この記事はmonoyaomouさんのブログの記事「国語の授業で「気持ち」を問うな3」 を参考にしています。
monoyaomouさんに私のコメントを取り上げていただいたので、こちらでも取り上げさせていただこうと思います。
monoyaomouさんは小学校の国語教育、私は中学校の歴史教育を念頭に置いているのでそれを前提にお読みください。
結論から先に言うと、「正答」のない問いを歴史の授業では中心にできればと思っています。
「正答」のある問いほどしらけるものはない、と私は思っています。
だって、答え知ってんなら先に教えろよ、って思いませんか?(ひねくれすぎ?)
もちろん、教育の方法として、「正答」のある問いを発するべき場面はあると思います。
でも、「正答」があるなら、教師の方で系統的に整理したかたちで教授した方がよい場面の方が多いと思うのです。
一方で、子どもに真剣に考えさせたり議論させたりする場面では、「正答」のない問いの方が適しているのではないでしょうか。
「正答」がないからこそ、さまざまな資料をもとにしたり、自分の意見を論理的に構成したり、批判に耐えうるようなかたちに再構成したり、といった授業内容が行えるのではないかと思います。
それは「これもいい」「あれもいい」といった価値相対的なものには必ずしもならないと思っています。
その判断基準は社会科の授業で求められつづける、科学性だったり論理性だったり、あるいは子ども自身の感性だったり倫理観だったりするのではないかと思うのです。
このように考えてみると、「正答」はなくとも「よりよい答え」はありうることになります。
その「よりよい答え」は、教師の側があらかじめ想定しておくべきものであると同時に、教室という空間のなかで子どもたちの意見を引きながら作り上げていくべきものでもある、ということです。
歴史の授業場面において具体的にどう構成していくのかということについて、また書きたいと思います。