#ドキュメンタリー #ゴダールとトリュフォー #二人のヌーヴェルヴァーグ | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

英題はTwo in the Wave, カイエ ド シネマを主宰したバザンのもとで刺激的な映画評論を発表し、後に映画制作に乗り出してヌーヴェルヴァーグと名付けられた旋風を巻き起こし、数々の話題作ー中には無残な興行成績しか残せなかったものもあるがーを制作し、1968年のパリ5月革命前後の闘争で、次第に別の岐路を踏み、終には決裂したゴダールとトリュフォーのドキュメンタリー。

 

ゴダールはつい先頃自宅のあるスイスで合法的に安楽死した。91才。

監督はエマニュエル・ローラン、ナレーションはカイエ紙の編集長を務めたことのあるアントワーヌ・ド・ペック。

 

 

ゴダールはスイスレマン湖に面したローザンヌで1930年12月に富裕な家に生まれた。一方トリュフォーは1932年2月6日パリで貧しいが読書や芝居好きの両親の下に生まれた。実の父親についてはいろいろと憶測がある。

余談だが旧東ドイツに生まれたゲルハルト・リヒターは同年の2月9日の生まれで現在90才。が、トリュフォーは1984年52才で病のため早世した。

 

映画は二人の生まれについて貧困と富裕、と対照的に捉えるが、後に両親が離婚したことからみれば二人とも温かい家庭に育ったとは言えない。

学歴はトリュフォーは映画好きがこうじて16才で学業を放棄、シネフィル(映画狂)のクラブを組織し、コクトーをスピーカーに呼んで開講するなど早熟する。そのシネクラブの借金で盗みを働き鑑別所、後には刑務所に入った。その間ジャン・ジュネに手紙を書き激励を受けている。

一方のゴダールはリセに入るもバカレロアには3度目でようやく通りパリ大学に通って学生生活を謳歌する。その間ロメールの主宰するシネクラブに入りトリュフォーらに出会う。

 

そうした縁が繋がって、トリュフォーはバザンに見いだされ養育され、またゴダールもバザンと知り合い、ゴダールは1952年から、トリュフォーは1年遅れでカイエ・ド・シネマにそれぞれ21才で執筆を開始する。

バザンは言わば映画評論の開拓者(映画とはなにかー岩波文庫)でかつ異論を容れる、包容力のある師で二人は歯に衣着せず評論を発表した。勿論映画を昼となく夜となく見まくっただけでなく、カイエ紙の記者として著名な映画監督にインタビューする事でいわば映画のインテリジェンスを磨いた。二人がそうした大学の専攻や助監督という徒弟修行のようなルートを経ずして映画制作の道に入った、ということも”あたらしい波”を切り開いた要因と言えるだろう。

 

トリュフォーは「大人は判ってくれない」で初の長編映画を監督。

師であり父代わりでもあったアンドレ・バザン(1918-1958)の死の翌年であった。 同作は戦後フランス政府が主宰して発足したカンヌ映画祭で、時のフランス文化相アンドレ・マルローの強い推薦で監督賞を受賞、映画誌「シネマ58」がヌーヴェル・ヴァーグ」と名付けたが、その名称は社会学からの借り物であった。

 

主役の少年ドワネルはジャン=ピエール・レオが演じ、以後ドワネルの成長につれていわゆる「ドワネルもの」が続編として制作されることになる。それらはトリュフォーの自伝的映画、といわれるが、それに加えて観客を大切にし、報道関係者や批評家にもとても丁寧に接しながらも、断固として自らに忠実に生きた作家、というイメージを作り上げる。

しかし、この映画でナレーションを務めたベック達が書いたトリュフォーの伝記には「実はトリュフォーは知られざる側面の方がずっと面白いのだ」と書いてある。それらは「大人は判ってくれない」などのブログで追々言及するつもりだ。

 

一方のゴダールは、トリュフォーがカンヌの監督賞を受賞した翌年の1960年、「勝手にしやがれ」を初の長編映画として監督。

主役のベルモントとともに一躍寵児となった。

 

