読んだり観たり聴いたりしたもの -111ページ目

花より男子 2巻/神尾葉子

と言うことで、斜に構えて読んでみた訳だが、何だか、結構面白くなってきてしまったので、無性に悔しい感じだ。

つくしは相変わらず頑張っている。
そんなつくしにベタ惚れの道明寺がちょっとだけ面白くてややいじらしくて、ほんの少しだけなら応援してやろうかなという気にならないでもない、という感じになってしまうのはやはり口惜しい。
類のあこがれの静が帰国してどうなるかと心配したが、結構安定感まとまり感出てきて好印象。
つくしの友達の土地成金がやはりそれなりの根性があって好印象。

3巻も楽しみだ。

神尾葉子
花より男子 2巻

キャラクター小説の作り方 講談社現代新書/大塚英志

キャラクター小説とは、スニーカー文庫に代表されるような、早い話がラノベのことであるようだ。

キャラクター小説は、近代文学の系譜から新しい飛躍を遂げる可能性を秘めており、にもかかわらず現在のその担い手及び作品の質があまりに粗悪な為、キャラクター小説を志す若人に対し喚起を促すことでその発展に寄与すべく、講義形式での連載をまとめたのが本書であるらしい。

日本の近代文学は私小説に代表されるように、「私」を主人公とし、著者の思考や意図を「私」を通じて表現したもので合ったのに対し、キャラクター小説では、架空のキャラクターの思考や意図を「主人公」を通じて表現したものである、とするのが、かいつまんだ所、著者の主張である。近代文学の代表として「布団」を、キャラクター小説の嚆矢として新井素子をそれぞれ挙げている。
しかし、典拠の少ないこのような分類は少々こじつけが過ぎると思われるし、また、たとえ分離できたとしても、その境目は、かなり曖昧なものであるだろう事は、ちょっと考えれば誰でも分かるだろう。

キャラクター小説が好きだから、キャラクター小説を応援したい、と素直に書けばよいのに。
キャラクター小説とは、古来より小説のパターンとして自然なものであり、著者が力説するほど特別なものではないと思われる。

自作を俎上に上げての分析や、自分が今行っている作業方法の紹介など、実用書としてすぐに役立つ内容が盛り込まれているのは大変好印象だろう。


大塚英志
キャラクター小説の作り方 講談社現代新書

花の国・虫の国 熊田千佳慕の理科系美術絵本/熊田千佳慕

書評に取り上げられているのを見て、何気なく図書館で借りた。
花や虫の絵本なんだろう、ぐらいの前知識で読んだ。

最初パッと開いた時には、驚いた。なんだこの描きかけのような粗い作りは、と。
鉛筆でのスケッチ、それもかなりラフな線画のみ。
こすれて伸びてしまった跡も、間違い線も、名前の書き間違いの訂正も、そのままだ。

しかし、粗くてもずっと眺めていると、ある種異様な迫力というか、線画の持つ生命力のようなものが伝わってきて、一瞬ぞくっとしたほどだ。
やや擬人化されたハチとアブの仲良しコンビが、文字通り、花と虫の国を旅してまわる。いろんな場所、いろんな季節を経て、身の回りの自然の姿を描いてゆく。

後書きを読んで、出版の経緯を知った。
これは、日本のファーブルを目指した細密画家・童画家の著者の遺品の中から出てきた、おかしの紙の裏に書かれた次作の構想のラフだったらしい。

作者の言葉である。
「自然は 美しいから 美しいのではなく 愛するからこそ 美しいのです。」

次はちゃんと仕上げた作品を是非見てみたい。


熊田千佳慕
花の国・虫の国 熊田千佳慕の理科系美術絵本

巴がゆく! 1巻/田村由美

妻がずっとBASARAが好きで読んでいて、その流れで借りたらしい。BASARAは読んでなかったが、タイミングが合ったのでこちらは手を出してみた。

何とも破天荒な物語である。
少女漫画らしからぬ、ハードなアクションの連続。ダークな設定。暗い過去を背負った主人公。箸休めにぽつぽつとほの明るいシーンも入るが、基本はスパイアクション映画のようだ。

ローラーシューズで首都高を暴走する集団のヘッドだった主人公の巴。自らが招いた仲間の死に打ちのめされ、暴走から足を洗う。自身を苛みつつ抜け殻のようになって彷徨う内、あるスタント養成所にたどり着く。しかし、実はその場所は、日本有数の財閥東条グループの非合法な活動を担うスパイ養成場であった。東条財閥の後継争いにも巻き込まれた巴は、戦いの中で自らの道を見いだしてゆく…。というような話らしい。

作画はそんなに好みでないし、展開も設定もむちゃくちゃだが、それでも力業でぐいぐい読ませるのはすごい。
どことなく80年代っぽい埃っぽさを感じてしまうのは、まあ、仕方ないだろう。

木曽義仲と巴御前の話にどう絡んでくるのか、今後の展開が楽しみだ。

田村由美
巴がゆく!

