奥さまはマリナーゼ/ほしのゆみ
例によって職場で妻が拾ってきたので読んでみた。
最近こうした拾いモンが積み上がってきたので、意識してちゃきちゃき消化しようと思う。
で、この本だが、浦安の主婦が毎日書いたweb絵日記をまとめて本にしたものらしい。1コマ+短文で、ジャンル毎に再編集という体裁。基本ギャグで、ネタの傾向は主婦ネタ夫偏愛ネタがほとんど。製品紹介がちょっとだけイヤらしい感じがしてしまうのはきっと私の心が偏狭なせいだろう。画風は割と独特か。敢えて言えば、どことなく須藤真澄と鬼嫁と西原理恵子を足して3で割ったような感じ。
まず読み始めてすぐ思うのが、せっかく元は絵日記なのだから、日付が入っていると良かったな、という事だ。一部のネタを除き、エッセイとして再編集する方針のためか、日付が入ってないのだ。せめて何年何月かが分かればも少し想像も膨らむのに、と残念である。
なんでかんで夫にくっつくのが大好きな妻というのは、結構いるものだなあと言うことが分かった。ええ、うちにもいますとも。
カップ麺の容器をきれいに洗って、アイスコーヒーをいれて夫に出したら不評でした、というネタを見て、ああ、この人、ずれてるけど多分いい人だわ、と納得した。
子供無し夫婦という共通点があるためか、割と共感して楽しく読めた。
ところで、現代日本語には、会話などで使用する際の相手の配偶者を指し示すまともな単語がないという問題がある。
ご主人、旦那、奥様、細君、などの語は、明らかに差別的な上下関係のニュアンスを含む古い言葉なのでできれば使いたくない訳である。単に相手の配偶者を差すフラットな言葉が日本語にはいまだ定着していないのだ。
そこで候補に挙がるのが、夫さん(おっとさん)、妻さん(つまさん)、である。若干違和感があるかもしれないが、そこは慣れである。
さあ、みんなで広めようじゃない。
という話を、この本に登場する作者の夫の「オットさん」の事を読んで思い出した。
ほしのゆみ
奥さまはマリナーゼ
最近こうした拾いモンが積み上がってきたので、意識してちゃきちゃき消化しようと思う。
で、この本だが、浦安の主婦が毎日書いたweb絵日記をまとめて本にしたものらしい。1コマ+短文で、ジャンル毎に再編集という体裁。基本ギャグで、ネタの傾向は主婦ネタ夫偏愛ネタがほとんど。製品紹介がちょっとだけイヤらしい感じがしてしまうのはきっと私の心が偏狭なせいだろう。画風は割と独特か。敢えて言えば、どことなく須藤真澄と鬼嫁と西原理恵子を足して3で割ったような感じ。
まず読み始めてすぐ思うのが、せっかく元は絵日記なのだから、日付が入っていると良かったな、という事だ。一部のネタを除き、エッセイとして再編集する方針のためか、日付が入ってないのだ。せめて何年何月かが分かればも少し想像も膨らむのに、と残念である。
なんでかんで夫にくっつくのが大好きな妻というのは、結構いるものだなあと言うことが分かった。ええ、うちにもいますとも。
カップ麺の容器をきれいに洗って、アイスコーヒーをいれて夫に出したら不評でした、というネタを見て、ああ、この人、ずれてるけど多分いい人だわ、と納得した。
子供無し夫婦という共通点があるためか、割と共感して楽しく読めた。
ところで、現代日本語には、会話などで使用する際の相手の配偶者を指し示すまともな単語がないという問題がある。
ご主人、旦那、奥様、細君、などの語は、明らかに差別的な上下関係のニュアンスを含む古い言葉なのでできれば使いたくない訳である。単に相手の配偶者を差すフラットな言葉が日本語にはいまだ定着していないのだ。
そこで候補に挙がるのが、夫さん(おっとさん)、妻さん(つまさん)、である。若干違和感があるかもしれないが、そこは慣れである。
さあ、みんなで広めようじゃない。
という話を、この本に登場する作者の夫の「オットさん」の事を読んで思い出した。
そして戦争は終わらない 「テロとの戦い」の現場から/デクスター・フィルキンス/有沢善樹
98~04年頃のイラクそしてアフガニスタンの現状を生々しく伝える戦争報道。
筆者は最前線の米軍に従軍し、または単身現地を駆け、現地に長く暮らし、そこで何があったのかを見て、伝えている。
多数の章に分かれ、各地での一瞬一瞬を断片的に切り取る構成。長い話も短い話もありどこから読んでも良い。押さえた筆致が戦争の生々しさと異常さをゆっくりと炙り出してゆく。
日本では戦争について考えるとなると、半世紀前の自国の戦争を振り返ることが多いが、この現代の世界の中で何が起きているのかを知ることも非常に重要であると通読して感じた。
戦争なんて良くないに決まっている。人殺しなんてしたいと思う人はいないだろう。誰もが平和を望んでいるに違いない。なのに、なぜ戦争もテロもなくならないのか?
