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Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

間違いなくこの映画はトリュフォーの代表作、傑作である。

トリュフォーはこの原作を古本屋の中から発見して映画化を構想するが自分にはまだその準備ー表現するだけの成熟がないと自覚して長編一作目は「大人は判ってくれない」にする。このクールな自己評価こそトリュフォーのゴダールにない魅力だろう。

 

 

原作を読んで、彼トリュフォーが魅了された要素は何であったか。

推測するに、カトリーヌの中に自分の実母を見たに相違ない、と言うのが私の見立てである。即ち「大人は判ってくれない」の自伝的部分で彼は母親が路上で養父とは違う男と口づけをしているのを目撃するが知らんふりして友だちと通り過ぎる、一瞬母親と目を合わせるが。その母親の愛人は夕食のテーブルに皆にプレゼントを持ってきてしばしば同席する。その三角関係、と言うよりは幼いトリュフォーを含む円環的関係の中に母親に対する複雑な感情(コンプレックス)を懐胎して行くのだ。

 

第一次世界大戦をはさむこの物語、ジュールはオーストリア人、瀕死のハプスブルグ帝国の恐らくはその貴族の血を引くボヘミアン、言うなら遊び人芸術家である。一方のジムは小説家志望のフランス人の平民である。ジュールはジムにカトリーヌを「父は名門貴族、母親はイギリス人の庶民、したがってカトリーヌは中産階級(ブルジョワジー)を知らない女」と紹介する。

 

1962年公開の本作は、世界中で特に英米でヒットし、原作の小説もベストセラーになった。多くはカトリーヌの生き方の中に自分を投影した女性に支持されたらしい。

ハイデッガーとウイトゲンシュタインの研究者である哲学者のカヴェルの著「眼に映る世界 World Viewed 」にこの映画の批評があり、おこがましいがそれに対する私見を交えて以下、何点かに分けて紹介する。

 

1カトリーヌ

既に友人同士であったジュールとジムが、自分たちの生きたミューズとしてカトリーヌに魅了される。始めに愛を告白してカトリーヌと結婚するのはジュールだ。

カトリーヌは結婚の承諾にあたり「ジュールはうぶで、私は男を知っているからこの結婚は釣り合っている」と言う。ジムはジュールに「結婚に賛成するか正直に応えてくれ」と問われ、「家庭的な女ではない。地上では幸せになれない女だ。彼女は幻だ独占できない女だ」と忠告するがジュールは耳を貸さない。カトリーヌは2人の男に主導権を持つ。それは2人の男が自分に魅了されていることを知っているからであり、二人の男の潜在的なライバル心を利用しているからでもある。三人である芝居を見に行った帰り、カトリーヌは「主役の娘はいいと思う。自由を夢見新しい生き方を求めている」と評価するが、ジュールは「夫婦間で大切なのは女の貞節だ。男の方は重要じゃない。女は自然で下劣なけだものと書いたのは誰だっけ」とジムに問いかけ、ジムが「ボードレールだ。だが売春婦のことだ」と答えると「いや女全般の事だよ」と答える。

こうしたやりとりを聞いたカトリーヌは振り返って「ふたりともバカね」と言い、ヴェールをとり着衣のまま(汚い)セーヌ川に飛び込み泳いで岸につき二人に引き上げられる。

ナレーションは「この飛び込みはジムに強烈な印象を残した。激しい讃美の情がほとばしり出た」と語る。

 

じきに戦争が始まり、二人はオーストリアドイツ側とフランス側に別れて闘うが、戦争が終わってジムはドイツに近いアルザスの山荘にジュールとカトリーヌを訪ねる。二人には娘が1人いるがその関係は底流に冷え冷えとした感情が流れている。カトリーヌは近くの村にかつての2人の友人だった男が療養で来ており、カトリーヌがその男と関係し、ジュールはカトリーヌを失う事を恐れていた。「彼女は僕を捨てそうだ。一度あったことだ6ヶ月も帰ってこなかった。僕だけの妻ではない。3人も愛人がいた。結婚前夜独身に別れを告げるため男と会った。僕に対する復讐だと言うんだ。僕は不必要な男だ」。

ある夜カトリーヌはジムを誘い2人は深い森の中に入る。

ジムはカトリーヌとの数々の出会いの際の自分の感情を語り、カトリーヌはジムに「ジュールの無邪気さと寛大さと傷つきやすさにひかれたの。他の男とはまるで違っていた、私は彼を危機から救いたかったの。でも危機は彼の一部だった。私たちはひとつになれなかった」と告白する。そして夜が明ける。ナレーションは「ジムはカトリーヌへの欲望を押し隠した。彼女を引き留めよう、ジュールのために?彼自身のため?どちらでもいい」。2人が山荘に帰り階段で2人が触れ合いジムが抱きそうになるとカトリーヌは身を翻して階段を上る。「彼女はジムを誘惑しているのだろうか・彼女はとらえどころがなかった」と続く。

 

ある夜、カトリーヌに「親和力」(ゲーテ)を貸すために寝室を訪れたジムはカトリーヌを求め2人は遂に一つになった。「彼女の顔に歓びと驚きがあふれた。もはや彼には他の女は存在しなかった」とナレーション。カトリーヌとジムはベッドを共にし、「ジュールは私たちを愛している。私たちも彼を愛している」というが、ある日カトリーヌがジュールとじゃれ合う声を聞いた「ジムは嫉妬する権利がないと思いつつ嫉妬した」とナレーション。

 

数日後ジャーナリストとしての仕事でパリがジムを呼び返した。

その間カトリーヌはジムの婚約者として手紙を書くが、ジムはパリでの交際相手の女性を振り切れないでいた。そしてようやく山荘に帰るとジュールのみが出迎える。

カトリーヌが煮え切らないジムに不満を抱いていること、前日に出て行ったことを告げる。

 

「彼女は何でもとことんやる女だ。彼女は女王だ。彼女は特に美しいわけではない。聡明でも誠実でもない。だが女そのものだ。僕らが求める女、全ての男が夢見る女だ。そんな貴重な女がなぜ僕らに授けられたのか?僕らが彼女を女王のように迎えたからだ」とジュールはジムに言う。

ジムはカトリーヌと先々うまくいかないと感じ、ジュールとの友情も息苦しいものを感じているとジュールに告げ、翌朝パリに帰る決心をする。

しかし当夜カトリーヌが外泊から戻り、2人は再び同衾する。

「あなたのように私にも用事があった、あなたと同じように別れの挨拶をしたのよ。今夜は静かに寝るだけにして。もし今生まれたら誰の子か判らなくなるのよ」とカトリーヌに言われてジムは反対側を向く。そして別居を決意したジムはパリに帰る。

 

カトリーヌはジュールに「私たちずっと一緒よ。私をそばに置いて」と涙ながらに懇願する。

カトリーヌの中に老いる不安、死の不安が兆すのだ。

パリに帰るジムをカトリーヌは駅まで送るが、時刻が変わりホテルに一泊することになる。

寒々としたホテルの部屋で2人は終止符を打つつもりで体を交える。

翌日ジムは発つがカトリーヌはハンカチすら振らなかった。

パリに帰ったジムは病で自宅で療養している。

カトリーヌから手紙で「妊娠らしいわ、来て」と手紙が来る。

ジムは「僕は病気で起きられない。君に会いたいと思わない。あんな冷たい別れで妊娠するはずが無い」と返信する。ジムからの冷たい手紙に「愛してるわ、私妊娠したわ、あなたの子よ確かよ。お願い信じて、あなたの愛が私の命よ」と冷たさに釣り合う熱い返事が来る。

 

ある日パリでジムはジュールとばったり会う。

カトリーヌとセーヌ河畔の水車小屋を借りたという。

ジムはジュールに同居の女性ジルベルトを紹介し、近く結婚するつもりだと告げる。

ある夜電話が鳴る。カトリーヌからだ。自殺を予感させる内容にジムは水車小屋に向かう。

「私と一緒に寝て、キスして」とせがむカトリーヌにジムは「僕にも衝動がある、僕は自制できる、君には出来ない。僕も夫婦は恋愛の理想では無いと思う。周囲をみればよく分る。君は偽善と諦念を拒み よりよい何かを求めた、君は真の恋愛を生み出そうとした。ジルベルトとは一緒に年老いる約束をしたが、君と結婚する希望は無い。僕はジルベルトと結婚する」と宣告する。「わたしはどうなるの?私の子供はほしくなかったのね」。

そういってカトリーヌは突然怒り「卑怯よ、大嫌い殺してやる」と隠し持ったピストルをジムに向ける。ジムはそれを奪い取って窓の外に放り投げ、自らも屋外に飛び出し消え去る。

 

ある夜ジムは映画館に行き、焚書のニュース映画をみる。偶然後方でジムとカトリーヌがジムを見つけ、カトリーヌは男二人をドライブに誘った。カトリーヌは車を飛ばし河畔のカフェで一休みした。ジュールは「彼女は君を捕まえたが君は逃げた。君の情熱はゼロに戻ったが彼女の恋は百倍も燃え上がっている」とジムに二人きりの時話す。そこへカトリーヌが車で来て「ムッシュージムお話があるの、一緒に来て」と指示し、運転席(左ハンドル)から身を乗り出し「ジュールよく見ていて」と声をかけジムと出発。車内でカトリーヌはジムに微笑みかける。

車はすいすいと林を抜け、そして途中で崩落した橋の上から川に飛び込む。

 

「彼女の裏切りと死を恐れていたが何もかも終わった」

「死体は葦に絡まっていた。大きいジムの棺、宝石箱のような彼女の棺。何も残さぬ二人。ジュールには娘がいる。彼女の生き方は徹底していた。ジュールは重荷を下ろした気持ちだった。ジュールとジムの友情は絶対だった。」

このナレーションを背景に墓地の坂をひとり下って行くジュール、、、

 

2ジュールはなぜに重荷を下ろした気持ちだったのか

最後のナレーションはジムの独白にちかい。

カトリーヌに翻弄される日々は終わったのだ、、、という気持ちはあるだろう。

しかし同時に生涯の友人をも失った。

その友人とはともに同じ女を愛し、女の激しさが二人の友情を揺さぶる。

カトリーヌを見るときジュールは自分だけで無くジムを意識する。

カトリーヌを見るときジムはジュールの影を意識する。

ジュールとジムが友人同士でかつその二人がとカトリーヌを同時的に存在することで、三角関係と言うよりは3人の円環的関係、つまり出来事の因果関係が重層化し解きほぐしがたくなる。そして円環的関係は閉じた関係でもある。その閉じて出口の無い関係、堂々巡りから解放された気持ちが「重荷を下ろした」と言うことなのだろうと解する。

カヴェルは三人の関係の中に(共同体の核)と敷衍するが。

 

3,なぜ題名は「ジュールとジム」でカトリーヌではないのだろう

これは原作者を読んでいない(和訳はないようだ)のでいかんとも言いがたいが、最後のナレーションの「ジュールとジムの友情は絶対だった」にあるのだろう。

あるいはトリュフォーの原作者ロシェに対するレスペクトから、とも考えられる。

友情で結ばれた二人が奇しくも同じ一人の女性を愛する運命に入り込み、最後は一人が残される。カトリーヌはその意味で「ファムファタール」である。しかし「絶対」とは言うもののジュールが「カトリーヌを失うよりジムがカトリーヌを得て欲しい」と言うのはジムに対する友情よりもカトリーヌに対する執着だろう。「友情は絶対」と言えるだろうか。