花より男子 1巻/神尾葉子

人気作品を読もうキャンペーンで妻が借りたので一緒に読んでみた。

アニメやドラマになった有名作品という以外とくに何も知らずに読んだ。

親の意向を受け、裕福な良家の子女が通う名門高校にやむなく入学した庶民出身の主人公つくし。人間性の卑しい成金根性の生徒ばかりに囲まれ辟易としながらも、親の期待を裏切れず、波風を立てないよう学園生活を送っていた。学園はF4と呼ばれる財閥系の令息である大物4人組が支配し、やりたい放題。とある事件をきっかけにF4ともめ事を起こし、堪忍袋の緒が切れたつくしはついにF4と孤立無援の全面対決に突入…。といった感じか。

まあ、そこそこ面白いかも知れないが、1点だけどうしても納得できない所がある。
それは、つくしが、F4のメンバーの類に惹かれている所だ。
あんな鼻持ちならない集団の一員というだけで、人間性最悪のレベルの低い男だと言うことは分かり切ってるのに、なぜ惹かれるか。そんな奴の、まさに容貌だけで心ときめいてしまうような、つくしの弱さが無性に嫌だった。
失望ということか。F4など全員蹴り倒して欲しかったが、多分そういう方向性の話ではないのだろう。

人気作ということは、2巻以降で見るべき所がきっとあるのだろう。そこに期待。


神尾葉子
花より男子 1巻

クリスマス・キャロル/ディケンズ・坂田靖子

実は恥ずかしながらディケンズは読んだことがない。
もちろん有名なのでおぼろげな内容ぐらいは聞きかじって知ってはいた。

そこで、この本である。まあ、少々時期は早いが、好きな作家による漫画化作品でさっくり読んでしまおう。

内容であるが、みんな知っている通りだろう。商売に入れ込むあまり、ドけちの強突張りで、他人のことなど一顧だにせず、金を貯め込むことだけが生き甲斐の中年男スクルージが、ある年のクリスマスイブに、死んだ友人の霊と、過去現在未来の現実を突きつける精霊との旅を通じ、これまでの行いを悔悟し予定される寂しい未来を拒絶し、今一度生まれ変わったように心を開いて、クリスマスを祝う人々の輪に加わり、人生を取り戻す、というお話である。

ほのぼのとした坂田さんのいつものタッチで、安定して安心して読み進められる。

最後のページ、人間性を取り戻したスクルージの笑顔が見開きで踊る。わしは間に合ったのだ、と人生を取り戻した彼の、心底からの感動が伝わってきて、落涙せずにはいられない。
素晴らしい作品である。

そうだ、このパターンはどこかで見たなと思ったら、お茶にごすのまークンではないか。なるほど、やはり名作には共通するパターンがあるものだ。


ディケンズ・坂田靖子
クリスマス・キャロル

スラムダンク 10巻/井上雄彦

いよいよ準決勝、翔陽との戦いが始まる。
連続退場記録の花道は、リバウンド王に開眼。昨年2位の翔陽に食い下がってゆくが…。

白熱の接戦、そして真のエース藤真の登場。
次巻以降の展開が非常に気になる所だ。


井上雄彦
スラムダンク 10巻

ダンゴムシに心はあるのか/森山徹

期待していた内容とはかなり違った本だった。

先にこの本の内容をザッとかいつまんで説明しておくと、気鋭の動物行動学者がダンゴムシを使った実験を繰り返し、その愛すべき小さな生物の行動をつぶさに記録分析し、そこに「心」の解釈を打ち出す、という自身の研究報告を一般向けにまとめたものである。

