#フランソワ・トリュフォー監督  #ピアニストを撃て #シャルル・アズナブール 1960年 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

暗闇の中、車に追跡されて必死に逃げるコート姿の男。

転倒して道路に仰向けになったところへ、花束を持った初老の男が声をかける。妻に花束を買ったらしいその男は結婚して二年目で産院で妻と子供を見たときに本当の人生が始まった、と追われていた男に話す。

コート姿の男は、 ピアノ「シャルリ・コレール」というビラが貼ったバーに入って行き、ピアニストの楽屋で「4年ぶりに会いに来た兄だぞ、面倒に巻きこまれた。助けてくれ。追っ手は二人組だ、デカじゃ無い。俺と弟は奴らと組んで仕事をした。俺たちをコケにしようとしたので裏をかいて奴らをまいた」

ピアニストのシャルリはピアノの前に戻るが、兄はしつこく付いてきて「こんなところで何をしている、国際的名演奏家が食うに困るとは」

そのとき二人組がバーに現れ兄は店の裏に逃げるが、シャルリは追っ手を妨害して兄を逃がす。あんなにも巻き込まれるのを嫌がっていたのに。

 

1時間17分(DVD)の映画のここまで概ね7分。

シャルリがかかえるトラブルが予期され、ピアニストはかつては名声を得ていたが何かのことで今は落魄していることなどが観るものに提示され、それらの次第が以後のストーリーを形作って行く。最後はどんな結末が待っているのだろうか、と観るものに興味をかき立てる。

 

シャルルは自分が臆病だ、という悩みを抱えている。

危機の時、危機に立ち向かって闘うよりもそこから、逃げてしまうのだ。

その逃げ込む先は自分の内奥だ。内奥にしまい込み直面しない。

かつてあるレストランで美しいウエイトレスに恋し結婚した。

彼女に誘いをかけていたとき近くの席ででっぷりした中年の男もそのウエイトレスにひどく関心を抱いていた。

ある日その男がシャルリに、ピアノのオーデションを受けるように薦める。結局その男がシャルリのマネージャになり、リサイタルを開き、ピアニストとしての名声が高まって行く。

しかしそれにつれて妻の態度がどこかよそよそしくなり、隙間風が吹く。

シャルリは妻にパーティの同行を求めたとき、じつはその男が裏で妻に言い寄り肉体関係を結び、妻がその裏切りに絶えられなくなって来たことを告白される。告白の後シャルリは無言でその場を立ち去り、廊下で物音を聞き駆けつけると妻は窓から身を投げていた。

 

シャルリは身をやつしてあるバーで掃除夫として働くが片隅に古びたピアノがあってつい堪えきれずに弾き始める。

そしてピアニストとしてそのバーで働き始め、伴奏者も出来バーの大きな魅力になって行く。そしてアパートを借り年の離れた弟を呼び寄せる。

アパートの同じ偕には美しい娼婦がいた。

彼女が胸をだしたままシャルリの脇に入ってきたとき、

シャルリは「映画ではこうするんだよ」といってシーツで胸を隠してやる。

(この揶揄以後映画ではこの定型的仕草は無くなったらしい)

 

一方バーではダンスの相手もする勝ち気そうなホステスのレナがシャルリに好意を隠さない。

そして支配人のプリーヌはレナに気がありそれが気にくわない。

追っ手の二人組にカネをつかまされて支配人はシャルリとレナの住所を教える。レナはシャルリの過去の名声を知り、自分が支えて復活を助ける、と言い、二人で店に行って退職する旨を告げる。

支配人とレナ、カウンターには女性のバーテンダーがいて話をしているがシャルリは彼らに背を向けている。

 

支配人はシャルリにケンカをふっかけ、刃物を取る。

取っ組み合いの後二人は息切れして床にへたり込むが、支配人はシャルリの首を絞める。窒息しそうになってシャルリは床に落ちた刃物を取って振り上げ弾みで支配人の背中を深く刺す。

レナはシャルリを肩にかけ車で逃亡する。

逃亡する先はシャルリの兄たちが隠れている一軒の山小屋。

近くまで来るとシャルリはレナに帰るように言う。

そこでは二人の兄が拳銃を手にして防御を固めている。

 

一方二人組はシャルリの弟を拉致して山小屋に向かう。

 

シャルリが窓際でロッキングチェアにせわしなく前後していると、

人影が見えた。レナだ。

レナを巻き込んでは大変、とシャルリは外に出て小屋から離れてレナと話す。レナはシャルリの殺人はそれを見ていた証人もいて正当防衛が認められた、と言うが弟を取り返すことがまだ残っている。

 