1963年文化相のマルローは、既存の客席を備えた映画の保存、修復などの私立施設シネマテークに助成し、同時にシャイヨ宮に移転する。

1968年2月経営方法について財務省の圧力でマルローは館長のラングロワを解任、これが二人のヴァーグ、トリュフォーとゴダールの怒りに点火し、二人は反対運動の先頭に立ってデモで警官隊と衝突し、解任反対の署名活動をする。この騒動の中、5月のカンヌ映画祭の開催が強行され、二人は映画祭の中止を求めて同じように先頭に立つ。

映像から感じ取られるのは、ゴダールの戦闘的な姿勢であり、トリュフォーはこの展開に充分乗っていないように見受けられる。

ゴダールは「芸術家の真のモラルには圧政への激しい抵抗も含まれる」同時に彼はモノマネでは無い革新性を評価基準にする。例えば、「カルネの”霧の波止場”が傑作なのは時代とマッチしていたからだ。"危険な曲がり角”はカルネの駄作だ。ものまねも技巧ばかりが目立ち創造性がない」と切って捨てる。

一方のトリュフォーは「以前の監督達よりも革新的なことをやろうと考えたことはありません。映画を撮りたかっただけです」と言う。

 

この姿勢の違いには、ゴダールが旧植民地アルジェリア戦争を扱った1960年の作品「小さな兵隊」が当局に3年間上映禁止を食らった経験が影響しているに違いない。その中で拷問の中で政治論を闘わせ革命理論や理想主義などについて語る。(未視聴)

トリュフォーの方は「”さよならをもう一度”(1961年リトヴァク監督作品)と私の”柔らかい肌”に大きな違いはありません。同じ映画です。ただ私の映画では真実の感情が描かれウソが無い。もう一方はウソだらけ。イングリッド・バーグマンもイヴ・モンタンもウソで、ウソで塗り固められた作品」 と酷評しAuthenticityを重視する。

 

こうして二人はシネマテークとカンヌ映画祭では共闘しながらも、その後の分岐となる違いを内包して行く。

また、この運動は学生・労働者、知識人が連帯した同年5月のパリ革命の先駆けでもあった。

 

長編処女作の華々しい成功の後、二作目、トリュフォーの「ピアニストを撃て」もゴダールの「女は女である」も興行的に失敗する。

早くもカイエ・ド・シネマが提唱した「作家主義」が挫折する。

映画館ではハリウッド映画の大作主義が、たとえば「史上最大の作戦」などが観客動員数を塗り替える。

その後もしかし二人は映画制作を続けることが出来たからには一定の観客動員が出来たからに他ならない。このあたりはフランスの、CNC(国立映画映像センター)を中心とした、フランス国内で上映する全ての映画の入場料から一定の金額を納付させそれを助成金の原資にする政策や、助成金を交付する場合は対象映画の制作費ー人件費や照明撮影などの機材を含むーの80%をフランス国内で消費する、と言うような保護策があるのだと思うが、その辺の関連を考究した著作や論文が見当たらない。この辺はフランス映画研究者や映画の字幕翻訳者などの怠慢だ。文化庁が我が国の助成の参考にいわば官庁版報告書があるだけだ。

 

 

本作では二人が敬意を表し、あるいはオマージュを捧げて引用した箇所などに言及する。ロッセリーニやジャン・ルノワール、あるいはベルイマンの「不良少女モニカ」などだ。

彼らが制作した映画では、既に述べたものの他トリュフォーは「突然炎のごとく」や「アメリカの夜」などがあり、ゴダールでは「気ちがいピエロ」「彼女について私が知っている二、三の事柄」「「中国女」などがある。

 

そして二人の亀裂が決定的になったのはトリュフォーの「アメリカの夜」についてゴダールがトリュフォーに酷評した手紙を書いたこと。

パリ5月革命以後ゴダールは政治的に急進化し映画、人生、友人を変えた。一方トリュフォーは政治より映画の愛に生きる。トリュフォーは自分を古典的な、つまりルノワールのような職人監督と見なす。

