#トリュフォー #ジュールとジム #突然炎の如く #ジャンヌ・モロー  | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

間違いなくこの映画はトリュフォーの代表作、傑作である。

トリュフォーはこの原作を古本屋の中から発見して映画化を構想するが自分にはまだその準備ー表現するだけの成熟がないと自覚して長編一作目は「大人は判ってくれない」にする。このクールな自己評価こそトリュフォーのゴダールにない魅力だろう。

 

 

原作を読んで、彼トリュフォーが魅了された要素は何であったか。

推測するに、カトリーヌの中に自分の実母を見たに相違ない、と言うのが私の見立てである。即ち「大人は判ってくれない」の自伝的部分で彼は母親が路上で養父とは違う男と口づけをしているのを目撃するが知らんふりして友だちと通り過ぎる、一瞬母親と目を合わせるが。その母親の愛人は夕食のテーブルに皆にプレゼントを持ってきてしばしば同席する。その三角関係、と言うよりは幼いトリュフォーを含む円環的関係の中に母親に対する複雑な感情(コンプレックス)を懐胎して行くのだ。

 

第一次世界大戦をはさむこの物語、ジュールはオーストリア人、瀕死のハプスブルグ帝国の恐らくはその貴族の血を引くボヘミアン、言うなら遊び人芸術家である。一方のジムは小説家志望のフランス人の平民である。ジュールはジムにカトリーヌを「父は名門貴族、母親はイギリス人の庶民、したがってカトリーヌは中産階級(ブルジョワジー)を知らない女」と紹介する。

 

1962年公開の本作は、世界中で特に英米でヒットし、原作の小説もベストセラーになった。多くはカトリーヌの生き方の中に自分を投影した女性に支持されたらしい。

ハイデッガーとウイトゲンシュタインの研究者である哲学者のカヴェルの著「眼に映る世界 World Viewed 」にこの映画の批評があり、おこがましいがそれに対する私見を交えて以下、何点かに分けて紹介する。

 

1カトリーヌ

既に友人同士であったジュールとジムが、自分たちの生きたミューズとしてカトリーヌに魅了される。始めに愛を告白してカトリーヌと結婚するのはジュールだ。

カトリーヌは結婚の承諾にあたり「ジュールはうぶで、私は男を知っているからこの結婚は釣り合っている」と言う。ジムはジュールに「結婚に賛成するか正直に応えてくれ」と問われ、「家庭的な女ではない。地上では幸せになれない女だ。彼女は幻だ独占できない女だ」と忠告するがジュールは耳を貸さない。カトリーヌは2人の男に主導権を持つ。それは2人の男が自分に魅了されていることを知っているからであり、二人の男の潜在的なライバル心を利用しているからでもある。三人である芝居を見に行った帰り、カトリーヌは「主役の娘はいいと思う。自由を夢見新しい生き方を求めている」と評価するが、ジュールは「夫婦間で大切なのは女の貞節だ。男の方は重要じゃない。女は自然で下劣なけだものと書いたのは誰だっけ」とジムに問いかけ、ジムが「ボードレールだ。だが売春婦のことだ」と答えると「いや女全般の事だよ」と答える。

こうしたやりとりを聞いたカトリーヌは振り返って「ふたりともバカね」と言い、ヴェールをとり着衣のまま(汚い)セーヌ川に飛び込み泳いで岸につき二人に引き上げられる。

ナレーションは「この飛び込みはジムに強烈な印象を残した。激しい讃美の情がほとばしり出た」と語る。

 

じきに戦争が始まり、二人はオーストリアドイツ側とフランス側に別れて闘うが、戦争が終わってジムはドイツに近いアルザスの山荘にジュールとカトリーヌを訪ねる。二人には娘が1人いるがその関係は底流に冷え冷えとした感情が流れている。カトリーヌは近くの村にかつての2人の友人だった男が療養で来ており、カトリーヌがその男と関係し、ジュールはカトリーヌを失う事を恐れていた。「彼女は僕を捨てそうだ。一度あったことだ6ヶ月も帰ってこなかった。僕だけの妻ではない。3人も愛人がいた。結婚前夜独身に別れを告げるため男と会った。僕に対する復讐だと言うんだ。僕は不必要な男だ」。

