禁じられた死体の世界/布施英利
人間の死体を見た事があるだろうか。
この本ではまず死体と遺体の違いを述べている。近親者や知人などの身近な人物の亡骸を葬儀の際に見る事は多い。しかし、それは遺体である。またたとえ関係の薄い人であっても、葬儀という舞台空間の中に安置されたそれは、社会性というフィルターを通して、あくまで遺体としか感じられない。そうした社会性を排除した心の前に現れる物、それが人間という単なる動物の死体だ。
都市化が進んだ現代では、他の動物のものであっても、もともと死体そのものを見る事が少ない。あるとしたら交通事故の犠牲となった動物が多いだろうか。人間の死体は、カラスの死体並に、早急に社会の表舞台から連れ去られる仕組みができているので、ほとんど眼にする事はないのが現状だ。
この状況を、著者は危惧する。人間は、いつか、だれでも、100%、死ぬ。動物も、死ぬ。植物も、死ぬ。個体生命は、必ず死ぬ。この真理がぼやけてしまうからだ。
死を見つめる事は、とても理知的な行為だ。生半可な知性では、死は恐れるばかりで正視できない現実となる。それゆえ古代には宗教が発達し、また、死体を早急に処理する文化が生まれてきたのだと思う。しかし、ある偉人は彼の朋友について尋ねられてこう答えたという。「私の右肩に乗っている死神こそ、人生をもっとも実り多くしてくれる朋友だ」
幼い日、自分がいつか死ぬ、と言う事を初めて理解した夜、想像し得ないその死の瞬間の感覚と、それ以上に想像できないその後の自分の行方を案じて眠れなかった事を今でも覚えている。
死体を見つめる事は、死を見つめる事だ。そして真実の探求からは科学が生まれる。今こうして医療を受けられる現代の基盤は、切り刻まれた幾万の死体が支えているのだと思う。
近親者の葬儀に参列する事によって、何度も遺体は見てきた。しかしきれいに整えられた遺体は生前の人物そのものであったし、焼かれた遺骨は、その連続性を突然断ち切られた、まるで異質な物体であった。死体とはこの中間に位置する物だ。
私が初めてまじまじとじっくり人間の死体を見る事ができたのは、96年大阪であった、人体の不思議展というプラスティネーション標本の展示会でだった。
人間、つまり動物の構造の精緻さに驚いた。そして生きている動物とその死体のどうしようもないほどかけ離れてしまったその質感の違いにも驚いた。古代の人が「アニマ」の存在を想定せざるを得なかった気持ちが分かる。こうした違いは現代の日常ではほとんど眼にできない。
プラスティネーション処理された死体は、標本として様々な観察ができるよう切開されたり切断されたりしている。骨や肉、臓器がむき出しになっている様子は、非常に知的な興奮を与えはする物の、恐怖や嫌悪は全く感じなかった。しかし、ただ一カ所だけは違った。
プラスティネーション標本とは、組織の水分を樹脂で置換した標本である。腐敗せず、匂わず、吸湿もせず、ほとんど元の組織のままの色形を保つ事が可能な技術である。しかし、例えば眼球のようなほとんど水分で構成された組織は、完全に元のままと言う訳にはいかない。どうしても、しぼみ、変形し、黒ずんでしまう。そのため、多くの標本では、眼だけは義眼に代えてあった。
じっくりと内臓を観察してゆき、ゆっくりと頭を動かしてゆくと、ふと、その義眼と目が合ってしまう。
その瞬間、どうしても彼が、死体から遺体に変わってしまうのだ。彼がこっちを見つめているような気がしてくる。彼の人生を想像し始めてしまう。どうして死んだのだろう。何を思って標本になったのだろう。どんな気持ちだったのだろう…。
この展示会は大盛況で、多くの人が訪れたが、怖いとか気持ち悪いと言った感想はあまり聞かれなかったときく。私もそうだった。しかし、あの眼だけはなぜだか違和感を感じて、今でもその不思議な気持ちを覚えている。
著者も書いているが、本当に、死体はちっともこわくない。
著者はかつて深夜の研究室で一人で解剖を行って遅くなり、さてと帰る時、急に死者の傍らにいる事を意識して恐怖する事があったという。今にも起きあがってくるのではないか、という気がして仕方なくなるとか。しかし、そんなときは、死体を覆っているカバーをはねのけて、解剖途中の死体をじっと見る。すると、そこにあるのはさっきまで解剖していた、単なる死体のままで変わりなく、すっと恐怖心も霧散するという。死体は怖くない。怖いものは人間の想像のなかに棲んでいるのだと、著者は言う。これは非常に得心したエピソードだった。
人間には、もっと死を、そして死体を見つめ、考え、感じる事も必要だ。その入門には適当だと思う。
著者: 布施 英利
タイトル: 禁じられた死体の世界―東京大学・解剖学教室でぼくが出会ったもの
