先日もお話した通り、私は決して国家の存在を否定しているわけではありません。

現在を生きる私たちが平和を享受するためには、国家の存在は必要不可欠です。

しかしその一方で、国民国家の存在は現実の問題として「国民」の「境界」にいる人々に対する抑圧を加えています。

国民国家は「内」と「外」とを常に線引きしつづけ、「内」に対しては「平和」「人権」を徹底的に保障します。

しかし一方で、「外」と判断された対象に対しては、徹底的に「排除」と「抑圧」を行っていきます。


日本の場合でいえば、古くはアイヌや沖縄の人々、今で言えば在日韓国・朝鮮人の人や外国人労働者の人がそれにあたるのではないでしょうか。

国家のシステムはもちろん、メディアの論調もそのようなものであるように思います。


一方で、国家以外への帰属意識をもつような、価値観の多様化もおこっています。

保守政治家はそれに対し危機感を覚え、エリートと一般大衆への二極分化を推進しようとし、一般大衆へは国家への絶対的忠誠心をもたせようとしています。

これが現在の教育政策の本質でしょう。

新しい学習指導要領には「愛国心を育成する」ということが入るのではないかということが言われています。


逆に言えば、そうしたナショナリズムの思想に対置されるような、グローバリゼーションの動き、価値の多様化が起こっているのでしょう。


国民国家は、戦争のための装置であるといってよいでしょう。

だからこそ国民としての共通の記憶、経験を掘り起こし、力を結集することが要請されます。

歴史教育はその意味での国民育成にもっぱら専念してきたといっても過言ではありません。

国家の存在の重要さは重々承知していますが、「戦争」の道具にならないための歴史教育を考えられないものでしょうか。

パリーグのピッチャーは、ふだん打席に立つことはまずありません。

パリーグではDH制(ピッチャーの代わりに指名打者が打席に立つ)がしかれているので。

しかし、セのチーム主催の交流戦では、パリーグのピッチャーも打席に立つことになります。

パリーグのピッチャーがどんなバッティングをするのか、交流戦独特の楽しみ方ですよね。


それにしても、西口がバッティングうまいなんて、誰が想像するでしょう?


確か前回の登板のときもタイムリーヒット打ってたと思いますし、昨日にいたっては決勝タイムリーを自ら放っておりました。

これでリーグトップタイの6勝目。

ふだん目が慣れていないだろうに、すごい、のひとことです。


今日もがんばれライオンズ。

今日は中国文明について軽く触れた後、稲作の伝播、そして旧石器時代、縄文時代、弥生時代という変化を扱いました。


「歴史教育と国家」の記事でも触れましたが、子どもには「国家」による思考の束縛から脱してほしいと思っています。

そのためには、「日本」という枠組みがあたかも昔から連綿と続いているかのような認識を打ち破らないといけないのです。

そのためには、本時の内容は結構扱いに慎重にならざるをえません。


今日の展開で言えば、四大文明の話から「日本」の話に移る際、

「じゃあ日本では農業や文明がどうなっていったか見ていこう」と言ってしまい、あわててあとからフォローを入れました。

曰く、「日本といっても、当時から日本ていう国があったわけじゃないからね。あくまで日本列島のことだから。」

う~ん、自分で聞いてても苦しい言い訳ですよね。


そもそも、日本列島のことのみをやるのはやっぱり「日本」というナショナリティへの何らかの束縛があるのでしょう。

学習内容が国民国家に束縛されていることの好例でしょう。

先日も書きましたが、「現在」が「歴史」を規定している。

とはいえ、ここに住んでいる以上、日本を前提にした歴史認識は絶対に必要です。

自分の思考だって、日本を前提にしています。子どもはなおさらでしょう。

「国民の歴史」に対して、自分自身非常にアンビバレントな感情を抱いています。


ただ、少なくとも、自分の発想が「日本」ということにいかに縛られているかということを、子どもには気づかせてあげたいと思っています。

でも、そういうことに気づかせるための課題なり発問なりって、すごく難しい。

検討課題にしたいと思います。

今日は四大文明の授業をしてきました。

現行の指導要領からははずれたないようですが、農耕の起源から都市の成立、国家の成立を考えるためには、その具体的事例としてどうしてもはずせなかったので取り扱いました。


ただ、1時間で中国以外をまわったため、どうしても教師からの説明が多くなってしまいました。

…というより、45分くらいしゃべっていたような気がします。

4コマ連続で同じ授業をしなければならないので、正直4コマ目は飽きてきます。


子どもが発言する機会の多い授業では、クラスによって反応が違うので飽きるなんてことはまったくないのですが。

どうやら私には「しゃべりまくる」授業は向いていないみたいです(^ ^;


