#フランソワ・トリュフォー監督 #華氏451 1966年制作 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

レイ・ブラッドベリの原作が下敷きとあるが、本来SFは読まないので原作には当っていない。また小説と映画では表現形式が違うのでその必要も無いだろう。

この映画は1932年生まれで1984年52才の若さで亡くなったトリュフォー34才の作品。

彼の生い立ちなどについてはいずれ「大人は判ってくれない」(1959)や「ピアニストを撃て」(1960)で触れることにしたい。

 

華氏451度は摂氏233度くらいで本が燃焼する温度。

題名自体にサイエンスフィクションの要素は何もない。

 

架空の国、そこでは本を読むことも所持することも禁止され、人々は専らテレビと暮らしている。テレビの司会者は視聴者をいとこ、と呼び双方向で番組を進行させる。

焼却隊は本を所持している者の家に行き、本を隠していそうな所を探索して一カ所に集め火炎放射器で焼く。

本を見つけ出して焼却する隊の事務所の名前は451.

その消防隊の先任隊員モンターグは通勤のモノレールの中で会ったクラリスに話しかけられる。彼女は本好きの女性であった。

一方家庭に帰ると子供のいない妻リンダ(クラリスと二役)は暇を持て余し近所の女性達とテレビを一緒に見ているが、女性同士の会話もありきたりで無味乾燥だ。

妻との退屈な生活に飽き飽きしていたモンターグは次第にクラリスに惹かれてい行く。

そして多分押収した書物から蒐集したのだろう本を夜中にひとり読み始める。一方焼却隊の隊長はモンターグに昇進を約束し、いわば「焼却」の哲学を伝授する。

 

「実在しない人間の物語は読んだ者を不幸にする。別世界の人生を空しく想像させる。哲学者も有害だ、小説家より始末に悪い。

その主張は”自分は正しく他の者はバカだ”と。

人間の運命は決められているとかつて説いて、時代が変わると選択の自由があるという。

哲学は流行に過ぎん。

アリストテレスの倫理学を読むと自分は誰よりも偉くなったと信じ込む。

これはマズい。幸福の道は万人が同じであることだ。

だから本は焼かねばならん」

 

つまりかくのたまう隊長は読書家である。

あれこれ本を読んだあげくにかくのごとく結論づける。

自分は読書を楽しみ他人からはその楽しみを奪う。

焚書の本質が露呈されている。

 

物語は夜中に本を読み始めたモンターグと妻のリンダとの間に隙間風が吹き、ついで喧嘩になる

離婚を決意したリンダは451署の前にある「密告ポスト」にモンターグが本を所有している旨を投函する。

 

隊長は何食わぬ顔で隊の車にモンターグを乗せ、彼の自宅に連れて行く。

そして彼の本をあちこちから探し出し、火炎放射器を渡して自分で焼けと命ずる。

モンターグはかつてクラリスの友人である私設図書館のような蔵書をもつ老婆の家で、彼女が本と共に焼かれる事を望み自死した光景などが重なり、突然火炎放射器を隊長に向け焼き殺してしまう。

 

ポリスに追われたモンターグはかつてクラリスに聞いた、鉄道線路の果てにある「本の人々」が住む村に向かう。

村の指導者は彼に会うなり握手をして歓迎する。

テレビで彼の追跡の様子が実況中継されているのだ。

 

村では、全ての本が焼かれても、その内容を後世に伝えるために人々は本の内容を一字一句記憶し、その本の題名がそれぞれの人の名前となっている。そう村の指導者はモンターグに伝え、かつテレビをつけて、追跡の様子を映し、「見ててごらん、当局は人々を安心させるためにモンターグに似たものを捕らえ殺すから」と言う。彼は公式には死んだことになる。

 

そこで彼はクラリスに再会し、たまたまモンターグが自分の蔵書から持ち出した本が、ポーの「怪奇と幻想の物語」で、彼はそれを暗唱することになる。

 

映画では本を全て焚書するが、部分的に発禁本にすることは現代でも行われている。

たとえば中国ではミルやロックの本は「西洋型民主主義」の悪書としてつい最近習近平は発禁にした。

日本では戦時中、風俗を軟弱にする、と言う理由で退廃的と当局が見做した本なども発禁処分になった。

戦後民主主義だって「猥褻」を理由に発禁した。例えば永井荷風の作といわれる「四畳半襖の下張」。1972年(昭和47年)ある雑誌に掲載され摘発を受け、その後裁判となった。当該雑誌の編集長野坂昭如や丸谷才一、開高健、井上ひさし、有吉佐和子らが「表現の自由」の立場から弁護側に立った。

 

