忘れられた日本人/宮本常一
書評でえらく持ち上げられていたので図書館で借りてみた。
書評も単に高評価ということしか覚えていなかった為、返却期限が来てからどれどれと開いてみたら、民俗学のしかも古い書籍という事が分かり、げげっと一気に腰が引けた。
タイトルから、日系移民のノンフィクションなどを期待していたのだ。
この本は、昭和25年頃、民俗学者が僻地の村々を回り、老百姓からの見聞をまとめたものらしい。
古くさそうな、いかにもつまらなそうな本ではないか。
時間もないし読まずに返すかとも思ったが、とりあえず、最初だけもと読んでみた。
信じられないほど面白い。
一気に引き込まれて、夜を徹して読んでしまった。
この本の面白さには二重の構造がある。
まず一つは、この本が主に炙り出している、幕末~昭和初期頃の、辺鄙な農村漁村での、百姓や漁師その他地道に貧しく厳しい生活を営むただの人間達のスケッチの、見惚れるような再現性である。
貧しい土地での貧しい時代の話である。誰も生きるために必死で働いていた。朝はまだ暗いうちから起きだし、朝飯前から田畑に出て、日が暮れるまで鍬を振るう。時には明かりを灯しよっぴいて働く。家では家で牛を飼い、蚕を飼い、茶をもみ、縄を編む。
厳しい自然の中では一人では生きていけない。決して多くはない人数が、集落の中で顔を寄せ合い、肌を寄せ合い生きている。食い詰めた子供は里子に出し奉公に出し、学校など行くものは僅かだった。
働いて働いて働くだけだ。僅かな楽しみといえば、唄やおしゃべり、祭り、寄り合い、そして夜這いだ。
電気も水道ももちろん無い。車どころか道が悪く牛すら入ってこれない様な奥地もある。文字すら持たない人達の本当に質素な生活なのである。
決して礼賛すべき様な生活様式ではない。それが人間本来の生活だなどとは露ほども思わない。正直、真っ平ゴメンとしか言い様のない悲惨な暮らしである。
しかし、そうとしか生きられない、と腹を括った時の、汗を出し知恵を出し、何とかそこで生きていける人間というものの本来的に持つ逞しさ力強さに、そうして自らの生を生きる、生き切ってきた人間達から匂い立つ、言葉にはできない豊かな芳香に目が回るほどである。
「やっぱり世の中で一番えらいのが人間のようでごいす。」
作中に出てくるのは、連綿と生き続けてきた名もない人々に対する畏敬の念をこめた言葉である。
第二に、文学としての面白さである。
この本は学術的な民俗学伝承の記録である。にもかかわらず、一遍の文学として桁違いの光を放っている。
実際、ここ数年で読んだ小説の中ではダントツの面白さで、これに匹敵する魅力ある文章を書ける現役作家は、まずいないのではないかと思うほどだ。
当時は当然テープレコーダもなく、また人が喋っている時にノートを取る訳にも行かないので、作者は必死に話を聞いて記憶し、戻った後に夜を徹して書き記すことになる。そうして集めた膨大な資料から、エッセンスを抽出し、人物や暮らしの様子を自分が感じたまま余さず構築したものが本書になる。
その老人達の口調も話の内容も、説明の地の文も、生き生きとして躍動感に富み、また深い影の色をたたえた素晴らしい筆致なのである。
何度も書いているように、この本は民俗学の資料であり、フィクションではない。もちろんエンターテインメントなどではない。登場する人物もエピソードも実話である。
それでも、例え失礼に当たるとしても、ある意味これはファンタジーではないかと思った。
タイトルにあるように、これは、忘れられた人々の話である。
当時の博物学的な民俗学が相手にしなかったような、寒村の貧しい人々の日常を、人間が素朴に生きる姿そのままに切り取ったものである。ここに生きる人達は、今我々が江戸時代幕末の人々と聞いて普通に想像するような(例えばJINに出てくるような)、当時世界有数の人口と識字率を誇った巨大都市に住む、明るくそして封建的な市民では決してないのだ。
ほんの数十年前の話であるのに、現代からもそして知識上の過去の日本からも凄まじく隔絶するこれらの物語は、そのギャップ故にむしろ精緻なファンタジー小説としての趣が感じられるほどである。
作者は日本各地に取材したようであるが、この本に取り上げられた地域は主に西日本、特に四国や九州などが多い。
私の郷里である恵那も少しだけ登場したので、びっくりして何か嬉しいような恥ずかしいような変な気がした。
宮本常一
忘れられた日本人
書評も単に高評価ということしか覚えていなかった為、返却期限が来てからどれどれと開いてみたら、民俗学のしかも古い書籍という事が分かり、げげっと一気に腰が引けた。
タイトルから、日系移民のノンフィクションなどを期待していたのだ。
この本は、昭和25年頃、民俗学者が僻地の村々を回り、老百姓からの見聞をまとめたものらしい。
古くさそうな、いかにもつまらなそうな本ではないか。
時間もないし読まずに返すかとも思ったが、とりあえず、最初だけもと読んでみた。
信じられないほど面白い。
一気に引き込まれて、夜を徹して読んでしまった。
この本の面白さには二重の構造がある。
まず一つは、この本が主に炙り出している、幕末~昭和初期頃の、辺鄙な農村漁村での、百姓や漁師その他地道に貧しく厳しい生活を営むただの人間達のスケッチの、見惚れるような再現性である。
貧しい土地での貧しい時代の話である。誰も生きるために必死で働いていた。朝はまだ暗いうちから起きだし、朝飯前から田畑に出て、日が暮れるまで鍬を振るう。時には明かりを灯しよっぴいて働く。家では家で牛を飼い、蚕を飼い、茶をもみ、縄を編む。
厳しい自然の中では一人では生きていけない。決して多くはない人数が、集落の中で顔を寄せ合い、肌を寄せ合い生きている。食い詰めた子供は里子に出し奉公に出し、学校など行くものは僅かだった。
働いて働いて働くだけだ。僅かな楽しみといえば、唄やおしゃべり、祭り、寄り合い、そして夜這いだ。
電気も水道ももちろん無い。車どころか道が悪く牛すら入ってこれない様な奥地もある。文字すら持たない人達の本当に質素な生活なのである。
決して礼賛すべき様な生活様式ではない。それが人間本来の生活だなどとは露ほども思わない。正直、真っ平ゴメンとしか言い様のない悲惨な暮らしである。
しかし、そうとしか生きられない、と腹を括った時の、汗を出し知恵を出し、何とかそこで生きていける人間というものの本来的に持つ逞しさ力強さに、そうして自らの生を生きる、生き切ってきた人間達から匂い立つ、言葉にはできない豊かな芳香に目が回るほどである。
「やっぱり世の中で一番えらいのが人間のようでごいす。」
作中に出てくるのは、連綿と生き続けてきた名もない人々に対する畏敬の念をこめた言葉である。
第二に、文学としての面白さである。
この本は学術的な民俗学伝承の記録である。にもかかわらず、一遍の文学として桁違いの光を放っている。
実際、ここ数年で読んだ小説の中ではダントツの面白さで、これに匹敵する魅力ある文章を書ける現役作家は、まずいないのではないかと思うほどだ。
当時は当然テープレコーダもなく、また人が喋っている時にノートを取る訳にも行かないので、作者は必死に話を聞いて記憶し、戻った後に夜を徹して書き記すことになる。そうして集めた膨大な資料から、エッセンスを抽出し、人物や暮らしの様子を自分が感じたまま余さず構築したものが本書になる。
その老人達の口調も話の内容も、説明の地の文も、生き生きとして躍動感に富み、また深い影の色をたたえた素晴らしい筆致なのである。
何度も書いているように、この本は民俗学の資料であり、フィクションではない。もちろんエンターテインメントなどではない。登場する人物もエピソードも実話である。
それでも、例え失礼に当たるとしても、ある意味これはファンタジーではないかと思った。
タイトルにあるように、これは、忘れられた人々の話である。
当時の博物学的な民俗学が相手にしなかったような、寒村の貧しい人々の日常を、人間が素朴に生きる姿そのままに切り取ったものである。ここに生きる人達は、今我々が江戸時代幕末の人々と聞いて普通に想像するような(例えばJINに出てくるような)、当時世界有数の人口と識字率を誇った巨大都市に住む、明るくそして封建的な市民では決してないのだ。
ほんの数十年前の話であるのに、現代からもそして知識上の過去の日本からも凄まじく隔絶するこれらの物語は、そのギャップ故にむしろ精緻なファンタジー小説としての趣が感じられるほどである。
作者は日本各地に取材したようであるが、この本に取り上げられた地域は主に西日本、特に四国や九州などが多い。
私の郷里である恵那も少しだけ登場したので、びっくりして何か嬉しいような恥ずかしいような変な気がした。
くまのがっこう/あいはらひろゆき・あだちなみ
絵本である。
近頃仕事上で触れることが多いので、一度読んでおこうと妻が借りてきたものを一緒に読んだ。
山の上の熊の学校に寄宿舎から通う小熊12匹の話である。
11匹の男の子と女の子。
それぞれに名前の性格付けもされているらしいが、そんなもの見分けつくか!