子どもに発言させながらも最低限の知識を教授できるような、そんな授業を目指していきたいです。

安達一紀氏の『人が歴史とかかわる力』を読んでいます。

私のやりたいこと、考えたいことにまさにドンピシャの文献でした。

(ドンピシャすぎて私のやることがなくなりつつありますが…汗)


そのなかでひとつおもしろかったことを私なりにまとめてみたいと思います。

それは、「歴史」は「現在」に規定されている存在なのではないか、ということです。


氏の論の特徴は、「歴史」の生産者たる歴史家と、「歴史」の消費者たる学習者=歴史教育の立場とを、明確にわけて考えているところです。

「歴史」の生産にあたっては、歴史家が現在の問題意識にしたがって「結果」である歴史的事象の「原因」を探り当てていきます。

しかし「歴史」を消費する段になると、そこに描かれた「歴史」は、「原因」→「結果」という非常にシンプルなかたちで示されることになります。


「歴史」は歴史という客観的事実があるわけではありません。

歴史家が言葉をつむぎ出してはじめて「歴史」となるのです。

そこには知らず知らずのうちに、「現在」に規定されたものの見方をしてしまっているのではないかと思うのです。


これらのことをあわせて考えると、「歴史」の消費者は、生産者の描いた「歴史」を受容する段階で、「現在」が紛れ込んだ「歴史」を受容していることになります。


このこと自身は不可避なことですから、単純に否定できるものではありません。

しかし一方で、「歴史」とは作られたものである、ということを明確に意識しておくことが、「歴史」の消費者の育成を担う歴史教育において、重要な役割なのではないでしょうか。


そのために、「歴史」に紛れ込んだ「現在」を解読すること、このことの意味を、自分なりに考えてみたいと思います。

昨年の授業の一番最後に、子どもに授業のアンケートを取らせてもらいました。

そのなかで一番指摘が多かったのが…


「丸文字で字がみにくい!」


という指摘でした。


もともと決して字はうまい方ではないし、そのうえ急いでいるときは走り書きしてしまうので…。

授業の初めの方はわりと丁寧に書くように意識しているんですけどね。

小学校の先生は、ほんとにお手本のような字をお書きになります。

すごく大事なことだと思いますし、すごくうらやましいです。



ただ、ノートの取り方の指導の意味も含めて、わざと機能的に板書しなかったり、口で大事なことを説明したりはします。

今はまだ一年生のはじめなので、それなりに板書はするようにしているのですが、ときどき口でのみ説明し、「今、3回も同じこと言ったんだから、ちゃんとノートに取るんだよ~」なんて茶化して言ったりして、なんとか自分なりに大事なことをメモできる力をつけてあげるようにしています。

まだまだ言われてから慌ててメモをとる子の方が多いですが。

それを自分なりに整理して機能的にノートをつくることができるようになったら、きっとこれから社会に出て、役立つのではないかと思うのです。

成績の半分くらいはノートでつけることにしています。


一方で、子どもに発言させたときは、できるだけすべて板書するようにしています。

やっぱり、せっかく発言したことですから、教師の狙った答えだろうとそうでなかろうと、きちんと記録してあげることが大事だと思いますので。

そのうえでどう授業を整理し舵取りしていくかということが、教師の役割かな、と。


と、以上板書にまつわるお話でした。

土日とちょいと出かけていたのでブログの更新ができませんでした。

わざわざきていただいた方、申し訳ありません。m(_ _)m


お詫びに、ではありませんが、最近起こった環境の変化をご報告したいと思います。



彼女、できました。



かれこれ、1ヶ月くらい前ですかね~。

同じ大学の後輩で、う~ん、良くも悪くも真っ直ぐな人、かな。

あんまり詳しく書くのも恥ずかしいので、興味ある人は直接聞いてください。

末永く続けていければなぁ、と思います。

今日はこの時期に地上波でライオンズの試合を見ることができます。

そう、今日はジャイアンツ戦。

交流戦さまさまですね。うれしいことです。

ドラえもんがやっててちょっと焦りましたが、無事そのあとテレ朝にて放映してくれました。


しかし19:30の放映開始時にはすでに大勢は決していました。

6-0でライオンズのリード、西口も好投の気配。

ちょっとうきうきしてました。


そしてしばらくしてみると…なんとノーヒットノーランのペースじゃありませんか!