まず実験の記述は文句なく面白い。どういう装置でどう実験を行ったのか、与えた課題に対してダンゴムシはどう行動したのか。大変興味深い内容のレポートとなっている。また、その舞台裏、つまり、ダンゴムシの飼育から始まって、装置の作成や、その失敗談など、普通の研究者なら敢えて書かないような楽屋ネタも多く、非常にサービスがよいと思う。タコの話も面白かった。
また、研究者としての真摯な心構え、特に、実験対象物にどこまで愛情を持って肉薄し、いかに彼らが実験時に平常を保てるように扱うかが実験の最大のポイントである、という行には感服した。
少なくとも、これらの点だけで、この本を読む価値はあるだろう。

しかし、「心」の解釈の部分は、全く期待はずれだった。「心」に関係する部分と実験の解釈部分は、読み飛ばしても構わないだろう。

ダンゴムシの知能を調べた研究である、とするならよいのだ。しかし「心」と言い切ってしまうと、それは首肯できない内容と言わざるを得ない。

以下は私の持論である仮説を軸に評したい。

「心」の研究を行うのなら、まず、「心」の定義を行わなくてはならない。

著者は、「心」=「隠れた活動部位」だという。
例えば人間の太郎君を観察しよう。太郎君は歩いてきて、あなたに「こんにちは」と挨拶した。この観測された太郎君は太郎君の全てだろうか?そうではない。彼の精神活動は、夕飯の予想に勤しんでいたかも知れない。彼は実は私が嫌いで、本当は顔を見るのもいやだったかも知れない。実は、疲れて倒れ込みたい欲求をぐっと我慢して歩いていたのかも知れない。
太郎君には観察された行動や状態以外に、多数の考え得る行動パターンがあり、実際どの行動だろうと起こりうるが、彼の内面ではその多くの行動は抑圧され表出しない。その表に出ない部分が、心である、と著者は定義するのである。
平たくいうと、もし太郎君が予想外の行動を取ったとすれば、それは彼の内なる心が表に現れた、と見なすことができるのではないか、と著者は言うのである。

これは非常に誤解されやすい定義であるし、そのくせ本書中でも説明が過小かつ曖昧である。

実際ネットで検索しても、批判と違和感の表明が多数見付かる。

当たり前である。
予想という部分が観測者側の条件である以上、心が観測されたかどうかの判断は恣意的にならざるを得ないからだ。もちろん、だからこそ著者は、対象物の行動予想とは体で覚えるような長く厳しい事前準備が必要と力説する訳である。日本のサル学から連綿と繋がるそうした方法論は理解できるが、「心」の研究の前提条件としては、精緻さに欠けると断じられても致し方ないだろう。著者が自身で語るように、この方法論では、無生物無機物にさえ、「心」を見いだすことが可能であるのだから。

しかし、実はこうした批判は的を外している。

なぜなら、そもそも、「心」は、無機物だろうとダンゴムシだろうと見いだすことが可能であるからだ。

「心」とは、対象物に内在する機能と考えられがちである。著者にしても、本書ではその点をはっきりさせず、上記のような「心」の定義を用いて実験を行いながら、その内在性に曖昧に依拠しているような記述もある。

しかし、そもそも「心」とは内在しないのだ。
無機物だろうと、ダンゴムシだろうと、もちろん人間だろうと、「心」などというものは、それらの内部には存在しない。
「心」は常に外部から観察される事によって初めて存在しうるものなのである。
平たくいえば、「心」とは、そこにはあるだろうという推測に過ぎないのだ。

「心」とは、観測からその原因を分析し、そして現在と未来を推測するシステムが想定するモデルに過ぎない。
これが私の仮説である。

だから、著者がダンゴムシに「心」がある、というならダンゴムシには心はあるのだし、職人が、ジュラルミンの板には「心」がある、というなら確かにそこに心はあるのだ。
ちょっと古いがAIBOにも心があると信じているユーザーは多くいただろうし、愛犬家は飼い犬には心があると信じているだろうし、恋人同士は互いの心を疑いもしないだろう。
しかし、それは単なる幻想である。心などというものは実在しないのだ。
もちろんこれを書いている私の中にも心など無い。もし心があるように見えるのなら、そのように「心」を観察している誰かがいる、という事が言えるだけである。私自身を含めて、だ。