と最初は思ったが、何度も見ていると、本が好きな奴、食いしんぼな奴、運動が得意な奴、親切な奴、と分かるようになってきて面白い。もちろんジャッキーは最初から分かる訳だが。
絵はまあまあ良いのだが、本文は短い上にイマイチか。
こういうのって原稿料とか印税の配分とかどうなるんだろうと考えずにはいられない。
あいはらひろゆき・あだちなみ
くまのがっこう
近頃仕事上で触れることが多いので、一度読んでおこうと妻が借りてきたものを一緒に読んだ。
山の上の熊の学校に寄宿舎から通う小熊12匹の話である。
11匹の男の子と女の子。
それぞれに名前の性格付けもされているらしいが、そんなもの見分けつくか!
と最初は思ったが、何度も見ていると、本が好きな奴、食いしんぼな奴、運動が得意な奴、親切な奴、と分かるようになってきて面白い。もちろんジャッキーは最初から分かる訳だが。
絵はまあまあ良いのだが、本文は短い上にイマイチか。
こういうのって原稿料とか印税の配分とかどうなるんだろうと考えずにはいられない。
DS/どこでもヨガ/コナミ
時々妻と一緒にプレイしている。
実は、自分でユーザープロフィールを作成してバリバリとプレイしてはいないので、あまり詳細は分からないのであるが、ソフトとしてはかなり手応えのある作りだと思う。
それは、とにかくヨガの実演時の指導が丁寧なのである。
コナミはスポーツクラブも運営しているので、多分そうしたノウハウをつぎ込んでいるのだろう。ポージングの際の、姿勢の説明の丁寧さもさることながら、その際の、意識的な指導が丁寧だと感じるのだ。
例えば、首を長く感じて、とか、眉の間を見つめて、など、感じたり見つめたりヨガの姿勢には影響がないような指示が入る。しかし、これが大違いなのである。
ただ漫然とポーズを行っているのと、筋肉の伸び、筋の張り、関節の曲がり、呼吸、意識、そうした自分の体の状態をじっくり感じながらポーズを行うのとでは、効果に天と地ほどの違いがある。
もちろん、動きや姿勢の説明も丁寧すぎるほど丁寧に音声で説明するので、小さなDSの画面を注視しなくてものびのびと動ける。もちろん画面ではきちんとモーション入力された3Dモデルが実際のポーズを取っているので、それで確認もできる。DSの良い所は、TV画面を向けないようなヨガの姿勢の際でも、DSを持ったり動かしたりしてポーズの最中に確認できる点だろう。
また、オートメニューでは、立位や座位などでちゃんとポーズをまとめてくれるので、スムーズに連続してヨガを行うことができる。
これでひとしきりヨガを行うと非常に充足感がある。充電した後、放電した感じ。最後のシャバ・アーサナではうつらうつらと心地よい眠気に引き込まれそうになる。
コナミ
どこでもヨガ
実は、自分でユーザープロフィールを作成してバリバリとプレイしてはいないので、あまり詳細は分からないのであるが、ソフトとしてはかなり手応えのある作りだと思う。
それは、とにかくヨガの実演時の指導が丁寧なのである。
コナミはスポーツクラブも運営しているので、多分そうしたノウハウをつぎ込んでいるのだろう。ポージングの際の、姿勢の説明の丁寧さもさることながら、その際の、意識的な指導が丁寧だと感じるのだ。
例えば、首を長く感じて、とか、眉の間を見つめて、など、感じたり見つめたりヨガの姿勢には影響がないような指示が入る。しかし、これが大違いなのである。
ただ漫然とポーズを行っているのと、筋肉の伸び、筋の張り、関節の曲がり、呼吸、意識、そうした自分の体の状態をじっくり感じながらポーズを行うのとでは、効果に天と地ほどの違いがある。
もちろん、動きや姿勢の説明も丁寧すぎるほど丁寧に音声で説明するので、小さなDSの画面を注視しなくてものびのびと動ける。もちろん画面ではきちんとモーション入力された3Dモデルが実際のポーズを取っているので、それで確認もできる。DSの良い所は、TV画面を向けないようなヨガの姿勢の際でも、DSを持ったり動かしたりしてポーズの最中に確認できる点だろう。
また、オートメニューでは、立位や座位などでちゃんとポーズをまとめてくれるので、スムーズに連続してヨガを行うことができる。
これでひとしきりヨガを行うと非常に充足感がある。充電した後、放電した感じ。最後のシャバ・アーサナではうつらうつらと心地よい眠気に引き込まれそうになる。
最高齢プロフェッショナルの教え/徳間書店取材班
80歳になっても、90歳100歳でも、現役としてバリバリと仕事をこなしている、各界の最高齢プロフェッショナル15人へのインタビューをまとめた本。
大きな字で話し言葉だからすいすい読める割に、金言の塊のようにずっしりと読み応えがあり、なにより、読後、心の奥に湧いてくる希望と勇気の光、人生礼賛の風が心地よい印象として残る本である。
私は自営業者なので、定年はない。厚生年金もない。一財産築き上げたならまだしも、そうで無ければ体が動く内は働いて稼がねば食っていけない身の上である。
また、趣味のゲームにしても、鈴木史郎や、すぎやまこういちなど高齢になってもバリバリと楽しんでいる人を見るにつけ、高齢になっても人生を楽しむための秘訣に興味が湧いた。
すぎやまこういちのゲーム本を読んだことがあるが、この人は根っからゲームが好きなんだと分かった。両親の教育の賜物である。戦時中、東京空襲が噂されるに及び、これはマズいと彼らが買い占めに走ったのは、食料品ではなく、麻雀パイであったという。
そんな折り、書評でこの本を見かけて、まさにうってつけと読んでみた訳だ。
年齢も仕事の分野も様々のプロフェッショナル達であるが、彼らの多くに共通するポイントがあるように思った。
まず、絶対的に仕事を楽しんでいる。とことん好きなのである。仕事=人生なのだ。
そして、この点は誤解されやすいと思うのでちゃんと書いておくが、彼らは才能があったから楽しめるしプロになれたんだろう、ハデな楽しそうな仕事だから高齢まで続けてるんだろう、と思ってはいけない。そうではない。
彼らには2パターンある。
まず、パイロットやピアニストのように、どうしてもその行為が好きで好きで、それさえできれば楽しくてしょうがない、というタイプ。この人達は、もちろん結果として才能があった訳だが、そもそも自分に才能があるかどうかなど、てんで気にしていない。そんなこと気にする暇もないぐらい、好きなことに食らいついていくのだ。生活するため、食うための仕事、などと考えていない。食えなくてもやるんだ、という気迫。
次に、なんでも楽しもう、というタイプ。
登場するプロの内には、最初その仕事を始めたばかりの時は、別に好きでも何でもなかった、という人も意外に多い。しかし、人生何でも楽しもうというポリシーで工夫を重ね、すると仕事が楽しくなって、今に至るのだ。楽しもうと思えば、仕事でも何でも、人生何でも楽しめるのだという達観。そして、自分自身の技能の向上や成長を楽しむだけではなく、仕事を通じて世の人達を楽しませること、喜んでもらえること、これこそが一番楽しいやり甲斐なんだという点は、どんな仕事にも共通して参考になる点だろう。
はっきり言って、肉体的にはお爺ちゃんお婆ちゃん達である(ジョッキーを除く)。
