リアル/井上雄彦
スラムダンクからバスケ繋がり、ということで読んでみた。
とりあえず職場にあった9巻までを読んでみたが、10巻まで出ており、まだ連載中のようだ。
バイク事故を遠因として高校を中退、入れ込んでいたバスケ部からも去るハメとなったバスケバカ野宮を主人公とし、健常者と障害者、バスケットボールと車椅子バスケットボールが螺旋のように絡み合い、物語が紡がれる。
人が何かをするのは、なぜなのか?生きるということは、何をすることなのか?というのがテーマと感じた。
野宮はバイク事故からは完治したが、その事故ではヤケでナンパした同乗の女性を生涯半身不随にさせてしまっていた。
その見舞いの折りに出会った、車椅子バスケに打ち込む元陸上選手の戸川。彼は短距離日本一を目前にして骨肉腫で片足を切断した過去を持っていた。妙なライバル心から二人は全く違う立場、違うスポーツを通して、同じ「バスケ」仲間として切磋琢磨する。
そんな頃、野宮の元チームメイト高橋は、努力せずとも何でもそつなくこなせる才能を持ちながら人を見下し何事にも真剣になれない日常を浪費する生活の中、盗んだ自転車でダンプにはねられ、脊椎損傷となり、茫然自失、自己の生きる意味を問い続ける混迷の闇にいた。
この三人がメインとなって絡み合っていくのだろう。読んだ9巻まででは、まだその途中という感じである。
スラムダンクでも感じた、バスケへの熱い想いがひしひしと伝わってくる描写は素晴らしい。
テーマ的に重い部分もあるが、車椅子バスケはスポーツなのか?という様な所から始まって、逃げずにちゃんと斬り込んでおり感心した。
その一方で、各主人公達のバスケ以外の想いは今ひとつ描き切れていない感触。
リアル、だからではないだろうが、スラムダンクに比べて、絵柄が堅い。テーマ的にその方が良いと判断したのだろうが、若干味気ない感じである。バガボンドのパサパサしたタッチを思い出してしまう。
終盤、ちょっと気になるテイストが鼻につくようになってきた。何だか、まるで浦沢直樹の漫画の様な気配を感じた。頼むから、ああいう漫画の描き方にだけはなって欲しくない。
ストーリー的にも今後楽しみである。
井上雄彦
リアル
とりあえず職場にあった9巻までを読んでみたが、10巻まで出ており、まだ連載中のようだ。
バイク事故を遠因として高校を中退、入れ込んでいたバスケ部からも去るハメとなったバスケバカ野宮を主人公とし、健常者と障害者、バスケットボールと車椅子バスケットボールが螺旋のように絡み合い、物語が紡がれる。
人が何かをするのは、なぜなのか?生きるということは、何をすることなのか?というのがテーマと感じた。
野宮はバイク事故からは完治したが、その事故ではヤケでナンパした同乗の女性を生涯半身不随にさせてしまっていた。
その見舞いの折りに出会った、車椅子バスケに打ち込む元陸上選手の戸川。彼は短距離日本一を目前にして骨肉腫で片足を切断した過去を持っていた。妙なライバル心から二人は全く違う立場、違うスポーツを通して、同じ「バスケ」仲間として切磋琢磨する。
そんな頃、野宮の元チームメイト高橋は、努力せずとも何でもそつなくこなせる才能を持ちながら人を見下し何事にも真剣になれない日常を浪費する生活の中、盗んだ自転車でダンプにはねられ、脊椎損傷となり、茫然自失、自己の生きる意味を問い続ける混迷の闇にいた。
この三人がメインとなって絡み合っていくのだろう。読んだ9巻まででは、まだその途中という感じである。
スラムダンクでも感じた、バスケへの熱い想いがひしひしと伝わってくる描写は素晴らしい。
テーマ的に重い部分もあるが、車椅子バスケはスポーツなのか?という様な所から始まって、逃げずにちゃんと斬り込んでおり感心した。
その一方で、各主人公達のバスケ以外の想いは今ひとつ描き切れていない感触。
リアル、だからではないだろうが、スラムダンクに比べて、絵柄が堅い。テーマ的にその方が良いと判断したのだろうが、若干味気ない感じである。バガボンドのパサパサしたタッチを思い出してしまう。
終盤、ちょっと気になるテイストが鼻につくようになってきた。何だか、まるで浦沢直樹の漫画の様な気配を感じた。頼むから、ああいう漫画の描き方にだけはなって欲しくない。
ストーリー的にも今後楽しみである。
DSL/十字キー修理
我が家にはDS系ハードは、DSL、DSi×2、3DSの計4台がある。
このうち、唯一中古で入手したのがDSLシルバー。
数年前に水没ジャンク品をワンコインで購入したものである。
購入時の程度は、電源投入可、液晶ノイズ大、キー操作反応不良、タッチOK、というものでそのままでは使用は難しいレベルだった。
良い時代になったものである。簡単な調べ物は何でもネットで片が付く。
DSLの分解記事も検索すれば山のように出てくる訳だ。