この本ではまず死体と遺体の違いを述べている。近親者や知人などの身近な人物の亡骸を葬儀の際に見る事は多い。しかし、それは遺体である。またたとえ関係の薄い人であっても、葬儀という舞台空間の中に安置されたそれは、社会性というフィルターを通して、あくまで遺体としか感じられない。そうした社会性を排除した心の前に現れる物、それが人間という単なる動物の死体だ。
都市化が進んだ現代では、他の動物のものであっても、もともと死体そのものを見る事が少ない。あるとしたら交通事故の犠牲となった動物が多いだろうか。人間の死体は、カラスの死体並に、早急に社会の表舞台から連れ去られる仕組みができているので、ほとんど眼にする事はないのが現状だ。
この状況を、著者は危惧する。人間は、いつか、だれでも、100%、死ぬ。動物も、死ぬ。植物も、死ぬ。個体生命は、必ず死ぬ。この真理がぼやけてしまうからだ。
死を見つめる事は、とても理知的な行為だ。生半可な知性では、死は恐れるばかりで正視できない現実となる。それゆえ古代には宗教が発達し、また、死体を早急に処理する文化が生まれてきたのだと思う。しかし、ある偉人は彼の朋友について尋ねられてこう答えたという。「私の右肩に乗っている死神こそ、人生をもっとも実り多くしてくれる朋友だ」
幼い日、自分がいつか死ぬ、と言う事を初めて理解した夜、想像し得ないその死の瞬間の感覚と、それ以上に想像できないその後の自分の行方を案じて眠れなかった事を今でも覚えている。
死体を見つめる事は、死を見つめる事だ。そして真実の探求からは科学が生まれる。今こうして医療を受けられる現代の基盤は、切り刻まれた幾万の死体が支えているのだと思う。
近親者の葬儀に参列する事によって、何度も遺体は見てきた。しかしきれいに整えられた遺体は生前の人物そのものであったし、焼かれた遺骨は、その連続性を突然断ち切られた、まるで異質な物体であった。死体とはこの中間に位置する物だ。
私が初めてまじまじとじっくり人間の死体を見る事ができたのは、96年大阪であった、人体の不思議展というプラスティネーション標本の展示会でだった。
人間、つまり動物の構造の精緻さに驚いた。そして生きている動物とその死体のどうしようもないほどかけ離れてしまったその質感の違いにも驚いた。古代の人が「アニマ」の存在を想定せざるを得なかった気持ちが分かる。こうした違いは現代の日常ではほとんど眼にできない。
プラスティネーション処理された死体は、標本として様々な観察ができるよう切開されたり切断されたりしている。骨や肉、臓器がむき出しになっている様子は、非常に知的な興奮を与えはする物の、恐怖や嫌悪は全く感じなかった。しかし、ただ一カ所だけは違った。
プラスティネーション標本とは、組織の水分を樹脂で置換した標本である。腐敗せず、匂わず、吸湿もせず、ほとんど元の組織のままの色形を保つ事が可能な技術である。しかし、例えば眼球のようなほとんど水分で構成された組織は、完全に元のままと言う訳にはいかない。どうしても、しぼみ、変形し、黒ずんでしまう。そのため、多くの標本では、眼だけは義眼に代えてあった。
じっくりと内臓を観察してゆき、ゆっくりと頭を動かしてゆくと、ふと、その義眼と目が合ってしまう。
その瞬間、どうしても彼が、死体から遺体に変わってしまうのだ。彼がこっちを見つめているような気がしてくる。彼の人生を想像し始めてしまう。どうして死んだのだろう。何を思って標本になったのだろう。どんな気持ちだったのだろう…。
この展示会は大盛況で、多くの人が訪れたが、怖いとか気持ち悪いと言った感想はあまり聞かれなかったときく。私もそうだった。しかし、あの眼だけはなぜだか違和感を感じて、今でもその不思議な気持ちを覚えている。
著者も書いているが、本当に、死体はちっともこわくない。
著者はかつて深夜の研究室で一人で解剖を行って遅くなり、さてと帰る時、急に死者の傍らにいる事を意識して恐怖する事があったという。今にも起きあがってくるのではないか、という気がして仕方なくなるとか。しかし、そんなときは、死体を覆っているカバーをはねのけて、解剖途中の死体をじっと見る。すると、そこにあるのはさっきまで解剖していた、単なる死体のままで変わりなく、すっと恐怖心も霧散するという。死体は怖くない。怖いものは人間の想像のなかに棲んでいるのだと、著者は言う。これは非常に得心したエピソードだった。
人間には、もっと死を、そして死体を見つめ、考え、感じる事も必要だ。その入門には適当だと思う。
著者: 布施 英利
タイトル: 禁じられた死体の世界―東京大学・解剖学教室でぼくが出会ったもの