今日の授業は結構おもしろかったのでご紹介します。

 

題して「こころの年表づくり」。

まず黒板いっぱいに横にラインを引き、それが時間の流れであることを示します。

一番右に「2005年」「現在」と書いてから、子どもに教科書や資料集を見ずに、小学校の学習内容を思い出して、習った事柄をなんでも自由に述べさせます。

そしてその事柄が黒板いっぱいのライン上のどこに位置するのかを示させます。

ここまでが第一段階。

 

子どもから出てくる答えはやはり偏っていて、明治以降の近代史、戦国時代、古代が圧倒的に多いです。

(なかにペ・ヨンジュン来日というのには笑ってしまいましたが。)

逆に江戸時代や室町時代などは大きな空白ができています。

また、戦争や政変の事柄が多く、生産や文化に関することはそれほど出てきません。

 

次に、教科書の年表などを参照させ、具体的に事柄に年号をふっていきます。

そして出席簿の長辺を1めもりとしてめもりをふり、その長さが何年になっているかを計算します。

当然のことながら、関心の強い部分は事柄も多く、1めもりあたりの年数は少なくなり、逆に関心の低い部分は1めもりあたりの年数が極端に長くなることになります。

あるクラスでは、近代史の部分が1めもり30年、平安から鎌倉時代にかけての1めもりが300年、という格差が生まれました。

これらの事項を板書していくたびに、ちょっとした歓声があがります。

 

そして板書した年表が、心のなかに描かれている時間の流れのイメージであることを示します。

そのうえで3つ発問しました。

(1)こころの年表の1めもりあたりが示す時間が異なっているのはなぜか。

(2)年表の空白の部分にはどんなことが入るのか。なぜ空白ができてしまったのか。

(3)「○○の歴史」-年表に書かれた事柄をとおしてみると、何の歴史だということができるか。「○○」にあてはまる言葉を考える。

 

(1)(2)は自分の時間意識、歴史意識を改めて考えてみることを、(3)は政治史や事件史、あるいは日本史に認識が偏っていることを自覚させることをねらっています。

ここまでで時間がなくなってしまったので解答は来週になってしまいました。

かなり難しい発問だとは思いますが、なかには時間中に結構書いてる子もいたので、楽しみです。

どうなるかなっと! 

amebloさんのテーマにのって、ちょっと考えてみたいと思います。

 

まずいえるのは、「学力低下」の議論と「ゆとり教育」の議論はわけて考えるべきだということ。

「学力低下」についていえば、さまざまな教育社会学者が指摘しているとおり、「ゆとり教育」のせいというよりも、そもそも子どもたちの背景となっている社会構造が大きく変化したことが大きいのではないでしょうか。

インターネットや携帯電話の普及、学歴神話の崩壊、階層の二層分化、学ぶ意欲をもてない子どもたち…。

学校教育の責任がないとは言いませんが、近年の学校の変化はその外部の影響はやはり大きいのではないかと思います。

そういった状況を真摯に受け止め、学校教育はその状況に対して何がで切るのかということを考えなければならないのではないでしょうか。

 

また、PISAの調査の順位を鵜呑みにするのもうなづけません。

あくまで国家間の相対的な評価であり、順位が上だ下だで騒ぐべきではありません。

だって、他の国がよりよい教育をするようになれば、日本の位置は相対的に下がるのですから。

むしろその具体的な中身にこそ注目するべきでしょう。

論述問題などで空欄の割合が多い、などということは、教育的にきわめて重要な問題を提起されているように思います。

 

このように考えると、直接の因果関係は「学力低下」と「ゆとり教育」のあいだには結べないのではないかと思います。

その一方で、これまでの「ゆとり教育」はどのような効果があり、どのようなところを反省しなければならないのかというアセスメントは絶対に必要です。

PISAの調査や「(受験)学力」重視のペーパーテストで子どもへの教育の効果をはかるのではなく、「ゆとり教育」がそもそも何を目指していたのかを再確認したうえで、そこに対する再評価をしなければならないでしょう。

これはおそらく、「ゆとり教育」というシステムのうえで実際に教育を行なっている教員に聞いてみないとわからないのではないでしょうか。

教育政策という意味、子どもに提供する教育内容という意味、この両面からの評価が必要なのではないかと思います。

 