ただし、所詮は素人記事である。1件1件のサイトの記事の正確さや網羅度・充実度はせいぜい6割程度のものだ。しかし、1件1件はレベルが低くても、数サイトを通してザッと眺めてみると穴が補完されて、そこそこ有用な情報にまとまる。ネットの情報を使うときはこうして情報を練る事が絶対的に重要である。1件だけを盲信すると必ず足をすくわれる。悪意のあるなしにかかわらず、ネットで得られる情報などは、嘘や間違い、漏れ不足が非常に多いからだ。ちなみにこれまでの経験では、本当に難しい問題に関する大事な情報はネット上で見付かった試しはない。クリティカルな一次情報はネットには無い、出てくるのは程度の低い一次情報か、二次情報のコピーばかり、というのが個人的な印象だ。だから使う側の技量が重要なのである。
閑話休題。さて、そうして情報を調べることができるので、あとはホームセンターでY字ドライバー+αを買ってくれば、かつて工作少年だった程度の工作技量のある人なら、誰でもDSLの分解修理は全く造作もない作業である。
ジャンクDSLはこうして、情報を参考に完全分解した。その後、ガワ系のプラ部品は全部洗剤で水洗洗浄し、ドライヤーで乾燥した。基盤表面はホームセンターで購入した基盤洗浄剤で丁寧に汚れをぬぐい、特に端子部は接点復活剤を併用して汚れを落とした。
十字キーの部分に問題があった。基盤接点が腐食し、ゴム部品が断裂していた。このため、ネットで100円ぐらいの怪しげな補修用互換部品を購入して取り替えた。腐食の接点部分は表面を薄く削って導通を確保し接点復活剤を塗って保護しておいた。
その後は分解手順の逆に、組忘れがないように、丁寧に組み上げてゆけばOKである。ちなにみ、コネクタやネジを外す前には、分からなくなった時の保険に、外す前にデジカメで執拗に写しておくと安心である。
分解清掃を行っただけで、DSLは完全復活した。
ただし、十字キーの反応だけはどうしても鈍い。基盤腐食もあるので仕方ないのだろうと判断して終了とした。
こうして数年前に修理したのだが、やはり十字キーの調子が良くないのである。
だましだまし使っていたが、最近特に酷く感じたので、思い立って、交換用のゴム部品を、少しだけよりまともそうな業者から購入し、再度交換してみた。
あっさり改善した。
以前の修理時には気づかなかったが、今見てみると、昔購入したゴム部品は、純正とは材質もかけ離れているし、型取りも雑で、いかにもパッチモンという気配がムンムンの粗悪品である。今回の部品は純正とよく似た材質で、作りも丁寧である。素の状態から押した感じが全く違う。
ということで、補修部品をケチるのは良くないと言う教訓を得られたのであった。
このDSLの活躍についてはまたいずれのエントリかで書きたい。
このうち、唯一中古で入手したのがDSLシルバー。
数年前に水没ジャンク品をワンコインで購入したものである。
購入時の程度は、電源投入可、液晶ノイズ大、キー操作反応不良、タッチOK、というものでそのままでは使用は難しいレベルだった。
良い時代になったものである。簡単な調べ物は何でもネットで片が付く。
DSLの分解記事も検索すれば山のように出てくる訳だ。
ただし、所詮は素人記事である。1件1件のサイトの記事の正確さや網羅度・充実度はせいぜい6割程度のものだ。しかし、1件1件はレベルが低くても、数サイトを通してザッと眺めてみると穴が補完されて、そこそこ有用な情報にまとまる。ネットの情報を使うときはこうして情報を練る事が絶対的に重要である。1件だけを盲信すると必ず足をすくわれる。悪意のあるなしにかかわらず、ネットで得られる情報などは、嘘や間違い、漏れ不足が非常に多いからだ。ちなみにこれまでの経験では、本当に難しい問題に関する大事な情報はネット上で見付かった試しはない。クリティカルな一次情報はネットには無い、出てくるのは程度の低い一次情報か、二次情報のコピーばかり、というのが個人的な印象だ。だから使う側の技量が重要なのである。
閑話休題。さて、そうして情報を調べることができるので、あとはホームセンターでY字ドライバー+αを買ってくれば、かつて工作少年だった程度の工作技量のある人なら、誰でもDSLの分解修理は全く造作もない作業である。
ジャンクDSLはこうして、情報を参考に完全分解した。その後、ガワ系のプラ部品は全部洗剤で水洗洗浄し、ドライヤーで乾燥した。基盤表面はホームセンターで購入した基盤洗浄剤で丁寧に汚れをぬぐい、特に端子部は接点復活剤を併用して汚れを落とした。
十字キーの部分に問題があった。基盤接点が腐食し、ゴム部品が断裂していた。このため、ネットで100円ぐらいの怪しげな補修用互換部品を購入して取り替えた。腐食の接点部分は表面を薄く削って導通を確保し接点復活剤を塗って保護しておいた。
その後は分解手順の逆に、組忘れがないように、丁寧に組み上げてゆけばOKである。ちなにみ、コネクタやネジを外す前には、分からなくなった時の保険に、外す前にデジカメで執拗に写しておくと安心である。
分解清掃を行っただけで、DSLは完全復活した。
ただし、十字キーの反応だけはどうしても鈍い。基盤腐食もあるので仕方ないのだろうと判断して終了とした。
こうして数年前に修理したのだが、やはり十字キーの調子が良くないのである。
だましだまし使っていたが、最近特に酷く感じたので、思い立って、交換用のゴム部品を、少しだけよりまともそうな業者から購入し、再度交換してみた。
あっさり改善した。