この本は、こうした問いに答えるものではない。この本は、ただそこで何が起こっていたのかを、淡々と無慈悲に積み重ねて読者に提示するだけだ。積み上がった現実の圧倒されるような重みからどのような答えを選ぶか、そもそも答えを選びうるのか、我々が試されているような本なのである。
本書のタイトル、そして戦争は終わらない、というのは絶望なのか?それとも諦観か?あるいは逆説か。読み終えたときに読者の胸中に去来する感情から目を逸らしてはいけない。
本書を読んで印象に残った点がある。
それは、著者が漏らす、鈍くなっていく、という独白だ。
慣れである。毎日人が殺される。道ばたには死体や焼け焦げた人体の欠片が転がっている。隣の通りではIED(即席爆発装置)の爆発音が地を揺らし、屋上では乾いた銃声が響く。しかし毎日のことであるので誰も気に留めない。著者も、そうした現実に慣れきってしまう。死と隣り合わせの現実すら、人は慣れていってしまうのだ。
異常を異常なことと判断する為には、対比として異常でない状態を提示しなければならない。
この地では、人が殺されること人が死ぬことは、異常な事態ではない。日常なのである。人々は殺し合いのど真ん中に住み、暮らし、銃声など虫の声と聞き流し、地雷原を気軽に走って渡る。あるイラク人は語る。「俺は死ぬかも知れないな。だが、誰でもいつかは死ぬんだ」と。地獄のような暮らしの中で、現実に向き合わされ、何かを悟ったかのような口調は、どこか乾いたような明るい悲しさに満ちている。
跋扈する殺人旅団、秘密警察の恐怖、米軍始め外国軍の威圧、パニックにより暴徒化する群衆、子供を殺され泣きわめく女達。何度も何度も同じような話を読むたびに、著者と同様、どこか現実感のネジが飛び、桟敷席から眺める舞台劇かのような錯覚を覚える。
耐えられないほど悲惨な現実にさえ慣れてしまえるという人間の強さは、ある意味、最大の弱点なのかもしれない。
もう一点受けた印象は、やはり、教育だ。
人を無明の地獄から救うのは、知識の灯りである。かの地でも学校は早々と破壊され、教育を受けると兵士が育ちにくいとこぼすテロ集団の幹部がいた。
選択肢がそれしかないとなれば、何でも受け入れてしまえる強すぎる精神を振り向かせるには、本当はもっといろんな世界があり、いろんな価値観があり、いろんな現実があるのだということを知らしめなければならない。視野を広げよりよい判断ができるようにせねばならない。これが第一段階である。
もちろんこれには地域社会を含めた地道な教育活動が必要である。
しかしこの書の舞台もそうだが、世界には偏った宗教教育が行われている地域もある。誘拐した子供達にテロ思想を洗脳する集団もある。そのような所へ、杓子定規の正面からの道徳問答など通るはずもないだろう。
アメが必要である。
エンターテインメントコンテンツ、とくに日本の優れた作品群は、こうした問題の解決に、いずれ多大な効果を発揮するのではないかと私は思う。平和を尊び努力友情勝利のお決まりのテーマを内包した恐ろしく面白い作品が、数十年後の世界を救うのかも知れない。
もちろんこうした作品の恐ろしい効果は指導者もよく分かっているだろう。当然、道徳的に許されない他の禁忌と同様、強力に排除され禁止されることとなるだろう。しかし、本当に力を持った優れた作品のもつ伝搬力は、恐怖政治の排除力に必ず打ち勝てると私は信じている。
絶望的な地獄でも生きていける悲しいほどのタフさが人間の本質であるように、遊びを求める創造的知性もまた、人間のもつ揺るがない本質であるのだから。
デクスター・フィルキンス/有沢善樹
そして戦争は終わらない 「テロとの戦い」の現場から
筆者は最前線の米軍に従軍し、または単身現地を駆け、現地に長く暮らし、そこで何があったのかを見て、伝えている。
多数の章に分かれ、各地での一瞬一瞬を断片的に切り取る構成。長い話も短い話もありどこから読んでも良い。押さえた筆致が戦争の生々しさと異常さをゆっくりと炙り出してゆく。
日本では戦争について考えるとなると、半世紀前の自国の戦争を振り返ることが多いが、この現代の世界の中で何が起きているのかを知ることも非常に重要であると通読して感じた。
戦争なんて良くないに決まっている。人殺しなんてしたいと思う人はいないだろう。誰もが平和を望んでいるに違いない。なのに、なぜ戦争もテロもなくならないのか?
この本は、こうした問いに答えるものではない。この本は、ただそこで何が起こっていたのかを、淡々と無慈悲に積み重ねて読者に提示するだけだ。積み上がった現実の圧倒されるような重みからどのような答えを選ぶか、そもそも答えを選びうるのか、我々が試されているような本なのである。
本書のタイトル、そして戦争は終わらない、というのは絶望なのか?それとも諦観か?あるいは逆説か。読み終えたときに読者の胸中に去来する感情から目を逸らしてはいけない。
本書を読んで印象に残った点がある。
それは、著者が漏らす、鈍くなっていく、という独白だ。
慣れである。毎日人が殺される。道ばたには死体や焼け焦げた人体の欠片が転がっている。隣の通りではIED(即席爆発装置)の爆発音が地を揺らし、屋上では乾いた銃声が響く。しかし毎日のことであるので誰も気に留めない。著者も、そうした現実に慣れきってしまう。死と隣り合わせの現実すら、人は慣れていってしまうのだ。
異常を異常なことと判断する為には、対比として異常でない状態を提示しなければならない。
この地では、人が殺されること人が死ぬことは、異常な事態ではない。日常なのである。人々は殺し合いのど真ん中に住み、暮らし、銃声など虫の声と聞き流し、地雷原を気軽に走って渡る。あるイラク人は語る。「俺は死ぬかも知れないな。だが、誰でもいつかは死ぬんだ」と。地獄のような暮らしの中で、現実に向き合わされ、何かを悟ったかのような口調は、どこか乾いたような明るい悲しさに満ちている。
