋な作りになっている。
これがめっぽう面白い。

確かに新シリーズは、映像も音楽も素晴らしい。しかし、旧の「探検記」然とした内容も捨てがたいのだ。また、25年の歳月を経て、変わるもの、変わらないものがよく分かる。同じ日に放送する事で、これらを見比べいろいろ思い返しながら想像して楽しむ事が容易にできるのだ。

たとえば、新ではベゼクリク千仏洞の壁画とその修復が主要なテーマであったが、旧では、壁画がはぎ取られた無惨さを「列強が奪った」旨さらりと述べるにとどめており、破壊からの保護という観点や、その列強に日本も入っている事などは語られない。

旧では取材班が「いる」が、新では取材班は「出てこない」。旧の、多分その場で思いついて撮影した、三蔵法師ご一行が往く、のシーンは特に目を引いた。きっと猪八戒役にはひょこひょこユーモラスに歩くよう演技指導したのだろう。ほほえましい。そうしたスタッフのロマンへの想いが胸を打つ。一方、新では、うってかわってずっとクレバーな印象である。どちらも捨てがたいので、こうして両方いっぺんに楽しむのが、多分正解なのだろう。

また次回も楽しみにしたい。

悪魔に仕える牧師/R・ドーキンス

ドーキンスの散文やエッセイをまとめた本。まだ前半しか読んでいないが、大変面白い。

ドーキンスの語り口は、多分、すごく好き嫌いが分かれると思う。自分にはかなりマッチする方だ。

自分は無神論者を自任する者だが、まるまる1章を当てた、彼の宗教に対する否定・嫌悪・敵意のこもった情熱あるれる文章には一瞬唖然とするほどだ。しかし、後味は悪くない。むしろ非常に好意を覚え同意とするところた。ただ、世の趨勢を思えば彼の身を案じずにはいられないのだが。
昔、喫煙は社会性を持った成人の営みであった。しかし、まず公共の場から閉め出され、もう数年すれば完全にプライベートな場所で行うマイナーな趣味の座に封じられるだろう。ドーキンスの言説を読んでいると、組織宗教もいずれこのような運命が待っているのではないかと想像するのを禁じ得ない。ただし、まだ100年ほどは掛かるのだろうが。
個人的には、宗教とは自転車の補助輪だと思っている。人間知性の発達上、それは欠かせない役割を担ってきた。ようやく世界を探索し始めた自意識にとっては、不可解な物ばかり存在する世界を何とか形だけでも理解しようとすれば、そこには神秘的な存在をとりあえず置いておくしかないからだ。しかし、もう不必要な存在ではないだろうか。ここ数百年の知性の蓄積によって、人間は、自分たちが必要とする程度において自分の世界を知り、行動し、制御できるようになってきている。もう人間は知能という自転車を乗りこなす事ができるのだ。逆に、今補助輪を外さなければ、一生補助輪なしでは自転車には乗れなくなってしまう危険さえある。

1点、日本の捕鯨に関するつまらないジョークが出てきて驚いた。誰かドーキンスに捕鯨の正確な現状を教えてやる必要があるようだ。

その他、ダブルスタンダードに関する話やミームなど、話題も多様で楽しめるお薦めの書籍だと言える。

著者: リチャード・ドーキンス, 垂水 雄二
タイトル: 悪魔に仕える牧師

知っていますか?日本の難民問題一問一答/アムネスティインターナショナル日本

子供や自分のような背景知識のない人向けの薄い解説本。
字も大きく、さくっと読める。

驚いたのが、難民の定義について。
国連の難民条約での定義によれば、
「人種、宗教、国籍、特定の社会集団への帰属、政治的意見などの理由から本国で迫害を受けている、あるいは迫害を受ける危険があるため、国外に逃れており、本国政府の保護を受ける事ができない人、あるいは保護を望まない人」
とされている。