以前の修理時には気づかなかったが、今見てみると、昔購入したゴム部品は、純正とは材質もかけ離れているし、型取りも雑で、いかにもパッチモンという気配がムンムンの粗悪品である。今回の部品は純正とよく似た材質で、作りも丁寧である。素の状態から押した感じが全く違う。
ということで、補修部品をケチるのは良くないと言う教訓を得られたのであった。
このDSLの活躍についてはまたいずれのエントリかで書きたい。
PONPONPON/きゃりーぱみゅぱみゅ
FM OSAKAの8月のパワープレイだったので毎日のように聴いて楽しんでいたが、8月も終わりということで、書いてみた。
昨日は、夜の番組に出演もしていた。喋り声は真っ直ぐな感じで、はきはきしており、アレ?と意外な印象。自分で付けたという、この日本一噛みやすい芸名の誕生秘話や、レコーディング時の話など、結構楽しかった。
分かりやすいリズムの耳に残りやすい、楽しい楽曲である。
ただ歌詞はイマイチ聞き取りにくく分かりづらい。
せっかく良い機会なので、歌詞サイトで歌詞を見てから、YouTubeでPVを見てみた。
うーん、凄い。さっぱり意味が分からない。
というか、意味なんて無いんだと思うし、無理に意味を汲む必要もないんだろうけど、とにかくパワフルで、突き抜けたセンス、という事だけはよく分かった。楽曲の方もそうだし、PVのビジュアルのセンスも。
その流れで、ぱみゅぱみゅのブログも見に行ったら、彼女の地のセンスが凄いんだ、ということがよく分かった。
昨日は、夜の番組に出演もしていた。喋り声は真っ直ぐな感じで、はきはきしており、アレ?と意外な印象。自分で付けたという、この日本一噛みやすい芸名の誕生秘話や、レコーディング時の話など、結構楽しかった。
分かりやすいリズムの耳に残りやすい、楽しい楽曲である。
ただ歌詞はイマイチ聞き取りにくく分かりづらい。
せっかく良い機会なので、歌詞サイトで歌詞を見てから、YouTubeでPVを見てみた。
うーん、凄い。さっぱり意味が分からない。
というか、意味なんて無いんだと思うし、無理に意味を汲む必要もないんだろうけど、とにかくパワフルで、突き抜けたセンス、という事だけはよく分かった。楽曲の方もそうだし、PVのビジュアルのセンスも。
その流れで、ぱみゅぱみゅのブログも見に行ったら、彼女の地のセンスが凄いんだ、ということがよく分かった。
お茶にごす。 4巻/西森博之
楽天ブックスで4巻購入。意外と早く来たので早速読む。
なぜ、あの悪名高い楽天ブックスなんぞでわざわざ?と思う人も多いだろう。それはポイントが溜まってしまうからである。仕事で楽天銀行の口座を使っているので入出金の度にポイントが溜まる。また職場の消耗品を定期的に楽天のショップに注文してもポイントが溜まる。後、妻がなんやら怪しい広告サイトを見たりしても溜まっているらしい。こうして、なんやかんやで、月にコミックス1巻分ぐらいのペースで溜まるのだ。しかも、このポイントはメチャメチャ期限が早いので、じっくり貯めることができない。よって、こうしてちまちまコミックスを購入するのに使われることが多いのだ。ちなみに、楽天ブックスも、今のところはそれほどトラブルはない。
今巻はギャグ満載で面白かった。
どうしても人を褒めることのできない夏帆が最高である。このキャラは今この漫画の屋台骨を支えていると思う。
爽やかそうに見えて実はまークン以上の凶暴さを秘める(秘めてない)山田も、茶道部顧問ひろしも、味が出てきて良い傾向だ。樫沢は今日俺の今井のような位置付けのキャラになるのだろうか。
アニ研の部長が打ち明け話をする話とか、しっとりした話もまた良い。でもって、山田もまークンもちゃんときっちり素直に反応している所がまた素晴らしい。
待望の合宿話の展開は、もう一波乱二波乱ありそうで楽しみである。
ちんまり肝試しは実現なるか?
西森博之
お茶にごす。 4巻
なぜ、あの悪名高い楽天ブックスなんぞでわざわざ?と思う人も多いだろう。それはポイントが溜まってしまうからである。仕事で楽天銀行の口座を使っているので入出金の度にポイントが溜まる。また職場の消耗品を定期的に楽天のショップに注文してもポイントが溜まる。後、妻がなんやら怪しい広告サイトを見たりしても溜まっているらしい。こうして、なんやかんやで、月にコミックス1巻分ぐらいのペースで溜まるのだ。しかも、このポイントはメチャメチャ期限が早いので、じっくり貯めることができない。よって、こうしてちまちまコミックスを購入するのに使われることが多いのだ。ちなみに、楽天ブックスも、今のところはそれほどトラブルはない。
今巻はギャグ満載で面白かった。
どうしても人を褒めることのできない夏帆が最高である。このキャラは今この漫画の屋台骨を支えていると思う。
爽やかそうに見えて実はまークン以上の凶暴さを秘める(秘めてない)山田も、茶道部顧問ひろしも、味が出てきて良い傾向だ。樫沢は今日俺の今井のような位置付けのキャラになるのだろうか。
アニ研の部長が打ち明け話をする話とか、しっとりした話もまた良い。でもって、山田もまークンもちゃんときっちり素直に反応している所がまた素晴らしい。
待望の合宿話の展開は、もう一波乱二波乱ありそうで楽しみである。
ちんまり肝試しは実現なるか?
