monoyaomouさんとの議論、だいぶ交錯してきてしまっているような気がするので、ちょっとここで論点を整理してみたいと思います。
monoyaomouさんはじめ、hitorijyankenさんやどんぐりんさんの疑問にどこまで答えられるかはわかりませんが、私の考えていることは以下のとおりにまとめられます。
1.私が「国家」に対してどういうイメージをもっているか。どういう存在としてとらえているのか。
2.「文化」と「国家」はどのような関係にあるのか。
3.ある特定の「文化」を「よいもの」として教授することにどのような問題があるのか。
4.現在の社会における「公共性」をどのようにとらえ、育成していくべきか。その延長上に「国家」の存在がどのように位置づくか。
「公共性」というテーマについては昨年勉強したので、お答えできるものもあると思います。
もし他に何か聞きたいことなどありましたら、コメントに書いていただければ幸いです。
これらの項目について、ゆっくりお話していきたいと思います。
それに先だって、私の問題意識の根本を。
「今を生きる子どもたちが、社会のなかでよりよい自己実現を図るためには、どのような学びを学校で保障すればよいか。」
この言葉、「個人主義」というように言われることが多いですが、私はそうは思いません。
「個人」は「社会」のなかではじめて生きることのできる存在です。
ですから、その「社会」がよりよいものになっていくことが「個人」にとっても大切です。
では、「社会」が「よりよい」こととは何か。
その「社会」に所属するすべての人が「人権」が保障され、「平和(積極的平和)」が保障されている状態こそが、「よりよい」状態であると考えます。
ですから、一部の人のみが「自己実現」を達成し、一部の人がそれによって抑圧されている状態は、「よりよい」状態ではないと考えます。
つまり、「よりよい」社会をつくっていくことのできる力を子どもたちに養ってあげることが、本当の意味で「自己実現」を達成することになるのだと思うのです。
monoyaomouさんのおっしゃるとおり、今の子どもたち、いや日本で生活している人たちのようすをメディアで知る限り、「公共性」というようなものが失われてきているように思います。
では、どのようなかたちで「公共性」を育成してゆけばよいのか。
そもそも「公共性」とはなんなのか。
それは「国家」にのみ帰属するものではないはず。
そう考えて、昨年「公共性」について勉強をしました。
このような発想のもと、「国家」「文化」「歴史」「愛国心」「公共性」などといったテーマについて考えています。