原題の「ジュールとジム」より、「突然炎のごとく」とカトリーヌを形容した日本語の題のほうが映画の内容を良く表わしているのではないかとおもう。

ジュールとジム、二人の芸術家とその作品としてのカトリーヌ、とカヴェルは見なし、ジュールの台詞の中にもそうした表現があるのであるが、ジムにはそうした考えはなさそうだ。カヴェルはハイデッガーの世界に投げ出された(被投的)存在の人間が、危機ー不安に直面して世間知で受け流す(頽落)ことをせずに、直面し投げ出されるままに生きることをアラン・レネの「ヒロシマある愛」の女優の一夜の愛に生きる姿に言及する。カヴェルはカトリーヌの生き様には言及していない。しかしカトリーヌは老いの不安容色の衰えにたいする不安をジュールに対し吐露するが、愛に生きる生き様に葛藤を感じている様子はうかがえない。一方ジムが当初抱いていたカトリーヌに対する人間観や彼の結婚観は世間知であり、その世間知はカトリーヌの炎に焼き尽くされてしまう。その激しい炎はカトリーヌの二人の男に対する「支配欲」である。

そのツールは自分が与える愛であり、男のあいだの嫉妬心であり競争心である。

そして嫉妬心や競争心が衰えかかったときは第三の男を引き入れ、活性化するのだ。

カトリーヌの場合、支配欲とその対局としての怒りである。怒りの炎なのだ。

 

4、ストップモーションと無音のシーン

もう一つカベルがこの映画に注目したのはカトリーヌのストップモーションである。

そのストップモーションは、二人の芸術家がある像の写真に魅了されて南の島に旅する。

そしてカトリーヌの中にその像の似姿を発見し彼女を二人のミューズ(詩神)とする。

トリュフォーのストップモーションはその像への言及なのだ、とカヴェルは解釈する。

私は自動車の無音のシーンに注目した。

カトリーヌが運転する車が囃子の中に入って行くシーンは無音であった。

一方ジムを乗せて走り去り橋から飛び込むシーンと以後の葬式の映像は背景に音楽が流れる。

私はこのシーンこそ無音であって欲しかった。

死出でのたび、冥界の旅への不安と不気味さが一層増したのではないか、と思う。

二人が納棺され焼かれジュールが墓地を去って行く場面にナレーションが入るが、背景には音楽が流れる。この音楽も無いほうが一層思索的で瞑想的であると思う。

 

余談だが、カヴェル(1926-2018)はハイデッガーとウイトゲンシュタインに造詣があり、私にとっては親しみやすい哲学者である。そして母親は有名なピアニストでトーキー時代の映画の伴奏をしたことが多々あったらしい。カヴェルは16才で唯一の白人として黒人のジャズバンドでサックスを担当し、ついでカリフォルニア大学で音楽を学び、名門ジュリアード音楽院で作曲を学ぶも音楽に対する情熱を失って哲学に転向しカリフォルニア大学やハーバードで学んだ。そのカヴェルの映画音楽についての意見はいかに、と思うのだがいまのところ音楽の言及に遭遇していない。

カヴェル

 

5,ナレーションと戦争シーン

カトリーヌの項でナレーションの部分を度々引用したのは、この映画の特徴を伝えたかったためである。ナレーションは主に心理描写に使われるが、演技では曖昧にしか伝わらない部分を明確に伝える意図があるのだろう。あるいは映画をある時間内に収めるための必要性から、と言うことも考えられる。また戦争シーンでは写真とニュース映画のような映像を材料に編集している。トリュフォーが助監督としてロッセリーニに仕えたが、そのロッセリーニは「ローマ、無防備都市」で戦後の資材不足と資金不足の中で過去の写真や、違う映画のために撮っておいた映像を駆使して安上がりに制作した。そういう知恵をトリュフォーも学んだのだろう。

 

6,この映画を傑作とする理由。

ある女性の欲望、愛欲と支配欲が、その強度のしからしむところによって、暴力的な即ち悲劇的な結末を迎える。 自分の欲望とその対象である男の生を永遠に閉じ込めてしまうのだ。

その炎は、全てを焼き尽くしたわけではなく、自分の娘とその養育者を残した。

そこに救いと、少しの希望がある。

冒頭、この映画が傑作であると述べたのは、その主題の苛烈さとその生を生きる女とが分かちがたく結合して悲劇的な結末に力強く向かうからである。

映画の価値は、実存的価値、芸術的価値と娯楽的価値の三つがあるとどこかで述べたが、それが満たされている映画だと思う。

勿論、欠点が無いわけでは無い。しかし欠点の無いことはいい映画の条件では無い。

 

余談だが、カトリーヌがセーヌ川に飛び込むシーン、エキストラはそれを嫌がったが、では、とジャンヌ・モローが自ら飛び込んだ。汚い川のせいだろう、数日のどを痛めたらしい。

また、トリュフォーは二作目の「ピアニストを撃て」が興行成績が悪く、三作目のこの映画の資金は乏しかったらしく、アルザスの山荘のロケのとき、スタッフ俳優15人余りの食事はモローが作ったらしい。プロ意識が強く、覚悟が出来た女優像が浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヌーベル・バーグのカイエ派の面々に評価の高かったブレッソン監督作品。同監督には更に有名な作品に「田舎司祭の日記」や「ジャンヌダルク裁判」などがある。

未見で是非見たいのは「バルタザールどこへ行く」。
 
映画の「概要」をWikiよりコピペする。

この作品は、フランスの第一回「新しい批評賞」で最優秀フランス映画賞を得た。スリの芸術的な要素が主人公の青年の内面的な動きに於いて捉えられる。内容は、あるスリが犯行と更生を繰り返し逮捕される姿を追った犯罪サスペンスである。出演者のほとんどは、プレッソン作品で見られる様に素人である。スリの演技指導を行っているのは、劇中にスリの頭目として登場する魔術師のカッサジである。脚本・台詞は、監督のブレッソン自身が書いている。撮影は『抵抗(レジスタンス)死刑囚の手記より』のレオンス・アンリ・ビュレルが担当した。撮影のロケ地はパリ市内北駅などで行われた。

1959年の作品。日本公開は翌年8月。

スリの芸術的要素、とあるがその意味子細は不明。

 

ブレッソン(1901-1999)は芝居がかった演技を嫌い、その作品限りの素人ばかりを採用し、出演者を「モデル」と呼んだ。音楽はほとんど使用せず、感情表現をも抑えた作風を貫くなど、独自の戒律に基づいた厳しい作風が特徴。そうした自らの作品群を「映画」とは呼ばずに「シネマトグラフ」と称した。

この映画の冒頭「本作は刑事物ではない。映像と音で、ある青年の悪夢の表現を試みている。彼は自分の弱さに負けスリという冒険を行う。この冒険が奇妙な道筋を経て結びつける二つの魂はこの冒険無くして出会うことはなかった」という字幕が出て始まる。

 

この映画に関してブレッソンのインタビューがある。少し長くなるが抜粋して紹介しよう。

”この作品で具体的に示したいと思っているのは、われわれが人生の中で選ぶ道というのは必ずしも予定通りの目的地に連れて行ってくれるわけでは無いと言うこと。

演劇的なものをことごとく拒否して、手と視線とオブジェからなる映画を作りたいと思う。

演劇は映画を殺し、映画は演劇を殺します。映画に必要なのは人間です。

俳優は、たとえ才能に溢れていても、むしろ才能に溢れている場合にこそ、人間存在について極度に単純で偽りのイメージを与える。

大切なのは出演者が監督に見せるものでは無く彼らが監督に隠しているもの。

出し抜けに捉えられた視線は崇高なものとなりうる。

「いかなる動きも、われわれを露わにする」とモンテーニュは言いました(パンセ岩波文庫上427p)私にとって身振りや台詞自体は映画にとって本質的なものではありません。本質的なのは身振りや台詞が喚起する、この事物、これらの事物たちの方なのです」(同書76p)”

 

青年がスリの舞台とするのは競馬場や地下鉄の車内や銀行のロビー。

人々が何かに注意を集中し、あるいは転轍器によって車両が揺れるとき、掏るものの好機が訪れる。掏る手先の巧妙さはマジシャンに共通するものだろうから、高度なテクニックで、粗暴犯には無いある種の知性も必要だろう、が「芸術」とまで言うのは誇張だ。

映画の中でスリのバイブル「The Prince of Pickpocets」が出てくる。

これは18世紀の実在のスリの名人らしい。

 

 

スリに才能を見いだした貧乏大学生と、たまたま母親のアパートの隣室に住んで母親の危急を知らせてくれた女性とが出会う。二人が話し合うとき一旦視線を落としそれから相手の目を見て話す、その話しぶりには並々ならぬ緊張感が漂う。その緊迫感から解放されたとき、つまり会話の終わった時に音楽が流れる。だから一層音楽が心に染みるのだ。

二人は惹かれ合っているのか、それはわからない。

再び二人が相まみえるのは、男がスリの猟場をロンドンに変え再びパリに戻って、彼女を捜し求めてから。 

男が訪ねたとき、そこでは子供が1人遊びしている。

女性は彼の友人でもあり、彼女を熱心に口説いた男の望みに応じて結婚し子供を作り、後にその友人は妻子を捨てて姿をくらましたことを男は知る。

終に男は彼を追う刑事に嵌められ逮捕され収監される。

その彼の元に彼女が面会に訪れ、彼は自分が彼女を愛していたことが熟々わかる。

「2人の魂が出会う」(ブレッソン)には一筋縄ではいかないのだ。

 

もう一つ、「演劇は映画を殺し、映画は演劇を殺す」という意味だが、映画はカメラに捉えられたシーンは一回限りであるが演劇は繰り返し上演される。その違いが大きな差をもたらす。例えば演劇は通常、毎回同じ台詞と演技が要請される。それが演劇の品質の一部だ。映画にはクローズアップやモンタージュなど目に映る演技者の表情を捉えたり、意味を作り出したりすることが本質だ。それだけに演技臭さは見るものをしらけさせる。つまり繰り返し上演される演劇と違い、映画では演技者はクローズアップで「演技することで真実性」を失うという危険に直面する。演劇では表情は捉えがたく、伝達するためには大きくて明確な台詞と動作が必要になる。

そこで映画作家は「真実性」を出すためにいろいろな手法を考える。

ゴダールのように俳優には予めシナリオを渡さす、現場で一句一句伝える。

あるいは溝口健二のように、俳優に演技指導をせずに、ダメ出しを繰り返して俳優を追い込む。

ブレッソンの「素人」を使う、もそうした努力の系譜に連なるものだろう。

 

この映画で起用された女優マリカ・グリーン(1943~)はストックホルムの生まれで10歳の時フランスに引っ越し、16歳の時この映画に出演した。

 

目に力があり引き締まった容貌をしている。

彼女をみて想起したのは上原美佐(1937~2003)

黒沢明にスカウトされ隠し砦の三悪人(1958)に出演。

 

黒沢は彼女に野生と気品をみたという。

上原はその後数本の映画に出演するが、自分には才能が無いと自覚しわずか2年後には引退して消息が途絶える。

その鮮烈な引き際が一層記憶に残る女優にしたように思える。

そしてマリカ・グリーン。ヴィスコンティの「山猫」(1963)に彼女が出ていたらどうだっただろう、という妄想を楽しんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10月8日開催したばかりの同展、今月は他に気を引く展覧会がないので早々と出かける。

今回も3点取り上げる。

マチス、ジャコメッティ、ピカソ。

 

1マチス 「縄飛びをする青い裸婦」 1952年作 切り絵

中心を占めるのは右足を支えにして左足を高く上げている人間であることがわかる。両手も頭部もその位置と形でそれと知る。

胸の位置の部分が出ているから女性であることが察せられる。

両足の脇にあるものは何だろうか?