でも、インタビューを読んでいると、写真を意識しなければ、とてもそうは感じられない。まるで同世代のライバルのように感じてしまう。
各人とも現役最高齢というだけでなく偉大な業績を上げてきたプロである。
なのに、皆、90にも100にもなって、過去のことなど気にも留めてないのだ。
今これがやりたい。まだまだやりたいことが山のようにある。時間が足りない。自分の技能に満足したことは一度もない。もっと工夫できる。いつまでも続けていきたい。
プロになれた理由、現役最高齢の理由、そもそも健康で長生きできた理由をかいま見たように思う。
徳間書店取材班
最高齢プロフェッショナルの教え
大きな字で話し言葉だからすいすい読める割に、金言の塊のようにずっしりと読み応えがあり、なにより、読後、心の奥に湧いてくる希望と勇気の光、人生礼賛の風が心地よい印象として残る本である。
私は自営業者なので、定年はない。厚生年金もない。一財産築き上げたならまだしも、そうで無ければ体が動く内は働いて稼がねば食っていけない身の上である。
また、趣味のゲームにしても、鈴木史郎や、すぎやまこういちなど高齢になってもバリバリと楽しんでいる人を見るにつけ、高齢になっても人生を楽しむための秘訣に興味が湧いた。
すぎやまこういちのゲーム本を読んだことがあるが、この人は根っからゲームが好きなんだと分かった。両親の教育の賜物である。戦時中、東京空襲が噂されるに及び、これはマズいと彼らが買い占めに走ったのは、食料品ではなく、麻雀パイであったという。
そんな折り、書評でこの本を見かけて、まさにうってつけと読んでみた訳だ。
年齢も仕事の分野も様々のプロフェッショナル達であるが、彼らの多くに共通するポイントがあるように思った。
まず、絶対的に仕事を楽しんでいる。とことん好きなのである。仕事=人生なのだ。
そして、この点は誤解されやすいと思うのでちゃんと書いておくが、彼らは才能があったから楽しめるしプロになれたんだろう、ハデな楽しそうな仕事だから高齢まで続けてるんだろう、と思ってはいけない。そうではない。
彼らには2パターンある。
まず、パイロットやピアニストのように、どうしてもその行為が好きで好きで、それさえできれば楽しくてしょうがない、というタイプ。この人達は、もちろん結果として才能があった訳だが、そもそも自分に才能があるかどうかなど、てんで気にしていない。そんなこと気にする暇もないぐらい、好きなことに食らいついていくのだ。生活するため、食うための仕事、などと考えていない。食えなくてもやるんだ、という気迫。
次に、なんでも楽しもう、というタイプ。
登場するプロの内には、最初その仕事を始めたばかりの時は、別に好きでも何でもなかった、という人も意外に多い。しかし、人生何でも楽しもうというポリシーで工夫を重ね、すると仕事が楽しくなって、今に至るのだ。楽しもうと思えば、仕事でも何でも、人生何でも楽しめるのだという達観。そして、自分自身の技能の向上や成長を楽しむだけではなく、仕事を通じて世の人達を楽しませること、喜んでもらえること、これこそが一番楽しいやり甲斐なんだという点は、どんな仕事にも共通して参考になる点だろう。
はっきり言って、肉体的にはお爺ちゃんお婆ちゃん達である(ジョッキーを除く)。
でも、インタビューを読んでいると、写真を意識しなければ、とてもそうは感じられない。まるで同世代のライバルのように感じてしまう。
各人とも現役最高齢というだけでなく偉大な業績を上げてきたプロである。
なのに、皆、90にも100にもなって、過去のことなど気にも留めてないのだ。
今これがやりたい。まだまだやりたいことが山のようにある。時間が足りない。自分の技能に満足したことは一度もない。もっと工夫できる。いつまでも続けていきたい。
プロになれた理由、現役最高齢の理由、そもそも健康で長生きできた理由をかいま見たように思う。
ダカーポの文章上達講座 実用的な文章を上手に書く/ダカーポ編集部
95年発行。結構古い本である。
小説家より、雑誌のコラムニストやルポライターなどの志望者を想定したアドバイスが多い。
もちろん当時はブログなど無かった訳だが、短文の書き方という点では非常に参考になると思う。
多数の著者がいろんな視点で解説し、またプロへのインタビューもコラムとして入っているので、あちこちで見ると部分部分では矛盾するアドバイスもあるが、それは絶対的な方法など無いということだし、表面的な方法・技法ではなく、その真意を酌んで実践しろということであろう。
文章を上達させるためのポイントとして気になったものをまとめてみると、
・とにかく書きまくれ
・一旦時間を置いてから必ず推敲しろ
・多く書いてから削り込め
・好きな作家の文章を書き写して模倣しろ
・小説は形容詞から朽ちる
・接続詞を多用するな
・安易に漢字変換するな
・何かを書きたいと思うなら、血反吐を吐くぐらい読め
などがある。
本書中に出てきた参考書籍をメモしておく。
井上ひさし「自家製文章読本」
谷崎潤一郎「文章読本」
清水幾太郎「論文の書き方」
筒井康隆「短篇小説講義」
ということで、今後も精進したい。
ダカーポ編集部
ダカーポの文章上達講座 実用的な文章を上手に書く
小説家より、雑誌のコラムニストやルポライターなどの志望者を想定したアドバイスが多い。
もちろん当時はブログなど無かった訳だが、短文の書き方という点では非常に参考になると思う。
多数の著者がいろんな視点で解説し、またプロへのインタビューもコラムとして入っているので、あちこちで見ると部分部分では矛盾するアドバイスもあるが、それは絶対的な方法など無いということだし、表面的な方法・技法ではなく、その真意を酌んで実践しろということであろう。
文章を上達させるためのポイントとして気になったものをまとめてみると、
・とにかく書きまくれ
・一旦時間を置いてから必ず推敲しろ
・多く書いてから削り込め
・好きな作家の文章を書き写して模倣しろ
・小説は形容詞から朽ちる
・接続詞を多用するな
・安易に漢字変換するな
・何かを書きたいと思うなら、血反吐を吐くぐらい読め
などがある。
本書中に出てきた参考書籍をメモしておく。
井上ひさし「自家製文章読本」
谷崎潤一郎「文章読本」
清水幾太郎「論文の書き方」
筒井康隆「短篇小説講義」
ということで、今後も精進したい。
Xbox360/The Elder ScrollsIV:オブリビオン/スパイク
ハイファンタジーつながり、と言うことで、今日はこれ。
2006年のゲーム賞を総なめにし一世を風靡したオープンワールドRPG。
もちろん当時よりその評判は聞こえており、いつかはプレイしてみたいと思っていた。
今ではどこの中古屋でも千円程度で販売しているので、そうして手に入れたものを、昨年の秋頃にプレイしていた。
結局、十数時間プレイした後、興が乗らなくなって、それっきりである。まあ、そんな予感はあった。
圧倒的自由度、という宣伝文句には間違いはなかった。
主人公は、いつでも、どこへでも、自分の意志で行くことができた。鍵が掛かっている他人の家にすら、開錠スキルがありさえすれば、入ることは自由だった。
でも、どこへ行けばいい?どこか行きたい所があるのか?