跋扈する殺人旅団、秘密警察の恐怖、米軍始め外国軍の威圧、パニックにより暴徒化する群衆、子供を殺され泣きわめく女達。何度も何度も同じような話を読むたびに、著者と同様、どこか現実感のネジが飛び、桟敷席から眺める舞台劇かのような錯覚を覚える。
耐えられないほど悲惨な現実にさえ慣れてしまえるという人間の強さは、ある意味、最大の弱点なのかもしれない。
もう一点受けた印象は、やはり、教育だ。
人を無明の地獄から救うのは、知識の灯りである。かの地でも学校は早々と破壊され、教育を受けると兵士が育ちにくいとこぼすテロ集団の幹部がいた。
選択肢がそれしかないとなれば、何でも受け入れてしまえる強すぎる精神を振り向かせるには、本当はもっといろんな世界があり、いろんな価値観があり、いろんな現実があるのだということを知らしめなければならない。視野を広げよりよい判断ができるようにせねばならない。これが第一段階である。
もちろんこれには地域社会を含めた地道な教育活動が必要である。
しかしこの書の舞台もそうだが、世界には偏った宗教教育が行われている地域もある。誘拐した子供達にテロ思想を洗脳する集団もある。そのような所へ、杓子定規の正面からの道徳問答など通るはずもないだろう。
アメが必要である。
エンターテインメントコンテンツ、とくに日本の優れた作品群は、こうした問題の解決に、いずれ多大な効果を発揮するのではないかと私は思う。平和を尊び努力友情勝利のお決まりのテーマを内包した恐ろしく面白い作品が、数十年後の世界を救うのかも知れない。
もちろんこうした作品の恐ろしい効果は指導者もよく分かっているだろう。当然、道徳的に許されない他の禁忌と同様、強力に排除され禁止されることとなるだろう。しかし、本当に力を持った優れた作品のもつ伝搬力は、恐怖政治の排除力に必ず打ち勝てると私は信じている。
絶望的な地獄でも生きていける悲しいほどのタフさが人間の本質であるように、遊びを求める創造的知性もまた、人間のもつ揺るがない本質であるのだから。
流れとよどみ 哲学断章/大森荘蔵
日本近代哲学における碩学として名高い著者の入門的随筆集。
まず断っておくと、私は哲学というものの有用性に肯定的ではない。平たく言うと、哲学は学問だと思ってない。
こんな事を書くと普通は知性を疑われる所だろうと思うが、それを否定しようと詳細説明するだけの紙幅もない。
ポイントだけ記すと、哲学という学問に於いては、
・哲学における問いは内発的なため似通った問いばかりで学問としての幅が狭い
・問いの叙述や展開に自然言語を使用するため大変曖昧でかつ非効率である
・問いや展開の検証を、自然人としての素朴な印象や判断に頼って行うため、不正確でかつ一意でない
・もっと悪いのは、科学や数学の概念をつまみ食いして曖昧な意味のまま使用する
・得られた問いや展開などの正否を検証する術がない
よって、哲学は学問でなく、芸術だと思っている。その意味で哲学科が文学部に属するのは非常に理に適っている。
A「あ!オレさ、今すごいこと考えちゃった!○○ってさ、実はよく考えると△△でもよくね?」
B「へー、そう言われると、そうとも言えるかもだね。面白いね。ただまあ、だからどうしたって話だけど」
極論すると、これが私の考える哲学の全てだ。
たとえて言うなら、哲学者とはサンダル履きの軽装で峻険に挑む登山家だろう。しかも折角ある登山道は使わないわ、コンパスがないから道に迷うわ、地図がないから山頂にたどり着いたのかどうか確かめる術はないわ、さんざんな登山家である。
大森が言うように哲学者は日夜額に汗し、きっと命を削って考えているのだろう。しかし、私にはそれが、本人が楽しんでいる、という以外に意味のある行為とは思えないのだ。
ちなみに、大学の学部生の時に哲学の講義を受けた際、期末の試験では、設問を無視して、上記のような自説を蕩々と書き込んで提出した。その時のテーマは、「哲学とは、カレーの具には何が好きかを述べたものである」だった。残念ながら単位はもらえなかった。
閑話休題。
さてではこの本を読んで面白いのか?というと、それは面白い。
色々な媒体に書き記した色々な随筆を集めた本であるので、結構、同じような話題ばかり繰り返しているが、この本で主に論じられているのは、大森のメインテーマと思われる、心と世界の合一性、というものだ。
これは簡単に説明すると、従来、人間は世界の認識として、認識されるべき物質でできた世界と、認識する内なる心の、2つから構成されると考えてきた。モノとココロである。モノの状態を感覚器が捉え、脳が処理し、ココロが受け取ったとき、ココロはモノを感ずる。古来そう考えられてきたが、それは違う、と著者は言う。
我々が何かを見た、と言うとき、それは我々の心の中に生じる何らかのイメージなのではなく、この世界そのものに、立ち現れてくる実体なのである。モノがある「から」見えるのではなく、見えること「即ち」モノがある、という事なのだ。世界とはこうして私に立ち現れてくるモノであり、その立ち現れ自体が私のココロなのである。
例えば幽霊を見たとしよう。それは私の脳の中に現れた幻ではない。それは、この世界に、従って私のココロに立ち現れている現実の何物かなのである。
また、例えば、昨年亡くなった祖父の姿を思い浮かべたとしよう。それは、脳の中に蓄えられた祖父の写し(イメージ)ではない。やはり、それは、現実の(存在した)祖父そのものが立ち現れているのである。
私のココロとは、この世界その物のことであり、両者を分かつことはできないのである。
とまあ、このスペースでまとめるのは元より無理だし何を言っているか分かりづらいと思う。
早い話が、ちゃぶ台返しの理論なのである。ココロが世界をどう感じるのか、ということをを子細に検討していくと多種多様な問題が発生する。ならばココロと世界を分けなければ問題は消えるだろうというウルトラCである。もちろん問題は消える。だが、ココロが世界をどう感じるのかということを調べるという目的さえ、一緒に消えてしまう。