なにか台のようなものと見えなくはないが、題名によってこれが縄であり、縄飛びの動作をする人物が裸婦であることが指示されている。

このように見るのは、われわれが女性や縄飛びについて予めある観念を持っているからである。

例えば次のウサギーアヒルの図は、ウイトゲンシュタインの「哲学探究」やゴンブリッチの「芸術と幻影」に取り上げられている著名なものであるが、

​​右側のつきでた部分を口のように見て取ると左側の二股は耳と見て取ることが出来る。一方その左側をくちばしと見るとアヒルのように見て取ることが出来る。

ウイトゲンシュタインは「~のように見て取る」ことをアスペクト(閃き)、と呼んでいる。一方ゴンブリッチはこのような「変容」を「幻影」の手がかりとするのだが、いずれにしてもウサギと見るときはアヒルを見ることは出来ないし逆もそうであり相互に排他的である。

私が強調したいのは、どちらに見て取るにせよ、われわれは既にウサギとアヒルの観念をもっていることだ。

たとえば、ピカソの像の線画。

実際に像を見たことが無い者でも、「象さんの歌」と絵本を見てそれが記憶の中にあれば幼児でも象と見て取ることが出来る。

一方同じピカソの次の線画はどうだろう。

これが裸の尻であることが分るのは人によるが何歳ぐらいだろうか。

まして「女性の尻」と見て取るのはやや誇張して言えば、ある人生経験を必要とするのでは無いだろうか。

これらは先に述べたように「観念」、絵を描く側とそれを鑑賞する側に大部分共通する観念が既に形成されてあるからである。

ゴンブリッチは、絵を描くときにそれを描く描き方を学んでなければ「描写」が出来ない、としている。つまりライオンや鯨の先行する描き方を学んでいないと描けない、と言う。

そういう場合もあるだろう。

しかし最も大きな要因は「見たことが無く、それについての観念が形成されていないこと」である。

風景もある観念のもとに描かれる。

もちろん絵の購入者の観念、たとえば風景や人物の描き方に特定の様式を美とする観念が作家の描き方に大きな影響を及ぼすこともある。

 

もう一つこのマチスの青い裸婦で感じるのは、形態が、あるいは輪郭が、と置き換えてもよいが、色彩に先行する、ということだ。

マチスは恐らくそのことを発見してから、自由に色彩を、既成の観念にとらわれずに使うことになったのだろうと思う。

 

2,ジャコメッティ 「ヴェネツイアの女」 1956年

この立像もその形態から女性の立像と認識できる。

それが「ヴェネツイアの女性」であるかどうかは、作者の指示である。

マチスの切り絵にせよ、ピカソの線画にせよ、そしてジャコメッティのこの立像もまた、対象の観念を呼び起こす、その最低限の要素は何だろうか、という問いが立てられる。

ミニマリズム、というかそれを彫刻で追求したのがジャコメッティである、と言われ、ゆえに彼はしばしば「本質を追究する彫刻家」と呼ばれる。

例えば「矢内原伊作」の像の場合、それは人間一般、男性一般ではなく、一個の人間の個性を絞りに絞って限界ギリギリまで追求しようとするジャコメッティは、実存主義の研究にパリに来た矢内原にその格好の対象を見いだす。

そのために矢内原はジャコメッティに足止めされて帰国を伸ばしたりする。またジャコメッティはモデルを近くのカフェでお茶や食事に誘って行動を共にする。それは対象のいろいろな表情や仕草の中に「ミニマム」を発見しようとしたのではないか、と言うのが私の推測である。

そういえば、次に取り上げる「女、女、女の画家」を自認するピカソ(ピカソ、集英社新書瀬木著)もまた、絵の対象は愛人であり日頃から濃密な関係にありその中から多くの絵を描いた。

 

3、ピカソ 緑色のマニュウキュアをつけたドラ・マール 1936年

この絵はそうした日頃のドラの観察から生まれた絵、と思われる。

身長が150数センチしかなかったピカソは大概の女性を下から見た。

鼻の穴が際立つ「泣く女」もまたドラだが、その瞬間の形象を歪みの中に明確な統合性をもって描き切る能力に脱帽する。

「ピカソと恋人ドラ」(平凡社)を著したジェームズ・ロードによれば、ドラはマニュキュアに凝って、一時間以上架けてマニュキュアをしてもらい、またドラはよく泣く女ーピカソとともに独占欲の強い二人はよくケンカもしたらしい。また、ドラは写真家で絵描きでもあったが、プルトンのシュールリアリスモ運動に参加し、ピカソの写真も多く撮った。

芸術や共産主義などを通じて言わばある緊張を孕んだ同志的関係の側面もあったであろう。

一方ロードはゲイで、ドラからすればその女性性において友人でありその男性性において盾でありエスコートする者であった。

ピカソからすれば、ロードがエスコートしてくれる分、自分は他の愛人や子供達に割く時間が取れるから便利な存在でもあっただろう。

ロードはジャコメッティとも親しく、以下の書がある。

言うまでも無くこの扉絵はジャコメッティによるロードの肖像画である。

この作風の絵は矢内原のものがいくつかあるが、このユニークな絵はどのようにして出来上がったものであろうか、という興味が湧く。

アトリエが暮れなずんで行くとき、まず彫像が周囲の空間に溶け込んで行く。それはブロンズの暗色が光の反射を失って溶解する如くである。そうした周囲の、いわば背景に溶け出すその瞬間を捉えようとした絵であるように私には思える。

そして尚対象の人物の個性、あるいは本質と言い換えても良いが、それが保持される絵であり得ることがジャコメッティの課題であったに相違ない。

なにを勝手な事を、と研究者や評論家に言われそうだが、鑑賞という体験は かくの如く作品に触発されていろいろな問題意識と想像をめぐらすことにもあるのであり、この想像もあえて言えばこの絵や彫刻の一部なのである。

 

最後に国立西洋美術館と国立近代美術館に一言もの申したい

展覧会場でフラッシュを使わなければ写真撮影を可能としたことは、これで日本の美術館も欧米並みになったか、という感慨がある。

しかし日本的な「過干渉」の風土は依然として根強いものがある。

国立西洋美術館でいくつか写真を撮り、左側に撮影禁止のマークがあったのでカメラを持つ手を下げて絵を見入ったところ、女性の係がやってきて撮ろうともしていないのに「気をつけてください」といいにきた。

「だから(カメラを持つ)左手を下げているじゃないか」と反論したがとても不愉快だ。もう一つ、会場は絵に照明をあてている事もありやや暗いが、床にねずみ色だろう目立たない色でテープが貼ってあった。

絵を見るとき足下はだれでもおろそかになるが、目立たないテープをはって、それを踏み越えると即やってきて注意する。

これは非常にトリッキーだ。強く言えば罠にかけている、と言ってよい。

先のリヒター展では、リヒターが展示会場のライテングの指示を出すようだから明るい部屋であったが、同じようにねずみ色のテープが貼ってあった。リヒターの「グレー」に見入るうち、なにか表面に凹凸があるのでは、と近寄って横から見ようとしたら係員がすぐ注意しにきた。

その機敏さは恐らく「グレー」にはそういう鑑賞者が多いと考えてのことだろう。

しかしそれもまた姑息で日本の役人らしい。

もし絵に対する鑑賞者の興味がそこにあると思うのなら、コの字型のピアノ線でも張って横からも見えるようにすべきなのだ。

そして注意を、多分不定期で安く雇用しているのだろう女性にさせている。まるでナチの強制収容所のカポみたいに、「囚人の中から選抜して囚人の監視に当らせる」。そしてナチはその背後で残酷なことをさせる。そこまで残酷な、とは勿論言わないが、「過干渉」というのは少なくとも「鑑賞者」を子供扱いしているせいだ。

その過干渉は全体主義の、大衆を従順にさせる一方法だ。

そこに欧米の美術館との大きな、かつ決定的な思想の差がある。

民主主義とは、普通の知性をもったものは、美醜や善悪、正邪の見分けがつくものだ、と言う前提があって始めて成り立つ。

現代の美術館、博物館もその前提に立っている。

ウソだと思うなら、ロックやミルを読んでごらん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カイエ・ド・シネマの批評家仲間トリュフォーが前年「大人は判ってくれない」で見事に批評家から映画作家に転身を図ってカンヌ最優秀監督賞を受賞した翌年にこの映画はリリースされた。トリュフォーの露払いもあってかこの映画は爆発的な人気を呼びフランスだけで二百万人の観客動員があったとされゴダールと主演のベルモンドは一躍寵児になる。

 

英題のBreathlessは息をきらす、息せき切ってと訳されるが、息せき切って行く先は「死」であることが男が犯した犯罪から予示される。

先ずはストーリーをWikiより

ハンフリー・ボガートを崇めるミシェルは、マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺する。パリに着いたものの文無しで警察からも追われているミシェルは、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアと行動を共にする。だが、ミシェルが警察に追われる身であることを知ってしまうパトリシア。パトリシアは、パリで地歩を固めたい駆け出しの記者・ライターであり、ミシェルはどちらかと言うとフランスにいることに執着がない。

やがて一緒に逃げることを断念したパトリシアが警察に通報してしまう。劇中も何度か出てきた「最低」という言葉を最後にミシェルが言う。「君は本当に最低だ」と、かすれ声で言われたその言葉が訊きとれず、パトリシアは「彼はなんて言ったの?」と刑事にたずねると、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられる。パトリシアは「最低ってなに?」と訊き返す。

このストーリーから、何でこの映画がそれほどヒットしたかを知ることは困難だ。よって僭越ながらいくつかのポイントを紹介する。

 

1,ミシェル(ベルモンド)はパリに戻りカネの工面をするために女Aのアパートに立ち寄り女がワンピースを頭から被っている隙に財布からカネを盗む。次の女(ジーン・セバーグ)はパリ大学ソルボンヌ校のアメリカ人留学生でシャンゼリゼの通りでヘラルドトリビューン(当時はニューヨークタイムズの国際版、今はNYTに統合された)の路上売り子のバイトをしているが,彼はまとわりつきながら一緒にローマに行こう、と誘い当日夕方の再会を約す。蛇足だがゴダールはソルボンヌ校民俗学中退である。

このシーンはエキストラを動員したロケではない。

撮影監督のクタールは当時パリの郵便配達人が使っていたリヤカーのような車に幌をかけて周辺に気づかれないように撮影した。

この場面の自然さがセンセーションを巻き起こした。

 