完全に好きな所へ行って良いと言われると、考えても、特に行きたい所も思いつかないのだった。
それは多分、遊び手としての想像力が貧困だからだろう。
オープンワールドRPGなどというと大仰しいが、早い話が、ごっこ遊びである。大枠のある中で、自分で設定を作って人形遊びを楽しめないようでは、向いてないのである。
キャラメイクにしても、膨大な造形やパーツを選択して自分の想像上の分身を作り上げる事ができる訳だが、それ以前に、面倒くさい、という気持ちが勝ってしまう。
多岐にわたるスキルパラメータの管理にしても同様である。
アイテムに至っては、野原の草木まで摘み取って調合材料にできるのである。重さ管理のあるシステムで、多数の入手アイテムを整理分類し保管管理し、売ったり買ったり、とてもではないが、膨大な時間を割く事を楽しむことはできなかった。
かといって、初心者排除のコアゲームという訳でもない。操作ボタンの数は少し多いが、メニューは割合整理されているし、アクションは非常にシンプルだ。
また、本筋サブ合わせ多数のクエストが同時多発的に発生するゲームだが、それらを管理するジャーナル機能も充実しているため、時間を空けてプレイして、あれ、何してたんだっけ、ということも少ない。
アクティブクエストという機能があり、設定すると、現在のクエストでの次の目的地マーカーがマップに表示される。なので、極端な話、プレイヤーは、何も考えなくても筋を理解しなくても、マーカーに向かって進み、到達地点でバトルしたり人物に話しかけたりするだけで、クエストは進行していってくれる。
非常に便利だが、便利すぎて味気ない機能でもある。ただし、クエストのシチュエーションによってはマーカーが表示されない場合がたまにあり、そういうときはクエストの説明文を読んで、「○○という人物に会うんだな」などと考える訳だが、普段便利機能に頼り切っているので、あれ、ところで○○ってどの街にいるんだっけ?となった際の絶望感は圧倒的である。
さらに、このゲームには、バトルでの難易度が、自分でいつでも調節可能という特徴がある。設定画面に敵の強さを調節するゲージがあるので、いつでも好きなときに、敵を弱くも強くもできるのだ。
最初この機能を知らずに、あるクエストで異様に強い敵を相手に苦戦し、何度も死んでリトライしていた。諦めようかと思ったとき、この機能に気づき、デフォルトで中位に設定されていたゲージのバーを、「弱い」方へぐっとスライドさせてみた。
先ほどまでこちらの攻撃がほとんど通らず鬼のような強さを見せていた怪物が、一撃であっさり死んだ。そのまま辺りの怪物をさくさく掃討してクエストはあっさりクリアとなった。めでたしめでたしだ。だが、なんだこの満たされない想いは、という感じだった。
敵を強くも弱くも好きにしてくれ。そんな所が本質じゃないんだ。好きに設定して、この世界で、ごっこ遊びを楽しんでくれたら良いんだ、という制作者の意図は分かる。
ただ、それは自分向きではなかったのだ。
このゲームを攻略という観点から考えると、敵強さゲージを最弱にして、クエストジャーナルの次の目的地マーカーを選んで、ワープ移動し、攻撃や話すボタンを連打していれば、内容など1%も理解しなくても、どんどん進んでいってしまう。
それはもちろん極端な例だが、じゃあ、どこまでやればいいのか、という時に、そもそもこの世界が好きなのか?という本質的な問いに突き当たる。
好きな人はどこまでも楽しめるゲームだろう。私は、好きではなかった、という事だ。
ゲームとしての世界の技術的な作り込みには素直に感心するし、どういった所にどれぐらいコストがかかっているかも分かる。ただ、それはコアゲーマーとか制作者の視点であり、一般人視点で見れば結構失望も多かった。
それは一言で言えば、画像のリアルさのギャップが生み出すものだった。
例えば、このゲームには膨大な数の人物が登場する。種族も外見も、住んでいる場所も職業も年齢も性別も、全くバラバラの多数の人物である。物語の鍵を握る重要人物もいれば、1つ2つクエストに絡むだけの人もいる。それなのに、フルボイスのこのゲームでは、声優さんがたった数人しかいないのである。もうおわかりであろう。この人物はタイプAの声だ、この人はタイプBだと、パターンが分かってしまう。話す内容も、しゃべり方の癖も、その人物と関係を深める前に分かってしまう。
また、その人物の感情や状況によって話し方や語尾、内容などが変わるのだが、クエストイベントについて話しているときは親密な口調で激しい感情をあらわに喋ってくれるのに、別の一般的な話題を振ったらよそよそしい口調で冷めた返答が返ってくる違和感。
グラフィックスがリアルな分、かえって興ざめ感が強いのだ。
いっそ、キャラがもう少しシンボリックであれば、素直に自分のイメージを投影できるのではないか。
また、戦闘アクションがどうにも地味だった。基本的に、攻撃ボタン+防御ボタンの2つを、敵の攻撃パターンを見ながら押すだけである。スキルと装備のポイントからきめられたダメージ計算が行われ、体力を削り、ゼロになった瞬間、ばたっと突然倒れる。やはり画面がリアルな中でのこの違和感。
どういうゲームが受け入れられているのか、が分かったのでプレイして良かったと思う。全く楽しめないという訳でもなかったし。ただ、個人的には、クエストを10個もやれば満腹になってしまうゲームであった。
スパイク
The Elder ScrollsIV:オブリビオン
2006年のゲーム賞を総なめにし一世を風靡したオープンワールドRPG。
もちろん当時よりその評判は聞こえており、いつかはプレイしてみたいと思っていた。
今ではどこの中古屋でも千円程度で販売しているので、そうして手に入れたものを、昨年の秋頃にプレイしていた。
結局、十数時間プレイした後、興が乗らなくなって、それっきりである。まあ、そんな予感はあった。
圧倒的自由度、という宣伝文句には間違いはなかった。
主人公は、いつでも、どこへでも、自分の意志で行くことができた。鍵が掛かっている他人の家にすら、開錠スキルがありさえすれば、入ることは自由だった。
でも、どこへ行けばいい?どこか行きたい所があるのか?