ちなみに、去年中学校の地理を担当しましたが、正直勘弁してくれよ~って感じでした。

これについては、また今度書きますね。

この記事はmonoyaomouさんのブログの記事「国語の授業で「気持ち」を問うな3」 を参考にしています。

monoyaomouさんに私のコメントを取り上げていただいたので、こちらでも取り上げさせていただこうと思います。

monoyaomouさんは小学校の国語教育、私は中学校の歴史教育を念頭に置いているのでそれを前提にお読みください。

 

 

結論から先に言うと、「正答」のない問いを歴史の授業では中心にできればと思っています。

 

「正答」のある問いほどしらけるものはない、と私は思っています。

だって、答え知ってんなら先に教えろよ、って思いませんか?(ひねくれすぎ?)

もちろん、教育の方法として、「正答」のある問いを発するべき場面はあると思います。

でも、「正答」があるなら、教師の方で系統的に整理したかたちで教授した方がよい場面の方が多いと思うのです。

一方で、子どもに真剣に考えさせたり議論させたりする場面では、「正答」のない問いの方が適しているのではないでしょうか。

「正答」がないからこそ、さまざまな資料をもとにしたり、自分の意見を論理的に構成したり、批判に耐えうるようなかたちに再構成したり、といった授業内容が行えるのではないかと思います。

それは「これもいい」「あれもいい」といった価値相対的なものには必ずしもならないと思っています。

その判断基準は社会科の授業で求められつづける、科学性だったり論理性だったり、あるいは子ども自身の感性だったり倫理観だったりするのではないかと思うのです。

 

このように考えてみると、「正答」はなくとも「よりよい答え」はありうることになります。

その「よりよい答え」は、教師の側があらかじめ想定しておくべきものであると同時に、教室という空間のなかで子どもたちの意見を引きながら作り上げていくべきものでもある、ということです。

 

歴史の授業場面において具体的にどう構成していくのかということについて、また書きたいと思います。

 

今日はブログの更新お休みさせていただきます。

すごくいいことがあったので、ほんわかさせてください。

また明日からのご来店、こころよりお待ちしておりますm(_ _)m

佐藤正幸『歴史認識の時空』(2004 知泉書館)という本に出会いました。

この本は「人間が過去をどのように認識し過去と対峙してきたかを明らかにする」ことを目的としているようです。

まだ目次をぱらっと読んだ程度ですが、「歴史を学ぶことの意味の探究」が研究テーマの重要な一部である自分としては、非常に興味深い本です。

423ページからなる大著なので読み込むには時間がかかりそうですが、少しずつでもここでご紹介できればと思っています。

 

佐藤氏が指摘されているように、これまで歴史学において個別の歴史的事象についての研究は蓄積は厚いいと思いますが、歴史を認識するという人間の行為自体に着目したものはなかなかなかったように思います。

とはいえ、歴史学論とでも言うような分野の本も決して少ないわけではありません。

例えば、E・H・カーの『歴史とは何か』、小谷汪之の『歴史の方法について』のふたつは私の「歴史」観に大きな影響を与えてくれました。

他にもいわゆる「大家」と呼ばれる歴史家は、たいてい歴史学の意味を問うような論考を残しています。

しかし、それはあくまでも本流の歴史研究を踏まえたうえでの補論であり、それ自体が研究の対象にはなってこなかったのではないでしょうか。

しかし最近の混沌とした社会の状況は、歴史学がもつ意味、歴史学の存在理由自体も問い直す時期にきていることを示しています。

歴史学研究会の大会テーマなどを見てみても、それが垣間見えるように思います。

 

例えば認知心理学や社会学、教育学などの研究方法も援用しながら、「人間が歴史を認識することの意味」を研究していくことは、極めて重要なテーマであるように思います。

 

「創業百年」の和菓子屋と昨日オープンの和菓子屋、受けるイメージは違いませんか?

「新しい教科書をつくる会」の人たちはなぜ歴史にこだわるのでしょう?

現在起きている「反日デモ」、中国の人たちと日本の人たちの捉えかたの違いは何なのでしょう?