ゴダールは革命前の芸術家気取りが嫌になる、自己嫌悪だ。

そして「万事快調」でフランス映画システムを離脱し別の映画に亡命する。「政治的映画を政治的に撮る、商業映画を批判しプロパガンダのような映画作り」を目指す。

二人の友情は終わり、ゴダールはトリュフォーを「ブルジョワ監督」と見做す。トリュフォーはゴダールに「芸術を政治利用している」と反論する。

二人の映画観が変われば共感は失せて話も出来なくなる。

最初はトリュフォーの映画に出、後にゴダールの映画に出て、「まるで親権を争う二人の親のようだ」と評されるジャン=ピエール・レオーが終盤に出て二人の監督としての違いを語るが、深みがない。

 

「アメリカの夜」でトリュフォーはレオーに「私生活の悩みは誰にでもある。映画は人生と違ってよどみなく進むノンストップの夜行列車だ」と言う。ゴダールはそれに噛みつく。「こんな映画を作った君は嘘つき野郎だ。映画が夜行列車だって?誰が運転しているんだ?ナチの強制収容所行き列車とでも言うのか?」とその政治性の無自覚さを批判する。

トリュフォーは20ページにわたる返事を書いて「読みながらムカついた。君のあくどい行為にいらついてきたが、やっと私の考えを口に出来る。君は自分を犠牲者に仕立て上げる。うまく立ち回りやりたいことをやっているのに、自分が犠牲者で純粋に闘っているというイメージにしがみつく。人間が平等である、と言う考えが心で感じられない」

そして「大人は判ってくれない」で少年レオーが砂浜を海に向かって走り、立ち止まってカメラ(観客)をじっと見つめるシーンで終わる。

見るわれわれに問いかけるように。

何を?それを考えることがこの映画の楽しみだ。

その後クレジットが流れている間、レオーのこの映画のオーディションの有様が映し出される。

12才に見えると思う? ええ、それに口が達者だし。

               でも気取りやじゃない。、、、

映画を見終って、ゴダールが言う「映画の芸術性」について考える。

映画、この場合商業映画に限定すべきと思うが、映画には芸術的価値の他に実存的価値、つまりわれわれの日常生活を切り裂き、生の深淵を覘き込むような、例えばケン・ローチ監督作品や、是枝監督の「万引き家族」、ベルイマンの「野いちご」や「冬の光」などの作品がある。

たとえばヴィム・ヴェンダースの「パリス、テキサス」の映像には詩情とともに芸術性ーわれわれの感覚にある何かを付け加えてくれるようなものを感じる。そして娯楽的価値。90分から120分の視聴体験を「良いものを視た」と感じさせてくれるものだ。最低限娯楽的価値のないものは映画では無い、とまでは言えないが映画制作、という先行投資の回収は困難だろう。

ゴダールはプロパガンダ映画のようなものを一時的に目指して商業映画から退出するが、プロパガンダ映画は「プロパガンダ」と見做されればプロパガンダの価値を失う。たとえば「この世界の片隅に」はプロパガンダ映画と見做すが、一見そうは感じさせない所に成功がある。

原子力ムラに連なる読売ー報知、産経ーフジのメディアグループの役員達が目立たないように制作委員会入りして作った、Fukushima50は所長をヒーローに祭り上げ、彼を含む東電幹部が、防潮壁の高さを低くしたり、長年原発を推進してきた自民党政権で、わけてもアベ第一次政権で国会の共産党議員の質問に答えて「全電源の喪失は起こりえない」と答弁した最も大きな責任を不問にしている。しかし大概の人は映画の背景にあるもろもろを深くは考えずに娯楽として楽しむからプロパガンダ映画とは気がつかない。

しかし長い目で見ればプロパガンダ映画は結局「表現の自由」を奪うことになるだろう。河瀬直美の東京オリンピックの公式映画がたどりつつあるように。

ゴダールのプロパガンダ映画からの復帰は、そこに気がついた結果か否かは現時点では判らないが。

 

少し補足するが、実存的価値、芸術的価値、娯楽的価値は相互に排除するものでは無い。しかし実存的価値、芸術的価値の在る作品でも娯楽的価値は必要だ。娯楽的価値とは、映画を見て笑ったり涙したりする内容を持ったものだ。見終ってわれわれの感情に訴える要素が無ければ「退屈な映画」になるだろう。退屈な映画とは、お金を払って見る価値のない映画、つまりは商業映画として成立しないもの、と言っておこう。