2その翌々日の夜、パトリシアが住む狭いホテルの部屋での二人の会話。

ミシェルはパトリシアの身体が欲しくてたまらない。一方のパトリシアはそれには愛が感じられないと応じられない。

もう一つは警官殺しで追われるミシェルは金蔓のあるローマにミシェルを同行しようと説得し、一方のパトリシアはヘラルドトリビューンの記者の職を得ようと躍起になっているから平行線だ。

どこまでも平行線、、ではなくしつこく迫るミシェルのなかに愛をほのかに感じたらしいパトリシアは身を任せシーツを被って二人でごそごそやってその場面はすぐに終わりるが、この場面堂々巡りしながら終わりまで約25分、全体の三分の一弱が費やされる。

リアリズムといえばリアリズム、つまり女を口説いて簡単にはいかないよ、というところだろう。しかしそれだけの価値がある時間、その後の展開から必然性があった時間だろうか、と考えるとき疑わしいと思う。

一方警察から追われる原因となった警官を撃つ場面では拳銃が(発射場面もなく)映され警官が草むらに倒れ、その後ミシェルが草むらを逃げて行く場面は全体で一分もかかっていない。実に簡単に済ませている。

ミシェルが衝動的な若者であることはこの殺人や駐車中のアメ車のボンネットを開けスタートさせて次々と盗んで捌こうとし、文無しでパトリシアをレストランに誘いトイレで男の後頭部に空手チョップを食らわせてカネを奪うなど簡単に行き当たりばったりに犯罪を重ねる男だ。

途中ハンフリー・ボガートの映画ポスターを見つめ、何度もくちびるを指でなぞる仕草を、多分マルタの鷹のボギーを真似ているが、ボギーは探偵で、解決のために邁進し暴力的というよりは知的な探偵である。

つまり犯罪者を追う側だ。その対象、転移は確かにユニークで面白い。

しかしボギーのポスターの長回しはちょっと作為的だ。

 

もう一つこの場面で特筆すべきは、どうやらフランスの映画制作では義務であるらしい「記録係」の証言だ。

ゴダールは予め役者に脚本を渡さず、現場で自分のノートを見ながら台詞を伝えていたようだ、一句一句。

主要な出演者に予め脚本を渡し、役者は台詞を覚え役作りをする、というのが常道のようだが、反面この方法は既に役者は台詞を役を解釈してしまっており、いざ撮影の時に一旦出来上がったその観念を解体して監督のイメージに合わせるのは確かに困難だから、方法論としてよく分る。

これはゴダールの創造的方法だろう。

 

3,ミシェルを追う刑事はパトリシアが一緒だと言うことをゴダール扮する通行人から知り、刑事はパトリシアにコンタクトする。

パトリシアは通報を要請されるが、尾行されている事を合図でミシェルに知らせ逃亡幇助する。しかし何時いかなる理由で心変わりしたのか覚束ないが、結局刑事に電話して居場所を知らせる。

裏切りはパトリシアがパリでの記者になる希望を捨てきれなかった、というのは後付けの解釈に過ぎない。

そして刑事に後ろから撃たれ両側に車が駐車している車道をよろけながら転びそうになりながら逃げる。そして最後は仰向けになり、事切れる寸前にパトリシアを見て「まったく最低だ」と(字幕では)言う。

そしてパトリシアは刑事に、「なんて言ったの?」と聞き、刑事は「あなたはまったく最低だ、と」そしてパトリシアは「最低って何のこと?」と言いトリュフォーの「大人は分かってくれない」のレオのように画面を見つめ、ミシェルのように指で唇をなぞり反転して後ろ向きになり暗転してFIN.

 

この「最低だ」の部分はその訳をめぐり米国ではいろいろ議論があったらしい(Wikiより)。

ミシェルの「Cest uraiment degueulasse」はDeeplの翻訳ツールでは「胸くそ悪い」と出る。英語では「I'ts really disgusting」と出るからDVDの2001Foxヴァージョンの英訳は間違いとは言えない。

がdegueulasseは、nauseating or making one want to throw up で、吐き気がする、、と言う含意もある。さすればサルトルの「嘔吐」が浮上する。

ついでに2007年のCriterion Collection ヴァージョンでは「Makes me want to puke」となっているらしい(Wiki)ので「吐き気がする」という意味を一層明瞭にしている。

しかしこの無軌道な青年の犯罪と死を、サルトルの「嘔吐」になぞって解釈するのは無用だろう。映画の中でゴダールが説明を省いている部分をもって「不条理」だの「虚無」だのと言っても知的戯れ言にすぎない。

Disgusting は「胸くそ悪い」の意味があるから日本語訳の「最低だ」は間違いでは無いが、やや不満も残る気がする。

が、日本で議論があったとは聞いていない。

 

このDVDの特典映像に「Chamber 12 Hotel de Suede」という一時間20分強のドキュメンタリーが付随しているがこれがなかなか面白い。

トリュフォーやゴダールにリベットやロメールを含めて「カイエ・ド・シネマ」で論陣を張り後に映画作家となった面々を「カイエ派」と呼んでいるが仲間内では「マフィア」のように徒党を組んでお互いの作品を褒め合い、持ち上げ合いして、互いに「天才だ」と言い合っていたらしい。

ジャンプショットも、撮ったフィルムが長くなりすぎたので、編集段階でゴダールが切り取って結果ジャンプしたらしい。

評判なるものの形成過程というか、その頼りなさというか、の一端が垣間見えて面白い。

 

余談だが、Hotel Sweeden はその後改築して今は三つ星のきれいなホテルである。

 

さて、先にパトリシアがパリ大学(ソルボンヌ校)の学生でゴダールもそこに学んだことを書いた。ゴダールが入学したその1949年に、メルロ=ポンティが同大学文学部心理学と教育学教授に就任した。メルロは1908年の生まれで、当時41才の新進の教授であった。既に「行動の構造」や「知覚の現象学」を著し、1945年にはパリの高等映画研究所で、「映画と新しい心理学」と題する講演を行った。

その中で、「もし哲学と映画が同調しており、(哲学の)反省と(映画の)技術的作業が同じ方向に進んでいるとすれば、それは哲学と映画人が共通に一つの世代に属するある在り方、ある世界観を持っているからである。思想と技術が互いに呼応し合い、ゲーテの言う「内にあるものはまた外にある」ことを検証するもう一つの機会がここにあるわけである」

(意味と無意味 みすず書房 p86)と述べている。

しかも1952年には最高峰のコレージュ・ド・フランスの教授に就任する程の著名な教授であったから、ゴダールがメルロの授業を聴講しなかった訳はないが、ゴダールに与えた哲学者メルロの影響に言及した研究は見かけない。ゴダールも自分を語ることが少なく秘密主義、とも言われ、その分資料に乏しいことがあるかも知れない。

ゴダールのその後の映画のブログの中でいつか再び言及するつもりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原題は「Les Quatre Cents Coups」素行が悪い、馬鹿なことばかりしでかす、という意味。英題は「The 400 Blows」

(アントワーヌ・ド・ベック著「トリュフォー」原書房刊p172)

実母と養父

 

先ずはWikiよりあらすじを抜粋。

12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では共稼ぎで冷たい母親と、稼ぎの少ない父親に囲まれた息の詰まる生活。玄関で寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友のルネと出会い、学校をサボり街に出る。そして午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。

 

翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、級友の訪問で欠席を知った両親にウソがばれる。それに叱責とビンタが続く。

そんな彼の楽しみはルネと映画を観ることだけだ。しかしある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ、弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て、金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り、ルネと一緒にルネの父親の会社のタイプライターを盗む。換金できず、戻しに行った時に守衛に捕まり、知らせを受けて父親が警察へ連行する。

非行少年として少年審判所へ送られ、護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため、束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え、海へ、海辺に立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止める。

 

ここに書かれていない重要なことを追加する。

フランソワは両親のケンカを陰で聞いて父親が養父であることを知る。

母親が無軌道な娘時代に妊娠し、望まれた子では無かったのだ。

当時のフランスでは親権の一部として子を警察に突き出すことが認められていた。ゆえに極端に冷酷な処置というわけでは無かった。

だがフランソワが護送車に乗せられて鉄格子の間から夜の街を眺めている上揭の光景は少年の孤独と恐怖が立ち上ってくる。

とても叙情性に満ちていて彼の才能を感じるシーンだ。

そしてフランソワが観客の方を見て終わるラストは

この子はその後どうなるのだろう、という問いは宙吊りになる。

 

この映画はトリュフォーの自伝的映画、といわれる。

しかし最初の原案を作り上げたとき、その構成力の弱さを感じたトリュフォーは、監督の報酬と同額を払ってマルセル・ムーシーを迎えて共同で脚本を書き、映像を創るために三倍の報酬を払って撮影監督にアンリ・ドカエを迎えてクランクインした。

つまり自分の足らざる所をよく知り冷静に対処した。それはいわゆるフランスの「良質な映画」監督の舌鋒鋭い批判者として1日に映画を最低一本は見、2日に一回著名な映画紙「アール」に批評を書いていた批評眼と、ジャン・ルノワールやロベルト・ロッセリーニ達にインタビューと撮影現場の見学などで磨かれた知性と感覚から生まれたものだろう。

 

トリュフォー自身、母親の無軌道から妊娠した子だが、母親が堕胎しようとしたところ祖母が止め、実家から徒歩30分以上の産婆宅で出産し、すぐに里子に出された。そこでの愛情の欠乏から食も細くなり衰弱し、それを心配した祖母が自宅に引き取り養育、ようやく母親と養父の元で同居したのは8才の時であった。

 

われわれ哺乳類は母親の胎内で生命を宿し、9ヶ月母胎の中で過ごして突如世界に投げ出された後は母乳を栄養とし、ある一定期間母親に依存して過ごす。いわば母子関係が最初の生命維持の死活的重要性を持つが、母親の死別、離別、病気入院、あるいは育児放棄などでそれが満たされ無いとき、子に大きな傷を負わす。更に幼い頃の愛情不足は発育不全をもたらすことはよく知られた事実だ。

そういう環境下に育った子に罪責はあるのか。

その問いが、フランソワ少年が脱走し、海辺の最後のシーンで立ち止まりわれわれ観客をじっと見るシーンに結ぶ。

「私を裁こうとするのは誰か」 と言っているように。

 

男の子として、ある一定の成長後、フランソワ少年のように12歳ごろから、同性の大人のロールモデルを必要とする。

母親から別れて、つまり男子が乳離れして、寄宿学校が始まるのは大体この年齢ぐらいからだ。

以後、男社会の中で、対立と協調などのプロセスを通じてどう力ー影響力を発揮するか、自分の生活基盤を見つけ、自立することが要請されている。

 

トリュフォーは少年時代満たされなかった多くのものを、それだけ一層映画の中に見いだす。シネフィル(映画狂)として多くの映画クラブに入り自らも16歳でそれを作るが、運営には会場費や映画を借りる金もかかる。あちこちに借金を作り、養父が自分の趣味の登山のために貯金していたカネから何度か弁済してくれた事もある。そうした中からジュネやコクトーと知り合い、映画評論を開拓したバザンに助けられ寄宿していた事もある。代理父は現れたのだ。

猛烈な読書家で、バルザックやプルーストあるいはコクトーなどを読み、例えば施設に入れられて読む物を奪われたときは自己嫌悪と鬱に陥る。しかしその中にあっても映画の物語性の感覚を磨いている。