ある夜カトリーヌはジムを誘い2人は深い森の中に入る。

ジムはカトリーヌとの数々の出会いの際の自分の感情を語り、カトリーヌはジムに「ジュールの無邪気さと寛大さと傷つきやすさにひかれたの。他の男とはまるで違っていた、私は彼を危機から救いたかったの。でも危機は彼の一部だった。私たちはひとつになれなかった」と告白する。そして夜が明ける。ナレーションは「ジムはカトリーヌへの欲望を押し隠した。彼女を引き留めよう、ジュールのために?彼自身のため?どちらでもいい」。2人が山荘に帰り階段で2人が触れ合いジムが抱きそうになるとカトリーヌは身を翻して階段を上る。「彼女はジムを誘惑しているのだろうか・彼女はとらえどころがなかった」と続く。

 

ある夜、カトリーヌに「親和力」(ゲーテ)を貸すために寝室を訪れたジムはカトリーヌを求め2人は遂に一つになった。「彼女の顔に歓びと驚きがあふれた。もはや彼には他の女は存在しなかった」とナレーション。カトリーヌとジムはベッドを共にし、「ジュールは私たちを愛している。私たちも彼を愛している」というが、ある日カトリーヌがジュールとじゃれ合う声を聞いた「ジムは嫉妬する権利がないと思いつつ嫉妬した」とナレーション。

 

数日後ジャーナリストとしての仕事でパリがジムを呼び返した。

その間カトリーヌはジムの婚約者として手紙を書くが、ジムはパリでの交際相手の女性を振り切れないでいた。そしてようやく山荘に帰るとジュールのみが出迎える。

カトリーヌが煮え切らないジムに不満を抱いていること、前日に出て行ったことを告げる。

 

「彼女は何でもとことんやる女だ。彼女は女王だ。彼女は特に美しいわけではない。聡明でも誠実でもない。だが女そのものだ。僕らが求める女、全ての男が夢見る女だ。そんな貴重な女がなぜ僕らに授けられたのか?僕らが彼女を女王のように迎えたからだ」とジュールはジムに言う。

ジムはカトリーヌと先々うまくいかないと感じ、ジュールとの友情も息苦しいものを感じているとジュールに告げ、翌朝パリに帰る決心をする。

しかし当夜カトリーヌが外泊から戻り、2人は再び同衾する。

「あなたのように私にも用事があった、あなたと同じように別れの挨拶をしたのよ。今夜は静かに寝るだけにして。もし今生まれたら誰の子か判らなくなるのよ」とカトリーヌに言われてジムは反対側を向く。そして別居を決意したジムはパリに帰る。

 

カトリーヌはジュールに「私たちずっと一緒よ。私をそばに置いて」と涙ながらに懇願する。

カトリーヌの中に老いる不安、死の不安が兆すのだ。

パリに帰るジムをカトリーヌは駅まで送るが、時刻が変わりホテルに一泊することになる。

寒々としたホテルの部屋で2人は終止符を打つつもりで体を交える。

翌日ジムは発つがカトリーヌはハンカチすら振らなかった。

パリに帰ったジムは病で自宅で療養している。

カトリーヌから手紙で「妊娠らしいわ、来て」と手紙が来る。

ジムは「僕は病気で起きられない。君に会いたいと思わない。あんな冷たい別れで妊娠するはずが無い」と返信する。ジムからの冷たい手紙に「愛してるわ、私妊娠したわ、あなたの子よ確かよ。お願い信じて、あなたの愛が私の命よ」と冷たさに釣り合う熱い返事が来る。

 

ある日パリでジムはジュールとばったり会う。

カトリーヌとセーヌ河畔の水車小屋を借りたという。

ジムはジュールに同居の女性ジルベルトを紹介し、近く結婚するつもりだと告げる。

ある夜電話が鳴る。カトリーヌからだ。自殺を予感させる内容にジムは水車小屋に向かう。

「私と一緒に寝て、キスして」とせがむカトリーヌにジムは「僕にも衝動がある、僕は自制できる、君には出来ない。僕も夫婦は恋愛の理想では無いと思う。周囲をみればよく分る。君は偽善と諦念を拒み よりよい何かを求めた、君は真の恋愛を生み出そうとした。ジルベルトとは一緒に年老いる約束をしたが、君と結婚する希望は無い。僕はジルベルトと結婚する」と宣告する。「わたしはどうなるの?私の子供はほしくなかったのね」。