完全に好きな所へ行って良いと言われると、考えても、特に行きたい所も思いつかないのだった。
それは多分、遊び手としての想像力が貧困だからだろう。
オープンワールドRPGなどというと大仰しいが、早い話が、ごっこ遊びである。大枠のある中で、自分で設定を作って人形遊びを楽しめないようでは、向いてないのである。
キャラメイクにしても、膨大な造形やパーツを選択して自分の想像上の分身を作り上げる事ができる訳だが、それ以前に、面倒くさい、という気持ちが勝ってしまう。
多岐にわたるスキルパラメータの管理にしても同様である。
アイテムに至っては、野原の草木まで摘み取って調合材料にできるのである。重さ管理のあるシステムで、多数の入手アイテムを整理分類し保管管理し、売ったり買ったり、とてもではないが、膨大な時間を割く事を楽しむことはできなかった。
かといって、初心者排除のコアゲームという訳でもない。操作ボタンの数は少し多いが、メニューは割合整理されているし、アクションは非常にシンプルだ。
また、本筋サブ合わせ多数のクエストが同時多発的に発生するゲームだが、それらを管理するジャーナル機能も充実しているため、時間を空けてプレイして、あれ、何してたんだっけ、ということも少ない。
アクティブクエストという機能があり、設定すると、現在のクエストでの次の目的地マーカーがマップに表示される。なので、極端な話、プレイヤーは、何も考えなくても筋を理解しなくても、マーカーに向かって進み、到達地点でバトルしたり人物に話しかけたりするだけで、クエストは進行していってくれる。
非常に便利だが、便利すぎて味気ない機能でもある。ただし、クエストのシチュエーションによってはマーカーが表示されない場合がたまにあり、そういうときはクエストの説明文を読んで、「○○という人物に会うんだな」などと考える訳だが、普段便利機能に頼り切っているので、あれ、ところで○○ってどの街にいるんだっけ?となった際の絶望感は圧倒的である。
さらに、このゲームには、バトルでの難易度が、自分でいつでも調節可能という特徴がある。設定画面に敵の強さを調節するゲージがあるので、いつでも好きなときに、敵を弱くも強くもできるのだ。
最初この機能を知らずに、あるクエストで異様に強い敵を相手に苦戦し、何度も死んでリトライしていた。諦めようかと思ったとき、この機能に気づき、デフォルトで中位に設定されていたゲージのバーを、「弱い」方へぐっとスライドさせてみた。
先ほどまでこちらの攻撃がほとんど通らず鬼のような強さを見せていた怪物が、一撃であっさり死んだ。そのまま辺りの怪物をさくさく掃討してクエストはあっさりクリアとなった。めでたしめでたしだ。だが、なんだこの満たされない想いは、という感じだった。
敵を強くも弱くも好きにしてくれ。そんな所が本質じゃないんだ。好きに設定して、この世界で、ごっこ遊びを楽しんでくれたら良いんだ、という制作者の意図は分かる。
ただ、それは自分向きではなかったのだ。
このゲームを攻略という観点から考えると、敵強さゲージを最弱にして、クエストジャーナルの次の目的地マーカーを選んで、ワープ移動し、攻撃や話すボタンを連打していれば、内容など1%も理解しなくても、どんどん進んでいってしまう。
それはもちろん極端な例だが、じゃあ、どこまでやればいいのか、という時に、そもそもこの世界が好きなのか?という本質的な問いに突き当たる。
好きな人はどこまでも楽しめるゲームだろう。私は、好きではなかった、という事だ。
ゲームとしての世界の技術的な作り込みには素直に感心するし、どういった所にどれぐらいコストがかかっているかも分かる。ただ、それはコアゲーマーとか制作者の視点であり、一般人視点で見れば結構失望も多かった。
それは一言で言えば、画像のリアルさのギャップが生み出すものだった。
例えば、このゲームには膨大な数の人物が登場する。種族も外見も、住んでいる場所も職業も年齢も性別も、全くバラバラの多数の人物である。物語の鍵を握る重要人物もいれば、1つ2つクエストに絡むだけの人もいる。それなのに、フルボイスのこのゲームでは、声優さんがたった数人しかいないのである。もうおわかりであろう。この人物はタイプAの声だ、この人はタイプBだと、パターンが分かってしまう。話す内容も、しゃべり方の癖も、その人物と関係を深める前に分かってしまう。
また、その人物の感情や状況によって話し方や語尾、内容などが変わるのだが、クエストイベントについて話しているときは親密な口調で激しい感情をあらわに喋ってくれるのに、別の一般的な話題を振ったらよそよそしい口調で冷めた返答が返ってくる違和感。
グラフィックスがリアルな分、かえって興ざめ感が強いのだ。
いっそ、キャラがもう少しシンボリックであれば、素直に自分のイメージを投影できるのではないか。
また、戦闘アクションがどうにも地味だった。基本的に、攻撃ボタン+防御ボタンの2つを、敵の攻撃パターンを見ながら押すだけである。スキルと装備のポイントからきめられたダメージ計算が行われ、体力を削り、ゼロになった瞬間、ばたっと突然倒れる。やはり画面がリアルな中でのこの違和感。
どういうゲームが受け入れられているのか、が分かったのでプレイして良かったと思う。全く楽しめないという訳でもなかったし。ただ、個人的には、クエストを10個もやれば満腹になってしまうゲームであった。
ゲド戦記
金曜ロードショーで放映していたのでとりあえず録画しておいたのを見た。
かなり酷評されている映画だし、映画の内容以外の部分でも様々な要素が取り沙汰されており、正直映画としては別に何の期待もしていなかった。むしろ、どこまで酷い出来なのかを見てみたいという、わくわくとする下世話な期待が興味の本体だった。
こうした原作ものでは、原作に対する愛情や信仰の程度によって、二次作品の評価が大幅に影響を受けるだろう。ちなみに、私は原作の小説は全く読んだことがない。また、ジブリ作品というブランドに対する信仰もない。
そういう訳で、この映画をできる限り外野の雑音から遮断して、単なるただのアニメ映画として評価してみた。
まず、見終わって考える。この映画を見て良かったかどうか。自分の貴重な2時間と引換にする価値はあったのか。
これははっきりと良かったと思った。
何が一番良かったかというと、歌が良かった。挿入歌のテルーの唄、表題歌の時の歌、共に素晴らしかった。
エンドロールで、谷山浩子、新居昭乃とあったのを見て納得した。
特にテルーの唄は、聞き惚れた。素直に心に沁みた。
それ故、非常に残念でならなかった。
テルーの唄を聴いてアレンが涙を流す。テルーの来し方への想いを込めた唄がアレンの摩耗した心の奥底に届き、その涙が、テルーの心に届く。拒絶する壁を払い心を通わせ始める。
アニメ映画として、このシーンさえもうすこし上手くできていたなら、映画に命の火が入った事だろう。あんなにのっぺりさらりとした演出では勿体ない。本当に残念である。
また、絵が大変良かった。特に色遣いが素晴らしく、単体で見たときのシーンの映えは印象深いものが多かった。
声優を使わない、というのがジブリのポリシーなのかも知れないが、良し悪しだ。朴訥とした自然な感じが出るというのは分かるが、合ってないと単に棒読みする素人というだけだし、例え俳優であっても、すごく聞き取りにくい場合が多いので、正直プロを使って欲しいと思った。ただ、菅原文太のハイタカだけは、まあ良かったと思う。
ストーリー。何をか況やである。どんな物語背景があろうと、その2時間で伝わらなければ意味がない。ほんの一言二言の台詞で世界観、背景、その他用語、そうした諸々を説明っぽく早口で語ることの繰り返しでは、伝わるものも伝わらない。独白での説明語りは能なしの採る表現手法だ。
アレンの心の闇は何だったのか。父殺しまでさせた闇である。アレンという人物が生きていない。
エピソードがてんでバラバラ。展開に説得力がない。ついていけない。
世界の秩序はなぜ均衡を失ったのか?クモのせいなのか?クモを倒せばOKな軽いお話なのか。
ファンタジー風の軽い話を求める層には、前半地味で意味不明の話ばかりで詰まらないだろうし、じっくりと深い設定を求める層には、説明不足で欲求不満だろうし、非常に中途半端である。
大体、何故タイトルがゲド戦記なのか?ゲドじゃなくアレンの話だしそれほど戦いもないし。
テーマ。父殺しのシーンは度肝を抜かれた。だって、これ、ある意味、父親の宮崎駿への全否定と宣戦布告でしょう。偉大で立派な父王は、その偉大さ故に閉塞した息子に刺されなければならなかった。しかし、こんなテーマ、本当に原作にもあるのか?
