#トリュフォー監督初の長編映画 #大人は判ってくれない  1959年カンヌ最優秀監督賞受賞 | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

原題は「Les Quatre Cents Coups」素行が悪い、馬鹿なことばかりしでかす、という意味。英題は「The 400 Blows」

(アントワーヌ・ド・ベック著「トリュフォー」原書房刊p172)

実母と養父

 

先ずはWikiよりあらすじを抜粋。

12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では共稼ぎで冷たい母親と、稼ぎの少ない父親に囲まれた息の詰まる生活。玄関で寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友のルネと出会い、学校をサボり街に出る。そして午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。

 

翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、級友の訪問で欠席を知った両親にウソがばれる。それに叱責とビンタが続く。

そんな彼の楽しみはルネと映画を観ることだけだ。しかしある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ、弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て、金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り、ルネと一緒にルネの父親の会社のタイプライターを盗む。換金できず、戻しに行った時に守衛に捕まり、知らせを受けて父親が警察へ連行する。

非行少年として少年審判所へ送られ、護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため、束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え、海へ、海辺に立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止める。

 

ここに書かれていない重要なことを追加する。

フランソワは両親のケンカを陰で聞いて父親が養父であることを知る。

母親が無軌道な娘時代に妊娠し、望まれた子では無かったのだ。

当時のフランスでは親権の一部として子を警察に突き出すことが認められていた。ゆえに極端に冷酷な処置というわけでは無かった。

だがフランソワが護送車に乗せられて鉄格子の間から夜の街を眺めている上揭の光景は少年の孤独と恐怖が立ち上ってくる。

とても叙情性に満ちていて彼の才能を感じるシーンだ。

そしてフランソワが観客の方を見て終わるラストは

この子はその後どうなるのだろう、という問いは宙吊りになる。

 

この映画はトリュフォーの自伝的映画、といわれる。

しかし最初の原案を作り上げたとき、その構成力の弱さを感じたトリュフォーは、監督の報酬と同額を払ってマルセル・ムーシーを迎えて共同で脚本を書き、映像を創るために三倍の報酬を払って撮影監督にアンリ・ドカエを迎えてクランクインした。

つまり自分の足らざる所をよく知り冷静に対処した。それはいわゆるフランスの「良質な映画」監督の舌鋒鋭い批判者として1日に映画を最低一本は見、2日に一回著名な映画紙「アール」に批評を書いていた批評眼と、ジャン・ルノワールやロベルト・ロッセリーニ達にインタビューと撮影現場の見学などで磨かれた知性と感覚から生まれたものだろう。

 

トリュフォー自身、母親の無軌道から妊娠した子だが、母親が堕胎しようとしたところ祖母が止め、実家から徒歩30分以上の産婆宅で出産し、すぐに里子に出された。そこでの愛情の欠乏から食も細くなり衰弱し、それを心配した祖母が自宅に引き取り養育、ようやく母親と養父の元で同居したのは8才の時であった。

 

われわれ哺乳類は母親の胎内で生命を宿し、9ヶ月母胎の中で過ごして突如世界に投げ出された後は母乳を栄養とし、ある一定期間母親に依存して過ごす。いわば母子関係が最初の生命維持の死活的重要性を持つが、母親の死別、離別、病気入院、あるいは育児放棄などでそれが満たされ無いとき、子に大きな傷を負わす。更に幼い頃の愛情不足は発育不全をもたらすことはよく知られた事実だ。

そういう環境下に育った子に罪責はあるのか。

その問いが、フランソワ少年が脱走し、海辺の最後のシーンで立ち止まりわれわれ観客をじっと見るシーンに結ぶ。

「私を裁こうとするのは誰か」 と言っているように。

 

男の子として、ある一定の成長後、フランソワ少年のように12歳ごろから、同性の大人のロールモデルを必要とする。

母親から別れて、つまり男子が乳離れして、寄宿学校が始まるのは大体この年齢ぐらいからだ。

以後、男社会の中で、対立と協調などのプロセスを通じてどう力ー影響力を発揮するか、自分の生活基盤を見つけ、自立することが要請されている。

 

トリュフォーは少年時代満たされなかった多くのものを、それだけ一層映画の中に見いだす。シネフィル(映画狂)として多くの映画クラブに入り自らも16歳でそれを作るが、運営には会場費や映画を借りる金もかかる。あちこちに借金を作り、養父が自分の趣味の登山のために貯金していたカネから何度か弁済してくれた事もある。そうした中からジュネやコクトーと知り合い、映画評論を開拓したバザンに助けられ寄宿していた事もある。代理父は現れたのだ。

猛烈な読書家で、バルザックやプルーストあるいはコクトーなどを読み、例えば施設に入れられて読む物を奪われたときは自己嫌悪と鬱に陥る。しかしその中にあっても映画の物語性の感覚を磨いている。