つまり、自国内で迫害を受けている人は、難民ではないのだ。従って、自国外へ脱出している人でないと、この条約批准国でも救済の対象にならない訳だが、通常、正規の手続きを踏まずに外国へ入国すると不法入国とされる。日本の法律ではこのような不法滞在者や第3国を経由して入国した場合は、難民審査基準で落とされる。これが日本での難民認定が少ない理由の一つ(他には島国であるから、などもある)なのだが、迫害を受けている人には厳しい基準だ。脱出しても難民と見なしてもらえず、自国にいては難民ではないのだから。
こうして、難民条約から漏れている「国内避難民」が最近問題になっている。国内避難民への支援は、国連難民高等弁務官事務所が最近対象として活動を始めているという事だ。このほか、難民申請中や認定後の難民の苦労がよく分かる。比較的自由な日本にいては感じる事の少ない難民問題だが、世界には1600万人以上の広義の難民がいるという。

著者: アムネスティインターナショナル日本
タイトル: 知っていますか?日本の難民問題一問一答

富豪刑事/ABC

第6回

だんだん慣れてきました。

今回は死体を探せ!の巻。とあるお宮入りになりそうな失踪事件に突然のタレコミ。死体は建設前の高層オフィス街の地下に!建設後の今となっては掘り起こす術は無し。と言ったつかみ。

富豪刑事に振り回されるはずの一般刑事の皆さんも、鎌倉警部も、だんだん慣れてきた。視聴者もそう。こうした慣れは良い事なのか否か。
今回鎌倉警部は神戸の提案をすんなり受理してしまう。以前なら頭ごなしに拒否していたはず。それを署長の取りなしでしぶしぶ受け入れる、というパターンだったのに、今回は、あっさり。一般人警部としてのゆがんだ矜持はどうした。
また同僚の刑事も、神戸の富豪提案を遮って言い当てようとしたりと、富豪のパターンを受認したり予測する動きが認められるかもしれない。

富豪が受け入れられてきた萌芽なのか。
できたら最後まで徹底的に反発・分離してほしい様な気がする。丸く収めてしまっては面白くないだろう。

鎌倉警部、今回も良い味出していました。神戸も勝手に帰っていたのでOK。

ただ、ラストでの喜久右衛門はちょっと怒りすぎではないかな。また「親不孝者」とか言ってたけど、孫だ。きっとギャグなのだろう。しかし不浄財の処分は寄付ではなぜ駄目なのか。ともあれ来週も期待。

ののちゃん/いしいひさいち/朝日新聞

2005年2月13日朝刊

書籍/コミックか?というのは置いておいて。

全国紙をすべて読んでいる訳でも無し、新聞連載4コマ漫画について述べる知識はもとよりない。朝日の前は、中日新聞のほのぼの君だった。朝刊連載はそれだけしか知らない。サザエさんやカリアゲ君は床屋で単行本で読んだだけだ。にもかかわらず敢えて述べよう。いしいひさいちは、やっぱりすごい。

巨大な全国紙で連載する気負いやてらいは、まるで感じられない。それでいて保守的な小品というわけでもない。むしろ、その掲載場所を考えると前衛とすら感じられる。今日の作品はこうだ。

(1コマ目)ののちゃんがコタツに入ってゲームで遊んでいる。ト書き「せっかく買ったゲーム」
(2コマ目)ゲームを放り出し、うなだれるののちゃん。台詞「フウ」
(3コマ目)おばあさんが登場し、代わってプレイ。台詞「そんなにつまらんかったんかいな。どれどれ」
(4コマ目)ひっくり返るおばあさん。うなだれるののちゃん。

まず、定義と確認から。この世には、クソゲーと呼ばれる物がある。これは、極めて面白くないゲームの蔑称もしくは愛称としてゲーム好きの間で多用される言葉だ。今日の漫画では、ののちゃんの買ったゲームは、クソゲーだったわけだ。あまりにクソゲーだったために、おばあさんですら、驚きすぎてひっくり返った。これが漫画の骨子である。