そういってカトリーヌは突然怒り「卑怯よ、大嫌い殺してやる」と隠し持ったピストルをジムに向ける。ジムはそれを奪い取って窓の外に放り投げ、自らも屋外に飛び出し消え去る。

 

ある夜ジムは映画館に行き、焚書のニュース映画をみる。偶然後方でジムとカトリーヌがジムを見つけ、カトリーヌは男二人をドライブに誘った。カトリーヌは車を飛ばし河畔のカフェで一休みした。ジュールは「彼女は君を捕まえたが君は逃げた。君の情熱はゼロに戻ったが彼女の恋は百倍も燃え上がっている」とジムに二人きりの時話す。そこへカトリーヌが車で来て「ムッシュージムお話があるの、一緒に来て」と指示し、運転席(左ハンドル)から身を乗り出し「ジュールよく見ていて」と声をかけジムと出発。車内でカトリーヌはジムに微笑みかける。

車はすいすいと林を抜け、そして途中で崩落した橋の上から川に飛び込む。

 

「彼女の裏切りと死を恐れていたが何もかも終わった」

「死体は葦に絡まっていた。大きいジムの棺、宝石箱のような彼女の棺。何も残さぬ二人。ジュールには娘がいる。彼女の生き方は徹底していた。ジュールは重荷を下ろした気持ちだった。ジュールとジムの友情は絶対だった。」

このナレーションを背景に墓地の坂をひとり下って行くジュール、、、

 

2ジュールはなぜに重荷を下ろした気持ちだったのか

最後のナレーションはジムの独白にちかい。

カトリーヌに翻弄される日々は終わったのだ、、、という気持ちはあるだろう。

しかし同時に生涯の友人をも失った。

その友人とはともに同じ女を愛し、女の激しさが二人の友情を揺さぶる。

カトリーヌを見るときジュールは自分だけで無くジムを意識する。

カトリーヌを見るときジムはジュールの影を意識する。

ジュールとジムが友人同士でかつその二人がとカトリーヌを同時的に存在することで、三角関係と言うよりは3人の円環的関係、つまり出来事の因果関係が重層化し解きほぐしがたくなる。そして円環的関係は閉じた関係でもある。その閉じて出口の無い関係、堂々巡りから解放された気持ちが「重荷を下ろした」と言うことなのだろうと解する。

カヴェルは三人の関係の中に(共同体の核)と敷衍するが。

 

3,なぜ題名は「ジュールとジム」でカトリーヌではないのだろう

これは原作者を読んでいない(和訳はないようだ)のでいかんとも言いがたいが、最後のナレーションの「ジュールとジムの友情は絶対だった」にあるのだろう。

あるいはトリュフォーの原作者ロシェに対するレスペクトから、とも考えられる。

友情で結ばれた二人が奇しくも同じ一人の女性を愛する運命に入り込み、最後は一人が残される。カトリーヌはその意味で「ファムファタール」である。しかし「絶対」とは言うもののジュールが「カトリーヌを失うよりジムがカトリーヌを得て欲しい」と言うのはジムに対する友情よりもカトリーヌに対する執着だろう。「友情は絶対」と言えるだろうか。

原題の「ジュールとジム」より、「突然炎のごとく」とカトリーヌを形容した日本語の題のほうが映画の内容を良く表わしているのではないかとおもう。

ジュールとジム、二人の芸術家とその作品としてのカトリーヌ、とカヴェルは見なし、ジュールの台詞の中にもそうした表現があるのであるが、ジムにはそうした考えはなさそうだ。カヴェルはハイデッガーの世界に投げ出された(被投的)存在の人間が、危機ー不安に直面して世間知で受け流す(頽落)ことをせずに、直面し投げ出されるままに生きることをアラン・レネの「ヒロシマある愛」の女優の一夜の愛に生きる姿に言及する。カヴェルはカトリーヌの生き様には言及していない。しかしカトリーヌは老いの不安容色の衰えにたいする不安をジュールに対し吐露するが、愛に生きる生き様に葛藤を感じている様子はうかがえない。一方ジムが当初抱いていたカトリーヌに対する人間観や彼の結婚観は世間知であり、その世間知はカトリーヌの炎に焼き尽くされてしまう。その激しい炎はカトリーヌの二人の男に対する「支配欲」である。