エンドロールに原案シュナの旅と記載があった。多分、原作のゲド戦記からは名前と設定を借りるぐらいで、テーマもストーリーもガラッと変えてしまったのだろう。ファンの酷評もそう言うことだろう。
その事は、もちろん、何の問題もないと思う。原作に忠実に作るだけでは、創作者としての存在価値がない。ガラッと変えてしまえばよい。当然、原作者の了承が取れるのなら、の話であるが。
死の恐怖、というのは珍しいけど深いテーマだと思う。ただ、現実に忙しい大人達には、あまり響かないだろう。小学生ぐらいの子には、響く子には響くと思う。それぐらいの年齢だと、自分がいつか死ぬという事実を知って、恐怖で眠れぬ夜を過ごしたりするものだ。ただ、大人になると皆忘れてしまうだろうけどね。
きらきら光るシーンは沢山あったが、てんでバラバラでまとまっていない。
アニメ映画としては中位のレベルだと思う。正直、予想より良かった。ただ、原作やジブリブランドという視点で評価されるなら、かなり厳しいことになるのだろう。
素朴なテーマは良いし、せめてテルーの唄のシーンと、テルーがアレンに剣を渡すシーンの2カ所さえ命が入っていたら、かなり評価が変わったと思う。本当に惜しい作品だ。
かなり酷評されている映画だし、映画の内容以外の部分でも様々な要素が取り沙汰されており、正直映画としては別に何の期待もしていなかった。むしろ、どこまで酷い出来なのかを見てみたいという、わくわくとする下世話な期待が興味の本体だった。
こうした原作ものでは、原作に対する愛情や信仰の程度によって、二次作品の評価が大幅に影響を受けるだろう。ちなみに、私は原作の小説は全く読んだことがない。また、ジブリ作品というブランドに対する信仰もない。
そういう訳で、この映画をできる限り外野の雑音から遮断して、単なるただのアニメ映画として評価してみた。
まず、見終わって考える。この映画を見て良かったかどうか。自分の貴重な2時間と引換にする価値はあったのか。
これははっきりと良かったと思った。
何が一番良かったかというと、歌が良かった。挿入歌のテルーの唄、表題歌の時の歌、共に素晴らしかった。
エンドロールで、谷山浩子、新居昭乃とあったのを見て納得した。
特にテルーの唄は、聞き惚れた。素直に心に沁みた。
それ故、非常に残念でならなかった。
テルーの唄を聴いてアレンが涙を流す。テルーの来し方への想いを込めた唄がアレンの摩耗した心の奥底に届き、その涙が、テルーの心に届く。拒絶する壁を払い心を通わせ始める。
アニメ映画として、このシーンさえもうすこし上手くできていたなら、映画に命の火が入った事だろう。あんなにのっぺりさらりとした演出では勿体ない。本当に残念である。
また、絵が大変良かった。特に色遣いが素晴らしく、単体で見たときのシーンの映えは印象深いものが多かった。
声優を使わない、というのがジブリのポリシーなのかも知れないが、良し悪しだ。朴訥とした自然な感じが出るというのは分かるが、合ってないと単に棒読みする素人というだけだし、例え俳優であっても、すごく聞き取りにくい場合が多いので、正直プロを使って欲しいと思った。ただ、菅原文太のハイタカだけは、まあ良かったと思う。
ストーリー。何をか況やである。どんな物語背景があろうと、その2時間で伝わらなければ意味がない。ほんの一言二言の台詞で世界観、背景、その他用語、そうした諸々を説明っぽく早口で語ることの繰り返しでは、伝わるものも伝わらない。独白での説明語りは能なしの採る表現手法だ。
アレンの心の闇は何だったのか。父殺しまでさせた闇である。アレンという人物が生きていない。
エピソードがてんでバラバラ。展開に説得力がない。ついていけない。
世界の秩序はなぜ均衡を失ったのか?クモのせいなのか?クモを倒せばOKな軽いお話なのか。
ファンタジー風の軽い話を求める層には、前半地味で意味不明の話ばかりで詰まらないだろうし、じっくりと深い設定を求める層には、説明不足で欲求不満だろうし、非常に中途半端である。
大体、何故タイトルがゲド戦記なのか?ゲドじゃなくアレンの話だしそれほど戦いもないし。
テーマ。父殺しのシーンは度肝を抜かれた。だって、これ、ある意味、父親の宮崎駿への全否定と宣戦布告でしょう。偉大で立派な父王は、その偉大さ故に閉塞した息子に刺されなければならなかった。しかし、こんなテーマ、本当に原作にもあるのか?