何気なく読めば、それだけ?の漫画だ。しかし、よく考えてみるとすごい。

まず、「ゲーム」をテーマにした漫画が、全国の全世代の読者に通じるか、と言う問題がある。ののちゃんでは、以前からゲームがしばしば登場するが、これはファミコンが登場して早四半世紀を過ぎようかとしている現代では、ゲームは一般的な娯楽として浸透しているという作者の判断だろう。しかし、普通のゲーム世代なら「クソゲー」の存在は説明不要だが、そうでない世代には通じない。だからむしろ、ひっくり返るほどの衝撃を受けるほどのつまらないゲーム、と言う物が存在する事をこの漫画は極めてリアルに伝えている。もちろん、これは衰退期に入ってから質の低下が著しいゲーム業界への批判とも取れる。映画ずきな人が邦画業界を批判するように、ゲームずきな人はゲーム業界を批判するのは自然だ。しかし、全国紙の連載4コマでそれが行われた、という点が非常にエポックを感じさせる。

次に、漫画の細部を見てみよう。

例えば、絵画にしろ歌舞伎にしろ、正当に鑑賞し評価するには裏付けとなる膨大な知識が必要とされるのは常識だ。真に力のある芸術は万人に通じる、訳など無い。芸術が表現という名のコミュニケーションである以上、受け手に通じるか通じないかは、受け手の状態に依存するからだ。たとえ通じたとしても、受け手の程度に応じた分量のコミュニケーションに限定されるだろう。何の背景知識もない素人が、いきなり歌舞伎をみたって、ちんぷんかんぷんなのが当たり前だ。野球を知らない人は、ノーヒットノーラン達成なるかという中継を見ても、ミス多発の凡試合を見ても、違いが分からないだろう。

ゲームでも同じだ。
その正当性はさておき、クソゲーという評価を下すには下すなりの根拠が必要だ。ゲームをやり付けていない人には、それがクソゲーであると言う事が分からないだろう。ただ、なんだかよく分からないゲームだ、と思うだけだろう。だから、「なんだかよく分からなくてどこが面白いのか分からないゲーム」という感想と、「なんだこのクソゲーは!」という感想の間には、評価という姿勢において相当な隔たりがあるのだ。

ゲームを知らない人にクソゲーをプレイさせたら、数分プレイした後、小首をかしげて、「なんだかよく分からなくて、難しいね、これ」とコントローラを返すだろう。だが、明らかにおばあさんの反応はそれとは違う。ひっくり返っているのだ。これが評価の最大級の形でなくて何であろうか。

ここからもたらされる笑いを敢えて解剖してみると、次のような所だろう。

1)一般的にはゲームをしないと思われる老人であるおばあさんが、ののちゃんと同等にゲームの評価ができているというギャップ
2)一般的にはゲームの批評眼が弱いと思われる老人であるおばあさんにすら、通じてしまうほどの力量を持つクソゲーの存在
3)クソゲーをつかまされてしまう事はままある事だが、2)ほどのクソゲーを見抜けなかった自分に対するののちゃんの悔恨と自身への憐憫
4)1)~3)の内容のネタが、全国紙朝刊に掲載される驚愕

当然、文字にしてしまうと面白さも霧散するのでご容赦を。

それにしても、いしいひさいちは、すごいと思う。
以前衝撃を受けたのは、昨年の晩秋だと思うが、のぼると妖怪ヘビ少女の恋愛物を、「朝刊4コマで連載」していた時だ。ひょっとして内容に関してはいろいろ圧力もあるのかも知れないが、是非続きを描いて欲しい。

富豪刑事/ABC

第5回

OK牧場はがっくり。

今回はやくざとの渡り合い。2つの組の抗争が手打ちとなり、その手打ち式が焼畑署の管内で行われるとの情報が入った。ライバルに負けじと勢いで警戒監視を買って出てしまった鎌倉警部。

