「日本」という「国家」は、私たちにとってどういう意味を持っているのでしょうか。


結論から先に言えば、なくてはならない存在です。

「国家」の最大の機能は、私は自分の「安全」を守ってくれることなのではないかと思うのです。

災害が起こったとき、ミサイルが飛んできたとき、ひったくりにあったとき、誰が守ってくれるかといえば、やはり「国家」が組織する警察でありレスキューであり自衛隊なんだと思います。

単純な身の安全という意味以外でも、年金というシステムがあったり、保険というシステムがあったり、法というものによってフェアな人間関係を築くことができるわけです。

「国家」が保障する「法」というものがなければ、私たちは混沌とした社会に身を置かざるをえなくなり、現在のようにある程度秩序と平和が保たれたなかで生活することはできないでしょう。


しかし一方で、「国家」が果たすことのできる役割ないし影響力は、確実に低下してきているといえるでしょう。

いわゆる、「グローバリゼーション」という言葉で言い表される諸事象は、「国家」が行使しうる権力(パワー)を削いできています。

(このことについては、後日また書きたいと思います。)

つまり「国家」というものの位置づけが揺らいできている今、あらためて、私たちにとって「国家」というものがどのような意味を持つのかということを再検討しなければならないのではないかと思うのです。


このように考えてみたとき、「国家」というものがこれまで私たちにどのような影響を与えてきたのか、ということを再検討する必要があります。

特に日本の場合、先日も書きましたが、「歴史」というものの存在が、「日本」という「国家」のアイデンティティにとって、決定的に重要な役割を果たしてきたと考えます。

「歴史」が持ちうる意味を、「国家」の文脈から再検討してみること、このことを当面の勉強の課題に据えてみたいと思っています。

さら~に!フォントを大きくしてみました。

それにともなってブログのデザインも変更してみました。

何かご意見等あればお聞かせください!

昨日に引き続き、(2)と(3)の観点から、自分の授業の課題について書いてみたいと思います。


自分の授業では、(2)の授業の展開部においては比較的子どもの意見を聞いたり、考えさせたりということを行うことができていると思います。

しかしそのあとの展開に課題が残ります。

それは、展開部で出てきた意見をどのように集約し授業のまとめとしていくのか、ということです。

自分がする発問は、一問一答のように解答が明確なものはほとんどなく、どうとでも答えることが可能なものが多いです。

実に多様な解答が子どもから出、そのこと自体は非常に喜ばしいことであると思うのですが、その出てきた解答を整理し評価していくのがどうしても教師主導になってしまうのです。


先日ご紹介した、反日デモを教材化した実践について具体的に考えてみたいと思います。

前半の部分においては、「中国の人の立場に立ってなぜ反日デモを行おうとするのかを考えてみよう」という発問に対して、子どもたちからは実に多様な解答があり、基本的にはすべて板書をしました。

しかしこの発問をした教師側の意図は、現在の問題を考えるためには歴史の問題を考えなければならないというものであり、子どもに出てきた意見の共通点を探させながらも、歴史の問題が共通している、だから歴史の問題を考えなければならない、というように極めて教条的な結論を教師が解説して終わりになってしまいました。


なんというか、自分の実感としては「尻すぼみ」でおもしろくない、と感じます。

授業のなかで出てきた子どもの言葉をどのように教師の意図とかみ合わせていくか、あるいは子どもの言葉で授業をまとめていくかということが課題です。

子どもの言葉が授業に生かされれば、子どもにとって実感のある歴史認識になりうるのではないかと感じるからです。


これらの課題をどのように克服していくか、これから考えなければ、と思っています。

今まで1年と1ヶ月くらい中学校で授業をしてきました。

いろんなことを試してきましたが、そんななかで最近ようやく自分の授業の特徴がわかってきたような気がします。

それは、(1)教師-(2)生徒-(3)教師という授業の流れです。


今日はまず(1)の教師主導の問題意識の設定について。


小学校の授業なんかでは、子どもがどう問題意識をつくっていくのかを重視したりするのではないかと思いますが、私が授業を作るとその課題作りの部分はどうしても教師からの提示になってしまいます。

こなさなければならない学習内容が多いというのはもちろんありますが、自分自身の課題として考えなければと思っています。


授業のきっかけ、導入の部分を子どもの生活上の問題意識からはじめていこうというような経験主義の発想には必ずしも賛成しません。

授業である以上、教育的に意味のあることをしなければなりませんし、そのためには子どもの「やりたいこと」を最優先する必要はないと思っています。

ですが、授業の導入で子どもの興味を喚起し、そこで「問い」を持ってもらえるような授業をしたいなぁと考えます。

今やっているのは、「先生がやれっていうからとりあえずやってみる」的な展開なのではないかと思うのです。


子どもが「主体的に」疑問を抱くことのできるような展開を考えなければ、と思います。


タイトルの通り、今もっとも関心があるのが、歴史教育と「国家」との関わりについてです。


日本の場合、「日本」という「国家」の存立基盤のひとつに歴史があるといえます。

普段それほど強く意識することはないかもしれませんが、歴史教育によってつくられた古代から連綿と続く「日本」というイメージは、「日本人」にとって欠かすことのできないアイデンティティなのではないかと思うのです。

このことは、新保守主義をはじめとした保守勢力が過去の歴史の問題に対して執着することから考えても明らかでしょう。


例を挙げるなら、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史の教科書が歴史認識を巡る国際問題にまで発展しましたが、彼らの主張は「自虐史観」つまり過去の戦争はよくなく「日本人」はひどい、という歴史観を打ち破って、誇りの持てる「日本人」にならなければならない、ということです。