ただし認識としては非常によい点を突いていると思う。惜しむらくは、どうしても自己の視点という呪縛から抜けられなかった所だろうか。
まあ、結構古い本であるので、内容も古い感じではあるし、今更このテーマか、と思うものもある。が、目から鱗の問題提起も結構あるし、読んでいると釣られていろんな着想が浮かんできて面白いのだ。
著者はできるだけ日常の言葉と概念で考え著述するという特徴があるので、特に前提として要求される知識などはそれほどはないが、一応専門書としておいた。
大森荘蔵
流れとよどみ 哲学断章
まず断っておくと、私は哲学というものの有用性に肯定的ではない。平たく言うと、哲学は学問だと思ってない。
こんな事を書くと普通は知性を疑われる所だろうと思うが、それを否定しようと詳細説明するだけの紙幅もない。
ポイントだけ記すと、哲学という学問に於いては、
・哲学における問いは内発的なため似通った問いばかりで学問としての幅が狭い
・問いの叙述や展開に自然言語を使用するため大変曖昧でかつ非効率である
・問いや展開の検証を、自然人としての素朴な印象や判断に頼って行うため、不正確でかつ一意でない
・もっと悪いのは、科学や数学の概念をつまみ食いして曖昧な意味のまま使用する
・得られた問いや展開などの正否を検証する術がない
よって、哲学は学問でなく、芸術だと思っている。その意味で哲学科が文学部に属するのは非常に理に適っている。
A「あ!オレさ、今すごいこと考えちゃった!○○ってさ、実はよく考えると△△でもよくね?」
B「へー、そう言われると、そうとも言えるかもだね。面白いね。ただまあ、だからどうしたって話だけど」
極論すると、これが私の考える哲学の全てだ。
たとえて言うなら、哲学者とはサンダル履きの軽装で峻険に挑む登山家だろう。しかも折角ある登山道は使わないわ、コンパスがないから道に迷うわ、地図がないから山頂にたどり着いたのかどうか確かめる術はないわ、さんざんな登山家である。
大森が言うように哲学者は日夜額に汗し、きっと命を削って考えているのだろう。しかし、私にはそれが、本人が楽しんでいる、という以外に意味のある行為とは思えないのだ。
ちなみに、大学の学部生の時に哲学の講義を受けた際、期末の試験では、設問を無視して、上記のような自説を蕩々と書き込んで提出した。その時のテーマは、「哲学とは、カレーの具には何が好きかを述べたものである」だった。残念ながら単位はもらえなかった。
閑話休題。
さてではこの本を読んで面白いのか?というと、それは面白い。
色々な媒体に書き記した色々な随筆を集めた本であるので、結構、同じような話題ばかり繰り返しているが、この本で主に論じられているのは、大森のメインテーマと思われる、心と世界の合一性、というものだ。
これは簡単に説明すると、従来、人間は世界の認識として、認識されるべき物質でできた世界と、認識する内なる心の、2つから構成されると考えてきた。モノとココロである。モノの状態を感覚器が捉え、脳が処理し、ココロが受け取ったとき、ココロはモノを感ずる。古来そう考えられてきたが、それは違う、と著者は言う。
我々が何かを見た、と言うとき、それは我々の心の中に生じる何らかのイメージなのではなく、この世界そのものに、立ち現れてくる実体なのである。モノがある「から」見えるのではなく、見えること「即ち」モノがある、という事なのだ。世界とはこうして私に立ち現れてくるモノであり、その立ち現れ自体が私のココロなのである。
例えば幽霊を見たとしよう。それは私の脳の中に現れた幻ではない。それは、この世界に、従って私のココロに立ち現れている現実の何物かなのである。
また、例えば、昨年亡くなった祖父の姿を思い浮かべたとしよう。それは、脳の中に蓄えられた祖父の写し(イメージ)ではない。やはり、それは、現実の(存在した)祖父そのものが立ち現れているのである。
私のココロとは、この世界その物のことであり、両者を分かつことはできないのである。
とまあ、このスペースでまとめるのは元より無理だし何を言っているか分かりづらいと思う。
早い話が、ちゃぶ台返しの理論なのである。ココロが世界をどう感じるのか、ということをを子細に検討していくと多種多様な問題が発生する。ならばココロと世界を分けなければ問題は消えるだろうというウルトラCである。もちろん問題は消える。だが、ココロが世界をどう感じるのかということを調べるという目的さえ、一緒に消えてしまう。
ただし認識としては非常によい点を突いていると思う。惜しむらくは、どうしても自己の視点という呪縛から抜けられなかった所だろうか。
まあ、結構古い本であるので、内容も古い感じではあるし、今更このテーマか、と思うものもある。が、目から鱗の問題提起も結構あるし、読んでいると釣られていろんな着想が浮かんできて面白いのだ。
著者はできるだけ日常の言葉と概念で考え著述するという特徴があるので、特に前提として要求される知識などはそれほどはないが、一応専門書としておいた。
PSP/カルネージハート エクサ/アートディンク
という訳で、今回はアドホックパーティでのバトルロイヤルマッチの組み方をメモしておく。
前回までの話は、こちら から参照して欲しい。
基本的に、エクサでのバトルは、1on1~3on3のチームvsチームという対戦システムであるから、このシステム上でバトルロイヤル(三つ巴以上のチームによる対戦)を実現するには相当の工夫と紳士協定が必要である。
基本的な条件は次の通り。
・3~4チームによるバトルロイヤルとなる。
・1チーム1機まで操作型を出すことが可能。
・対戦の6機の機体枠のうち2枠以上を審判機が使用する。
・作成する機体には武装制限が発生する。
・作成する機体にはチップの使用方法に制限が発生する。