21歳の時バザンのカイエ・デ・シネマに投稿を始め、「フランス映画のある種の傾向」で、シナリオを文学作品に頼り、スタジオで撮り、脚本家と俳優がのさばり、やや観客を見下したような映画、そうした映画が「フランスの良質」とされた傾向に激しい批評を加える。旗印は「作家主義」、つまり脚本家ではなく映画監督こそが映画に個性をもたらすものだという確信からくる激しい非難。その非難は時に個人攻撃に及ぶ。

そうして数年でそうした若い批評家の旗頭になる。その陣営にはゴダールやリベット、年長のロメール達がいる。それらの批評の典拠、作家主義には、彼がフランス映画だけで無く、ベルイマンやロッセリーニ、あるいはヒッチコックなど外国映画を沢山見ていたこともあるだろう。

 

ジャーナリスティックな感覚、批評眼、その評判、そこからトリュフォーは実際に映画制作に乗り出す。最初の短編映画作りは失敗し、自らお蔵入りにする。その反省、つまり自分に欠けたものの自覚から自分の尊敬する監督のインタビューと撮影現場の見学が始まる。

そして1957年短編「あこがれ」を作る。仲間の評価も十分で、それに自信を得て、最初の長編「大人は判ってくれない」が生まれる。

クランクインした時に父親同然のバザンが亡くなり、この映画はバザンに捧げられる。

前後するが後に妻となるマドレーヌ・モルゲンステルヌとは1956年に知り合い1957年10月、バザンを立会人に、ロッセリーニが式に駆けつけくれ結婚する。マドレーヌの父イニャスはハンガリー系ユダヤ人でパリでは著名な映画配給業者であった。25歳のトリュフォーは以後落ち着いて自由奔放な生活は終わり、幼い娘達に愛情を注ぐ日が始まる。ゆえに彼は幼き頃の自分の奪われたものを与えることで克服する。

だが時々愛人ができ、娼家に通うことも止めなかった、葛藤なしに。

 

ちと脱線したが、トリュフォーはこの映画で批評家からの転身を見事に果たす。時の文化相マルローの後押しもあってカンヌ映画祭に出品。

27歳の若さで最優秀監督賞を受賞し子役のジャン=ピエール・レオーとともに一大センセーションを巻き起こす。

ヌーヴェル・バーグはこうして誕生した。

ロッセリーニの「無防備都市」やベルイマンの「不良少女モニカ」のようにロケが中心でカメラは軽快に動き、自然光で撮るから奥行きがあって目にも優しい。結末も見るものに任されている。劇場的映画とは明確に決別している。かつて批評家として「フランスの良質」と謳われた映画を激しく攻撃したトリュフォーは自らの映画を以て反論して見せたのだ。

 

それだけにこの映画に対する批判や中傷、つまり反動も激しかった。

その一方向は彼がかつて批判した監督達からである。

その中には彼がパリの映画配給界の大物の娘と結婚したことをもって、計算高い野心家、という中傷もあったし、もう一方向は彼の実母や養父からの互いに傷つけ合うような批判もあった。

 

この映画の制作にあたり、トリュフォーはジャン・ルノワールの「黄金の馬車」に因む「フィルム・デュ・キャロッス」という会社を作る。この初の長編映画は世界各国に配給権を売り会社に潤沢な資金をもたらし以後の映画制作を容易にしただけでは無く、彼の批評家仲間の映画作りに資金面で応援する事も可能になった

こうした自分が身を置く世界に対する貢献意欲は賞賛に値する。

日本でも映画学校を作った今村昌平、スタジオを作って若い監督に場を提供する是枝監督は誰よりも賞賛に値する。

 

もうひとつ、ゴダールの「勝手にしやがれ」の原案はトリュフォーだ。

ゴダールの映画のクレジットに自分の名前が大々的に出ないように気を使っている。つまりトリュフォーは気配りの優しい人柄なのだ。

あるいはゴダールの自信満々でプライドの高い性格に配慮したか。

 

一方でトリュフォーは会社キャロッスの周辺に、外国の特派員や映画関係者とのあいだのネットワークを作る。勿論それは制作した映画の広報や配給権の売り上げに繋がり将来の果実を生むものでもある。

筆まめなトリュフォーは良く手紙を書き自分の活動を知らせている。

その中に日本人のトリュフォーの熱心な愛好者もいた。

評伝の中には岡田眞吉や野口久光の名が見える。

 

トリュフォーには他に「突然炎のごとく」や「アデルの恋の物語」あるいは「暗くなるまでこの恋を」などまだまだ見たい映画がいくつかある。

よって今回はこのぐらいで終わるとしよう。

このブログでは、先述のベックのトリュフォー伝の他に、「大人は判ってくれない」の特典映像、Film Art 12Edition McGraw Hill などからいくつか示唆を得た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

英題はTwo in the Wave, カイエ ド シネマを主宰したバザンのもとで刺激的な映画評論を発表し、後に映画制作に乗り出してヌーヴェルヴァーグと名付けられた旋風を巻き起こし、数々の話題作ー中には無残な興行成績しか残せなかったものもあるがーを制作し、1968年のパリ5月革命前後の闘争で、次第に別の岐路を踏み、終には決裂したゴダールとトリュフォーのドキュメンタリー。

 

ゴダールはつい先頃自宅のあるスイスで合法的に安楽死した。91才。

監督はエマニュエル・ローラン、ナレーションはカイエ紙の編集長を務めたことのあるアントワーヌ・ド・ペック。

 

 

ゴダールはスイスレマン湖に面したローザンヌで1930年12月に富裕な家に生まれた。一方トリュフォーは1932年2月6日パリで貧しいが読書や芝居好きの両親の下に生まれた。実の父親についてはいろいろと憶測がある。

余談だが旧東ドイツに生まれたゲルハルト・リヒターは同年の2月9日の生まれで現在90才。が、トリュフォーは1984年52才で病のため早世した。

 

映画は二人の生まれについて貧困と富裕、と対照的に捉えるが、後に両親が離婚したことからみれば二人とも温かい家庭に育ったとは言えない。

学歴はトリュフォーは映画好きがこうじて16才で学業を放棄、シネフィル(映画狂)のクラブを組織し、コクトーをスピーカーに呼んで開講するなど早熟する。そのシネクラブの借金で盗みを働き鑑別所、後には刑務所に入った。その間ジャン・ジュネに手紙を書き激励を受けている。

一方のゴダールはリセに入るもバカレロアには3度目でようやく通りパリ大学に通って学生生活を謳歌する。その間ロメールの主宰するシネクラブに入りトリュフォーらに出会う。

 

そうした縁が繋がって、トリュフォーはバザンに見いだされ養育され、またゴダールもバザンと知り合い、ゴダールは1952年から、トリュフォーは1年遅れでカイエ・ド・シネマにそれぞれ21才で執筆を開始する。

バザンは言わば映画評論の開拓者(映画とはなにかー岩波文庫)でかつ異論を容れる、包容力のある師で二人は歯に衣着せず評論を発表した。勿論映画を昼となく夜となく見まくっただけでなく、カイエ紙の記者として著名な映画監督にインタビューする事でいわば映画のインテリジェンスを磨いた。二人がそうした大学の専攻や助監督という徒弟修行のようなルートを経ずして映画制作の道に入った、ということも”あたらしい波”を切り開いた要因と言えるだろう。

 

トリュフォーは「大人は判ってくれない」で初の長編映画を監督。

師であり父代わりでもあったアンドレ・バザン(1918-1958)の死の翌年であった。 同作は戦後フランス政府が主宰して発足したカンヌ映画祭で、時のフランス文化相アンドレ・マルローの強い推薦で監督賞を受賞、映画誌「シネマ58」がヌーヴェル・ヴァーグ」と名付けたが、その名称は社会学からの借り物であった。

 

主役の少年ドワネルはジャン=ピエール・レオが演じ、以後ドワネルの成長につれていわゆる「ドワネルもの」が続編として制作されることになる。それらはトリュフォーの自伝的映画、といわれるが、それに加えて観客を大切にし、報道関係者や批評家にもとても丁寧に接しながらも、断固として自らに忠実に生きた作家、というイメージを作り上げる。

しかし、この映画でナレーションを務めたベック達が書いたトリュフォーの伝記には「実はトリュフォーは知られざる側面の方がずっと面白いのだ」と書いてある。それらは「大人は判ってくれない」などのブログで追々言及するつもりだ。

 

一方のゴダールは、トリュフォーがカンヌの監督賞を受賞した翌年の1960年、「勝手にしやがれ」を初の長編映画として監督。

主役のベルモントとともに一躍寵児となった。

 

1963年文化相のマルローは、既存の客席を備えた映画の保存、修復などの私立施設シネマテークに助成し、同時にシャイヨ宮に移転する。

1968年2月経営方法について財務省の圧力でマルローは館長のラングロワを解任、これが二人のヴァーグ、トリュフォーとゴダールの怒りに点火し、二人は反対運動の先頭に立ってデモで警官隊と衝突し、解任反対の署名活動をする。この騒動の中、5月のカンヌ映画祭の開催が強行され、二人は映画祭の中止を求めて同じように先頭に立つ。

映像から感じ取られるのは、ゴダールの戦闘的な姿勢であり、トリュフォーはこの展開に充分乗っていないように見受けられる。

ゴダールは「芸術家の真のモラルには圧政への激しい抵抗も含まれる」同時に彼はモノマネでは無い革新性を評価基準にする。例えば、「カルネの”霧の波止場”が傑作なのは時代とマッチしていたからだ。"危険な曲がり角”はカルネの駄作だ。ものまねも技巧ばかりが目立ち創造性がない」と切って捨てる。

一方のトリュフォーは「以前の監督達よりも革新的なことをやろうと考えたことはありません。映画を撮りたかっただけです」と言う。

 

この姿勢の違いには、ゴダールが旧植民地アルジェリア戦争を扱った1960年の作品「小さな兵隊」が当局に3年間上映禁止を食らった経験が影響しているに違いない。その中で拷問の中で政治論を闘わせ革命理論や理想主義などについて語る。(未視聴)

トリュフォーの方は「”さよならをもう一度”(1961年リトヴァク監督作品)と私の”柔らかい肌”に大きな違いはありません。同じ映画です。ただ私の映画では真実の感情が描かれウソが無い。もう一方はウソだらけ。イングリッド・バーグマンもイヴ・モンタンもウソで、ウソで塗り固められた作品」 と酷評しAuthenticityを重視する。

 

こうして二人はシネマテークとカンヌ映画祭では共闘しながらも、その後の分岐となる違いを内包して行く。

また、この運動は学生・労働者、知識人が連帯した同年5月のパリ革命の先駆けでもあった。

 

長編処女作の華々しい成功の後、二作目、トリュフォーの「ピアニストを撃て」もゴダールの「女は女である」も興行的に失敗する。

早くもカイエ・ド・シネマが提唱した「作家主義」が挫折する。

映画館ではハリウッド映画の大作主義が、たとえば「史上最大の作戦」などが観客動員数を塗り替える。

その後もしかし二人は映画制作を続けることが出来たからには一定の観客動員が出来たからに他ならない。このあたりはフランスの、CNC(国立映画映像センター)を中心とした、フランス国内で上映する全ての映画の入場料から一定の金額を納付させそれを助成金の原資にする政策や、助成金を交付する場合は対象映画の制作費ー人件費や照明撮影などの機材を含むーの80%をフランス国内で消費する、と言うような保護策があるのだと思うが、その辺の関連を考究した著作や論文が見当たらない。この辺はフランス映画研究者や映画の字幕翻訳者などの怠慢だ。文化庁が我が国の助成の参考にいわば官庁版報告書があるだけだ。

