なぜ私がこんなに「正答のない問い」にこだわるかと言えば、実際に社会に出てみれば、「正答」のあるような課題や問題などほとんどないだろうと思うからです。

さまざまな情報を適切に処理し、さまざまな意見があることを踏まえたうえで、「よりよい答え」を探し出していく力こそが求められているのではないかと思います。

それは単純に社会科的な知識があるだけではだめで、ある社会における「公共性」であったり、メディアリテラシーだったり、ディスカッションをする力だったり、さまざまなものを統合する複合的な力が必要なのではないかと思うのです。


そういう意味で、社会科の授業におけるもっとも中心となるべき発問は、「正答」が明確に見いだせるものではなく、「よりよい答え」を仲間とともに探っていけるような、「正答のない問い」なのではないかと思うのです。


ただ、このことは「正答のある問い」が必要ないと言っているわけではありません。

子どもの授業への取り組み方や授業者の意図の伝達の場面、あるいは単純に事実や知識を教授しなければならない場面など、「正答のある問い」の方が適している場面はたくさんあります。

(このことの大切さには、cyber-homunculusさん のブログで気づかせていただきました。)

私が主張したいのは、少なくとも社会科におけるもっとも中心となるべき問いという意味で、「正答のない問い」の方が適しているのではないか、ということなのです。

昨日は江戸東京博物館に行ってシルクロード展をはじめ、常設展を見てまわり、そのあと飲み会に繰り出しました。

そして今日も、最低限の仕事を終えた後、なぜか飲み会になってしまいました。

3人で生ビールとサワー1杯ずつ飲んだ後、泡盛をボトルであけてしまいまして…もう限界。


ということで、明日からきちんと更新しますので、勘弁してください~。

当たり前ですが、中学校と高校では教科担任制がひかれています。

小学校の授業との最大の違いかな、と思います(小学校でも教科担任のところもありますが)。


教科担任制ということは、同じ授業を複数回こなすことになります。

私の場合、4クラスあるので同じ授業を4回することになります。


実は私、事前に完全に授業をシミュレーションするのがすごく苦手です(^ ^;

もちろん授業の準備はしていきますが、実際に授業をはじめてからの方がインスピレーションがわいてくるんですよね。

こないだも、思いつきで大幅に授業内容を変えてしまいました。

でも思いつきだけあって、発問の仕方や子どもへのアプローチの仕方などが不十分なことが多かったり、その思いついた方向性が事前に準備できていればもっとよい授業になるのに、といつも後悔してしまいます。


しかも、ひとつめのクラスで思いつけばよいのですが、よりよい発問の仕方を3つめのクラスで思いついたりします。

そうすると、もちろんそのクラスの子にとってはいいのですが、ひとつめのクラスの子にとっては、かわいそうなことしたな、と思ってしまいます。

さらに時間割はある程度固定されているので、初回にあたるクラスが固定しているという…。

いつぞやは、定期試験の平均点が授業した順番によくなっていったのであせってしまいました。


もちろんクラスによって色があるし、それによって授業も異なったものになるのだろうとは思います。

(なかなかそこまでの力量はありませんが…)

いい発問を思いついた!と思っても、後のクラスでは通用しなかったりしますし、自分の反省をなんども繰り返せるという意味では、教師としては同じものを4回授業できるのは幸せです。

でも子どもにとっては授業は1回きり、しっかり事前に子どもの姿をイメージして授業を構想できるようにがんばりたいと思います。

今日は修士論文の指導会でした。

自分の力量のなさを痛感すると同時に、さすがに大学の先生はすごいなぁと改めて思ってしまいました。


しかし、指導会の資料作りに精を出しすぎて、明日の授業の準備がまったく終わってない!

ということで、今日のところはこのくらいで勘弁してください~

この記事はmonoyaomouさんのブログの記事、「授業における『正答』について」  を参考にしています。


monoyaomouさんは、学校の教室空間において教師がもつ「権威」に注目し、だからこそ教師のもつ「よりよい答え」「正答」になってしまうのだということを自覚せねばならない、ということは、まさにそのとおりだと思います。

ここが、教育という営みのおもしろくもあり、こわいところなのでしょう。

ですが、私はだからこそ、教師の「正答」を表明することにためらいを覚えます。


結論から言えば、教師の「権威」は子どもの議論を組織する方向に発揮されるべきであって、「正しさ」に向かうべきではない、と考えています。


確かに、教師が語る言葉には「権威」が付きまとい、聞いている子どもの側からすれば、それは絶対的な「真理」になるものだと思います。

そのことを利用して、系統的な知識を教授したり、教師の言葉をきっかけにして議論が始まったり、さまざまなスタイルの授業が構想できるでしょう。

そこから子どもの個性的な思考が始まることも、ままあることだと思います。

しかし、こと討論の授業においては、その「権威」は議論を成立させる「司会」ないし「審判」として存在するべきだと思います。

討論の授業は、子どもたち同士がお互いの意見を表明し、交換し、その共通点と相違点を確認し、合意と不合意を作り上げていく場であると思います。

このとき、子どもたち同士という対等の立場で初めて議論が成立するのであって、教師のもつ「権威」がひとたびそこに導入されれば、そこで議論は終わってしまいますし、せっかく子どもたち同士で作り上げた「結論」も、教師の「権威」によって否定されかねません。

