今週の木曜日からいよいよ授業が始まります。

歴史の授業の導入なんですが、はじめは地図のことをはじめにやろうかと思っていたんですが、やはり「歴史と現在」ということをテーマとして据えるべく、今の反日デモのことを教材にしてみたいと思っています。

政治的には微妙な問題ですが、社会科としては、やはり扱ったほうがいいのかな、と。

 

具体的には、ニュースを録画したビデオと新聞記事を使いながら、まず事実関係を確認させます。

投石しているシーンなどかなり過激な内容をうまく撮れたので、感性的なところからはじめられるかな、と思っています。

映像と新聞記事からわかることを、プリントに箇条書きにしたうえで、自分が思ったことを書かせます。

どんなことを書くのかを具体的には指示せずに、単純に思ったこと、コメントでいいことにします。

そしてそのうえでそれを発表させて、教師はそれを板書に整理します。

 

おそらく、感性的なもの/理性的なもの、日本よりなもの/中国よりなもの、個人の感想/具体的な政策、などなど、多様な意見が出てくるとは思います。

もし子ども同士でうまく議論になればそれでいいし、議論にならなくても論点の違いを教師が指摘していくことはできるのかな、と思います。

そして、教師の方から、中国の人はなぜこのようなことをするのか?ということを問います。

そうするとおそらく、現在の日中関係についてとともに、過去の歴史認識の話が出てくるのではないかと思うのです。

それは歴史の問題であると同時に、自分にとっての「他者」をどのように認識していくのかという人間としての問題ともリンクします。

 

現実は、過去の歴史認識と現在の社会状況が複雑に絡まりあった問題で、簡単に説明できるものではありません。

しかし、現在起きている問題の原因の一端に、歴史の問題があることをわからせたいのです。

それは必ずしもアジア・太平洋戦争がらみのことだけに限りません。

日本の天皇制のことを考えるにはやはり古代からの歴史認識が必要です。

そういったことを考えていくための導入として、歴史を学ぶ意味の一端を感じてもらえるような、そんな導入の授業にしたいと思っています。

この記事はmonoyaomouさんのブログの記事「国語の授業で「気持ち」を問うな2」 を参考にしています。

 

歴史の授業において、いわゆる「歴史上の人物」の「心情」を問うことはどのような意味を持ちうるでしょうか。

あるいは弊害があるのでしょうか。

小学校における6年生の歴史学習は、人物学習が中心です。

私は小学校で歴史の授業をしたことはありませんが、おそらくある人物の人生や考えに基づきながら、その背景となる歴史的事象のイメージをつかんでいるのではないかと思います。

 

一方、中学校での歴史学習をイメージしてみます。

ある歴史上の人物の心情を考えたり、共感したりということは、その人物や社会を理解したりするには不可欠だと思います。

現在を生きる自分が異文化ともいえる歴史上の人物を共感的に理解するには、おそらく自分の心のなかで自分自身と重ね合わせたり、現在の社会と比べたり、さまざまなことを考えているのだと思います。

歴史への興味・関心をひきつけるためには、こういった過程を授業で保障することは大事なことだと思います。

(このことを重視した実践が、安井俊夫氏の実践だと思います。)

 

しかしこのことは、現在の社会観・価値観を、過去のさまざまな社会的背景を踏まえることなしに、単純に比較してしまうという欠点をもっています。

例を挙げれば、仮に江戸時代の農民の暮らしを授業で扱ったときに、その苦しい生活のようすを目の当たりにして、「この時代に生まれなくてよかった」という感想を導き出すことになってしまうのではないか、ということです。(本当なら、江戸時代なら江戸時代なりの「しあわせ」のかたちがあったはずだと思うのです。)

現在を絶対化して捉えないために、当時の社会的・歴史的事象を、俯瞰する立場で客観視するという思考方法が求められるのではないかと思うのです。

それが、例えば教科書に載っているような歴史だったり、教師が説明することだったり、あるいは子どもが史料から読み取ったりすることなのだと思います。

そういった「科学的」なものの見方を養うのも、歴史教育のひとつの役割なのではないかと思うのです。

 

「徳川家康はこのときどんな気持ちだっただろう?」と問うことはあまりにも安直に過ぎるとは思います。

が、ときと場合によっては、このような発問から立場の違いをクローズアップしてみたり、一般的な事象を導入してそれと対比してみたりというようなことがあれば、中学校における歴史の授業としても魅力ある発問になりうるのかなぁ、とも思うわけです。

今日は昨日遅くまで起きてたせいか、集中力が続かず、ぜんぜん仕事がこなせませんでした。

明日から、また気合を入れてがんばるぞ、おう!

