今日は、以前にもお話した内容ではありますが、「文化」と「国家」の問題について考えてみたいと思います。
まず、「国家」についての前提を。
「国家」に所属する「国民」は本来多様であることを前提にしなければならないと思います。
なぜならば、「文化」の差異を前提にした抑圧構造を、「国家」という公を担う機関がもってしまうべきでない、と考えるからです。
ただし、これは私の考える「理想としての国家」です。
「現実としての国家」は、それぞれの地域の「歴史」や「文化」に規定されて成立していることから、完全に「文化」と「国家」を分離して考えることは不可能です。
例えば、中東の諸国家の存在をイスラームを抜きにして考えることはできないでしょう。
同様に、「日本」という国家もその歴史的背景を抜きにして語ることはできません。
アメリカで多文化教育が盛んなのは、アメリカの歴史的社会的背景として、移民を中心に成り立った国であるからこそ、その多文化性を前提にした政策なり教育なりが行われている、ということができます。
一方、「文化」について考えてみると、その「文化」とは、必ずしもナショナリティに規定されたものばかりではないはずです。
以前monoyaomouさんの例を検討したことがありましたが、国家よりももっと小さな単位で根付いている「文化」もあれば、東アジアなど国家の枠組みを越えて共通の「文化」もあるはずです。
オリジナルなものだけが特有の「文化」なのではない、というmonoyaomouさんの意見には賛成です。
ですが、さまざまなレベルでの枠組みで存在しているはずの「文化」を「日本」というナショナリティに同化させてしまうことは危険だと思うのです。
「日本の文化」の素晴らしさを語ることは、他の「文化」に対しても、例えば「韓国の文化」「北朝鮮の文化」というように国家の枠組みを冠してその「文化」を見てしまうことにつながります。
それと同時に、「日本」の内部の多様性を見逃してしまうことにもつながってしまうのです。
「日本の文化」の素晴らしさを語ることももちろん必要ですが、もしすべてをそれに一元化していくならば、そこに語られる「日本の文化」は重要な問題を孕んだものにならざるをえないのではないでしょうか。
自分で他者を排斥しよう、などと思ってはいなくとも、「日本の文化」を前面に押し出すことで廃棄されてしまう「文化」、「他者」に留意しなくてはならないと思うのです。
例えば他の「国」の人と触れ合うときに「お国自慢」が必要だったとして、そこで誇る「文化」は、「日本の文化」であると同時に、「栃木の文化」、「サークルの文化」、「漢字の文化」などなど、いろいろな「文化」があっていいのではないかと思います。
もちろん、国家を単位とした「文化」が存在することも事実でしょう。
でも、その国家という単位自体が近代の産物であることを考えると、その「文化」の伝統を疑ってみることも必要かもしれません。
そもそも「文化」というのは、人によって作り出されたものです。
それは、今も昔も変わりません。
「文化」は作り出されるもの、という観点に立って、歴史の授業のなかで扱っていければと思っています。
伝統文化であっても、それはそれを維持しようとする人がいてはじめて「文化」となりうるわけで、身近なところから作り出される「文化」に着目してみることも、社会科としては大切なことだと思います。
そういう意味では、(現実としての)国家が「文化」を破壊しうること、これは「例外」ではないと思います。
国家は自己の存続を目的として、人間の手によって運営される組織です。
その存続にとって不都合な「文化」は、記憶から抹消してしまいたいはずです。
「記憶」と「忘却」ということが表裏一体となって、これまでの歴史を考えるうえでのテーゼになっているということは、最近さまざまな本や論文で指摘されています。
適切な例が思い浮かばないのですが、例えばナチスドイツに支配されたポーランドにおいて、ポーランド人がユダヤ人の虐殺に関わった事実がつい最近まで封じ込められていた(意図的に「忘却」されていた)ということもあるようです。
(この「記憶」という意味での歴史ということについては、これから勉強していきたいと思っています)
ちょっとまとまらなくなってしまいましたが、とにかく、「文化」を一般化してそれを「国家」に所属させるような歴史観ではなく、地域的にもそのカテゴリーとしても多様な存在として、そして人間が作り上げてきたものとして、「文化」をとらえていくこと。
そのようなものとして「文化」を歴史の授業のなかで描いていきたいと考えています。
まずは吉見百穴。
そしてそこの地下は、百穴を利用して作られた、大戦中の軍事工場の跡が広がっていました。