 

 

本作では二人が敬意を表し、あるいはオマージュを捧げて引用した箇所などに言及する。ロッセリーニやジャン・ルノワール、あるいはベルイマンの「不良少女モニカ」などだ。

彼らが制作した映画では、既に述べたものの他トリュフォーは「突然炎のごとく」や「アメリカの夜」などがあり、ゴダールでは「気ちがいピエロ」「彼女について私が知っている二、三の事柄」「「中国女」などがある。

 

そして二人の亀裂が決定的になったのはトリュフォーの「アメリカの夜」についてゴダールがトリュフォーに酷評した手紙を書いたこと。

パリ5月革命以後ゴダールは政治的に急進化し映画、人生、友人を変えた。一方トリュフォーは政治より映画の愛に生きる。トリュフォーは自分を古典的な、つまりルノワールのような職人監督と見なす。

ゴダールは革命前の芸術家気取りが嫌になる、自己嫌悪だ。

そして「万事快調」でフランス映画システムを離脱し別の映画に亡命する。「政治的映画を政治的に撮る、商業映画を批判しプロパガンダのような映画作り」を目指す。

二人の友情は終わり、ゴダールはトリュフォーを「ブルジョワ監督」と見做す。トリュフォーはゴダールに「芸術を政治利用している」と反論する。

二人の映画観が変われば共感は失せて話も出来なくなる。

最初はトリュフォーの映画に出、後にゴダールの映画に出て、「まるで親権を争う二人の親のようだ」と評されるジャン=ピエール・レオーが終盤に出て二人の監督としての違いを語るが、深みがない。

 

「アメリカの夜」でトリュフォーはレオーに「私生活の悩みは誰にでもある。映画は人生と違ってよどみなく進むノンストップの夜行列車だ」と言う。ゴダールはそれに噛みつく。「こんな映画を作った君は嘘つき野郎だ。映画が夜行列車だって?誰が運転しているんだ?ナチの強制収容所行き列車とでも言うのか?」とその政治性の無自覚さを批判する。

トリュフォーは20ページにわたる返事を書いて「読みながらムカついた。君のあくどい行為にいらついてきたが、やっと私の考えを口に出来る。君は自分を犠牲者に仕立て上げる。うまく立ち回りやりたいことをやっているのに、自分が犠牲者で純粋に闘っているというイメージにしがみつく。人間が平等である、と言う考えが心で感じられない」

そして「大人は判ってくれない」で少年レオーが砂浜を海に向かって走り、立ち止まってカメラ(観客)をじっと見つめるシーンで終わる。

見るわれわれに問いかけるように。

何を?それを考えることがこの映画の楽しみだ。

その後クレジットが流れている間、レオーのこの映画のオーディションの有様が映し出される。

12才に見えると思う? ええ、それに口が達者だし。

               でも気取りやじゃない。、、、

映画を見終って、ゴダールが言う「映画の芸術性」について考える。

映画、この場合商業映画に限定すべきと思うが、映画には芸術的価値の他に実存的価値、つまりわれわれの日常生活を切り裂き、生の深淵を覘き込むような、例えばケン・ローチ監督作品や、是枝監督の「万引き家族」、ベルイマンの「野いちご」や「冬の光」などの作品がある。

たとえばヴィム・ヴェンダースの「パリス、テキサス」の映像には詩情とともに芸術性ーわれわれの感覚にある何かを付け加えてくれるようなものを感じる。そして娯楽的価値。90分から120分の視聴体験を「良いものを視た」と感じさせてくれるものだ。最低限娯楽的価値のないものは映画では無い、とまでは言えないが映画制作、という先行投資の回収は困難だろう。

ゴダールはプロパガンダ映画のようなものを一時的に目指して商業映画から退出するが、プロパガンダ映画は「プロパガンダ」と見做されればプロパガンダの価値を失う。たとえば「この世界の片隅に」はプロパガンダ映画と見做すが、一見そうは感じさせない所に成功がある。

原子力ムラに連なる読売ー報知、産経ーフジのメディアグループの役員達が目立たないように制作委員会入りして作った、Fukushima50は所長をヒーローに祭り上げ、彼を含む東電幹部が、防潮壁の高さを低くしたり、長年原発を推進してきた自民党政権で、わけてもアベ第一次政権で国会の共産党議員の質問に答えて「全電源の喪失は起こりえない」と答弁した最も大きな責任を不問にしている。しかし大概の人は映画の背景にあるもろもろを深くは考えずに娯楽として楽しむからプロパガンダ映画とは気がつかない。

しかし長い目で見ればプロパガンダ映画は結局「表現の自由」を奪うことになるだろう。河瀬直美の東京オリンピックの公式映画がたどりつつあるように。

ゴダールのプロパガンダ映画からの復帰は、そこに気がついた結果か否かは現時点では判らないが。

 

少し補足するが、実存的価値、芸術的価値、娯楽的価値は相互に排除するものでは無い。しかし実存的価値、芸術的価値の在る作品でも娯楽的価値は必要だ。娯楽的価値とは、映画を見て笑ったり涙したりする内容を持ったものだ。見終ってわれわれの感情に訴える要素が無ければ「退屈な映画」になるだろう。退屈な映画とは、お金を払って見る価値のない映画、つまりは商業映画として成立しないもの、と言っておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日19時から始まったエリザベス女王の葬儀、

BBCは勿論、CNNもNHK 総合もBSも実況中継一色。

 

 

 

 

仕様が無く見ていましたが、雑感をあれこれ。

 

1,女王は世俗の王、神に仕える聖職者の一段下の最高位。

  十字架のヘッドに当る場所は神に仕える者の場。

 

2、エリザベス女王が英連邦の君主として

  いかに多様な連邦国家を包摂しようとしてきたか、その足跡が分る。

  黒人の聖職者、女性の祭司など。

  でも十分ではないだろう、歴史の審判を受けるには。

 

3,英国国教会は、国王の不倫、再婚の騒動でローマカトリックから

  離脱したことから始まった。

  新国王チャールズには「歴史は繰り返す」劇。

 

4、これは付け足しだが、王族の席順は王位継承順。

  また葬儀にサウジなどを招待したことに批判がある。

 

それにつけても、NHKの報道は単なるスペクタクル(見世物)報道。

わが日本国民にとって、それほどの一大事か。

 

途中でうんざりしてこのブログを予定外に書いている次第。

 

 

 

 

 

 

 

リヒターの代表作の一つ、アウシュヴィッツ=ビルケナウは将来、ベルリンで建設中の新美術館の新棟に常設展示され、そこ以外では視ること不可能になる予定なので、コロナ禍のリスクを冒して出かけた。

 

始めに、出かける前に、映画アラン・レネ監督作品「夜と霧」を鑑賞し、ユリイカのリヒター特集号22年6月号を拾い読みし、ブログを書く前にコロンナ・ベルツ女性監督の作品「Gerhard Richter Painting」なるドキュメンタリーを鑑賞した事を記す。

リヒターは旧東ドイツのドレスデンに1932年、つまりヒトラーがクーデターで政権を奪取する前年に生まれた。

もう一つ、

ドイツ赤軍の「バーダー・マインホフ」の有力幹部、ウルリケ・マインホフは1934年生まれの同世代で、父母ともに美術史家、旧ソ連に生まれ西ドイツのオルデンブルグに移住しマールブルグ大学で過激運動に身を投じたがリヒターはドイツ赤軍の経営者誘拐やルフトハンザ航空ハイジャック事件などに深く心を動かされ、「1977年10月18日」という連作を制作した。

リヒターは、旧東ドイツからは、西に移住した境界人であり、移住した先の西ドイツ人からすれば、東ドイツ出の境界人である。

リヒターには境界人としての自意識とそれに伴う鋭敏な感覚(気づき)が色濃くあると思う。

 

会場で見ればわかるが、リヒターの多くの作品は、写真を元にペインティングした「フォト・ペインティング」か「アブストラクト・ペインティング」で「ビルケナウ」のような名前をもったアブストラクトはそれほど多くは無い。

つまり、リヒターは一連の絵を、ナチの強制収容所アウシュビッツ=ビルケナウ」を念頭に描いたのだということを明確にしている。

ビルケナウ、というこの4連の作品は、黒、赤、白、緑などが埋め込まれたアブストラクトである。

色の構成や配置、アクリル板や筆のタッチなどを逐一言い立てても無駄だ。その言及によって何かが産み出されることは無い。

 

この黒主調の絵、なにか暗い情念を感じる。

だから、ビルケナウについて不案内である鑑賞者は、例えばこの作品から311を想起しても良いのだ。

が、彼が題名でそれを排除したところに作品の意味がある。

 

リヒターは制作に当って、ビルケナウ解放後連合軍が撮った写真をキャンバスの脇に貼付けながら制作したという。

その制作は、アトリエの白壁にキャンバスを4枚架けて、中央のドロワー、手袋などの小道具が入った家具の天辺に、取っ手を付けたT字、L字のアクリル板を乗せ、そこに刷毛で絵の具を乗せる。そしてそれを縦方向や横方向に擦ってペインティングする。

どの色を調合しどう移動するかはリヒターの頭の中にあるが、その結果キャンバスに出来たものはリヒターの作為を超えて偶然性の高いものだ。

しかしその偶然性に委ねるだけでは無く、刷毛を使って上塗りしたり、時には刃物を使って表面を削る。削ることで下地が露出する。

(以上の制作過程などはドキュメンタリーから。以下DVDと称す)

 

会場ではこの4連の作品の対面にこれと同じ大きさの写真を展示している。 あきらかな質感の違いを感じるが、リヒターがそれを感じさせたかったのかはわからない。

当然に違うことを感じた鑑賞者も沢山いるだろう。

リヒターはDVDの中でアーティストと鑑賞者は平等だと言っている。

つまりアーティストの作品を鑑賞する者がいなければ、作品は完結しない。したがって作品の前に立った鑑賞者が作品から何を触発されたか、どんな知覚(Perception)が生まれたかを含めてアート、というものが成立する。

勿論アートがそれら鑑賞者達の集合である、といっているわけでは無い。

新たな鑑賞者が再訪を含めて絵の前に立つ、という契機によって新たにアートが産み出されてい行くと言うプロセスが永遠にある。

 

リヒターは一枚一枚を一気呵成に制作するのでは無い。

たとえば4連キャンバスで、ある制作過程を経たのち、作業を留め、「今日はこれまで」という。そして後日再びドロワーの上で諸準備をした後、鋭く自分が向かう絵を一瞥してアクリルや刷毛、刃物で手を加える。

 

そしてある段階になったとき手を止め、それが作品となる。

それはもう手を加える必要が無くなったときだ、といえば同義反復だ。

ニューヨークのギャラリーの女性オーナーとの会話の中で、彼女は

All of Painting 字幕では「絵の本質」が現れた時、と言ってリヒターも同意している。 もしかしたら Aura of Painting と言っているのかも知れない。 LとRの聞き取りはわれわれには難しい。しかしAura というのも魅力的な解だ。そしてその「本質」は言語表現が難しく、だからこそそれをリヒターは自分の表現手段、ペインティングで表現しているのだろう。