シャルリの弟を拉致した二人組は車道から徒歩で山小屋に上がってくるが途中弟フィドはうまく逃げおおせる。

そのとき山小屋の兄たちと二人組の間で撃ち合いが始まり、レナは二人組の放った弾に胸を打たれ、雪の坂を転げ落ちてくる。

 

駆け寄るシャルリ。

シャルリはレナの雪まみれの顔を手で払いきれいな顔に戻してやる。

 

結局シャルリはもとのバーーでピアノを弾くことになる。

クローズアップのシャルリは、なにか虚ろでもある。

エンデングで最後に日本語字幕 山田宏一 が出て終わる。

 

一体トリュフォーはこの映画で何を言いたかったのだろう。

結婚した妻テレサは、結局シャルリを売り出すために、マネージャーに身を任したのか。そのシャルリに対する裏切りの罪悪感が彼女を悩ませた。

このようなとき、男はどう振る舞えばいいのか。

自分の栄誉の為に人身御供となったテレサに身を投げ出して詫び、許しを請うべきなのか。しかし身を任したそのプロセスにテレサは自分の欲望を満たす動機は皆無だったのか。あるいはシャルリに名声をもたらすという自己正当化は皆無だったのか。

そうした疑問に回答が得られぬまま、シャルリはその場から立ち去る。

そしてマネージャーに対してなんの追求もした形跡は無い。

もっとも追求することは別の物語、愛の破綻かその修復の、再生の物語になるだろう。

 

臆病に自責の念をもったシャルリは、落魄後のレナとの愛にはどう対処したのだろうか。バーの支配人とのケンカは果たしてレナの為か自分のためか?いや誰のため? のまえに単純に自己防衛だったのかも知れない。

 

闘うのは簡単だ。

しかしそれによって失うものも状況によって多々あるだろう。名誉、将来、家族に対する責任、信仰、信条、人生観、、、、

ヤクザ映画や任侠映画のようには簡単にはいかない。

闘う、というマチズモが闘わないことによって男の自尊心を傷つける。

妻をジョークのネタにされたことに立腹して司会者を殴ったスターがいる。

その怒りは、妻のためか、自分の面子のためか、、、

 

かくのごとくいろいろと考えるのであるが、

どうもトリュフォーはそこまで考えて居るとは思えない。

 

日本語字幕を書いた山田宏一といえば蓮実重彦と二人で

トリュフォー最後のインタビューの書がある。

そのなかで彼は、

「アメリカ人は「らしさ」などにはこだわらない。ウソでも何でも面白ければ良いというのがアメリカ映画の最大の強みです。人の死、自殺、殺人、射殺といった強烈なシチュエーションをすぐ持ってくる。そこに全てを集中する。

「ピアニストを撃て」はそのようにして作られたものなのです。少なくともそうしたアメリカ映画的な精神を反映しています」同書p197

といっている。

つまり先のような詮索は少なくもトリュフォーからすればどうでも良いのだ。

どうも無国籍のノワール(犯罪)映画を作りたかったようだ。

 

しかし映画とは製作者、監督を含めスタッフのものである以上に見る我々の側のものである。

どんな名画もスクリーンに向かって見る観客なしにはあり得ない。

その観客には批評家は含まれない。観客とは有料で観ている者だ。

そうした観点が、映画を成立させているものであり、映画の芸術性も映像の詩学も観客なしにはあり得ない。

そうした与件の中でいかに観るものに新しい体験、感覚、知見など人間の生(せい)を拡張するようなものがあるのか、が映画の芸術性の要素だと思う。

人間の生死は不条理(バカげたこと)に満ちている。

だから不条理だけではわれわれになにか拡張するものは生まれない。

今作のトリュフォーには満足感はなかった。

 

余談だがシャルリのシャルル・アズナブールはアルメニア人だ。

アルメニアに住むアルメニア人290万人よりも海外のアルメニア人の方が多い。それは瘦せた土地に,農業も開けた場所が少なく、海も無くて海産物も取れず、鉱物資源にも乏しいせいだ。

アルメニア人はロシアには110万、アメリカには100万、フランスには25万人ほどと言われる。ロシアはコーカサス山脈を挟んでトルコオスマン帝国と対峙してきた歴史からつながりが深い。今回のロシアのウクライナ侵略でロシアの若者が戦争に取られまいとアルメニアをその避難先にしている、と言われる。またアメリカやフランスにはアルメニア人租界があって、トルコのアルメニア人虐殺の非難決議を両国で勝ち取っている。

アズナブール(1924-2018)は、9才から芸能活動を始め、1946年エディット・ピアフに見いだされた。2004年レジオン・ドヌール勲章を受章。葬儀にはマクロン大統領も参列した。