Wii/コロリンパ/ハドソン
結局あれからもちょくちょく遊んで、達成度100%までクリアした。
総プレイ時間は17時間強。かなり楽しめたと言えよう。
その後の追加要素などについてメモしておく。ちなみに前回のエントリに書いた内容は間違い。
・基本45ステージは、クリアしていけば順に解除される。
・特定のステージをクリアすることで、使用ボールやステージBGMが追加される(ただし、チャーリーなど金カップ数で解除のボールもある)。
・基本45ステージを全てクリアするとスタッフロールでクリアとなり、「かがみ」モード(ミラーコース)が追加される。
・基本45ステージに隠された緑のクリスタルを取ってからクリアすることで、「ひみつのコロリンパ」ステージが追加される。緑のクリスタルを5個取るとひみつ1、9個でひみつ2、以下3個取るたびに追加され基本45ステージ全てのクリスタルを取るとひみつ14まで追加される。
・基本45ステージおよび、かがみの基本45ステージの計90ステージをクリアすると、ひみつのコロリンパ15が追加される。
・各ステージではクリアタイムに応じて、金銀銅カップが取得できる。金カップの取得個数に応じて、「おまけのコロリンパ」宇宙ステージが追加される。金カップを5個取るたびに1ステージ追加され、金カップ25個で全5ステージが追加される。
・基本+おまけ+ひみつの計65ステージ、かがみで倍の合計130ステージを全てクリアすると、達成度100%となる。
とりあえず、ステージクリアだけならパンダで時間さえ掛ければそう難しくはない。緑クリスタルも場所さえ分かればそれほど苦労しない。
難しいのは、金カップ。かなりシビアにタイムが切ってあるので、得意なステージでひたすらトライするしかない。かがみステージもカップ数は別計算なので、基本で金取れたらすぐにかがみに挑戦すれば取りやすい。スピードが命なので、ボール選択ではひかりの玉を選び、1ボタンを押して特性を編集し、ステージに最適化するとよい。
結局、金カップは40個ほど取れた。時間を掛ければ全金カップの完クリもいけそうな気配だったが、まあこれで十分だろう。
今気づいたが、コロリンパはWiiロンチだったのだ。Wiiリモコンの楽しさを十分に引き出した佳作と言えよう。まあ、ロンチでも売れなかっただろうけど。
さあ、と言うことで、もういつでもコロリンパ2が来ても良い事になった。
2はコースエディタもあるらしいので非常に楽しみである
ハドソン
コロリンパ
総プレイ時間は17時間強。かなり楽しめたと言えよう。
その後の追加要素などについてメモしておく。ちなみに前回のエントリに書いた内容は間違い。
・基本45ステージは、クリアしていけば順に解除される。
・特定のステージをクリアすることで、使用ボールやステージBGMが追加される(ただし、チャーリーなど金カップ数で解除のボールもある)。
・基本45ステージを全てクリアするとスタッフロールでクリアとなり、「かがみ」モード(ミラーコース)が追加される。
・基本45ステージに隠された緑のクリスタルを取ってからクリアすることで、「ひみつのコロリンパ」ステージが追加される。緑のクリスタルを5個取るとひみつ1、9個でひみつ2、以下3個取るたびに追加され基本45ステージ全てのクリスタルを取るとひみつ14まで追加される。
・基本45ステージおよび、かがみの基本45ステージの計90ステージをクリアすると、ひみつのコロリンパ15が追加される。
・各ステージではクリアタイムに応じて、金銀銅カップが取得できる。金カップの取得個数に応じて、「おまけのコロリンパ」宇宙ステージが追加される。金カップを5個取るたびに1ステージ追加され、金カップ25個で全5ステージが追加される。
・基本+おまけ+ひみつの計65ステージ、かがみで倍の合計130ステージを全てクリアすると、達成度100%となる。
とりあえず、ステージクリアだけならパンダで時間さえ掛ければそう難しくはない。緑クリスタルも場所さえ分かればそれほど苦労しない。
難しいのは、金カップ。かなりシビアにタイムが切ってあるので、得意なステージでひたすらトライするしかない。かがみステージもカップ数は別計算なので、基本で金取れたらすぐにかがみに挑戦すれば取りやすい。スピードが命なので、ボール選択ではひかりの玉を選び、1ボタンを押して特性を編集し、ステージに最適化するとよい。
結局、金カップは40個ほど取れた。時間を掛ければ全金カップの完クリもいけそうな気配だったが、まあこれで十分だろう。
今気づいたが、コロリンパはWiiロンチだったのだ。Wiiリモコンの楽しさを十分に引き出した佳作と言えよう。まあ、ロンチでも売れなかっただろうけど。
さあ、と言うことで、もういつでもコロリンパ2が来ても良い事になった。
2はコースエディタもあるらしいので非常に楽しみである
強気な小心者ちゃん/鈴木ともこ
作者の異様な小心者ぶりを描き綴ったエッセイコミック。
小心という反応は、自意識過剰と表裏一体であることがよく分かる。
また、過去の失敗の記憶がかなり行動を支配しているようだ。
誰しも、あるあると思うネタはもちろん、それはちょっと…と引いてしまうギリギリラインをややオーバーした辺りで留めてあるので、インパクトもありながら共感も得られる作りになっている。
