#ジャン・ルノワール監督 #黄金の馬車 #アンナ・マニャーニ主演 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

「これは18世紀初頭、南米のスペイン植民地でのイタリア様式による幻想的な芝居。国王が任命した総督が統治していたが、カトリック教会が権力を握っていた。今イタリアの役者一座が苦難を乗り越え夢を抱いて新世界へ流れ着いた」

 

と字幕が入って始まる。

 

まずはストーリーをMovie Walker から適宜抜粋して紹介。

総督フェルディナンの支配する南米のスペイン植民地、そこへ総督の取り寄せた黄金の馬車と一緒に船にのってやってきたのはドン・アントニオ率いるイタリアのコメディア・デラルテ(即興仮面劇団)一座に、そのヒロイン カミーラ(アンナ・マニャーニ)に恋して同行している騎士を加えた一行。一座は早速興行を始めるが、全く受けず、観客の注意は客席の中の人気闘牛士ラモンにばかり向けられる始末。怒ったカミーラがラモンを挑発し、やっと大喝采をとるが、あがりはほとんどなかった。しかしそこへ宮廷で舞台を演じないかという総督からの使い。カミーラをすっかり気に入った総督は彼女を大舞踏会に招待するが、カミーラの心を失って絶望したフェリペは軍隊に志願すると彼女に別れを告げる。今度は闘牛士ラモンが新たにカミーラに言い寄り始める。そんな中、カミーラに黄金の馬車をやる約束をしてしまった総督に、公爵らはそんなことをするなら国王に罷免を訴えると息まく。しかしカミーラは黄金の馬車に乗って帰るが、ラモンが彼女を熱心に口説いている時、軍隊からフェリペが帰って来る。更には詫びを入れるため総督まで現われ、3人がはち合わせ、ラモンとフェリペは決闘を始めてしまう。座長ドン・アントニオはカミーラに逃げようと言うが、彼女は「私は残る」と動じない。ラモンとフェリペは逮捕され、総督も罷免だろうと噂される中、大司教がカミーラと共に宮殿に黄金の馬車で乗りつけ、彼女が馬車を教会に寄付し、来たるミサで歌うので皆を招待したいと告げる。歌い踊るドン・アントニオ一座の中にカミーラが駆けつけ大団円となるが、そこに彼女を取り囲んでいた3人の男たちの姿はなく、舞台の上にしか自分の人生はないことを知ったカミーラは一抹の寂しさを覚えるのだった。

一座のヒロインカミーラに恋し言い寄る3人の男。

騎士フェリペ、闘牛士ラモン、そして総督。

フェリペは派遣された先で未開人に捕らえられて、その言葉を覚える

「言葉を覚えたら彼らの考え方がわかる。野蛮どころか優しくしてくれ真実の姿を知った。われわれよりずっと立派だ。われわれを粗野で不誠実にする文明と手を切って自然に戻りありのままの人生を送りたい」とカミーラに来てくれるよう懇願する。

闘牛士ラモンは芝居がかった男で、すぐ決闘を申し込むが、カミーラと組めば人気のショーが出来ると誘う。

総督は宮廷の生活に退屈し飽き飽きしているが、カミーラを別室に誘いカツラを脱ぐとカミーラは「それを脱ぎたかったのでここに来たのね」と2人で大笑いし打ち解け、「金鉱のためだけにここにいる。金鉱にふりまわされている。笑えることは少ない、金鉱が笑いを奪うんだ」と寂しく述懐する。

 

総督が持ち込んだ黄金の馬車は宮廷貴族の垂涎の的だが、総督はそれをカミーラに贈呈する。

貴族達は黄金の馬車を奪われたことに怒り、貴族の特権で総督の解任を決議し枢機卿の承認を得るつもりだ、と決定を覆せと迫る。

 

騎士フェリペと闘牛士ラモンは禁じられている決闘を始めたゆえに処刑されることになる。総督にもまたその座を奪われる事になる。

カミーラが狂わした3人の男達の運命。

 

