忘れられた日本人/宮本常一 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

忘れられた日本人/宮本常一

書評でえらく持ち上げられていたので図書館で借りてみた。
書評も単に高評価ということしか覚えていなかった為、返却期限が来てからどれどれと開いてみたら、民俗学のしかも古い書籍という事が分かり、げげっと一気に腰が引けた。
タイトルから、日系移民のノンフィクションなどを期待していたのだ。

この本は、昭和25年頃、民俗学者が僻地の村々を回り、老百姓からの見聞をまとめたものらしい。
古くさそうな、いかにもつまらなそうな本ではないか。
時間もないし読まずに返すかとも思ったが、とりあえず、最初だけもと読んでみた。

信じられないほど面白い。
一気に引き込まれて、夜を徹して読んでしまった。

この本の面白さには二重の構造がある。

まず一つは、この本が主に炙り出している、幕末~昭和初期頃の、辺鄙な農村漁村での、百姓や漁師その他地道に貧しく厳しい生活を営むただの人間達のスケッチの、見惚れるような再現性である。

貧しい土地での貧しい時代の話である。誰も生きるために必死で働いていた。朝はまだ暗いうちから起きだし、朝飯前から田畑に出て、日が暮れるまで鍬を振るう。時には明かりを灯しよっぴいて働く。家では家で牛を飼い、蚕を飼い、茶をもみ、縄を編む。
厳しい自然の中では一人では生きていけない。決して多くはない人数が、集落の中で顔を寄せ合い、肌を寄せ合い生きている。食い詰めた子供は里子に出し奉公に出し、学校など行くものは僅かだった。
働いて働いて働くだけだ。僅かな楽しみといえば、唄やおしゃべり、祭り、寄り合い、そして夜這いだ。
電気も水道ももちろん無い。車どころか道が悪く牛すら入ってこれない様な奥地もある。文字すら持たない人達の本当に質素な生活なのである。

決して礼賛すべき様な生活様式ではない。それが人間本来の生活だなどとは露ほども思わない。正直、真っ平ゴメンとしか言い様のない悲惨な暮らしである。
しかし、そうとしか生きられない、と腹を括った時の、汗を出し知恵を出し、何とかそこで生きていける人間というものの本来的に持つ逞しさ力強さに、そうして自らの生を生きる、生き切ってきた人間達から匂い立つ、言葉にはできない豊かな芳香に目が回るほどである。
「やっぱり世の中で一番えらいのが人間のようでごいす。」
作中に出てくるのは、連綿と生き続けてきた名もない人々に対する畏敬の念をこめた言葉である。

第二に、文学としての面白さである。

この本は学術的な民俗学伝承の記録である。にもかかわらず、一遍の文学として桁違いの光を放っている。
実際、ここ数年で読んだ小説の中ではダントツの面白さで、これに匹敵する魅力ある文章を書ける現役作家は、まずいないのではないかと思うほどだ。

当時は当然テープレコーダもなく、また人が喋っている時にノートを取る訳にも行かないので、作者は必死に話を聞いて記憶し、戻った後に夜を徹して書き記すことになる。そうして集めた膨大な資料から、エッセンスを抽出し、人物や暮らしの様子を自分が感じたまま余さず構築したものが本書になる。
その老人達の口調も話の内容も、説明の地の文も、生き生きとして躍動感に富み、また深い影の色をたたえた素晴らしい筆致なのである。

何度も書いているように、この本は民俗学の資料であり、フィクションではない。もちろんエンターテインメントなどではない。登場する人物もエピソードも実話である。
それでも、例え失礼に当たるとしても、ある意味これはファンタジーではないかと思った。
タイトルにあるように、これは、忘れられた人々の話である。
当時の博物学的な民俗学が相手にしなかったような、寒村の貧しい人々の日常を、人間が素朴に生きる姿そのままに切り取ったものである。ここに生きる人達は、今我々が江戸時代幕末の人々と聞いて普通に想像するような(例えばJINに出てくるような)、当時世界有数の人口と識字率を誇った巨大都市に住む、明るくそして封建的な市民では決してないのだ。
ほんの数十年前の話であるのに、現代からもそして知識上の過去の日本からも凄まじく隔絶するこれらの物語は、そのギャップ故にむしろ精緻なファンタジー小説としての趣が感じられるほどである。

作者は日本各地に取材したようであるが、この本に取り上げられた地域は主に西日本、特に四国や九州などが多い。
私の郷里である恵那も少しだけ登場したので、びっくりして何か嬉しいような恥ずかしいような変な気がした。


宮本常一
忘れられた日本人