小心の癖に、いやに大胆というか、いい加減というか、非常にだらしない所があって、やけに気に触るのが難点か。
鈴木ともこ
強気な小心者ちゃん
小心という反応は、自意識過剰と表裏一体であることがよく分かる。
また、過去の失敗の記憶がかなり行動を支配しているようだ。
誰しも、あるあると思うネタはもちろん、それはちょっと…と引いてしまうギリギリラインをややオーバーした辺りで留めてあるので、インパクトもありながら共感も得られる作りになっている。
小心の癖に、いやに大胆というか、いい加減というか、非常にだらしない所があって、やけに気に触るのが難点か。
かわいいあなた/乙ひより
例によって職場で拾得。百合姫という百合雑誌で人気を博したらしい著者の初コミックス。短編6本でうち一本が書き下ろし。
百合漫画であるので、女子×女子な訳だが、ドロドロもエロも全く無く、非常に爽やかな読後感である。中学生~大学生の少女達のほぼ初恋に近い、淡い心の揺れを丁寧に描いている。
ただし、基本的には、シーンありきの作風であるので、それほど深いものはない。女の子同士の恋に関する葛藤や抵抗がほぼ皆無で、逆にすがすがしい程だ。透明感溢れるタッチ、とくに表情のある目と口の独特の印象はなかなか良いと思う。
表題作のかわいいあなた、巻頭のMaple Loveが特に出色か。
ワンテンポ遅いとまでは行かないものの、ややゆっくり目のテンポで進行する独特の間と、上記のタッチが非常にマッチしていると思われる。
百合モノはこれまであまり読んだことはなかったが、男性であっても意外とリジェクトされているような気分を感じることはなかった。すんなり、普通の少女漫画のように入ることができる。むしろ違和感がないのが違和感であった。
特にこの作品などは中学の学級文庫に並んでいても一見見過ごすほどのキレイさなので、特にそう思ったのかも知れない。
乙ひより
かわいいあなた
百合漫画であるので、女子×女子な訳だが、ドロドロもエロも全く無く、非常に爽やかな読後感である。中学生~大学生の少女達のほぼ初恋に近い、淡い心の揺れを丁寧に描いている。
ただし、基本的には、シーンありきの作風であるので、それほど深いものはない。女の子同士の恋に関する葛藤や抵抗がほぼ皆無で、逆にすがすがしい程だ。透明感溢れるタッチ、とくに表情のある目と口の独特の印象はなかなか良いと思う。
表題作のかわいいあなた、巻頭のMaple Loveが特に出色か。
ワンテンポ遅いとまでは行かないものの、ややゆっくり目のテンポで進行する独特の間と、上記のタッチが非常にマッチしていると思われる。
百合モノはこれまであまり読んだことはなかったが、男性であっても意外とリジェクトされているような気分を感じることはなかった。すんなり、普通の少女漫画のように入ることができる。むしろ違和感がないのが違和感であった。
特にこの作品などは中学の学級文庫に並んでいても一見見過ごすほどのキレイさなので、特にそう思ったのかも知れない。
名作マンガの間取り/影山明仁
この本は、住宅設計のプロである建築コンサルタントが、名作マンガに登場する建物を、コマの背景などに描かれる情報を拾い集めるなどして図面に起こし、50案件分をまとめたものである。ちなみに値段の割に、いくぶんサイズの小さな本である。
まず注意すべき点は、この本にはタイトルから分かるように、2つのポイントがあるということだ。
名作マンガと、間取り、の2つである。
こうした場合、人は常に、自分に近しい判断を常識と考えがちである。
マンガと間取りでは、マンガの方がファンが多いと思われるので、多くの人はマンガに比重をおくことがさも当然のように考えてしまうだろう。しかし、そうではないのだ。
この本は、マンガマニアが作成した間取りの本ではない。いわば、間取りマニアがマンガに題を求めた本なのである。そこを勘違いして見当違いの落胆をしてはいけない。
ページ構成は、1案件見開きで、右に物件情報とコメント、左に間取り図となっている。みんなが知っている名作マンガの物件という前提なので、あらすじや内容紹介は一切ない。よって、いくら名作マンガでも、読んだことのない作品は、登場人物も分からないし、当然間取り図を見てもさっぱりである。コメントも同様、作図にあたってのポイントや苦労話、建築家としての突っ込みなどで、また間取り図からの作品分析などが記されることもあり、作品を良く知る者には有用なものも多いが、知らなければやはりさっぱりである。
問題なのは、有用どころか、マンガ派にとっては有害なコメントもたまにあると言うことだ。
作者は、マンガマニアという訳ではないので、マンガ登場物件の分析は素晴らしいが、マンガの背景やストーリー、テーマなどの分析はさっぱりの様子で、むしろ書かなければ良かったのにと思うような見当違いのコメントが散見されるのが非常に残念なのである。本当にこの点は惜しい。
こうした明後日を向いたようなコメントはそのマンガを芯から愛するようなマニアには噴飯ものだろうと思われる。例えるなら、マンガマニアがマンガ愛だけで妄想して描き上げたマンガ登場物件の間取り図が、プロの建築家には噴飯ものであるように。
よって、この本は、一般の間取り図を見て楽しめるような間取り図愛好家が、なおかつマンガ作品も知っているという様な場合でないと、そのポテンシャルを十分に引き出すことが難しいだろう。マンガが好きなだけの人は、多分、読んでもそれほど楽しめないと思う。