人間には、自分には心があるという揺るぎない自覚がある。そして、そこからの類推で、他の人間にも心がある、場合によっては、他の動物や植物その他にも、同じように心があるはずだという判断を行う。
一般的にはこのように考えられているだろうが、私は、これは逆だと考えている。
人間は、進化により群れの仲間の内部状態を「心」として推定するシステムを獲得したと思われる。表情、発声、臭い、フェロモン、行動、体温、触感、その他の知覚データから、特定の個体の状態を推定する事ができれば、そして未来の行動を予測できれば、生存競争で優位に立てるからだ。そして、このシステムは、基本的に同じパーツで構成される、自分自身の発するデータをも自動的に拾ってしまい、自分自身の「心」を自動的に推定し続けてしまう。このように「心」とは、このシステムが映し出す幻影に過ぎないのである。他人の「心」より自分の「心」の方が際立って確固とし、極めて身近に感じられるのは、単に推定のソースとなるデータが「濃い」為である。

言い方は悪いが、騙す、といった方が分かりやすいかも知れない。
人間の脳は、「心」に騙されやすいようにできているのである。
人間は同胞を見ると、そこに心があると騙されてしまうのである。そしてもちろん、自分自身にも心があるのだと、すっかり騙されているのだ。人間のこの「心」に騙されやすい性質はかなり柔軟性があるので、他の動物や、機械、果ては単なる無機物にさえ心があると、やすやすと騙されてしまえるのだ。
誤解の無いように言っておくが、これは大変素晴らしいことである。私は、妻を始め愛猫、そしてその他の人々にも、どうしても心があるとしか思えない、強制的に勝手にそう思ってしまわざるを得ないという、「正常な」脳機能が、私にもちゃんと存在することを、本当に良かったと思う。

さて、ここまでを踏まえて著者の「心」の定義を見直すと、その意義がようやく分かる。
なぜ、「心」=「隠れた活動部位」であって、「心」=「表だった活動部位」ではないのか?
それは、「表だった活動部位」は、推測ではなく、単なる観測だからである。

例えば、木が揺れているとしよう。
木は何故揺れているのか?風が吹いて物理的震動が生じているのだろうか?
それとも、木には、「揺れたい」と思う「心」があって、そのために揺れているのだろうか?
この二つはどう判別したらよいのだろう?
答えは、観測からは判別できない、ということである。

同じアナロジーで別の質問をしよう。
例えば、恋人が「愛しているわ」とささやいたとしよう。
彼女は、そう「心」で思ったからささやいたのだろうか?
それとも、彼女は、全く思ってもいない嘘を口にしたのだろうか?
それとも、特に目的もなく、無作為に動かした口唇と声帯が生み出した空気の振動が、たまたまそう聞こえただけだろうか?
それとも、実は彼女は精巧なロボットで、頭に埋め込まれたコンピュータの指令で動作しただけだろうか?
答えは同じで、観測からは判別できない、ということである。

もう一度書こう。
「心」とは、観測からその原因を分析し、そして現在と未来を推測するシステムが想定するモデルに過ぎない。
彼女に心があると信じているのは、私の脳がそう推測するからである。そう信じたいからである。
もし同様に、私が木に心があると信じるなら、木はきっと揺れたいと思っているのである。

闇の暗さをよく調べようとして明かりを灯せば、闇は消えるのである。かといって、闇のままでは何も見えない。
このジレンマとよく似ているだろう。

推測こそが「心」の本質なのに、実測してしまったらそれは単なる観測であり、「心」は消えてしまう。
推測が推測である為には、それは観測されてはならないのである。
それが、、「心」=「隠れた活動部位」の意味である。「表だった活動部位」については、いくら調べてもそれが「心」ゆえの現象かどうか結論など出ないのである。

ではどうしたらよいのか?
そこで著者がやむなくひねり出したのが、「予想外」、というアクロバットなのである。

ある対象について、あらゆる「表だった活動部位」を調べ尽くしたとしよう。すると、もしその対象に「隠れた活動部位」が無かったとしたら、その対象の行動や状態については極めて精緻な予想や断定が可能なはずである。
しかし、もし「隠れた活動部位」があれば、観測を続けるうちに、「隠れた活動部位」による行動や状態が表出するはずである。そしてそれは、隠れているが故に予測不能である。つまり実体の観測ではあるが、予想外の観測を得た一瞬には「隠れた活動部位」=「心」の介在を推定できるのではないか、ということだ。