結局最高裁は「その時代の社会通念に照らし、それが性的興奮をかきたて、さらには読んだ者の性的羞恥心を呼び起こす」ものを猥褻、と決めつけた。

つまり時代が変わればその摘発も変わる、というものだ。

しかし、猥褻云々よりもこの方が問題だ。

つまり「その時代の社会通念は誰が決めるのか」。

 

それは摘発をする側の警察が事実上決めることになる。

「表現の自由」の内容は警察の裁量次第と言うことになり

自由と民主主義の根幹を警察権力が把握することになる。

考えてもみてごらん。

性的興奮を覚えるかどうかなんて、男女の差、既婚と未婚の差、社会経験の差、知識の差、性的嗜好の違いなど様々な要因で違ってくる。

それ以上に問題なのは、それを決定するのが警察だということ。

つまりこの戦後の事件の中に、映画華氏451で描かれた問題点が凝縮されている。

 

もう一つ、思想の自由や表現の自由を気にくわない者は、

性や家族を統制しようとする。

自民党の統一教会汚染を考えてごらん。

夫婦別姓やLGBTの否定、女性を子供を産み夫にかしずく存在に押し込めようとする。映画の中でテレビで司会者は視聴者を「いとこ」と呼んで、家族的価値を押しつけ異論を封じようとする。

統制とは異論を封じること。個々の人間の生き方や考え方を画一化しようとすること。

統一教会がその名前では浸透が難しくなって「世界平和統一家庭連合」と名称変更を目論み、下村博文文科相の時それを認可した。

 

しかもなんたる皮肉か、あるいは自民党の退廃か。

統一教会の聖典には以下の事が書かれている、という。

アベ元首相暗殺事件以前に跋扈していたネトウヨが最近は温和しい、という。嫌韓に盛り上がっていた諸君のボスのボスが、事もあろうに日本は戦前の朝鮮併合の罪滅ぼしに、とことん統一教会に貢げ、と言っている。

もう一つ、文鮮明が日本や米国に浸透するために掲げた「勝共連合」は

反共を旗印に掲げている。

これが旗印に過ぎないことは、冷戦終結〈1989年)後、1991年文鮮明教祖は、北朝鮮の金日成と電撃会談を行い、勝共、とは「共産主義を生かすこと」だ、

と路線変更した。

その後は日本で集めたカネを北朝鮮に貢ぐ。

(新版社会科学事典 新日本出版社1978)以下より引用。

 

 

国際勝共連合  

日本は生活水準を3分の1に減らし、税金を4倍、5倍にしてでも、軍事力を増強してゆかねばならない、日本の国民に犠牲になることを要求している。 つまり日本の窮乏化だ。

窮乏化と言えば清和会の小泉・アベと竹中による自称小泉竹中改革、アベ竹中改革。中心は社員を非正規雇用化して窮乏化すること。

一方こうした日本からカネを搾り取る路線は変えずに、さきに紹介した北朝鮮との関係は日本の自民党の議員支持者諸君には何も知らせない。

つまりバカ扱い子供扱いをされているわけだ。

 

反共と言えば連合の芳野会長が参議院選挙前に、共産党との選挙協力を認めない趣旨の発言をした。

彼女の反共のルーツをたどれば統一教会に繋がる。

都知事選にも出た松下正寿は1973年文鮮明と面談して心酔し、

「文鮮明ー人と思想」を著し、世界日報編集委員や日韓トンネル研究会の名誉会長などを務めた。その彼は同時に旧民社党、旧同盟の思想的バックボーンとして、富士政治大学の理事長を務めている。

芳野氏はその政治大学校に入学経験があり、その体験を貴重としているらしい。そしてその反共教育は「洗脳教育」に似たものを感じる。

 


かくも、統一教会は日本の政治、労働運動に浸透していることをわれわれはキモに銘じなければならない。

憲法改悪もその流れの中にあるのだ。

自民党はもとより維新も国民民主〈旧民社系)も改憲派だ。

改憲の内容よりその担い手の思想が問題なのである。

 

最後に蛇足だが、中国、ロシア、北朝鮮、あるいはミャンマーを始めとする軍事政権などなど全体主義国家に対しては私は断固反対する。

そこは日本共産党と同じだが、共産主義思想は同時に否定する。

共産主義思想を掲げて全体主義国家では無い国家を知らない。

共産主義思想は必然的に官僚国家であり、市民の自由を抑圧する。

 

言うなら私はリベラリストであり、自由と平等を民主主義の最善の価値とするデモクラットだ。

一方自公政権打倒のために立憲民主党を中心とする日本共産党を含む野党共闘は支持する。

そうした思想に立脚して政治や社会にについて述べている。