また、結構古いマンガが多く、また、マンガと書かれてはいるが、どうやら情報ソースとしてはむしろアニメが中心の気配もする。
番外編が結構楽しかったのは良かった。
影山明仁
名作マンガの間取り
まず注意すべき点は、この本にはタイトルから分かるように、2つのポイントがあるということだ。
名作マンガと、間取り、の2つである。
こうした場合、人は常に、自分に近しい判断を常識と考えがちである。
マンガと間取りでは、マンガの方がファンが多いと思われるので、多くの人はマンガに比重をおくことがさも当然のように考えてしまうだろう。しかし、そうではないのだ。
この本は、マンガマニアが作成した間取りの本ではない。いわば、間取りマニアがマンガに題を求めた本なのである。そこを勘違いして見当違いの落胆をしてはいけない。
ページ構成は、1案件見開きで、右に物件情報とコメント、左に間取り図となっている。みんなが知っている名作マンガの物件という前提なので、あらすじや内容紹介は一切ない。よって、いくら名作マンガでも、読んだことのない作品は、登場人物も分からないし、当然間取り図を見てもさっぱりである。コメントも同様、作図にあたってのポイントや苦労話、建築家としての突っ込みなどで、また間取り図からの作品分析などが記されることもあり、作品を良く知る者には有用なものも多いが、知らなければやはりさっぱりである。
問題なのは、有用どころか、マンガ派にとっては有害なコメントもたまにあると言うことだ。
作者は、マンガマニアという訳ではないので、マンガ登場物件の分析は素晴らしいが、マンガの背景やストーリー、テーマなどの分析はさっぱりの様子で、むしろ書かなければ良かったのにと思うような見当違いのコメントが散見されるのが非常に残念なのである。本当にこの点は惜しい。
こうした明後日を向いたようなコメントはそのマンガを芯から愛するようなマニアには噴飯ものだろうと思われる。例えるなら、マンガマニアがマンガ愛だけで妄想して描き上げたマンガ登場物件の間取り図が、プロの建築家には噴飯ものであるように。
よって、この本は、一般の間取り図を見て楽しめるような間取り図愛好家が、なおかつマンガ作品も知っているという様な場合でないと、そのポテンシャルを十分に引き出すことが難しいだろう。マンガが好きなだけの人は、多分、読んでもそれほど楽しめないと思う。
また、結構古いマンガが多く、また、マンガと書かれてはいるが、どうやら情報ソースとしてはむしろアニメが中心の気配もする。
番外編が結構楽しかったのは良かった。
月刊たくさんのふしぎ まちぼうけの生態学 アカオニグモと草むらの虫たち/遠藤知二・岡本よしろう
最新の2011年8月号。妻が借りたのを一緒に読んだ。
今号の内容は、北海道は札幌から車で1時間ほどの簾舞という地の草むらで、アカオニグモの小さなメスが網を張り餌を捕まえる様子の観察。アカオニグモは北海道と、本州では高地の草原に生息する体長2cm前後の大型の蜘蛛である。一般に蜘蛛の巣と呼ばれる網を虫の飛翔路に渡し掛け、網の粘着糸に絡んだ虫を捕獲して食べる。
著者は生態学者であるが、この蜘蛛の観察をするために、膨大な時間をつぎ込んでいる。
蜘蛛の巣の網で昆虫などを捕らえる頻度はどのくらいだろうか?
著者の4ヶ月間の観察によると、平均して100分間に約100匹の虫が網の回りに現れ、3匹が網にかかり、逃げたり捕まえそこなったりせず食べることができたのは、たった1匹、という割合であった。ただしその1匹もカやコバエなど蜘蛛の体にしたら食べる所があるかどうかというような小物ばかり。大物が捕れることはめったにない。
つまり、蜘蛛はいつもお腹を空かせて待ちぼうけなのである。そしてそれを観察している学者も。
じっと待ち続ける両者を包むゆっくりとした時間をともに味わえる。精緻な観察と、叙情的なイラストが素晴らしい。
アカオニグモはキスジベッコウというハチが天敵である。掴まるとマヒさせられて卵を産み付けられ、埋められてハチの幼虫のお弁当にされてしまう。
しかし、このキスジベッコウが近くに来ると、アカオニグモは必ず網のそばの隠れ家から飛び出して、網の真ん中で足を拡げて迎え撃とうとするのだ。必死で網にしがみついてキスジベッコウの攻撃を耐えるのである。
キスジベッコウのこうした攻撃もほとんどは失敗に終わる。こちらも気長な待ちぼうけなのである。
しかし、ラストで、アカオニグモがキスジベッコウを捕まえていたシーンはとても衝撃的だった。
巻末で蜘蛛博士の吉田先生のお名前を久しぶりに拝見して、独特の口調がふっと思い出され、懐かしかった。
遠藤知二・岡本よしろう
月刊たくさんのふしぎ まちぼうけの生態学 アカオニグモと草むらの虫たち
今号の内容は、北海道は札幌から車で1時間ほどの簾舞という地の草むらで、アカオニグモの小さなメスが網を張り餌を捕まえる様子の観察。アカオニグモは北海道と、本州では高地の草原に生息する体長2cm前後の大型の蜘蛛である。一般に蜘蛛の巣と呼ばれる網を虫の飛翔路に渡し掛け、網の粘着糸に絡んだ虫を捕獲して食べる。
著者は生態学者であるが、この蜘蛛の観察をするために、膨大な時間をつぎ込んでいる。
蜘蛛の巣の網で昆虫などを捕らえる頻度はどのくらいだろうか?