そのためのイデオロギー形成の素材として、歴史が扱われるわけです。


このことは何も保守系の思想に限ったことではありません。

逆の思想を持った授業では、逆に国家ではなく民衆の主体性を取り上げた授業が行われるのではないでしょうか。

歴史教育界にインパクトを与えた中学校の安井俊夫氏の実践などはこれにあたると思います。

(安井氏の場合、その授業の方法論も議論になりました。)


つまり、現在の社会の在り方を規定する存在として、「歴史」というものが厳然として存在している、これが「日本」という「国家」ないし社会の、きわめて特徴的な点なのではないかと思うのです。


これから、単なる思想の対立の問題ではなく、「歴史」というものが「国家」にとってどのような意味を持ち、「歴史」の授業は何を果たしていかなければならないのか、ということについて、考えていきたいと思います。

授業が始まって約1ヶ月。

若干悩みごとがあります。

それは…子どものリアクションがあまり良くないことです。


先生方に、「去年の子たちよりだいぶおとなしいよ」と言われてたのですが、こんなに違うもんかと思います。

子ども同士で相談したりもあまりしてくれないので、ここはひとつ、活動的な学習を組み込んでみようかな、なんて思っています。

例えば、グルーピングして課題に取り組ませるとか、意見に違いが出るような発問をしてみるとか。


しかし、これからやる単元は、「文明のあけぼの」。

つまり人類の誕生から弥生時代ぐらいまでになります。

う~ん、勉強不足っ!(汗)

どうやったら活発な「おもしろい」授業をできるか思案中です。


なにかいいアイディアないですかね~

tsutsuji

GWを利用して、館林へ行ってまいりました。

つつじヶ岡公園というところのつつじ、本当に見事でした。

あたり一面、つつじ、つつじ、つつじ…。

さすがに人であふれ返ってましたが、行ったかいありましたよ!


その後、某所に移動し、ラーメンを食べ、毬藻の歌を歌いました(!?)。

いもフライなるものも初めて食べさせてもらい、こんな食べ物もあるんだと、感動してしまいました。

うまい!!


という感じで、GW満喫しました。

さて、勉強しなきゃ!(汗)

今日のスポニチの一面を見ました。

「お、めずらしくライオンズの記事が一面になってる!」

なんて喜んだのもつかの間…


「西武恥ずかし~ 公開お仕置き!!」


なんだそりゃ~


昨日は対日ハム戦、今期最多の27590人の観客を集め、7-14で敗戦しました。

どうもその敗因が、記録にはつかない外野陣のエラーだったようで…。

試合終了後、まだ観客が残っているのに居残りで30分間の練習が課されたそうです。

ミスするたびにお客さんからブーイングという…。

それプラスお説教×2。

「西武ファンの声」なんてのが一面に載ってんだもんな~(汗)


去年の日本一が現在5位。

しかもその下はいわずもがなの楽天のみ。

エラーの数は、なんと楽天よりも多い32失策。

昨日はなぜかカブレラも欠場。


がんばれライオンズ!!!

今週の授業の最後に、何も見ないで日本地図を描かせてみようかと思っています。

日本という空間に対してどのようなイメージを持っているのかを自己確認させることがねらいです。

おそらく、本州、北海道、九州、四国という4つの島を中心に描いてくれるのではないかと思っています。


そしてさらに次の時間の冒頭、古代の日本の様子を描いた行基図を配布し、自分の描いた日本地図と比べさせ、どこがどのように違っているかを確認させます。

ねらいは、現在の「日本」という地域が、昔からそっくりそのままであったわけではない、ということに気づかせることです。


先日の「こころの年表づくり」でもそうでしたが、少しずつでも自分の既成概念を打ち破って相対化できるような、そんな授業になればなぁと思っています。

佐藤氏が言う、人が過去を認識するためのツールとして、「箱詰された時間」が存在するということは非常に納得です。

引用させていただけば、


「しかし我々は、過去を振り返る際に単純な年の連続系列だけで歴史的思考を行っているのではない。むしろ我々が過去を振り返る際に重要な役割を演ずるのは、「箱詰めされた時間」であり、重要な事件を軸にその前後と捉えたり、室町時代・江戸時代といった枠組みを使って過去を想起する方がより一般的である。「箱詰めされた時間」は、歴史的思考においては連続時間より以上に自然で、歴史認識的行為にとって不可欠の知的道具といえる。別な視点からこの問題を考えれば、歴史家とは過去を振り返るために、さまざまな「箱詰めされた時間」を発明する仕事師ともいえる。」(P.68)


とのことでした。

この「箱詰め」の仕方が、強くイデオロギーに左右されるものだったり、一方で当時の人々の時間の捉えかたの感覚を表したものであったりしたわけです。

例えば王の即位紀年によって時間を区分した場合、やはりその政権の権威を示すことになります。

その一方で東アジア型の干支による時間区分は60年のサイクルでの循環的な時間のイメージを持ち、それに元号による時間表記があいまった時間意識が共有されていた、とも言えます。

そして一方で西暦が世界的な標準性を獲得しえたのは、西欧列強のパワーということもありますが、「紀元前」という過去へも無限にさかのぼることのできる時間感覚を獲得し、数直線上に時間表記が出来るようになったのが大きいようです。


このように、時間の認識のしかたひとつをとっても、それはそれでその土地土地の文化であり歴史性であり人間性が見えてくるというのは、すごくおもしろかったです。


ちなみに、先日の「こころの年表づくり」の実践は実はこの辺の記述を参考にさせていただいていました。