バトルロイヤルにするためのポイントは、特に機体作成時に
・同チーム枠の機体(通常は味方)も敵なので、ターゲットロックチップを使用する場合には、部隊属性を「指定無し」に設定して使用すべき。
・選択射撃チップは使用しない方がよい(同チーム枠の機体を狙わないため)
・機雷・地雷は使用しない方がよい(同チーム枠の機体に反応しないため)
・片方のチーム残機がゼロになった瞬間にバトル終了になってしまうため、両チームに1機ずつ以上審判機を入れる。
・審判機をロックオンして攻撃してはならない(紳士協定)。攻撃してしまった場合のペナルティなどは、任意に決めておけばよい。流れ弾での被弾等の場合も同様である。
・審判機が対戦機を攻撃することについては任意に決めておけばよい。
・ロックした機体が審判機かどうかの判定を容易にするため、審判機に使う機体や機体種別を固定としておくと良い。ただし対戦機とダブらないようにしておかないと意味がないので注意。
と言うような感じである。
お奨めは、3チームバトルロイヤルで、各自、対戦機1機と審判機1機を出す、という対戦である。
対戦機は審判機を狙ってはいけない、また審判機は審判機を狙ってはいけない、というルールにして、いかに自分の作った審判機が敵の対戦機を狙うように誘導するか、を工夫するのが面白い所だ。
例えば自分の対戦機の機体を避けてロックするように組めばかなり有利となるだろう。ただし、相手も同じ機体を出してきたときには相手にも有利になってしまう。
この場合、審判機が強機体だと対戦機にかなり不利なので、審判機はドローン指定ぐらいがちょうど良い感じだ。
逆に、対戦機の機体を固定、武装を固定などレギュを絞れば絞るほどマイ審判機に敵機を狙わせるのが難しくなるため、この場合には審判機を強機体強武装にしても面白いだろう。
また、アドパでバトルロイヤルの醍醐味を最大限楽しむには、もちろん操作型での対戦を外す訳にはいかないだろう。その他にも工夫次第で、ハデスに立ち向かうCoop風アクションなど、色々楽しめると思う。
ちなみに、アドパ対戦の組み方については前回のエントリを参考にして欲しい。
アートディンク
カルネージハート エクサ
前回までの話は、こちら から参照して欲しい。
基本的に、エクサでのバトルは、1on1~3on3のチームvsチームという対戦システムであるから、このシステム上でバトルロイヤル(三つ巴以上のチームによる対戦)を実現するには相当の工夫と紳士協定が必要である。
基本的な条件は次の通り。
・3~4チームによるバトルロイヤルとなる。
・1チーム1機まで操作型を出すことが可能。
・対戦の6機の機体枠のうち2枠以上を審判機が使用する。
・作成する機体には武装制限が発生する。
・作成する機体にはチップの使用方法に制限が発生する。
バトルロイヤルにするためのポイントは、特に機体作成時に
・同チーム枠の機体(通常は味方)も敵なので、ターゲットロックチップを使用する場合には、部隊属性を「指定無し」に設定して使用すべき。
・選択射撃チップは使用しない方がよい(同チーム枠の機体を狙わないため)
・機雷・地雷は使用しない方がよい(同チーム枠の機体に反応しないため)
・片方のチーム残機がゼロになった瞬間にバトル終了になってしまうため、両チームに1機ずつ以上審判機を入れる。
・審判機をロックオンして攻撃してはならない(紳士協定)。攻撃してしまった場合のペナルティなどは、任意に決めておけばよい。流れ弾での被弾等の場合も同様である。
・審判機が対戦機を攻撃することについては任意に決めておけばよい。
・ロックした機体が審判機かどうかの判定を容易にするため、審判機に使う機体や機体種別を固定としておくと良い。ただし対戦機とダブらないようにしておかないと意味がないので注意。
と言うような感じである。
お奨めは、3チームバトルロイヤルで、各自、対戦機1機と審判機1機を出す、という対戦である。
対戦機は審判機を狙ってはいけない、また審判機は審判機を狙ってはいけない、というルールにして、いかに自分の作った審判機が敵の対戦機を狙うように誘導するか、を工夫するのが面白い所だ。
例えば自分の対戦機の機体を避けてロックするように組めばかなり有利となるだろう。ただし、相手も同じ機体を出してきたときには相手にも有利になってしまう。
この場合、審判機が強機体だと対戦機にかなり不利なので、審判機はドローン指定ぐらいがちょうど良い感じだ。
逆に、対戦機の機体を固定、武装を固定などレギュを絞れば絞るほどマイ審判機に敵機を狙わせるのが難しくなるため、この場合には審判機を強機体強武装にしても面白いだろう。
また、アドパでバトルロイヤルの醍醐味を最大限楽しむには、もちろん操作型での対戦を外す訳にはいかないだろう。その他にも工夫次第で、ハデスに立ち向かうCoop風アクションなど、色々楽しめると思う。
ちなみに、アドパ対戦の組み方については前回のエントリを参考にして欲しい。
スラムダンク/井上雄彦
名作漫画を読もう!ということで、妻がこつこつ図書館で借りて読んでいるのをご相伴。
人気の衰えぬ超有名バスケマンガである。
アニメにもゲームにもなっているが、たまに読むジャンプで時々読んでいた他は、実は通して読んだことはなかった。ストーリーも出だし以外は知らない。ということで良い機会である。
まだ数巻しか読んでおらず、陵南との練習試合の途中だが、非常に面白い。キャラも個性が強く分かりやすいし、何よりすごく生き生きと躍動感がある描写、バスケに詳しくなくても引き込むプロット、全体に満ちあふれた明るく前向きなスピリット。人気が出るのも頷ける。
作者はバスケに青春を捧げた口のようだが、やはりこうして一番好きで得意なことをマンガにするのは成功する確率が高いのだろう。実際、このマンガには作者自身が出ていると感じた。それは、花道でも流川でもゴリでもなく、湘北と陵南の練習試合のすごさに感動した1年が目の色を変えて、俺が!俺が、あの場所に、コートにに立ちたい!と願うシーンである。