著者の4ヶ月間の観察によると、平均して100分間に約100匹の虫が網の回りに現れ、3匹が網にかかり、逃げたり捕まえそこなったりせず食べることができたのは、たった1匹、という割合であった。ただしその1匹もカやコバエなど蜘蛛の体にしたら食べる所があるかどうかというような小物ばかり。大物が捕れることはめったにない。
つまり、蜘蛛はいつもお腹を空かせて待ちぼうけなのである。そしてそれを観察している学者も。
じっと待ち続ける両者を包むゆっくりとした時間をともに味わえる。精緻な観察と、叙情的なイラストが素晴らしい。
アカオニグモはキスジベッコウというハチが天敵である。掴まるとマヒさせられて卵を産み付けられ、埋められてハチの幼虫のお弁当にされてしまう。
しかし、このキスジベッコウが近くに来ると、アカオニグモは必ず網のそばの隠れ家から飛び出して、網の真ん中で足を拡げて迎え撃とうとするのだ。必死で網にしがみついてキスジベッコウの攻撃を耐えるのである。
キスジベッコウのこうした攻撃もほとんどは失敗に終わる。こちらも気長な待ちぼうけなのである。
しかし、ラストで、アカオニグモがキスジベッコウを捕まえていたシーンはとても衝撃的だった。
巻末で蜘蛛博士の吉田先生のお名前を久しぶりに拝見して、独特の口調がふっと思い出され、懐かしかった。
愛猫みけぼんが亡くなって半年
もう半年が過ぎてしまったのだ。
この半年、みけぼんのいない寂しさを思わない日は無かった。
創作の中などではしばしば、死んだ人間のことを長い間一日たりとも忘れたことがなかったと漏らす人物が出てくるが、誇張もしくは創作特有の表現だろうと思っていた。
節目の日や時々は思い出しもするだろうが、いくら家族とはいえ、毎日毎日、死んでしまった人のことばかり考えても仕方あるまい。そもそも、日々新しいことがあり、やたら忙しい現代で、そんな暇がある者も少ないだろう。
そう考えていた。
実際、昨年亡くなった祖父についても、当初は枕を濡らす日々が続いたが、その後はすぐに自分の意識の中でのポジションが固まり、安定し、意識して想起すれば当然その寂しさと共に祖父の印象はまざまざと蘇るが、そうでなければ、忙しない日常の中では、常に念頭に存在したり脈絡なく突然に意識に上ったりするような事は少なくなっていった。思考の過程でかつての存在としての祖父が記号的に出てくることはもちろん日常茶飯だが、祖父の死という断崖にたららを踏み、その喪失の事実に足をすくませ、寂寥の風を背に感じるような感覚は、今や月に1度もあるかどうか、という所だ。そういや爺さん死んじまったんだな、ぐらいの認識さえも毎日発生するという訳ではなく、祖父のことをチラリとも思い出さない日々が続くこともなんら珍しいことではない。
つまりは生前の祖父に対する印象レベルに戻っていったという感じである。
これは良いことである。
忘却は人間が獲得した才能である。もし何も忘れることができなければ、あふれかえる感情の渦に呑まれ、決意は揺らぎ、注意は散漫し、幻と現実の区別は付かず、新しい知識を記憶する場所もなくなってしまうだろう。
人は過去を過去とすることで、現在を手にすることができるのである。
以前のエントリでも書いたように、みけぼんのことも自然に忘れてしまえばよいと思っていた。寂しさは微かな涼風のように残れども、楽しかった想い出を安定した暖かな気持ちで懐かしむようになれば良いと思っていた。しかしそうはならなかった。
みけぼんのいない寂しさ、という胸を突き刺すような鈍い痛みを感じない日は無かった。亡くした当初に比べその時間は少なくなり頻度は落ちているものの、みけぼんのことを考えずに過ごす日は無かった。声を上げて泣くことは減ったが、目が潤み涙を落としそうになることは今でもしばしばある。仕事中突然に、みけぼんを失った寂しさで心が溢れ、歩きながら、また倉庫の陰などで、涙ぐみながらしばし時を過ごすことも時々はある。
ある意味仕方のないことだろう。この13年ずっとこの場所で共に暮らしてきたのである。どこを見てもどっちを向いても、みけぼんを思い出さないようなものはないのだ。郷里の祖父とはそこが違うのである。
前回、デジカメ写真を整理してプリントしたいと書いたが、できなかった。
見られないのだ。取り貯めた画像を整理しようと見始めると、寂しくて涙がこぼれてくるので作業が少しも進まないのだ。毎度毎度涙で打ちのめされるたび、作業自体が辛くなって止めてしまった。
なるほど、世間の人が言うように、本当に一日たりとも忘れないという事があるものなのだ、と認識し自分自身驚いた次第だ。もちろん全ての人がそうではないだろうが、人間の意識というのは、意外と柔軟性に欠け、切り替えが下手なようである。
去る者日々に疎しというが、私は対人関係においてはかなり執着が少なく淡泊だった。コミュニケーションが嫌いな訳ではない。昔から、来るもの拒まず去る者追わず、といった感じで、自分から継続的な関係を希求する方ではなかった。冷淡に自己と他者を峻別するタイプだと思っていた。だから例え家族であっても、妻であっても、それを失ったときにはすぐに淡々と切り替えることができるだろうと考えていた。所詮、自己以外は他者である。状況や雰囲気による表層的な感情とは別に、理性的な判断が根底を支配する筈だろうと。
しかし、そうではなかった。そのような自己評価と目論見はもろくも崩れてしまった。
それは、みけぼんは、他者ではなく、自己の一部だったからだろう。「流れとよどみ」でもアニミズムと他者の心の問題がテーマとして数話あった。何に心を見いだし、立ち現れる他者の心を自分からどの程度の距離に位置させるか、それによりその人の心象風景は変わる。長い共同生活の中で、みけぼんは私から切り離すのが難しいほどに自己の内側へ食い込んでしまっていたのだろう。私のような淡泊な人間は自己の範囲が極限られた狭い空間であるのに対し、この自己の領域がかなり広大な人間もいるだろう。そうした人はその拡大した自己の巻き込んだ多数の他者に、私にとってのみけぼんのように、非常に重きを置き、自己の目的と行動に対して多大な影響力を与える存在と認識しているのだろう。