そして「本質」もいつも同じではない。いろいろな契機に、つまりわれわれ鑑賞者が作品の前に立つ度に違うPerceptionがあるように、作る側にもその都度違うものだ、と思う。

 

もう一つ付け加えたい。

制作中のリヒターは一種の瞑想状態、α波に満たされているのだと思う。

瞑想状態は夢遊状態では無い。意識は研ぎ澄まされているが、没頭し余念の無い状態だ。 身体もリフレッシュしてくる。酒もうまくなる。

ほぼ毎日瞑想するので自分に引きつけすぎかも知れないが。

 

このドキュメンタリー、監督の Corinna Berz の質問がいい。

すごく柔らかくて侵襲的じゃ無い。

男ではこうはいかないだろう。

答えるリヒターも率直だ。つまり自分に正直だ、飾るところが無い。

途中、美術史家ベンジャミン・ブクローとのやりとりがある。

リヒターの制作には予め計画が無い、という点について質問する。

「計画なしにどう正解を知るのか。”さあ完成だ”と判断するとき、無計画性はどう関係するのか?」という問いに、リヒターは

「制作を進めるほど、困難で不自由に(なって行く)。

それは手を尽くしたと納得するまで続く。自分の基準で間違いが無くなれば手を止める。それで完成だ」

「その間違いとは?問われるのは物質(対象?)か過程か」

「見た目の悪さ、それだけ。

そして作品の良し悪しを判断する資質は誰もが同じように持っている」

「良い、は”真実に関わる?

良い絵であるには表現すべき”真実”があるわけだ」

リヒターの「ああ、勿論そうだ」 で終わる。

以上については改めて説明する必要も無いだろう。

 

アウシュヴィッツを含む強制収容所はヒロシマ長崎とともに人類、20世紀の最大の愚行の一つである。

それを記録し、記憶に留める意味は二度と愚行を繰り返すまい、と決意するうえで意義のあることは言を俟たない。

一方記録し、記憶する媒体としては、写真や映像や絵画がある。

アラン・レネの「夜と霧」は1955年の作品であるが、フィルムは劣化するので放置すれば視聴不能になる。

DVDも記録媒体としては限度がある。写真も褪せる。

その点で絵画の方がより時間の試練に耐えると言って良いだろう。

多少ほこりを被っても表面を洗うことが出来る。

しかし写真や映像、あるいは文字情報に比べて情報量が劣る。

その分、映像や文字情報に比べて、短時間で何ものかを感じることが出来る。 が、冗長性は増すが。

かく長短それぞれだが、まずは作品に向き合うことが全ての始まりだ。

「ビルケナウ」であれ「夜と霧」(アラン・レネ)であれ、「夜と霧」(フランクル)であれ。      会期は10月2日まで。

 

余談だが、同展のとなりに、同館の所蔵作品が展示されている。

その中にはリヒターの作品も3点含まれている。

勿論”洋画家”の著名な作品も多い。

注目したのは藤田嗣治のいわゆる従軍絵画。

戦後同業者によって戦争協力を咎められ、失意の内に嗣治はパリに帰って帰化した。

しかし嗣治の従軍作品は戦争讃美では無い。

戦争の哀しみーかり出された者たちへの哀しみーが内包されている。

戦後、旧内務省の幹部、特高警察の残党達は、地方の知事や市長などの首長になった者が多く、自民党の2世3世議員はそれらの後裔である。

岸信介はその頂点にある者、と言ってよいだろう。

そうした巨悪と闘わず、さして罪の無い藤田のような者を人身御供にする。

日本人の権威に弱い、長いものに巻かれろ、の怠惰な心性だ。

「権威」といえば、たとえば展覧会場で床に「ここから中へは入るな」のラインが引いてあり、ちょっとでも入ると係が飛んで来る。

DVDでは」リヒターが世界各地の美術館やギャラリーで展示会の映像が出てくるがそんなラインを引いているところは無い。

いろいろと規制を設けて、それに従わせようとする。

これも「権威に弱い」心性を助長している。

最近「美術手帳」のデジタル版に「世界はなぜ韓国のアートマーケットに注目するのか」という記事が出た。

 


日本では海外作品の展覧会をするにはいろいろと規制が多く手続きが煩雑なそうだ。そうした手続きを煩雑にして、役人の裁量の余地を多くし、

それをよく分っている手続きを作った官僚の天下り先にするのが、日本の官僚の流儀だ。公立美術館の館長や理事長には天下りも多い。

放っておくと日本は、モダンアートのガラパゴスになり、アーティストも海外で活躍の場を見つけ出さざるを得なくなるだろう。

自分で自分の首を絞めているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナチが、ユダヤ人だけでなく、同性愛者や犯罪者などを狩り集め、

全ヨーロッパから貨車で強制収容所に送り、強制労働で地下工場を作り、あるいはドイツ企業の労働者として働かせ、病気や衰弱で無用になった者は飢えや薬殺、あるいはガス室で大量に抹殺した。

その数 900万人と言われる。

 

映画は強制収容所跡の周辺の保養地を映し、次いで収容所の建物の現況を映し出すところから始まる。

現況はカラー映像だが、かつての写真や映像は白黒である。

勿論その写真や映像が何を映し出しているのか、ということは

フランス語の音声による説明によって、我々には日本語字幕によって理解可能になる。

 

ドキュメンタリー映画の場合は、しばしばインタビューや対談などが挟まれるが、それらは一方冗長性を生む。レネのこの映画は、それらを排し、映像に音声説明と音楽のみで構成され、32分という凝縮された時間のなかに独特の緊張感をもたらしている。

 

したがって映像の欠けた音声説明だけでは、説得力のあるものにはならないが、それを承知した上で尚、夜と霧の語るもの、われわれに問うものを紹介したい。

 

夜と霧、とは夜の闇に紛れて拉致し、霧のように抹殺する、

というヒットラーの特別命令から取られた、というのが定説のようだが、映画の中では縦縞の囚人服を色分けして、それぞれを夜と霧と呼んだ、とあった。

以下の括弧「 」内は映画の説明字幕文、( )は補足である。

 

「貨車に乗せられる人々、大人も子供も、女も男も、病人も。

飢えと渇きが襲い窒息と狂気が迫る。

夜、霧の中でも輸送は続く。」

 

「衛生上との名目で裸にされ屈辱に耐える。

丸坊主、(囚人番号の)刺青、分類不可能な序列まで。

服により"夜”と"霧”に分類される。

赤い服は政治犯、みどりは刑事犯である。

序列はみどりが赤の上、その上がカポ(囚人から選抜した監督役など)更に上に親衛隊〈ナチ)がいる。頂点は所長だが不正には無関心だ」

「木造の宿舎には3人用の寝台がある。

急いで食べ怯えて眠る獣の巣のようなねぐらだ。

映像で表現できるのか、この恐怖は」

 

「(一段高い床に便坪が並んでいる)これが便所だ。スープは利尿剤となり、夜中に何回も訪れる。酔ったカポに会うと思わぬ災難が加わる。血尿を死の兆候と恐れるがやがて当たり前となる。」

 

(収容所内に掲示された看板やサイン。ブラックジョークだ)

「清潔すなわち健康」

「労働が自由を生む」

「義務を果たせ」

 

「肉体は果てても心は残る。記憶と夢を神に託す。

カポと闘うため政治組織まで作った。

最後は苦悩に満ちて運ぶ、医務室へ。本物のベッドで眠れると期待するが待つのは死の注射。包帯は紙で出来て居り、患者はその包帯まで食べた。外科病棟、親衛隊の医師、看護婦何をするのか。

無意味な切開や手足の切断実験だ。

化学工場が毒物を送る。あるいは囚人を買い取る。

生存者はわずかだ。去勢され燐で(皮膚を)焼かれる。

傷は生涯消えない、永遠に。」

 

「カポ用に売春宿まであった。売春婦の女囚は食料が豊富だ。

他の仲間にパンを分け与える。」

 

「1942年(親衛隊隊長)ヒムラーの視察。

”生産的に処分せよ”」

 

「(炉で焼かれた)遺品の山。すべて回収する、物資庫だ。

女性の髪ー売られて毛布に加工された。

骨は肥料に使ってみる。(頭蓋骨で)石けんを作ろうとした。」

 

「1945年収容所を拡張した。人工10万の都市だ。

企業は労働力に見込む。クルップやファルベン、ジーメンスなどの私設収容所だ。この新都市の経済力を持ってしても敗戦だった。

火葬する石炭がない。死体の山が道路を塞ぐ。

連合軍が到着(死体が一面に転がっている)ブルで片付ける、穴に埋める。」

 

「所員が連行される。だが囚人は本当に解放されたのか、

社会復帰は可能か?」

 

「(尋問で)カポも(親衛隊の)将校も言う。

”命令に従っただけ””責任はない”

では責任は誰に?」

 

「冷たい水が廃墟(収容所)の溝を満たしている。

悪夢のような濁った水だ。

戦争は終わっていない。

”都市”は見捨てられた。火葬場は廃墟に、ナチは過去となる。

だが900万の霊がさまよう。

我々の中の誰が戦争を警戒し知らせるのか。

次の戦争を防げるのか。

廃墟の下に死んだ怪物を見つめる我々は希望が回復した振りをする。

ある日のある時期における特別な話と言い聞かせ、

消えやらぬ悲鳴に耳を貸さぬわれわれがいる、、、」  (終わり)

 

戦後10年余で作られたこのドキュメンタリー、ドイツの隣国でナチの傀儡政府が樹立され、地下抵抗活動が市民、とりわけ知識階級に盛んであったフランス人の監督レネには昨日のごとく生々しいものであったにちがいない。

一方で「この映画はドイツ人によって作られなかった」ことを考えると、現代に至るネオナチの根茎が残ってしまった原因をそれに求めることも考えなければならないだろう。

シンガポール建国の父リー・クアン・ユーの回顧録を読めば旧日本軍の残虐さがわかる。それに加えてわれわれ日本人もまた、人体実験の731部隊、あるいは兵站を無視して戦線を拡大し戦死者の半数以上といわれる餓死者の問題に向き合わなければ将来に禍根を残すだろう。

 

日本兵に誇りを持たせる、と称して「美しい国、神の国」を教え込めば根拠無き優越感を植え付け残虐な振る舞いをするようになるだろう。

むしろ自衛隊の教育は徹底した人権思想、生命尊重の思想をベースに、立憲主義、民主主義の教育(これらは日本国憲法の核である)を通して文民統制の重要さを教えるべきところであるが、時々明らかになる隊員教育は竹田某、桜井、百田たち極右雑誌の論客、憲法改悪論者であることを知ると寒々しい思いに駆られる。

自国民の優越、隣国の蔑視ないし憎悪が強い兵隊をつくる、というのは妄想であり旧軍の思想ではないか。

 

映画の舞台はポーランドのクラクフ近郊にあるアウジュヴィッツ=ビルケナウ巨大強制収容所と思われるが、いまは観光客が訪れる場所だ。

しかしロシアのウクライナ侵攻とロシア兵によるキエフ近郊の村々の住民虐殺は平和への努力の必要性をますます感じる。

一方ではウクライナ南部サボリッジャ原発に対する攻撃はふとした間違いが大惨事をもたらす危険と紙一重だ。

こうした時期にこの映画を見る意味が大いにある。

 