あのバスケ部員達の心からバスケを求める熱い気持ちが作者の原点なんだなと、そう強 く感じた。
今後も楽しみである。
井上雄彦
スラムダンク
人気の衰えぬ超有名バスケマンガである。
アニメにもゲームにもなっているが、たまに読むジャンプで時々読んでいた他は、実は通して読んだことはなかった。ストーリーも出だし以外は知らない。ということで良い機会である。
まだ数巻しか読んでおらず、陵南との練習試合の途中だが、非常に面白い。キャラも個性が強く分かりやすいし、何よりすごく生き生きと躍動感がある描写、バスケに詳しくなくても引き込むプロット、全体に満ちあふれた明るく前向きなスピリット。人気が出るのも頷ける。
作者はバスケに青春を捧げた口のようだが、やはりこうして一番好きで得意なことをマンガにするのは成功する確率が高いのだろう。実際、このマンガには作者自身が出ていると感じた。それは、花道でも流川でもゴリでもなく、湘北と陵南の練習試合のすごさに感動した1年が目の色を変えて、俺が!俺が、あの場所に、コートにに立ちたい!と願うシーンである。
あのバスケ部員達の心からバスケを求める熱い気持ちが作者の原点なんだなと、そう強 く感じた。
今後も楽しみである。
天原魔法骨董店/阿倍野ちゃこ
妻が職場でゲット。割と良いとの感想だったので読んでみた。
しかし、正直、それほどどうという事もなかった。至って普通のオタ向けラノベ風ファンタジーといった感じ。
主人公の天原聡太郎は、疎遠の祖母が営む骨董店でのバイトを頼まれる。しかし、何年かぶりに会った祖母は、幼い美少女の姿で魔法使いのカノンと名乗る。天原家に代々伝わる魔法の鍵にまつわる謎を軸に、見習い魔法使いとして、骨董店での奇妙なバイト生活が始まる。しかし、カノンと共に過ごすうち聡太郎は淡い恋心を自覚して…。みたいな所。
まず、骨董店の雰囲気が上手く出せていなかった。まるで最近オープンしたカフェみたいだ。これではせっかくの設定が浮いて滑ってしまう。薄暗い店内に古めかしい雑貨が雑然と並び時が止まったかのような骨董店に美少女がいるからギャップが活きる訳で、同じようなトーンで描いてしまっては存在感が出ない。あと赤字出過ぎ。
ストーリーは、盛り上がった割には、最後、なんだかなあ、という所。好きな人にはこれで良いのだろうが。
この作者の画風として、タッチや表情、コマ割などはそれほど上手くないが、構図やポーズ、ベタや配色などは割と魅せるし、丁寧に細部を描き込む所は良い。だから総合的に漫画原稿と見ると中の下ぐらいのレベルだが、イラストと見ると結構上手い方だろうと思う。イラストレーターの方が向いていると思う。
よって、そう言う感じが好きな向きはジャケ買いすると良いだろう。
阿倍野ちゃこ
天原魔法骨董店
しかし、正直、それほどどうという事もなかった。至って普通のオタ向けラノベ風ファンタジーといった感じ。
主人公の天原聡太郎は、疎遠の祖母が営む骨董店でのバイトを頼まれる。しかし、何年かぶりに会った祖母は、幼い美少女の姿で魔法使いのカノンと名乗る。天原家に代々伝わる魔法の鍵にまつわる謎を軸に、見習い魔法使いとして、骨董店での奇妙なバイト生活が始まる。しかし、カノンと共に過ごすうち聡太郎は淡い恋心を自覚して…。みたいな所。
まず、骨董店の雰囲気が上手く出せていなかった。まるで最近オープンしたカフェみたいだ。これではせっかくの設定が浮いて滑ってしまう。薄暗い店内に古めかしい雑貨が雑然と並び時が止まったかのような骨董店に美少女がいるからギャップが活きる訳で、同じようなトーンで描いてしまっては存在感が出ない。あと赤字出過ぎ。
ストーリーは、盛り上がった割には、最後、なんだかなあ、という所。好きな人にはこれで良いのだろうが。
この作者の画風として、タッチや表情、コマ割などはそれほど上手くないが、構図やポーズ、ベタや配色などは割と魅せるし、丁寧に細部を描き込む所は良い。だから総合的に漫画原稿と見ると中の下ぐらいのレベルだが、イラストと見ると結構上手い方だろうと思う。イラストレーターの方が向いていると思う。
よって、そう言う感じが好きな向きはジャケ買いすると良いだろう。
マンガ嫌韓流/山野車輪
職場で拾った本。タイトルからして、いかにも、という感じだが、興味本位で読んでみた。
この手の本は、読むと、かなりエネルギーを削がれた感じがして気分が良くない。
人を怒ったり、憎んだり、攻撃したりする事は、すごく精神的に疲れるものだ。
悪意というものは増幅する。皆実感があるのではないかと思うが、誰かに対して1の悪意を出すと、自分の中にも新たに悪意が1だけ生まれる。結局、倍しんどいのだ。
この本は表面的には、相手の間違った主張を客観的に論証するという体裁だが、本当はそうではない、ということは一読すれば明らかで、誰しも分かっていて読 んでいる筈である。それなのにこの本が売れているとすれば、金を払ってまで怒りたい人がいるということで、なんともご苦労さんな事である。
90年頃から増えてきたと思うが、マンガを使った○○論、という体裁の論文もどき、これは頂けない。
こうした本は誰でも読むとすぐに、狡いな、と思うだろう。
マンガは、基本的に三人称視点の視覚表現である。
誰かが何かを主張するとき、通常、それは主観のはずである。
だが、マンガの中で、ある人物が何かを主張する場面を描くと、それは客観にすり替わってしまう。
主張する人物と、ステージと、そしてその主張を受け止める人々、とくに同意者のみならず、反論者をわざわざ登場させて、そして屈服させる場面を描く。
それはもはや主張ではなく、神の視点による世界の創造と等しい。つまり、創作である。
フィクションをあたかもノンフィクションのように装うことは、狡い。
こうした本を読むときは眉に何回唾をつけても付けすぎという事はないだろう。