カミーラの機転で枢機卿がカミーラと共に黄金の馬車で乗り付け、

フェリペとラモンは和解し処刑は取り消し。

総督は地位に止まる。

貴族達は枢機卿の敵では無いのだ。

 

一方カミーラ自身は、自分を愛する男達を救ったものの、

自身の人生をかくも切り開けないことに落胆する。

 

冒頭の「これは芝居だ」と宣言して始まるこの映画、

観客無くしては映画は成立しないが、その観客が映画の筋立てや登場人物を理解し、その運命に共感や同情や、あるいは反発を感じるかどうかが映画の成功不成功の分かれ目である。

そしてその最も大きな要素は、この映画の場合カミーラを演ずるアンナ・マニャーニが担っている。

 

「付け加えなければならないのはわたしは自らにはっきりと使命を課したと言うことです。それはアンナ・マニャーニと映画を作ることです。

マニャーニはイタリアの精髄です。

私は、我々が出会う以前にマニャーニがロッセリーニやヴィスコンティとの共同作業で彼女に成功をもたらした諸要素に頼らずに彼女の魅力を引き出したいと考えました。(ジャンルノワールエッセイ集成・青土社1999刊)

 

黄金の馬車は1952年の作。

それ以前となれば1945年ロッセリーニの「ローマー無防備都市」

前年のヴィスコンティの「ベリッシマ」と言うことだろう。

「彼女に成功をもたらした諸要素」の意味するところは言及されて居らず全く明らかではないが、「諸要素に頼らず」と言ってみても観客は黄金の馬車のマニャーニを無防備都市のピーナのマニャーニ、ベリッシマのマッダレーナのマニャーニを記憶の中に留めそれと重ね合わせるだろう。

 

勿論それらの映画での役割は違うから、「黄金の馬車」での一座の花形女優でのマニャーニには新しいマニャーニも付け加わることだろう。

私はベリッシマを見ていない。無防備都市のマニャーニには、イタリア女の一途さ、それから来る芯の強さなどを感じたのだが、カミーラにもその要素を見て取り、さらに男に愛されながらもその愛を成就しないことによって男を救う女の寂しさ、がそれに付け加わった、と思う。

フェリーニの「ローマ」も含めてだが、マニャーニは撮る角度で相貌が変化する女優だと思う。もちろん非常に美しい角度とふてぶてしさが出るカメラの角度がある。それらもまた女優の持って生まれた財産なのだろう。

 

監督のジャン・ルノワール(1894-1979)は画家ルノワール(1841-1919)がある程度認められ、生活も安定してからの子供である。

父ルノワールは性格も穏やかで伸び伸びした人。ジャンも穏やかで屈託のない性格だと思う。ニースの大学で数学と哲学を学び、第一次世界大戦で偵察飛行隊の任務中片足を銃撃され終生その傷の痛みに悩まされた。

「大いなる幻影」「どん底」「ゲームの規則」など名作は多い。

 

ゴタールやトリュフォーらのヌーベル・ヴァーグ、ロッセリーニやヴィスコンティらのネオリアリスモなど多くの著名な映画監督に影響を与えた。

かつてこのブログで取り上げた写真家ブレッソンもルノワールのもとで助監督を務めていたことがあるが、知る限りジャンの悪口を言う者はいない。

ジャンは、映画が観客あってのものだ、ということ、

映画は観客にとって難解なものでは無く理解しやすいもので無ければならないことをよく知っていた監督であったと思う。

この映画でもカミーラを取り巻く男達はそれぞれに造形が明らかで、しかしそれは定型化された退屈なものではなくそれぞれが弱点を持った男達だ。

それに取り巻かれるカミーラは成功を求めながらも、結局は成功よりも男を救済する方に生きる。男達よりは複雑な性格を持っている。

 

余談だがジャンはドイツがフランスを占領で1940年渡米。

ハリウッドで何本かの映画を撮ったが晩年は不遇であったらしい。

ジャン・ルノワールを敬愛する、情に飢え情に厚いトリュフォーが援助していたらしい。