21歳の時バザンのカイエ・デ・シネマに投稿を始め、「フランス映画のある種の傾向」で、シナリオを文学作品に頼り、スタジオで撮り、脚本家と俳優がのさばり、やや観客を見下したような映画、そうした映画が「フランスの良質」とされた傾向に激しい批評を加える。旗印は「作家主義」、つまり脚本家ではなく映画監督こそが映画に個性をもたらすものだという確信からくる激しい非難。その非難は時に個人攻撃に及ぶ。

そうして数年でそうした若い批評家の旗頭になる。その陣営にはゴダールやリベット、年長のロメール達がいる。それらの批評の典拠、作家主義には、彼がフランス映画だけで無く、ベルイマンやロッセリーニ、あるいはヒッチコックなど外国映画を沢山見ていたこともあるだろう。

 

ジャーナリスティックな感覚、批評眼、その評判、そこからトリュフォーは実際に映画制作に乗り出す。最初の短編映画作りは失敗し、自らお蔵入りにする。その反省、つまり自分に欠けたものの自覚から自分の尊敬する監督のインタビューと撮影現場の見学が始まる。

そして1957年短編「あこがれ」を作る。仲間の評価も十分で、それに自信を得て、最初の長編「大人は判ってくれない」が生まれる。

クランクインした時に父親同然のバザンが亡くなり、この映画はバザンに捧げられる。

前後するが後に妻となるマドレーヌ・モルゲンステルヌとは1956年に知り合い1957年10月、バザンを立会人に、ロッセリーニが式に駆けつけくれ結婚する。マドレーヌの父イニャスはハンガリー系ユダヤ人でパリでは著名な映画配給業者であった。25歳のトリュフォーは以後落ち着いて自由奔放な生活は終わり、幼い娘達に愛情を注ぐ日が始まる。ゆえに彼は幼き頃の自分の奪われたものを与えることで克服する。

だが時々愛人ができ、娼家に通うことも止めなかった、葛藤なしに。

 

ちと脱線したが、トリュフォーはこの映画で批評家からの転身を見事に果たす。時の文化相マルローの後押しもあってカンヌ映画祭に出品。

27歳の若さで最優秀監督賞を受賞し子役のジャン=ピエール・レオーとともに一大センセーションを巻き起こす。

ヌーヴェル・バーグはこうして誕生した。

ロッセリーニの「無防備都市」やベルイマンの「不良少女モニカ」のようにロケが中心でカメラは軽快に動き、自然光で撮るから奥行きがあって目にも優しい。結末も見るものに任されている。劇場的映画とは明確に決別している。かつて批評家として「フランスの良質」と謳われた映画を激しく攻撃したトリュフォーは自らの映画を以て反論して見せたのだ。

 

それだけにこの映画に対する批判や中傷、つまり反動も激しかった。

その一方向は彼がかつて批判した監督達からである。

その中には彼がパリの映画配給界の大物の娘と結婚したことをもって、計算高い野心家、という中傷もあったし、もう一方向は彼の実母や養父からの互いに傷つけ合うような批判もあった。

 

この映画の制作にあたり、トリュフォーはジャン・ルノワールの「黄金の馬車」に因む「フィルム・デュ・キャロッス」という会社を作る。この初の長編映画は世界各国に配給権を売り会社に潤沢な資金をもたらし以後の映画制作を容易にしただけでは無く、彼の批評家仲間の映画作りに資金面で応援する事も可能になった

こうした自分が身を置く世界に対する貢献意欲は賞賛に値する。

日本でも映画学校を作った今村昌平、スタジオを作って若い監督に場を提供する是枝監督は誰よりも賞賛に値する。

 

もうひとつ、ゴダールの「勝手にしやがれ」の原案はトリュフォーだ。

ゴダールの映画のクレジットに自分の名前が大々的に出ないように気を使っている。つまりトリュフォーは気配りの優しい人柄なのだ。

あるいはゴダールの自信満々でプライドの高い性格に配慮したか。

 

一方でトリュフォーは会社キャロッスの周辺に、外国の特派員や映画関係者とのあいだのネットワークを作る。勿論それは制作した映画の広報や配給権の売り上げに繋がり将来の果実を生むものでもある。

筆まめなトリュフォーは良く手紙を書き自分の活動を知らせている。

その中に日本人のトリュフォーの熱心な愛好者もいた。

評伝の中には岡田眞吉や野口久光の名が見える。

 

トリュフォーには他に「突然炎のごとく」や「アデルの恋の物語」あるいは「暗くなるまでこの恋を」などまだまだ見たい映画がいくつかある。

よって今回はこのぐらいで終わるとしよう。

このブログでは、先述のベックのトリュフォー伝の他に、「大人は判ってくれない」の特典映像、Film Art 12Edition McGraw Hill などからいくつか示唆を得た。