子どもたちの議論を整理し、けんかを仲裁し、議論がより深みのある方向へ進むように助言をする、これが教師の「権威」として役割ではないでしょうか。

もし教師が「正答」をもっているならば、討論という形式をとらずとも、「おもしろい」授業を展開することは可能なのではないかと思います。


「正答」のない問いだからこそ、子どもたちのあいだに平等な議論の空間が生まれるし、そこで意見を交換するという討論授業のもっともよいところが出てくるのではないかと思います。

そこで生み出されるのは、やはり「正答」ではなく、子どもたち自身が作り上げた「よりよい答え」なのではないでしょうか。


文字が見づらいとのご指摘を受けておりましたが、文字サイズをうまく変更できていなかったので、おもいきってスキンごと変えてみました。

多少文字サイズが大きくなったかと思います。

気分転換もかねて、よかったかな。


これからもよろしくお願いします。

それでは、子どもがどんな解答をしてくれたのか、いくつかご紹介したいと思います。

 

一番多かったのは、前時に反日デモのことを扱ったこともあって、日中関係に触れたものでした。

日本と中国の近さを指摘し、だからけんかが起きる、というもの。

土地の大小で中国には勝てない、というもの。

やっぱり尖閣諸島は日本のものだ、というもの。

なかには「第三次世界大戦が起きるから何とかしてほしい」というものまでありました。

 

この系統の意見に見られるのは、地理的な位置関係を短絡的に日中関係に結び付け、善悪の判断をしているものが多いということです。

もちろん授業で情報を与えていないのでやむをえないのですが、本当は大陸方見た日本という立場を考えてほしいところでした。

また、「何とかしてほしい」「心配だ」「怖い」など、ある意味で問題の解決を他人に委ねるような発想が多かったのも気になりました。

 

一方で、日中関係にこだわらず、すごくいい発想をしてくれている子もいました。

 

「普通の地図を見ると日本の入り口みたいな物は東京湾だと思う。だが、この地図は大陸側から見ている。そうすると日本の入り口は、日本海である。」

「私はあまりこういう地図は見ないので、少しおどろいた事は、私が思ってたよりも福岡と大韓民国がとても近いと思いました。」

「『日本海』は、他の国からも面しているのになぜ『日本海』と呼ぶのかが不思議だと思った。」

 

いずれも、地図を見ることによって今までの自分の物の見方を疑うような、地理的な枠組みを広げる発想ができているように思います。

これらの意見は、プリントにして紹介しました。

こういう発想を子どもたちが持ってくれるといいな、と思います。

以前お話しましたが、では、正答のない問いの代表的事例はなんでしょうか。

私は千葉の高校の先生である加藤公明先生の実践がそうなのではないかと思います。

 

加藤先生の実践では、子どもが資料をもとにしながら歴史的事実を再構成していく過程を、討論を通じて行っていきます。

ひとつ例をあげると、加曾利貝塚の犬、という実践があります。

加曾利貝塚から出土した犬の全身骨格の写真を子どもに提示し、犬だけが全身骨格として(つまり骨がバラバラにならない状態で)出土するのはなぜか、と問います。

 

子どもたちからは、番犬説、ペット説、犬神説、食用犬説など、いくつかの意見が出ます。

その意見ごとにグループを作り、自分の説を論理的に説明できるように準備します。

そのうえで討論。

お互いの意見に対して質問したり、質問に答えていきます。

そして最後、どの説がもっとも説得力があったかを投票します。

 

この「問い」には、正答は存在しません。

歴史学的に学説が分かれていますが、そうでなくとも、お互いの論理性や資料性を批判していくことによって、科学的な思考力を育成していくことがこの授業の肝要なところです。

これらの作業をとおして、縄文時代のイメージをもつことができるし、資料だけでなく自分の生活経験も動員されそれらが総合化されるし、グループで意見を集約していくというコミュニケーションスキルも育成できます。

 

ただ教師の求める「正答」を追求していくのではなく、自分なりの意見を表明し、お互いに研鑚しあうことで、より深い歴史認識を獲得できるのではないかと思います。

 

【参考文献】

加藤公明『わくわく論争!考える日本史授業』1991 地歴社

nihonkai

以前にも少しここでお話しましたが(これこれ)、授業のはじめの5分くらい、出席をとり終わるまでのあいだに、新聞記事を読ませてそのコメントを書く、というのを試みています。

そのうちの1回、新聞記事ではなく、このような写真とも地図ともつかないものを提示し、自由にコメントを書かせました。


みなさんでしたら、この地図だけをみて何か考えろといわれたら、どんなことを書きますか?

子どもがどんなことを書いたのかについては、後日ご紹介したいと思います。

ぜひ子どもになったつもりでコメントを考えてみてください!


(ちなみに小さくて見えないと思いますが、国の名前と海の名前、簡単な国境線、いくつかの都市名が入っています。国はロシア、中国、北朝鮮、韓国、日本、モンゴル、(台湾)です。写真をクリックすると拡大されます。)

松坂、早くも3敗目…。

防御率2.03にもかかわらず。

打線も、和田-三瀬の完封リレーに沈黙。

松坂が投げるときはなぜか打線が点が取れない。

前回負けがついたときも、オリックス相手に1-2だったような(JPが好投)。

松坂と和田の投げあいはこれまで4戦全勝だったのに。

さすがにこれ以上ホークスに離されるのはまずいよ…。

 

明日は河原と新垣の投げあい。

がんばれ、ライオンズ!