この記事はmonoyaomouさんのブログの記事、「授業における『正答』について」 を参考にしています。
monoyaomouさんは、学校の教室空間において教師がもつ「権威」に注目し、だからこそ教師のもつ「よりよい答え」は「正答」になってしまうのだということを自覚せねばならない、ということは、まさにそのとおりだと思います。
ここが、教育という営みのおもしろくもあり、こわいところなのでしょう。
ですが、私はだからこそ、教師の「正答」を表明することにためらいを覚えます。
結論から言えば、教師の「権威」は子どもの議論を組織する方向に発揮されるべきであって、「正しさ」に向かうべきではない、と考えています。
確かに、教師が語る言葉には「権威」が付きまとい、聞いている子どもの側からすれば、それは絶対的な「真理」になるものだと思います。
そのことを利用して、系統的な知識を教授したり、教師の言葉をきっかけにして議論が始まったり、さまざまなスタイルの授業が構想できるでしょう。
そこから子どもの個性的な思考が始まることも、ままあることだと思います。
しかし、こと討論の授業においては、その「権威」は議論を成立させる「司会」ないし「審判」として存在するべきだと思います。
討論の授業は、子どもたち同士がお互いの意見を表明し、交換し、その共通点と相違点を確認し、合意と不合意を作り上げていく場であると思います。
このとき、子どもたち同士という対等の立場で初めて議論が成立するのであって、教師のもつ「権威」がひとたびそこに導入されれば、そこで議論は終わってしまいますし、せっかく子どもたち同士で作り上げた「結論」も、教師の「権威」によって否定されかねません。
子どもたちの議論を整理し、けんかを仲裁し、議論がより深みのある方向へ進むように助言をする、これが教師の「権威」として役割ではないでしょうか。
もし教師が「正答」をもっているならば、討論という形式をとらずとも、「おもしろい」授業を展開することは可能なのではないかと思います。
「正答」のない問いだからこそ、子どもたちのあいだに平等な議論の空間が生まれるし、そこで意見を交換するという討論授業のもっともよいところが出てくるのではないかと思います。
そこで生み出されるのは、やはり「正答」ではなく、子どもたち自身が作り上げた「よりよい答え」なのではないでしょうか。