組長の殺人に、さらに無関係な殺人事件が絡んだため、警備ミスの鎌倉警部の首が飛びそうになるわけだが、ここの署には鑑識は居ないのでしょうか。いや、鑑識でなくとも、射線を見たらどこから撃ったかすぐ分かるでしょうに。というのはもちろんご愛敬ですが。

殺された組長の配下の若頭をガッツ石松がやっているのだが、それは良いのだけど、途中で台詞として、彼の十八番(?)のOK牧場が出てくるのだが、こういう世界観ぶちこわしの持ち込みギャグは絶対止めて欲しい。

今回は、脇役に面白い人が出ていました。若手漫才師のスピードワゴンの二人が、やくざの手下として取り調べを受けてました。最初集団でちらっと映った時に妻は気付いたみたいだけど、そのときは分からなかったな。

今回は、勝手に帰ってたので、満足です。

やっちゃんは先週辺りからギャグ味が増してきた。今日は剣山踏んでいた。

PS2/ファンタビジョン/SCE

近所のゲームショップが店じまいセールをやっていて、安かったので買ってきた。
確か、PS2第1弾ソフト。発売は2000年3月との事。

話題作が安かったので手を出しただけで、別段期待はしていなかったが、これがめっぽう面白かった。ゲーム内容はこうだ。

画面上に次々花火玉が上がってくる。花火玉は画面上のマーカーをアナログスティックを操作してキャッチボタンを押せばキャッチというロックオン状態にできる。花火玉には3色あって、同じ色の花火玉を連続3個以上キャッチした状態でフラッシュボタンを押すと、めでたく花火はきれいに爆発しポイントが加算される。フラッシュまでにもたもたしていて時間オーバーになると、花火玉は次々消えていってライフゲージが減ってしまう。キャッチは基本的には同色でしか続けられないが、ワイルドという、ジョーカー的な花火玉や、無色のアイテム花火玉を挟むと、違う色の花火玉を続けてキャッチできる。この状態でフラッシュすると、複数色の花火玉を一度に爆発できてポイントも高い。花火玉は、同色の花火の爆発火花に触れても誘爆する。一度に爆発した花火玉の数はチェインと呼ばれ、多くのチェインが続くとそれだけポイントが高い。フラッシュから2秒以内の次のフラッシュはチェインに含まれるので、上達すれば、何十何百とチェインをつないでいく事が可能だ。

自分が計算したとおりに花火玉をキャッチして、一気にフラッシュし、高得点を得られた時の爽快感が非常によい。一気に消す爽快感という、テトリスから連綿と続くパズルゲームの伝統を受け継いでいる。

最初はろくすっぽルールを理解せずに始め、ボタンをむやみに押しすぎて腕が筋肉痛になりかけて、難しいゲームだと思った。少し慣れたら全8面をクリアするのは割合簡単だった。しかし、スコアランキングでは、全面クリアでも5位にしか行かない。高得点を挙げる技が必要なのだ。逆に、全面クリアできるぐらいに慣れてくると、このゲームの面白さが分かってくる感じだ。

CMなどでの期待が大きかっただけに、PS2ソフトとして機能を使い切っていないと言うような批判も多いようだ。でも、ゲーム機の機能を使い切る必要など無い。当たり前だが、ゲームは面白いかどうかが重要なのであって、美しいグラフィックスやエフェクト、流麗なカメラワークなどは、おまけに過ぎない。花火のグラフィックスは確かに美しい。しかし、このゲームを楽しんでいる人なら誰でも、本当に美しいのは今自分が行った高度なフラッシュの技だ、と思っているに決まっている。ファンタビジョンはパズルゲームとして、十分に面白い秀作であり、そして、それだけで十分なのだ。

メーカー: ソニー・コンピュータエンタテインメント
タイトル: FANTAVISION