内容についてはあまり触れたくないが、一言だけ書いておくと、唯一の正しい歴史などというものは存在しないということである。
人間が知りうるのは、散らばった事実だけで、真実などというものが存在すると思うのは幻想である。
世界に散らばった事実の欠片は影を落とす。光の当て方、眺める向きや角度によって、影は離合集散し、どんな形をも描くのである。
私にとって大切なのは、明日、私が健やかに過ごすことである。そして私の愛する家族と、明後日も明々後日も。そのためには、私が属する地域や社会が健やかであり、ひいてはこの地球という閉鎖系が健やかである方が、私の希望にとって望ましい結果が得られやすいという事が導かれる。しかし、けっして逆ではない。
私はありとあらゆる意味において、ナショナリズムは下らないものだと考えている。
国や地域を主語として語る言葉は、まず疑ってかかるべきである。
ナショナリズムの臭気で窒息しそうになる、こうした本で語られる言葉は、私の願う明日には繋がらないだろう。ただのゲームプレイをしているようにしか見えないのだ。双方が憎悪という炎に魅せられ共に灼かれていく蛾のゲームである。
山野車輪
マンガ嫌韓流
この手の本は、読むと、かなりエネルギーを削がれた感じがして気分が良くない。
人を怒ったり、憎んだり、攻撃したりする事は、すごく精神的に疲れるものだ。
悪意というものは増幅する。皆実感があるのではないかと思うが、誰かに対して1の悪意を出すと、自分の中にも新たに悪意が1だけ生まれる。結局、倍しんどいのだ。
この本は表面的には、相手の間違った主張を客観的に論証するという体裁だが、本当はそうではない、ということは一読すれば明らかで、誰しも分かっていて読 んでいる筈である。それなのにこの本が売れているとすれば、金を払ってまで怒りたい人がいるということで、なんともご苦労さんな事である。
90年頃から増えてきたと思うが、マンガを使った○○論、という体裁の論文もどき、これは頂けない。
こうした本は誰でも読むとすぐに、狡いな、と思うだろう。
マンガは、基本的に三人称視点の視覚表現である。
誰かが何かを主張するとき、通常、それは主観のはずである。
だが、マンガの中で、ある人物が何かを主張する場面を描くと、それは客観にすり替わってしまう。
主張する人物と、ステージと、そしてその主張を受け止める人々、とくに同意者のみならず、反論者をわざわざ登場させて、そして屈服させる場面を描く。
それはもはや主張ではなく、神の視点による世界の創造と等しい。つまり、創作である。
フィクションをあたかもノンフィクションのように装うことは、狡い。
こうした本を読むときは眉に何回唾をつけても付けすぎという事はないだろう。
内容についてはあまり触れたくないが、一言だけ書いておくと、唯一の正しい歴史などというものは存在しないということである。
人間が知りうるのは、散らばった事実だけで、真実などというものが存在すると思うのは幻想である。
世界に散らばった事実の欠片は影を落とす。光の当て方、眺める向きや角度によって、影は離合集散し、どんな形をも描くのである。
私にとって大切なのは、明日、私が健やかに過ごすことである。そして私の愛する家族と、明後日も明々後日も。そのためには、私が属する地域や社会が健やかであり、ひいてはこの地球という閉鎖系が健やかである方が、私の希望にとって望ましい結果が得られやすいという事が導かれる。しかし、けっして逆ではない。
私はありとあらゆる意味において、ナショナリズムは下らないものだと考えている。
国や地域を主語として語る言葉は、まず疑ってかかるべきである。
ナショナリズムの臭気で窒息しそうになる、こうした本で語られる言葉は、私の願う明日には繋がらないだろう。ただのゲームプレイをしているようにしか見えないのだ。双方が憎悪という炎に魅せられ共に灼かれていく蛾のゲームである。
スーパー0くん/さくらももこ
例によって職場で拾得。妻がお奨めだったので読んでみた。
もとは小学館の小学一年生の連載をまとめたものらしく、吹き出しに、「ひ行き」などと書いてあるお話を、ぼーっと読んでいると、何だか和んでくる感じだ。
漫画と言うより、絵本にちかいテイストか。全ページフルカラーで色鉛筆で彩色してある。
線画は著者特有のするっとした細線だが、その上にかなり丁寧に色が塗り込んであってすごい。
人物の顔なども、肌色ベタでスッと塗ってある時もあれば、陰影を付けて表情を強調しているコマもありで、色々工夫されている感じ。とにかく色鉛筆のタッチが、ただそれだけで良い雰囲気を醸している。色彩のセンスもかなり上質だ。
0(ゼロ)くんは宇宙人という設定だが、見た目はただの地球人の子供だし、ちょっと突飛な言動はあっても、それは地球に関する知識(特に日本での生活関係の知識)がない事が主因で、実は常識はあるし性格も優しく快活で、あまり「宇宙人」という感じがしない。
つまりこのお話は、よく知らなくても、一見ちょっと変わって見える人でも、友達になれるんだよ、という小学一年生に向けたメッセージなのだろう。
0くんの故郷の星では、雪の日に特別に乗るユキサブロウという変な顔の付いた喋る乗り物がある。
使うのが雪の日だけなら、あと暇そうだなと思っていたら、別の話で、0くんの星では一週間の天気が決まっており、金曜には雪が降るという。ちゃんと活躍の機会があるんだなと、それが妙に印象に残った。
さくらももこ
スーパー0くん
もとは小学館の小学一年生の連載をまとめたものらしく、吹き出しに、「ひ行き」などと書いてあるお話を、ぼーっと読んでいると、何だか和んでくる感じだ。
漫画と言うより、絵本にちかいテイストか。全ページフルカラーで色鉛筆で彩色してある。
線画は著者特有のするっとした細線だが、その上にかなり丁寧に色が塗り込んであってすごい。
