メディアリテラシー、とでも言えばいいんでしょうか、「資料」に対する接し方をどのように教えればよいか、考えています。

以前、毎回新聞記事の切り抜きを授業の始めに配布してコメントを書かせている、ということをお話ししました。

最近は、新聞記事もやるのですが、授業の中身にかかわる記事や資料をプリントして、それに対して自由にコメントを書かせる、ということも試みています。


そのなかでずっと気になっていることがあります。

その資料に書かれていることを、非常に単純に鵜呑みしてしまっている、ということです。


例えば先日、「縄文カレンダー」と「弥生カレンダー」を並べてプリントしてコメントを書かせました。

それぞれの時代の、春夏秋冬での作業内容が書かれているものです。

いちおうねらいとしては、稲作が始まっていること、道具製作の中身が変わっていることに気づかせたい、ということでした。


なかにはすごくよい洞察をしてくれている子もいます。

ですが、やはり気になるのは、そうした資料の性質を考えずに、書かれていることが全て事実だと思ってしまっている子がいることです。

例えば…


「弥生時代にとれている食べ物の方が見るからに多い」

「昔から、春夏秋冬が分かっていたと思うとすごいと思う」

「カレンダーといえば、やっぱり数字が書いてあるものが思い浮かぶが、縄文と弥生のカレンダーは数字じゃないのでおどろいた」


いちばん上の意見については、確かに書かれているものの種類は増えているのですが、そもそも資料の出典が違うことから、こまかな食材の変化はその分析対象とした遺跡や地域によってことなるのであって、必ずしも経年変化であるとはいえないということがいえます。

これについては、私の配慮不足でした。(弥生時代に入ったからといって水田耕作一辺倒になるわけではない、ということを示せたという意味ではよかったですが…)

真ん中の意見と下の意見は、そもそもの資料の性質自体を読み違えてしまっています。

これらは遺跡を発掘してそこから当時の生活を想像し表に表したものであるわけですが、両者ともにそれ自体が当時存在していたものとして捉えてしまっています。

これでは、資料から当時の生活のようすを想像していることにはならないでしょう。


そもそも、私がその資料についてきちんと説明していないことに問題があったのだとは思います。

しかし、その資料を見て、その資料がどのような性質のものであるのか、ということを考えてほしい、とも思うのです。

資料批判をする授業を作っていくことはなかなか難しいです。


はじめにも書いたように、子どもは単純化された思考を好む、というのは事実だと思うのです。

教師の言ったことはすべて正しい事実になりうるし、仮にそれに反発したとしても、教科書の記述や提示された資料に対しては、それを疑うということはまずありません。

その資料が持つ意味を徹底的に考えていくこと、資料に対する接し方を学ばせること、そんな授業も一度やってみたいと思います。


おそらく受験を目指す子どもにとってよい授業とは、ある時代の流れを整然と説明することでしょう。

そうした単純化の思考ではなく、いろいろなものを疑いながら、複眼的に考えていく力を育てていくことを目指していきたいと思います。