「教師」という仕事は、つくづく因果な商売だと思います。
教師は子どもに「教育」することが仕事であるわけですが、その「教育」ということにあまりに多様なとらえ方がありすぎます。
子どもに自分の影を投影させてしまうという意味では、非常に危険な商売なんだろうなと思います。
さて、教師は公務員であるという意見があります。
公務員である以上、文科省の定める学習指導要領と教育委員会の指導に従い、教育活動を行うのが筋である、と。
私はこの意見に真っ向から反対します。
教師が一番大切にしなくてはならないものとはなにか。
それは、ひとりひとりの子どもが自分のことと他者のこととを考えながら、自分の人生をゆたかにおくっていくことのできる力を育てることだと思います。
もし学習指導要領や教育委員会の意見が子どもにとってためにならない、おかしいと感じるものならば、私はそれに対して異議を唱え、自分の意見(=こちらの方がより子どものためになる)を主張するべきだと思います。
国家に盲目的に従う奴隷を作ること、「日本」に対して必ず誇りをもたなくてはならないと思わせること、そんな思想のコントロールをすることは、とても教育とはいえないと思います。
あくまで、子どもがどのような感性や考えをもつのか、その選択肢の幅を広げてあげることが、教育においてもっとも重要なことだと私は考えます。
そもそも国家は、国民のひとりひとりの自己実現を最大化するための調整機関であるといってよいでしょう。
公を担う国家であるからこそ、企業とは違って、民主主義が貫徹されていなくてはなりません。
(「私」の利益を追求する「企業」であれば、トップダウンが最も効率がよいのならそれに従うのが筋だと思いますが。)
公務員という言葉の意味も、(教育)政策を無批判に受け入れて実行するという意味に履き違えてはならないと思います。
地方公務員は、その地方の実情に応じて、その地域がよりよい社会になるように、中央で決められたことを応用していくことが仕事でしょう。
教育政策において、すべてがトップダウンで決まるようなものなら、とても民主的なものであるとはいえません。
教育政策が官僚から提示されるのはわかりますし、それはそれで検討しなくてはなりませんが、それが絶対的なものとして示され、それを絶対に実行しなくてはならないものとしてとらえること、それはファシズムと何が違うのでしょうか。
私たちが行わなくてはならないのは、国家のためにも子どものためにも、どのような教育を行わなければならないのかを、しっかり討議しあうことなのではないかと思います。
トップダウンで降りてきたものに盲目的に従う。
組織がだめなものになる、典型的なパターンではないでしょうか。
私はそんな環境のなかで子どもに育ってほしくはありません。
子どものために何ができるかを考えること。
私がなりたい「教師」という仕事は、そういう仕事です。