そのツールは自分が与える愛であり、男のあいだの嫉妬心であり競争心である。

そして嫉妬心や競争心が衰えかかったときは第三の男を引き入れ、活性化するのだ。

カトリーヌの場合、支配欲とその対局としての怒りである。怒りの炎なのだ。

 

4、ストップモーションと無音のシーン

もう一つカベルがこの映画に注目したのはカトリーヌのストップモーションである。

そのストップモーションは、二人の芸術家がある像の写真に魅了されて南の島に旅する。

そしてカトリーヌの中にその像の似姿を発見し彼女を二人のミューズ(詩神)とする。

トリュフォーのストップモーションはその像への言及なのだ、とカヴェルは解釈する。

私は自動車の無音のシーンに注目した。

カトリーヌが運転する車が囃子の中に入って行くシーンは無音であった。

一方ジムを乗せて走り去り橋から飛び込むシーンと以後の葬式の映像は背景に音楽が流れる。

私はこのシーンこそ無音であって欲しかった。

死出でのたび、冥界の旅への不安と不気味さが一層増したのではないか、と思う。

二人が納棺され焼かれジュールが墓地を去って行く場面にナレーションが入るが、背景には音楽が流れる。この音楽も無いほうが一層思索的で瞑想的であると思う。

 

余談だが、カヴェル(1926-2018)はハイデッガーとウイトゲンシュタインに造詣があり、私にとっては親しみやすい哲学者である。そして母親は有名なピアニストでトーキー時代の映画の伴奏をしたことが多々あったらしい。カヴェルは16才で唯一の白人として黒人のジャズバンドでサックスを担当し、ついでカリフォルニア大学で音楽を学び、名門ジュリアード音楽院で作曲を学ぶも音楽に対する情熱を失って哲学に転向しカリフォルニア大学やハーバードで学んだ。そのカヴェルの映画音楽についての意見はいかに、と思うのだがいまのところ音楽の言及に遭遇していない。

カヴェル

 

5,ナレーションと戦争シーン

カトリーヌの項でナレーションの部分を度々引用したのは、この映画の特徴を伝えたかったためである。ナレーションは主に心理描写に使われるが、演技では曖昧にしか伝わらない部分を明確に伝える意図があるのだろう。あるいは映画をある時間内に収めるための必要性から、と言うことも考えられる。また戦争シーンでは写真とニュース映画のような映像を材料に編集している。トリュフォーが助監督としてロッセリーニに仕えたが、そのロッセリーニは「ローマ、無防備都市」で戦後の資材不足と資金不足の中で過去の写真や、違う映画のために撮っておいた映像を駆使して安上がりに制作した。そういう知恵をトリュフォーも学んだのだろう。

 

6,この映画を傑作とする理由。

ある女性の欲望、愛欲と支配欲が、その強度のしからしむところによって、暴力的な即ち悲劇的な結末を迎える。 自分の欲望とその対象である男の生を永遠に閉じ込めてしまうのだ。

その炎は、全てを焼き尽くしたわけではなく、自分の娘とその養育者を残した。

そこに救いと、少しの希望がある。

冒頭、この映画が傑作であると述べたのは、その主題の苛烈さとその生を生きる女とが分かちがたく結合して悲劇的な結末に力強く向かうからである。

映画の価値は、実存的価値、芸術的価値と娯楽的価値の三つがあるとどこかで述べたが、それが満たされている映画だと思う。

勿論、欠点が無いわけでは無い。しかし欠点の無いことはいい映画の条件では無い。

 

余談だが、カトリーヌがセーヌ川に飛び込むシーン、エキストラはそれを嫌がったが、では、とジャンヌ・モローが自ら飛び込んだ。汚い川のせいだろう、数日のどを痛めたらしい。

また、トリュフォーは二作目の「ピアニストを撃て」が興行成績が悪く、三作目のこの映画の資金は乏しかったらしく、アルザスの山荘のロケのとき、スタッフ俳優15人余りの食事はモローが作ったらしい。プロ意識が強く、覚悟が出来た女優像が浮かび上がる。