これが著者の理論である。
しかし、改めて書くまでもなく、穴だらけの理論であることは明らかであろう。

まず、彼の土俵で批判すると、対象を調べ尽くすことなどできない訳である。いくら著者が熱心にダンゴムシを育て、その行動を把握したと思っても、それが完全であるかどうかを、本人もそして他の人も判断できない。
そして予想外という点についても、観察者の恣意であって、別の人は同じデータから予想できると主張する場合もあるだろう。結局、彼の観測が心の存在の証左であるというには弱いだろう。これらは一般的なこの著作への批判でも多いポイントだ。

次に根本的に評すると、そもそも、どのような奇手を使おうと、表層に現れてしまった時点で、それはもはや「心」ではないのだ。そして、心が対象に内在せず、観測者の推測である以上、心があるかどうかの探査は、結局観測者の探査に向かっていってしまうのだ。

著者はこの原理的な限界について今一度よく考えてみると良いだろう。

震えて綺麗な音を出す鉱石があったとしよう。この鉱石の振動を調べようと一生懸命実験を行って、それらしいデータを多数集めた科学者がいた。何のことはない、彼が集めたデータは、実験時の彼の手の震えのデータであったのだ。鉱石自体は震えない。それを持つ手が震えて音が出るのである。

サブサンプションでも、ダンゴムシそっくりの行動を取るロボットを作ることは理論的には可能だろう。
本物、そして全く見分けのつかないロボット、どちらに心があるのかという問いは意味がない。
どちらにも心は無いのであるし、そしてどちらにも「心」を見いだすことが可能なのであるから。


森山徹
ダンゴムシに心はあるのか

日が暮れても歩いてる/椎名軽穂

読み切り椎名漫画第4弾。
3話収録。

表題「日が暮れても歩いてる」。親友みたいな間柄の健太を密かに想う京(みやこ)。しかし健太は京の中学時代のクラスメートに一目惚れ。自分の気持ちを抑えつつ、健太の為に健太を応援する京の切ない心を描く。
終わりゆく夏。日が短くなってゆく日暮れの道を歩く。人は前に歩くしかない。取り返しがつかなくても、壊れてしまっても、歩くしかないのだ。いつか、同じ道を誰かと歩ける幸せが訪れることを願いながら。

「十五の春」。自転車をキーに、中学生の淡い恋心を描いた作品。自転車で颯爽と坂を駆け上がる上原に恋をした初美。泣き虫はっちゃんが、相手の気持ちと自分の気持ちに翻弄され、戸惑いながらも、それでも自分の力で一歩一歩進んでゆく様に、心洗われるようで応援せずにはいられない。二人のドキドキ感を上手く描いて、この中では最も好きな話かな。

「きみはきみ ぼくはぼく」。中学最後の夏、夏期講習に通う甘糟はひょんな事から野球部の梅垣と面識を持ち、惹かれてゆく。その理由はただ一つ。梅垣が梅垣で、私が私だったから。それだけが全てだったあの夏。野球好き作者の野球部漫画である。

キャラクターの個性を描くのが上手くなってきたと思う。外見の描画と表情と性格が良くマッチして、違和感が少ない。また、キャラも上手く描き分けており、バラエティも幅広い。
ストーリーの展開だけで読ませるのではなく、モチーフの描写に力点を置いて、その表現でぐっと読者の心をつかむ力量が上がってきた感じである。


椎名軽穂
日が暮れても歩いてる

聖☆おにいさん 7巻/中村光

おにいさんファンの妻がいそいそと購入たので、読みました。

大筋では相変わらずな雰囲気で、面白かった。

しかし、おにいさんにはこれまで破壊系のギャグは無かったのに、ちょっと破壊テイスト入ってきた感じである。

これまではずっと空気読みギャグだった。宗教という気をつかう材題を扱っている以上、ある程度はやむを得なかった訳だ。
空気読みギャグとは、ある意味、あるあるの事である。
となれば誰でも分かるように、あるあるは有限であるので、いずれ枯渇する。しかも面白いギャグになり易い所から真っ先に枯渇するのである。
従って、連載が続くにつれ、あるあるはどんどんマニアックなエリアへ広がざるを得ない。しかし、そんなマニアックなあるあるで笑いを取るのは骨が折れるだろう。
ということで、破壊系へ覗きに来たのだろうと思う。
しかし、この題材で破壊系をやるのはかなりテクニックがないと難しいと思うよ。

次巻以降どうなってゆくか楽しみである。


中村光
聖☆おにいさん 7巻