エンドロールに原案シュナの旅と記載があった。多分、原作のゲド戦記からは名前と設定を借りるぐらいで、テーマもストーリーもガラッと変えてしまったのだろう。ファンの酷評もそう言うことだろう。
その事は、もちろん、何の問題もないと思う。原作に忠実に作るだけでは、創作者としての存在価値がない。ガラッと変えてしまえばよい。当然、原作者の了承が取れるのなら、の話であるが。
死の恐怖、というのは珍しいけど深いテーマだと思う。ただ、現実に忙しい大人達には、あまり響かないだろう。小学生ぐらいの子には、響く子には響くと思う。それぐらいの年齢だと、自分がいつか死ぬという事実を知って、恐怖で眠れぬ夜を過ごしたりするものだ。ただ、大人になると皆忘れてしまうだろうけどね。
きらきら光るシーンは沢山あったが、てんでバラバラでまとまっていない。
アニメ映画としては中位のレベルだと思う。正直、予想より良かった。ただ、原作やジブリブランドという視点で評価されるなら、かなり厳しいことになるのだろう。
素朴なテーマは良いし、せめてテルーの唄のシーンと、テルーがアレンに剣を渡すシーンの2カ所さえ命が入っていたら、かなり評価が変わったと思う。本当に惜しい作品だ。
メイプル戦記/川原泉
流石に毎日1つずつ記事を書いていると、昨日今日見た作品の事だけではネタが尽きてくるなあ。
と言うことで、今後は、昔見た作品の感想なぞを場つなぎに入れていこうと思う。
まずはこれ。川原泉の名作野球漫画。
3,4年前の川原ブームの際に読んではいたと思うけど、書き漏れていたらしい。
規約から男子に限るという条項が撤廃され誕生した女性プロ野球チーム、メイプルス。本作は、北海道を本拠とするセリーグ7番目の球団が奮戦する様を描いたプロ野球漫画、と思わせておいて実はやっぱり川原漫画としか形容しがたい独特のユーモアほのぼの漫画であった。
前身となる漫画があって、「甲子園の空に笑え」という偉く古い短編。この話に出てくる、某県の豆の木高校を率いて甲子園出場を果たした女性生物教師の知将広岡が、メイプルスの監督としてスカウトされる所から物語は始まる。新生球団の女性選手スカウトに集まったのは、聖ミカエル学園からバッテリーの二人、監督推薦で、豆の木高校で活躍した相本兄弟の4つ子の妹たち(内野)、と川原作品のオールスターの様相を呈している。
内容としては、なぞの広岡理論と特異な選手達が、男ばかりのプロ野球界でいかに奮闘するかを描いたものではあるが、スポーツとしての野球の展開がどうかというような所がメインではない。もちろんそうした点も描かれていない訳ではないし、例によって川原泉の事なので異様に細かい知識をちりばめてはいるが、シミュレーションとしての評価に耐えるようなものではない。それは実際に女性チームがセリーグで快勝する現実味というものを考えたら明かであろう。
そうではなくて、そういう事があったとしたらさぞ面白かろう、監督、選手、フロント、相手チームと、一癖も二癖もある面白い奴がたくさん出てくるだろう、という所が主題のほのぼの漫画である。当然である。
メイプルスの戦績以外にメインの柱が2つある。
一つは、かつて甲子園を湧かせドラフトを総なめにした本格派投手神尾の恋。自分の中の女性の心に気づき、いったんは野球を捨てゲイバーに勤めたものの、野球への想い、そして野球を通じての、かつて捕手として女房役であり、初恋の相手でもある小早川への想いを捨てきれず、メイプルスへ応募した。神尾は小早川と日本シリーズでまみえることを誓う。
もう一つは、セの盟主タイタンズのエース仁科の妻、紘子のリベンジ。度重なる夫の浮気に業を煮やし、三行半を叩き付けた紘子。夫は露ほども知らなかったが、実は彼女は野球が好きで、草野球では異常な活躍をするほどのセンスをもっていた。メイプルスに入り、夫の鼻をこの手でへし折りたい、という彼女の悲願は果たされるのか。
その他、多彩なエピソードを織り込みつつ、淡々とペナントを消化するような単調な展開にならないよう巧みに構成されている。そしてなんと言っても、当時のプロ野球界や選手達のパロディ描写がこれでもかと登場する辺り、かなり川原漫画としては異質な感じがすると思うのだが、これが結構良くできていて味わい深い点である。
川原泉
メイプル戦記
と言うことで、今後は、昔見た作品の感想なぞを場つなぎに入れていこうと思う。
まずはこれ。川原泉の名作野球漫画。
3,4年前の川原ブームの際に読んではいたと思うけど、書き漏れていたらしい。
規約から男子に限るという条項が撤廃され誕生した女性プロ野球チーム、メイプルス。本作は、北海道を本拠とするセリーグ7番目の球団が奮戦する様を描いたプロ野球漫画、と思わせておいて実はやっぱり川原漫画としか形容しがたい独特のユーモアほのぼの漫画であった。
前身となる漫画があって、「甲子園の空に笑え」という偉く古い短編。この話に出てくる、某県の豆の木高校を率いて甲子園出場を果たした女性生物教師の知将広岡が、メイプルスの監督としてスカウトされる所から物語は始まる。新生球団の女性選手スカウトに集まったのは、聖ミカエル学園からバッテリーの二人、監督推薦で、豆の木高校で活躍した相本兄弟の4つ子の妹たち(内野)、と川原作品のオールスターの様相を呈している。
内容としては、なぞの広岡理論と特異な選手達が、男ばかりのプロ野球界でいかに奮闘するかを描いたものではあるが、スポーツとしての野球の展開がどうかというような所がメインではない。もちろんそうした点も描かれていない訳ではないし、例によって川原泉の事なので異様に細かい知識をちりばめてはいるが、シミュレーションとしての評価に耐えるようなものではない。それは実際に女性チームがセリーグで快勝する現実味というものを考えたら明かであろう。
そうではなくて、そういう事があったとしたらさぞ面白かろう、監督、選手、フロント、相手チームと、一癖も二癖もある面白い奴がたくさん出てくるだろう、という所が主題のほのぼの漫画である。当然である。
メイプルスの戦績以外にメインの柱が2つある。
一つは、かつて甲子園を湧かせドラフトを総なめにした本格派投手神尾の恋。自分の中の女性の心に気づき、いったんは野球を捨てゲイバーに勤めたものの、野球への想い、そして野球を通じての、かつて捕手として女房役であり、初恋の相手でもある小早川への想いを捨てきれず、メイプルスへ応募した。神尾は小早川と日本シリーズでまみえることを誓う。
もう一つは、セの盟主タイタンズのエース仁科の妻、紘子のリベンジ。度重なる夫の浮気に業を煮やし、三行半を叩き付けた紘子。夫は露ほども知らなかったが、実は彼女は野球が好きで、草野球では異常な活躍をするほどのセンスをもっていた。メイプルスに入り、夫の鼻をこの手でへし折りたい、という彼女の悲願は果たされるのか。
その他、多彩なエピソードを織り込みつつ、淡々とペナントを消化するような単調な展開にならないよう巧みに構成されている。そしてなんと言っても、当時のプロ野球界や選手達のパロディ描写がこれでもかと登場する辺り、かなり川原漫画としては異質な感じがすると思うのだが、これが結構良くできていて味わい深い点である。
CRAZY FOR YOU 1巻/椎名軽穂
君届14巻が出るまでに、と思って、椎名軽穂の他の作品に色々手を出している所。
そんな訳で前の連載作を読んでみた。