 

カーの「歴史とは何か」という問いは、現在においても輝きを失っていない、永遠の問いであるように思います。

ドラマ、見てしまいました。

 

沖縄の大自然に感動。

 

海でも山でも、自然のなかで、

 

携帯の電源を切って、

 

ゆっくりしたいなぁ。

正直、授業としてはあまりうまくいきませんでした。

 

新聞記事やニュースを見たあとの子どものコメントは、なかなかによいものが多かったです。

今さら日本を責めても意味ないじゃないかという意見。

中国は戦後ずっと我慢してきたのだから日本も誠実に対応すべきとの意見。

暴力的行為に対する否定的意見。

過去の歴史を把握して日中関係を見るべきだとする意見。

中国人が子どもっぽいとする意見。

靖国参拝問題、教科書問題を指摘する意見。

 

意見の多様性という意味ではすごく良かったですし、子どもたちに意見を聞いている段階では良い雰囲気でした。

ただ、もう少し教室がざわざわして小さな話合い(?)のような感じになってほしかったのですが、まだ学期当初で慣れていないのもあって、そういうふうにはなりませんでした。

これはきっと、教師の方の指示として、議論すべき論点が、議論しにくいものだったというのがあると思います。

子どもたちは、意見は言ってくれるのですが、踏み込んで理由や根拠を聞いてみても答えられません。

よく考えてみれば当然ですよね、まだ中学校での歴史の学習をしていないのですから。

中には塾やニュースなどで知識豊富な子もいるのですが、彼らでもやはりうわべ上の知識というか、知識の深まりがないのがよくわかります。

そこで本当は靖国参拝問題をはじめ、いろいろ反日デモに至る背景を説明してあげたいのですが、歴史や公民の学習をしていないので、使うことのできる言葉が限られ、その結果、なんだかわかったようなわからないような説明しかできませんでした。

 

その結果、今回歴史の導入単元として意図した、現在の社会的事象を理解するためには歴史を理解しなければならない、ということも、結局教師の方から説明してしまい、子どものこころには届いていないのではないかと思います。

 

もしこの学習を深めるのであれば、もう少し具体的な資料を与えて、それを根拠に論じられるような構成にするべきでした。

そうすればただ感性だけで問題を捉えるのではなく、科学的な思考も働かせた討論が組織できるのかもしれないと思います。

しかし今回そうしなかったのはあくまでも導入単元であり、討論の組織まで意図していなかったということがあります。

導入単元という意味では、子ども自身から「歴史を学ぶことは大切なんだ」という声がでるようにしなければならないと思います。

 

結論としては、導入単元としては不適切な素材だったのかもしれません。

もう少し子どもが感性や生活経験から捉えても問題のないようなものを学習の中心に据えなければならなかったと思います。

「反日デモ」はインパクトとしては強いですし、子どもの関心もあります。

政治的に難しい問題であるということもありますし、

しっかり時間をかけて、資料を複数提示して授業を構成すれば、地歴公民が融合した討論授業を組織できるのではないかと思います。

手ごたえとして、社会科の授業としての発展性はあるのではないでしょうか。

 

来週から、またがんばるぞ!

今日は、今やっている歴史の導入単元の「単元設定の理由、ねらい」を文章化したものを載せたいと思います。

 本単元は中学校における歴史の授業の一番はじめに位置し、歴史学習の導入単元ということができる。生徒は小学校において歴史を人物を中心とした歴史像をもっていると考えられる。そこで本単元では大きく4つの目標を掲げる。ひとつは小学校において獲得した歴史像を再確認することである。年表にクラスの歴史を描いていくことでその達成をねらうが、同時に個人によって差がある歴史認識の知識的な側面の共有をも同時に図ることができると考える。

 ふたつには、そういった既存の歴史認識の枠組みとしての歴史像を壊し築いていくのが歴史の授業であることを認識させるために、「あたりまえ」となっている認識の枠組みに揺らぎを与えることである。これは歴史の授業において無批判に前提にされがちな「日本」という単位での歴史認識に対して、「地図」という視覚的にわかりやすいものを素材とし、「日本」に限定されない空間的広がりを示すことによって、その枠組みへの疑問を提起することをねらいとするものである。

 みっつは、今年度一年間通しての授業のルールを確認させることである。授業において設定したいルールは、それぞれ生徒の思考力や表現力を育成することをねらいとしている。具体的にはノートの取り方(授業後にまとめと感想を書く、板書を丸写ししない、タイトルをつける、表現方法の工夫)、係りの役割分担(教師がくる前に授業をスタートさせる、社会科通信と切り抜き記事の配布)、クラスノートをまわすこと、評価の方法(四観点による評価、ノートの評価と試験の評価が同等であること)などを指導する。この点については前期を通して定着するよう指導する。