何という枷だろうか。
死んでいなくなってしまったもののもつくびきから、我々は容易には逃れられないのである。
自由だと思っていた人間精神は、実は、繋がれた鎖に気づかない囚われの身の上であった。こうした俘虜の宿命が愛と呼ばれるものの代償だとするならば、なんともむごい構造ではないだろうか。こうした構造ゆえ、そもそも愛することを臆する人がいるというのなら、それは無理のない話ではないかと思う。
毎日毎日みけぼんのいない寂しさを感じ続ける日々は、しばらく続くだろう。
まだ半年である。
そのうちきっと、穏やかに楽しかった想い出の中でゆっくりと会える日が来るだろうと願っている。
この半年、みけぼんのいない寂しさを思わない日は無かった。
創作の中などではしばしば、死んだ人間のことを長い間一日たりとも忘れたことがなかったと漏らす人物が出てくるが、誇張もしくは創作特有の表現だろうと思っていた。
節目の日や時々は思い出しもするだろうが、いくら家族とはいえ、毎日毎日、死んでしまった人のことばかり考えても仕方あるまい。そもそも、日々新しいことがあり、やたら忙しい現代で、そんな暇がある者も少ないだろう。
そう考えていた。
実際、昨年亡くなった祖父についても、当初は枕を濡らす日々が続いたが、その後はすぐに自分の意識の中でのポジションが固まり、安定し、意識して想起すれば当然その寂しさと共に祖父の印象はまざまざと蘇るが、そうでなければ、忙しない日常の中では、常に念頭に存在したり脈絡なく突然に意識に上ったりするような事は少なくなっていった。思考の過程でかつての存在としての祖父が記号的に出てくることはもちろん日常茶飯だが、祖父の死という断崖にたららを踏み、その喪失の事実に足をすくませ、寂寥の風を背に感じるような感覚は、今や月に1度もあるかどうか、という所だ。そういや爺さん死んじまったんだな、ぐらいの認識さえも毎日発生するという訳ではなく、祖父のことをチラリとも思い出さない日々が続くこともなんら珍しいことではない。
つまりは生前の祖父に対する印象レベルに戻っていったという感じである。
これは良いことである。
忘却は人間が獲得した才能である。もし何も忘れることができなければ、あふれかえる感情の渦に呑まれ、決意は揺らぎ、注意は散漫し、幻と現実の区別は付かず、新しい知識を記憶する場所もなくなってしまうだろう。
人は過去を過去とすることで、現在を手にすることができるのである。
以前のエントリでも書いたように、みけぼんのことも自然に忘れてしまえばよいと思っていた。寂しさは微かな涼風のように残れども、楽しかった想い出を安定した暖かな気持ちで懐かしむようになれば良いと思っていた。しかしそうはならなかった。
みけぼんのいない寂しさ、という胸を突き刺すような鈍い痛みを感じない日は無かった。亡くした当初に比べその時間は少なくなり頻度は落ちているものの、みけぼんのことを考えずに過ごす日は無かった。声を上げて泣くことは減ったが、目が潤み涙を落としそうになることは今でもしばしばある。仕事中突然に、みけぼんを失った寂しさで心が溢れ、歩きながら、また倉庫の陰などで、涙ぐみながらしばし時を過ごすことも時々はある。
ある意味仕方のないことだろう。この13年ずっとこの場所で共に暮らしてきたのである。どこを見てもどっちを向いても、みけぼんを思い出さないようなものはないのだ。郷里の祖父とはそこが違うのである。
前回、デジカメ写真を整理してプリントしたいと書いたが、できなかった。
見られないのだ。取り貯めた画像を整理しようと見始めると、寂しくて涙がこぼれてくるので作業が少しも進まないのだ。毎度毎度涙で打ちのめされるたび、作業自体が辛くなって止めてしまった。
なるほど、世間の人が言うように、本当に一日たりとも忘れないという事があるものなのだ、と認識し自分自身驚いた次第だ。もちろん全ての人がそうではないだろうが、人間の意識というのは、意外と柔軟性に欠け、切り替えが下手なようである。
去る者日々に疎しというが、私は対人関係においてはかなり執着が少なく淡泊だった。コミュニケーションが嫌いな訳ではない。昔から、来るもの拒まず去る者追わず、といった感じで、自分から継続的な関係を希求する方ではなかった。冷淡に自己と他者を峻別するタイプだと思っていた。だから例え家族であっても、妻であっても、それを失ったときにはすぐに淡々と切り替えることができるだろうと考えていた。所詮、自己以外は他者である。状況や雰囲気による表層的な感情とは別に、理性的な判断が根底を支配する筈だろうと。
しかし、そうではなかった。そのような自己評価と目論見はもろくも崩れてしまった。
それは、みけぼんは、他者ではなく、自己の一部だったからだろう。「流れとよどみ」でもアニミズムと他者の心の問題がテーマとして数話あった。何に心を見いだし、立ち現れる他者の心を自分からどの程度の距離に位置させるか、それによりその人の心象風景は変わる。長い共同生活の中で、みけぼんは私から切り離すのが難しいほどに自己の内側へ食い込んでしまっていたのだろう。私のような淡泊な人間は自己の範囲が極限られた狭い空間であるのに対し、この自己の領域がかなり広大な人間もいるだろう。そうした人はその拡大した自己の巻き込んだ多数の他者に、私にとってのみけぼんのように、非常に重きを置き、自己の目的と行動に対して多大な影響力を与える存在と認識しているのだろう。
何という枷だろうか。
死んでいなくなってしまったもののもつくびきから、我々は容易には逃れられないのである。
自由だと思っていた人間精神は、実は、繋がれた鎖に気づかない囚われの身の上であった。こうした俘虜の宿命が愛と呼ばれるものの代償だとするならば、なんともむごい構造ではないだろうか。こうした構造ゆえ、そもそも愛することを臆する人がいるというのなら、それは無理のない話ではないかと思う。
毎日毎日みけぼんのいない寂しさを感じ続ける日々は、しばらく続くだろう。
まだ半年である。
そのうちきっと、穏やかに楽しかった想い出の中でゆっくりと会える日が来るだろうと願っている。