 

この夜と霧は、アランレネの「去年マリエンバードで」攻略の一環として一年前に購入視聴した。

アウシュヴィッツの全貌が明らかになったとき、フランクフルト学派のユダヤ系ドイツ人、音楽や美学理論でも有名なアドルノは、1953年西ドイツに帰国した後

「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」

(マーチン・ジェイ「アドルノ」岩波書店P18)と述べた。

その流れが、「去年マリエンバードで」の脚本を書いたアラン・ロブ=グリエの「アンチロマン」に繋がっているのではないか、と思うのだ。

 

もう一つは今国立近代美術館で開催されているゲアハルト・リヒター展に関係する。

今回の展示の最大の眼目は「ビルケナウ」の4連作品である。

1932年旧東ドイツのドレスデンに生まれたリヒターは共産主義的リアリズムに違和感を感じベルリンの壁が出来る前の1961年西ドイツのデュッセルドルフに移住。そこの大学に入り直し教授も務めた。

ビルケナウはアウシュヴィッツの写真を眺めながら制作したという。

そして最近出来たベルリンの新ナショナルギャラリーの一角にリヒター棟が建築中で完成後はそこに「ビルケナウ」が常設展示されるという。つまりこれがそこ以外で「ビルケナウ」をみる最後の機会、と思いコロナ禍のリスクを冒して鑑賞に出かけることにした。

というわけでアラン・レネの「夜と霧」を再視聴した次第である。

 

付け足しだが、リヒターの東西ドイツにまたがる経歴を考えるとき、彼こそがドイツを代表するモダンアートの作者に相応しい、と思う。

もう一つ付け足しだが、同じモダンアートで「Conditional Art」のロバート・アーウイン(Robert Irwin)は「光と空間」をモチーフとするが、「モノ、対象物の特徴は夜と霧の中で消失する」といっている。

人間を夜と霧の中に押し込めるとき、人間の肉体的特徴、フィジカリティは消失しそれを抹殺するものの良心を麻痺させる。

それもアウシュヴィッツの深層ではないか、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗闇の中、車に追跡されて必死に逃げるコート姿の男。

転倒して道路に仰向けになったところへ、花束を持った初老の男が声をかける。妻に花束を買ったらしいその男は結婚して二年目で産院で妻と子供を見たときに本当の人生が始まった、と追われていた男に話す。

コート姿の男は、 ピアノ「シャルリ・コレール」というビラが貼ったバーに入って行き、ピアニストの楽屋で「4年ぶりに会いに来た兄だぞ、面倒に巻きこまれた。助けてくれ。追っ手は二人組だ、デカじゃ無い。俺と弟は奴らと組んで仕事をした。俺たちをコケにしようとしたので裏をかいて奴らをまいた」

ピアニストのシャルリはピアノの前に戻るが、兄はしつこく付いてきて「こんなところで何をしている、国際的名演奏家が食うに困るとは」

そのとき二人組がバーに現れ兄は店の裏に逃げるが、シャルリは追っ手を妨害して兄を逃がす。あんなにも巻き込まれるのを嫌がっていたのに。

 

1時間17分(DVD)の映画のここまで概ね7分。

シャルリがかかえるトラブルが予期され、ピアニストはかつては名声を得ていたが何かのことで今は落魄していることなどが観るものに提示され、それらの次第が以後のストーリーを形作って行く。最後はどんな結末が待っているのだろうか、と観るものに興味をかき立てる。

 

シャルルは自分が臆病だ、という悩みを抱えている。

危機の時、危機に立ち向かって闘うよりもそこから、逃げてしまうのだ。

その逃げ込む先は自分の内奥だ。内奥にしまい込み直面しない。

かつてあるレストランで美しいウエイトレスに恋し結婚した。

彼女に誘いをかけていたとき近くの席ででっぷりした中年の男もそのウエイトレスにひどく関心を抱いていた。

ある日その男がシャルリに、ピアノのオーデションを受けるように薦める。結局その男がシャルリのマネージャになり、リサイタルを開き、ピアニストとしての名声が高まって行く。

しかしそれにつれて妻の態度がどこかよそよそしくなり、隙間風が吹く。

シャルリは妻にパーティの同行を求めたとき、じつはその男が裏で妻に言い寄り肉体関係を結び、妻がその裏切りに絶えられなくなって来たことを告白される。告白の後シャルリは無言でその場を立ち去り、廊下で物音を聞き駆けつけると妻は窓から身を投げていた。

 

シャルリは身をやつしてあるバーで掃除夫として働くが片隅に古びたピアノがあってつい堪えきれずに弾き始める。

そしてピアニストとしてそのバーで働き始め、伴奏者も出来バーの大きな魅力になって行く。そしてアパートを借り年の離れた弟を呼び寄せる。

アパートの同じ偕には美しい娼婦がいた。

彼女が胸をだしたままシャルリの脇に入ってきたとき、

シャルリは「映画ではこうするんだよ」といってシーツで胸を隠してやる。

(この揶揄以後映画ではこの定型的仕草は無くなったらしい)

 

一方バーではダンスの相手もする勝ち気そうなホステスのレナがシャルリに好意を隠さない。

そして支配人のプリーヌはレナに気がありそれが気にくわない。

追っ手の二人組にカネをつかまされて支配人はシャルリとレナの住所を教える。レナはシャルリの過去の名声を知り、自分が支えて復活を助ける、と言い、二人で店に行って退職する旨を告げる。

支配人とレナ、カウンターには女性のバーテンダーがいて話をしているがシャルリは彼らに背を向けている。

 

支配人はシャルリにケンカをふっかけ、刃物を取る。

取っ組み合いの後二人は息切れして床にへたり込むが、支配人はシャルリの首を絞める。窒息しそうになってシャルリは床に落ちた刃物を取って振り上げ弾みで支配人の背中を深く刺す。

レナはシャルリを肩にかけ車で逃亡する。

逃亡する先はシャルリの兄たちが隠れている一軒の山小屋。

近くまで来るとシャルリはレナに帰るように言う。

そこでは二人の兄が拳銃を手にして防御を固めている。

 

一方二人組はシャルリの弟を拉致して山小屋に向かう。

 

シャルリが窓際でロッキングチェアにせわしなく前後していると、

人影が見えた。レナだ。

レナを巻き込んでは大変、とシャルリは外に出て小屋から離れてレナと話す。レナはシャルリの殺人はそれを見ていた証人もいて正当防衛が認められた、と言うが弟を取り返すことがまだ残っている。

 

シャルリの弟を拉致した二人組は車道から徒歩で山小屋に上がってくるが途中弟フィドはうまく逃げおおせる。

そのとき山小屋の兄たちと二人組の間で撃ち合いが始まり、レナは二人組の放った弾に胸を打たれ、雪の坂を転げ落ちてくる。

 

駆け寄るシャルリ。

シャルリはレナの雪まみれの顔を手で払いきれいな顔に戻してやる。

 

結局シャルリはもとのバーーでピアノを弾くことになる。

クローズアップのシャルリは、なにか虚ろでもある。

エンデングで最後に日本語字幕 山田宏一 が出て終わる。

 

一体トリュフォーはこの映画で何を言いたかったのだろう。

結婚した妻テレサは、結局シャルリを売り出すために、マネージャーに身を任したのか。そのシャルリに対する裏切りの罪悪感が彼女を悩ませた。

このようなとき、男はどう振る舞えばいいのか。

自分の栄誉の為に人身御供となったテレサに身を投げ出して詫び、許しを請うべきなのか。しかし身を任したそのプロセスにテレサは自分の欲望を満たす動機は皆無だったのか。あるいはシャルリに名声をもたらすという自己正当化は皆無だったのか。

そうした疑問に回答が得られぬまま、シャルリはその場から立ち去る。

そしてマネージャーに対してなんの追求もした形跡は無い。

もっとも追求することは別の物語、愛の破綻かその修復の、再生の物語になるだろう。

 

臆病に自責の念をもったシャルリは、落魄後のレナとの愛にはどう対処したのだろうか。バーの支配人とのケンカは果たしてレナの為か自分のためか?いや誰のため? のまえに単純に自己防衛だったのかも知れない。

 

闘うのは簡単だ。

しかしそれによって失うものも状況によって多々あるだろう。名誉、将来、家族に対する責任、信仰、信条、人生観、、、、

ヤクザ映画や任侠映画のようには簡単にはいかない。

闘う、というマチズモが闘わないことによって男の自尊心を傷つける。

妻をジョークのネタにされたことに立腹して司会者を殴ったスターがいる。

その怒りは、妻のためか、自分の面子のためか、、、

 

かくのごとくいろいろと考えるのであるが、

どうもトリュフォーはそこまで考えて居るとは思えない。

 

日本語字幕を書いた山田宏一といえば蓮実重彦と二人で

トリュフォー最後のインタビューの書がある。

そのなかで彼は、

「アメリカ人は「らしさ」などにはこだわらない。ウソでも何でも面白ければ良いというのがアメリカ映画の最大の強みです。人の死、自殺、殺人、射殺といった強烈なシチュエーションをすぐ持ってくる。そこに全てを集中する。

「ピアニストを撃て」はそのようにして作られたものなのです。少なくともそうしたアメリカ映画的な精神を反映しています」同書p197

といっている。

つまり先のような詮索は少なくもトリュフォーからすればどうでも良いのだ。

どうも無国籍のノワール(犯罪)映画を作りたかったようだ。

 

しかし映画とは製作者、監督を含めスタッフのものである以上に見る我々の側のものである。

どんな名画もスクリーンに向かって見る観客なしにはあり得ない。

その観客には批評家は含まれない。観客とは有料で観ている者だ。

そうした観点が、映画を成立させているものであり、映画の芸術性も映像の詩学も観客なしにはあり得ない。

そうした与件の中でいかに観るものに新しい体験、感覚、知見など人間の生(せい)を拡張するようなものがあるのか、が映画の芸術性の要素だと思う。

人間の生死は不条理(バカげたこと)に満ちている。

だから不条理だけではわれわれになにか拡張するものは生まれない。

今作のトリュフォーには満足感はなかった。

 

余談だがシャルリのシャルル・アズナブールはアルメニア人だ。

アルメニアに住むアルメニア人290万人よりも海外のアルメニア人の方が多い。それは瘦せた土地に,農業も開けた場所が少なく、海も無くて海産物も取れず、鉱物資源にも乏しいせいだ。

アルメニア人はロシアには110万、アメリカには100万、フランスには25万人ほどと言われる。ロシアはコーカサス山脈を挟んでトルコオスマン帝国と対峙してきた歴史からつながりが深い。今回のロシアのウクライナ侵略でロシアの若者が戦争に取られまいとアルメニアをその避難先にしている、と言われる。またアメリカやフランスにはアルメニア人租界があって、トルコのアルメニア人虐殺の非難決議を両国で勝ち取っている。

アズナブール(1924-2018)は、9才から芸能活動を始め、1946年エディット・ピアフに見いだされた。2004年レジオン・ドヌール勲章を受章。葬儀にはマクロン大統領も参列した。