俄然テレビを見る目に力が入りました。


そして9回。

先頭のキャプラーを自らのファインプレーで投ゴロに仕留めて1アウト。

つづく仁志をサードフライに打ち取って2アウト。

そして迎えるバッターは清水。


初球ファールの後の、2球目、今日冴え渡っていたスライダー。


「ホームラーーーン!!!」


んなあほなーーー。

と思わず思ってしまいました。

でも西口本人はうっすら笑みを浮かべて、続く斉藤をセカンドゴロに打ち取ってゲームセット。


ヒーローインタビューにて西口は…

「ホームラン打たれてほっとしました」

う~ん、西口らしい。

あの飄々とした感じ、大好きです。

西口投手、お疲れさまでした。


チームも勢いに乗って4連勝。

明日もがんばれ、ライオンズ。

今日はサルから人間に変わり、日本列島が大陸から独立するお話でした。


ただ「アウストラロピテクス」とか「ネアンデルタール人」とか叫んでも面白くないので、人間とサルの違いは何なのか?ということを主発問に据えて、そこから授業を展開していきました。


その主発問のしかたなんですが、結果的に二種類の問い方をして、リアクションが大きく違いました。


初めのクラスでは、「人間とサルの違いは○○である」の○○に当てはまる言葉を考えなさい、と問いました。(「 」内を板書)

そうすると、返ってくる答えは、「二足歩行」や「火を使う」「言葉を使う」など、およそ模範解答といえるようなものだけでした。

頭固いね~なんて冗談ぽく言っても、やっぱり固い答えしか返ってきません。


それじゃあおもしろくないなぁと思って、二つ目のクラスでは発問を変えました。

サルと比べて、「人間は○○する動物である」に当てはまる言葉を考えなさい。(「 」内を板書)

そうすると、「記憶する」「学習する」「いじわるする」「恋愛する」「プリクラを撮る(笑)」などなど、非常に人間らしい感性にあふれた解答が返ってきました。


後者の発問でも、もちろん「二足歩行」や「火を使う」などの解答は出てきます。

授業ではそれらを今日の学習内容として生かしながら、一方で人間味あふれる解答の方をこれからの歴史学習で考えていく課題として挙げるというかたちにしました。


おそらく、板書に残っていた問いを子どもは意識したのだろうと思います。

前者の問いでは、「人間」と「サル」があまりにも対比的になりすぎていたので、「賢い」解答が多かったのでしょう。

後者の問いでは、より「人間」にクローズアップしているように見えるため、より人間らしい感覚で答えてくれたのだと思います。

これから人間の授業をやっていくわけで、現在の感性であろうとも、人間味を大事にしながら、過去の文脈に落としていってあげたいと思うのです。


発問や板書事項で子どもの思考が左右されることを改めて実感しました。

きちんと吟味しなければ、と反省した今日でした。

アメブロさんのテーマにのって、「大学」ということについて考えてみたいと思います。


今や多くの人が大学へ進学するようになりました。

経済的な豊かさと同時に、モラトリアムを求めて、という指摘があります。

そのことの是非はともかく、大学、というもののもつ意味が大きく変質してきているのは間違いないと思います。

昔の大学は、研究組織、という側面が強かったように思いますが、現在では、教育機関、という側面がより強くなってきているのではないでしょうか。


このこと自体は、私は歓迎するべきことだと思います。

もちろん研究機関としての側面は欠かせませんが、それはある程度意欲のある人、あるいは大学院になげてしまってもよいのだと思います。

むしろしっかりと教養を身につけ、同じ時間と空間を共有する仲間をつくり、研究の入り口と社会の入り口をのぞき見る、そういったことを重視しても良いのではないかと思うのです。


そういった意味では、大学において教養部が解体してしまったことは、残念に思えてなりません。

(私のいた大学でも、私の一学年下からカリキュラムが変わったのですが、教養科目は半分に減ってしまいました。)

文学部の学生も数学を学び、理学部の学生も社会について考えなければ、到底現在の社会には対応できないのではないでしょうか。

ある種、知識人をしっかり育成すること、そしてその数を増やしていくことが、大学において行われるべき高等教育であるように思います。

そのうえで初めて、高度な専門教育が成り立つのではないでしょうか。



ちなみに…


そういう意味では、私の大学生活はとても恵まれたものでした。

偶然所属したサークルで、たくさんの仲間に囲まれながら、広い範囲の勉強をさせてもらったと思っています。

また所属した教室でも、広く多くのことを学ばせてもらいました。

このへんについてはまた詳しくお話するかもしれませんが…

この場を借りて、御礼申し上げます。ありがとうございました。