人物の顔なども、肌色ベタでスッと塗ってある時もあれば、陰影を付けて表情を強調しているコマもありで、色々工夫されている感じ。とにかく色鉛筆のタッチが、ただそれだけで良い雰囲気を醸している。色彩のセンスもかなり上質だ。
0(ゼロ)くんは宇宙人という設定だが、見た目はただの地球人の子供だし、ちょっと突飛な言動はあっても、それは地球に関する知識(特に日本での生活関係の知識)がない事が主因で、実は常識はあるし性格も優しく快活で、あまり「宇宙人」という感じがしない。
つまりこのお話は、よく知らなくても、一見ちょっと変わって見える人でも、友達になれるんだよ、という小学一年生に向けたメッセージなのだろう。
0くんの故郷の星では、雪の日に特別に乗るユキサブロウという変な顔の付いた喋る乗り物がある。
使うのが雪の日だけなら、あと暇そうだなと思っていたら、別の話で、0くんの星では一週間の天気が決まっており、金曜には雪が降るという。ちゃんと活躍の機会があるんだなと、それが妙に印象に残った。
PSP/ナムコミュージアム Vol.2/ナムコ
往年の名作ナムコゲームを集めたアンソロジー第二弾。アーケードベースらしいオリジナルが11本と、ローカル対戦にも対応したアレンジ版が2本のボリュームセットである。
収録されているオリジナルタイトルは、キング&バルーン、ボスコニアン、ゼビウス、マッピー、ドルアーガの塔、グロブダー、ドラゴンバスター、ディグダグII、モトス、ローリングサンダー、ドラゴンスピリット。アレンジタイトルはパックマンとモトス。
このうち、アレンジのアドパ対戦をやろうじゃないか、ということで皆で購入したのである。ちなみにDL版。
ところが、なんと残念なことに、アドホックパーティー対応していない様子でガッカリ。
一応ルームを組む所まではスムーズに行くのだが、締め切って対戦開始するとネットワークエラーで落ちる。2本のアレンジが共にダメ。
ネットで色々検索してみたが、アドパとナムコミュージアムの絡みはあまり出てこない。CFW+kaiで対戦できたという情報をちらっと見かけたぐらいで、アドパでは、できたともできないとも情報がなかった。もちろん公式は対応を表明していない。
古いソフトなので今後の対応も難しそうだ。
オリジナルは、懐かしいが、かなり難しい。まだ全部は手を付けてないが、マッピーはかなりやり込んだのですぐにハイスコア残せた。
しかし、シューティング系は、オート連射じゃないとまともにプレイできないだろ、これ。手動連射だとボタンを押すたびに画面が揺れまくってすごいことになる。
こうしたゲームをPSPでプレイしたのは初めてなので、購入から6年目にして初めて気づいた。PSPは連打アクションには向いてない。DS系はこんなに揺れる感じしないのにな。
ナムコ
ナムコミュージアム Vol.2
収録されているオリジナルタイトルは、キング&バルーン、ボスコニアン、ゼビウス、マッピー、ドルアーガの塔、グロブダー、ドラゴンバスター、ディグダグII、モトス、ローリングサンダー、ドラゴンスピリット。アレンジタイトルはパックマンとモトス。
このうち、アレンジのアドパ対戦をやろうじゃないか、ということで皆で購入したのである。ちなみにDL版。
ところが、なんと残念なことに、アドホックパーティー対応していない様子でガッカリ。
一応ルームを組む所まではスムーズに行くのだが、締め切って対戦開始するとネットワークエラーで落ちる。2本のアレンジが共にダメ。
ネットで色々検索してみたが、アドパとナムコミュージアムの絡みはあまり出てこない。CFW+kaiで対戦できたという情報をちらっと見かけたぐらいで、アドパでは、できたともできないとも情報がなかった。もちろん公式は対応を表明していない。
古いソフトなので今後の対応も難しそうだ。
オリジナルは、懐かしいが、かなり難しい。まだ全部は手を付けてないが、マッピーはかなりやり込んだのですぐにハイスコア残せた。
しかし、シューティング系は、オート連射じゃないとまともにプレイできないだろ、これ。手動連射だとボタンを押すたびに画面が揺れまくってすごいことになる。
こうしたゲームをPSPでプレイしたのは初めてなので、購入から6年目にして初めて気づいた。PSPは連打アクションには向いてない。DS系はこんなに揺れる感じしないのにな。
3DS/ニンテンドービデオ
正直、いつの間にテレビとの差別化ポイントがよく分からないが、こちらも3D動画プッシュサービス。
いつの間にテレビとの違いは、やや長尺の厳選ビデオをやや長期に配信しかも広告無し、という感じだが、システムをちょこっといじれば別段統合しても問題ない気がする。
それはともかく、たまには面白い動画があるので時々チェックしている。
パルテナの立佞武多を観たが、立佞武多って、あれバランスどうなってるのかな?上部はほぼ張りぼてで軽く、台車を重くしているのかな?強風には弱そうだ。やはり、最近ではLEDなどを使って軽量化が図られているんだろうか。
任天堂の他のキャラも出せば良かったのに。
アキバでマニアックなキャラの一回り小ぶりなねぷたをコスプレイヤーが牽く、とかいうようなイベントにパクって仕立て直したら結構盛り上がりそうな気がするな。
いつの間にテレビとの違いは、やや長尺の厳選ビデオをやや長期に配信しかも広告無し、という感じだが、システムをちょこっといじれば別段統合しても問題ない気がする。
それはともかく、たまには面白い動画があるので時々チェックしている。
パルテナの立佞武多を観たが、立佞武多って、あれバランスどうなってるのかな?上部はほぼ張りぼてで軽く、台車を重くしているのかな?強風には弱そうだ。やはり、最近ではLEDなどを使って軽量化が図られているんだろうか。
任天堂の他のキャラも出せば良かったのに。
アキバでマニアックなキャラの一回り小ぶりなねぷたをコスプレイヤーが牽く、とかいうようなイベントにパクって仕立て直したら結構盛り上がりそうな気がするな。