 よっつは、中学校における歴史学習の動機づけをすることである。歴史学習において大切にしたいのが、現在とのかかわりを意識することである。歴史を学ぶことを自己目的化するのではなく、現在を生きるために役立つ歴史学習を想定したい。そこで導入として、中国の反日デモのことを取り上げたい。政治的な問題に深入りするのではなく、中国の人がなぜそのような行動をするのかということを考えることを通して、現在の問題の背景の一端として歴史の問題が存在していることに気づかせたい。反日デモの問題はアジア・太平洋戦争をめぐる歴史認識が大きな論点となっているが、現在をよりよく理解するためには、古代からの歴史認識が不可欠である。そういった意味で、現在と歴史とのかかわりに興味を持たせたい。

 単元を通して、歴史に対する興味や関心を喚起するとともに、ある程度の時間的スケール、空間的スケールへのイメージをもたせることをねらいとする。

 なお、本単元は学習指導要領における「2 内容 (1)歴史の流れと地域の歴史 ア 我が国の歴史について,関心ある主題を設定しまとめる作業的な活動を通して,時代の移り変わりに気付かせるとともに,歴史を学ぶ意欲を高める。」に対応する単元とする。中学校における学習の導入であることから、クラス全体での学習に慣れさせるために主題については教師の側で設定することとし、実際の授業において作業的活動を導入することとする。また、「3 内容の取扱い (1)ウ 歴史的事象の指導に当たっては,地理的分野との連携を踏まえ,地理的条件にも着目して取り扱うよう工夫するとともに,公民的分野との関連にも配慮すること。」にもあるように、地理的分野における世界や日本についての地理的認識の拡大という観点、政治における外交分野の学習という観点からも、本単元で取り扱う主題は有効であると考えられる。

以上。いかがなものでしょう?

いいかげん10点以上取られるのはやめてほしい…。

見ててもがっくり来ちゃいますよね。

がんばれ先発ピッチャー!

がんばれライオンズ!

この記事はmonoyaomouさんのブログの記事「国語の授業で「気持ち」を問うな2」 を参考にしています。

 

まずはmonoyaomouさんの記事を引用させていただきたいと思います。

 

>悟空の気持ち。承太郎の気持ち。両さんの気持ち。ルフィの気持ち。・・・

>何度も読めば、「だいたい」は分かるんです。それを、いちいち聞かれたら、気持ちがなえませんか?せっかく面白い話なのに。

>それよりも

>「悟空が一度地球を壊してまた復活させたやり方は、いいやり方だったと思いますか?」

>という発問の方が優れていると考えます。

>作品全体を見渡して、技の種類、登場人物の置かれている状況などをじっくりと、深く読んでいく必要が出てきます。

>討論の中で、主要人物や、一般の地球人の心情にも必然的に迫っていくことでしょう。

>「何巻、何ページ、何行目、何コマめに、こう書いてあります。」

>と。

 

これって、歴史教育としてはすごく面白いと思うんですね。

歴史上のある人物ないし社会の選択がよかったかどうかということを問うことによって、「社会全体を見渡して、技術や文化、歴史上の人物の置かれている状況などをじっくりと、深く読んでいく必要が出てきます」から、科学的・論理的思考力を育成できるとともに、さまざまな知識を課題を中心にしながら結びつけることができます。

あまりちゃんとは勉強していないのですが、アメリカの歴史教育はそういうスタイルだと聞いたことがあります。

 

ただしやはり問題点や留意点もあると思います。

ひとつは「よいか悪いか」を問うときに、どの立場に立って論じればいいのかが不明確になりがちではないかということです。

誰にとっての善悪を判断すればよいのか、個人の立場に立つのか国家の立場に立つのか、などなどいろいろ考えられるでしょう。

それらがごっちゃになって議論することも大事ですが、それらを整理して議論することも大事だと思います。

問題点としては、そもそも歴史的事象に対して、「善悪」を判断することが適切なのかどうかということも挙げられるかと思います。

同じ何かを考えさせる授業にしても、因果関係を問うたり、歴史的評価を問うたり、さまざまな形がありうると思うのです。

歴史の「if」に踏み込んでしまうかもしれないこの手の発問は、歴史教育の文脈においては考えなければならないところがあるのでしょう。