中学高校の合唱部や
地域の合唱団での活動が高じて
音大進学や歌手を目指す
いわゆる「合唱上がり」。
彼らが道を誤り
「音痴な歌い手」へと
進んでしまう原因には
もうひとつ、
「大規模合唱の罠」が存在する。
私は「合唱上がり」ではないので
中学高校での合唱部の活動内容に
それほど詳しくはないのだが、
それでも「全国中学合唱コンクール」や
「全国高校合唱コンクール」本選などでの
各学校の演奏を聴く限りにおいて、
「かなり良く訓練され、統率されている」
という印象は持っている。
まあ、茶の間で聴けるのは
いずれも上位入賞校の演奏なので
そこでの演奏レベルが即
全国の中学高校の合唱部の
全体のレベルというものでもないが、
それでも、
合唱部員一人一人に
責任と自覚をもっての演奏を
求めていることは容易に推察できる。
それは
演奏における「ピッチの問題」や
「響きの問題」「音色の問題」、
そのいずれに関しても良い意味で
「耳を鍛え音感を育む環境」を
合唱部が持っていることの証左となる。
ところが、
その合唱部での活動をきっかけとして
音楽大学進学を目指し、
いざ音大に入ってみると
そこにはこれまでと違った
合唱のスタイルがあったりする。
3学年合同、
盛時には百名を超える規模の
合唱の授業だ。
年末に良く行われる「第九」や
プロの交響楽団との共演で行われたりする
「千人」「大地の歌」「レクイエム」
その他の大規模合唱作品群・・・
N響や読響、都響などの定期公演で
「合唱:〇〇音楽大学」の名がつくものは
全てこの3学年合同で行われている
大規模合唱の外部委託公演と考えていい。
これだけの規模となると
合唱の実態も中学高校のそれとは
いささか異なってくる。
特色の一つは
「声楽専攻の必須単位としての合唱」
であること。
つまり、参加している者の全員が
「合唱志望」とは限らず、
中学高校の合唱部ほどの集中力は
望めないということ。
まあ、元来が
「声を出すのが好きな者」な上に
学外の委託公演に出演となると
一応のギャラも発生したり
アフターの楽しみもあったりするので、
そこそこ皆楽しんで参加しているけどね。(アハハ)
でも頑なにソリスト希望で
「必須授業だから仕方なく出るけど、
わたし、合唱するために
歌科に入った訳ではありません」
と公言してはばからない奴もいたりして、
そこは「お察し」だったりする。
そうした雑多な者達が集まる
大規模合唱の現場で歌う内に
皆、気が付いてしまうのだ。
「ピッチは大事だし
響きも音色も大事。
でも、何も自分一人で
全て抱え込む必要はない。
各パートの中核となる者に
声や響きを寄り添わせてしまえば
随分と楽ができる」
・・・ということに。
実際、合唱の現場では
各声部を担当するメンバーの中に
中心・中核となる者が存在する。
「人レベルではなく
鬼レベルの耳を持ち、
音程・音高の確かさと
ハモるポイントの的確さが
際立っている者」
こういう者が1人2人いたりすると、
他の者達はこれ幸いとばかり
その者の声に追随していくことになる。
いわば「道しるべ」
「ガイドビーコン」みたいなもの。
自分の声が不安定で
まともにピッチを取れなくとも、
音程を定める声の中心部を
「道しるべ」となる者に委ね
彼の声の響きを
増幅するだけの存在に徹すれば
それで「声部」としての
音はまとまったりするのだ。
これが
「大規模合唱の罠」。
この罠に嵌ると、
演奏する上での一番肝心な
「音高(ピッチ)・響き・音色」を
自分で確定するのではなく
他人に委ねることになる。
しかもこの手の合唱を
続ければ続けるほど、
その状態に慣れてしまうのだ。
気づかぬ内に、
本当に無自覚に・・・!
その結果がどうなるか?
いざソロを歌おうとした時、
いざ他団体のオペラの公演などに
ソリストとして出演した時、
無残なまでに証明されてしまう。
演奏者として一番大切な
「ピッチ・響き・音色」を
他人に委ね続け
それらを聞き分ける「耳」を
鍛えてこなかったツケとして
「音痴な歌い手」に
なってしまっているのだ。
自分でも気づかぬ内に、
本当に無自覚に・・・!
有名なプロ合唱団の団員が
往々にして独唱に弱かったりするのは
この辺りが原因となることが多い。
「東京オペラシンガーズ」しかり、
「東京混声合唱団」しかり…
「新国立劇場合唱団」もまた
その例外ではない。