ドロドロ愛憎劇とは聞いていたけど、1巻の終わりで見事にドロドロとなりました。
あらすじはこうだ。
明るさトロさ打たれ強さが身上の彼氏いない暦17年、高村幸、さっちゃんは、親友である朱美の彼、雄平が企画した合コンで一目惚れ、生まれて初めての恋をする。
相手は、宮本幸浩、通称ユキちゃん。女癖が悪く信用できないからぜったにダメ、と中学からユキを知る朱美から釘を刺されるが、恋はタイミング、どんどんとユキにのめり込んでいってしまう幸。
女としてみれないから、と拒否されても諦めず、ついにユキの初めての女友達の座を射止めた幸は、不安定ながら関係がもてたことを喜び、大切にしていこうとする。
ユキは誰も本気で好きになった奴なんていないと聞き、本人からも気持ちなんてじゃまじゃん、と悲しい告白を受けていた幸は、ユキの誕生日に、本当は忘れられない女がいるんだ、と本心を明かされる。ユキが、だれかを好きになる気持ちをもっていたことを歓び、そして同時に流れる涙を抑えることのできない、「友達」への恋心に幸は揺れ惑う。
誕生日に雨に濡れて風邪を引いたユキを見舞いに集まった幸や雄平たち。そこで目にしたのは、復縁を迫るユキと、迫られる朱美の逢瀬だった。逆上しユキに殴りかかる雄平。とっさに身を呈してユキをかばった幸は、その拳を受け倒れてしまう。
ここへ、一途な幸に我知らず惹かれてゆく、爽子の従兄弟の赤星君も絡んできそうで、一体何角関係になるのでしょう、という感じ。
打たれ強く一途な女の子が作者は好きなんだろう。弱いけど強い、強いけど弱い、そういうアンバランスさで物語るのが上手だと思う。後、やはり、雰囲気は悪くない。
まあ、続けて読んでみても良いかも。
椎名軽穂
CRAZY FOR YOU 1巻
そんな訳で前の連載作を読んでみた。
ドロドロ愛憎劇とは聞いていたけど、1巻の終わりで見事にドロドロとなりました。
あらすじはこうだ。
明るさトロさ打たれ強さが身上の彼氏いない暦17年、高村幸、さっちゃんは、親友である朱美の彼、雄平が企画した合コンで一目惚れ、生まれて初めての恋をする。
相手は、宮本幸浩、通称ユキちゃん。女癖が悪く信用できないからぜったにダメ、と中学からユキを知る朱美から釘を刺されるが、恋はタイミング、どんどんとユキにのめり込んでいってしまう幸。
女としてみれないから、と拒否されても諦めず、ついにユキの初めての女友達の座を射止めた幸は、不安定ながら関係がもてたことを喜び、大切にしていこうとする。
ユキは誰も本気で好きになった奴なんていないと聞き、本人からも気持ちなんてじゃまじゃん、と悲しい告白を受けていた幸は、ユキの誕生日に、本当は忘れられない女がいるんだ、と本心を明かされる。ユキが、だれかを好きになる気持ちをもっていたことを歓び、そして同時に流れる涙を抑えることのできない、「友達」への恋心に幸は揺れ惑う。
誕生日に雨に濡れて風邪を引いたユキを見舞いに集まった幸や雄平たち。そこで目にしたのは、復縁を迫るユキと、迫られる朱美の逢瀬だった。逆上しユキに殴りかかる雄平。とっさに身を呈してユキをかばった幸は、その拳を受け倒れてしまう。
ここへ、一途な幸に我知らず惹かれてゆく、爽子の従兄弟の赤星君も絡んできそうで、一体何角関係になるのでしょう、という感じ。
打たれ強く一途な女の子が作者は好きなんだろう。弱いけど強い、強いけど弱い、そういうアンバランスさで物語るのが上手だと思う。後、やはり、雰囲気は悪くない。
まあ、続けて読んでみても良いかも。
コメットさんにも華がある/川原泉
川原さん、最新刊。
6月末に出たばかりの所を、早速読んだ。が、自腹ではない。川原ファンのスタッフに借りたのだった。
「レナード現象には理由がある」の続編にあたる。
国内有数の超進学校を舞台に、男の子と女の子のでこぼこカップルのショートストーリーを集めた、通称「~がある」シリーズ最新刊。マンネリズムを極めんとするかのようなオープニングイントロはまるでパタリロのようだ。
同じ時期の同じ学園でのストーリーであるため、登場人物が他の話にもちらちら出てくるのが嬉しい。もちろんレナードに登場した子も出てくる。
相変わらず、恋愛のれの字も無いような表現と、淡々としてほんわかな雰囲気が素晴らしい。
にもかかわらず、カップル達はいずれも、この二人は結婚しても上手くいきそうだな、と極めて自然に思えてくる。
出逢い→恋愛→結婚→人生の伴侶、という相互理解の階段の、途中をすっ飛ばしたような、異常な程ストレートに相手の懐に瞬間飛び込む武道のような、理解と接近の仕方をするのだ。
この辺の空気感と流れは、やはり川原泉でないと出せないパターンだと思う。
男の子も、女の子も、ある程度パターンの範囲が決まってるな、という印象も受けたが、バラエティを出そうと意外と毛色の違うタイプも出してきており、でも雰囲気は上手くまとめたという感じ。
今後もこの調子で続けて欲しい。
今回のカップルは、
「男に間違われる新入生の女の子」×「一見クールな3年生生徒会長」の実はオタカップル
「霊感少女」×「理系研究者の臨時教員」の歳の差カップル
「元セレブから転落した極貧少女」×「企業グループの次期総裁候補」の同級生カップル
「無表情ゾンビマニア少女」×「俳優一家で悩むイケメン俳優の卵」の同級生カップル
最後の「無表情ゾンビマニア少女」は、君届の爽子と似てるしパクリですかと一見思うが、ちゃんと川原さん自身の手で描き込んだ素晴らしいキャラでした。
川原泉
コメットさんにも華がある
6月末に出たばかりの所を、早速読んだ。が、自腹ではない。川原ファンのスタッフに借りたのだった。
「レナード現象には理由がある」の続編にあたる。
国内有数の超進学校を舞台に、男の子と女の子のでこぼこカップルのショートストーリーを集めた、通称「~がある」シリーズ最新刊。マンネリズムを極めんとするかのようなオープニングイントロはまるでパタリロのようだ。
同じ時期の同じ学園でのストーリーであるため、登場人物が他の話にもちらちら出てくるのが嬉しい。もちろんレナードに登場した子も出てくる。
相変わらず、恋愛のれの字も無いような表現と、淡々としてほんわかな雰囲気が素晴らしい。
にもかかわらず、カップル達はいずれも、この二人は結婚しても上手くいきそうだな、と極めて自然に思えてくる。
出逢い→恋愛→結婚→人生の伴侶、という相互理解の階段の、途中をすっ飛ばしたような、異常な程ストレートに相手の懐に瞬間飛び込む武道のような、理解と接近の仕方をするのだ。
この辺の空気感と流れは、やはり川原泉でないと出せないパターンだと思う。
男の子も、女の子も、ある程度パターンの範囲が決まってるな、という印象も受けたが、バラエティを出そうと意外と毛色の違うタイプも出してきており、でも雰囲気は上手くまとめたという感じ。
今後もこの調子で続けて欲しい。
今回のカップルは、
「男に間違われる新入生の女の子」×「一見クールな3年生生徒会長」の実はオタカップル
「霊感少女」×「理系研究者の臨時教員」の歳の差カップル
「元セレブから転落した極貧少女」×「企業グループの次期総裁候補」の同級生カップル
「無表情ゾンビマニア少女」×「俳優一家で悩むイケメン俳優の卵」の同級生カップル
最後の「無表情ゾンビマニア少女」は、君届の爽子と似てるしパクリですかと一見思うが、ちゃんと川原さん自身の手で描き込んだ素晴らしいキャラでした。