大学で話をしていたら、「歴史と道徳」という授業科目の話が出ました。

私自身はその授業を履修したことはないので、その授業でどんなことをやるのかはわかりませんが、個人的には非常に興味深いテーマです。

 

例えば。

源頼朝が義経を追討する話になったときに、そのことの善悪を問うてみる。

豊臣秀吉が朝鮮へ出兵したことの善悪を問うてみる。

ある日本兵が中国人を虐殺したことの善悪を問うてみる。

あるいは・・・

野口英世の伝記を自分の人生訓とする。

ジャンヌダルクの生き方を見て自分にこの生き方ができるか?と問うてみる。

下克上の世の中において主君への忠誠を貫いた家臣を見て、天皇陛下へ絶対の忠誠を誓う。

 

善悪を問うものから人生訓まで、同じ「道徳」といってもいろいろなパターンが考えられそうです。

もし歴史教育が、科学的な認識、科学的社会認識の育成を目標としているなら、このような道徳的な捉え方というのは排除されるべきでしょう。

しかし子どもの認識ははじめから科学的なのではなく、むしろ感性的なものの方が強い場合もある。

そもそも、自分の人生や社会のことを考えるために歴史があるのだとすれば、社会科教育の一端を担う歴史教育においても、道徳としての歴史教育でよいのかもしれない。

あるいは子どもが歴史を学ぶ主体性を導き出すための方法としての、いわば導入として感性に働きかけるための道徳的アプローチがあるのかもしれない。

 

思いつくままに羅列してしまい、自分でも整理しきれていませんが、もう少し考えてみたいと思います。

 

「歴史の授業って、道徳の授業となにが違うの?」

だんだんこのブログの方向性が見えてきました。

やっぱりなによりも、自分が一番興味のある、歴史のことと教育のことを関連させながらお話していけたらなぁと思っています。

いわゆる「歴史教育」ですかね。

理論的なものも、実践的なものも含めて。

 

それだけだとどうしてもかたくなってしまうので、日常生活で気づいたこととか、自分の趣味のことなんかも適度に織り交ぜていければなぁ、と思っています。

 

これからもよろしくお願いします。

中学校1年生の歴史の年間計画をどうたてるか考えています。

今の指導要領で大きな変化はふたつ。

導入として主題学習の単元があることと、身近な地域の歴史を各単元に織り込むことです。

 

とりあえず、ひとつめの主題学習をどうするかで悩んでいます。

指導書によれば6時間配当で子どもが興味に応じて調べ学習をすることになっていますが、歴史についても人物学習のイメージしかないのに、時代を越えてテーマを設定するのはちょっと大変かな、と思っています。

まだ中学校での学習のスタイルにも慣れていないでしょうし、そういう意味でも、教師の方で何か主題を設定して、それを学ぶことで歴史学習全体の導入にできないかなぁと考えています。

 

ひとつ考えているのが、「日本」のうつりかわりを地図から見る、というものです。

いろいろな時代の地図を見れば、その当時の人々が抱いていた空間認識の一端が垣間見えるのではないか、と。

このことを切り口にしながら、日本という国家の歴史がもつ意味を考えるとともに、その時代を生きていた人々のこころにも迫れるのではないかな、と考えています。

 

もとネタは、僕の所属しているサークルで去年研究発表をしたものなんですけどね。

 >そちらに詳しい方、いろいろ教えてくださいm(_ _)m

中学校の歴史を教えるのは教育実習以来、試行錯誤しながらがんばっていきたいと思います。

インボイスSEIBUドーム、行ってきました。
そう、私ライオンズファンなんです。
対ロッテ3連戦でしたが、結果は12-4、惨敗でした…。
(期待の高卒ルーキー、涌井くんが打たれてしまいました…)

で、実はこの日開場から20分間、選手とハイタッチできるという企画だったんです。
7、8選手おりまして、この日は選手会長の小関はじめ、高木大成や前日7回無失点好投の帆足、キャッチャーの細川などがいました。(前の日は和田や中島もいたらしいです)
ハイタッチする前はドキドキでしたよ!
選手を身近に感じられるよい機会でした。

でも、この日の客入りは9308人。
3塁側スタンドはガラガラで、さびしいものでした。
ライオンズに限らず野球を応援したい身としても、どうなんだろう?と思ってしまいます。
他の球場はもうちょっと入っているみたいですが…。
インボイスドームは、近くに住んでる僕にはいいけど、一般的には交通の便が悪すぎますよね…。
そんななかで、選手会発案のこのハイタッチ企画、直接は客入りに影響しなかったかもしれないけど、その姿勢はすごく好感が持てました。
これが続いて、いい方向に行けばいいんですけどね!

でも、野球も球場行って観戦するとぜんっぜん雰囲気違いますよ。
チームによって応援のスタイルがぜんぜん違うし、ひとつのプレーを肌で感じて緊張したりもします。
なにより、どんなに負けてても、応援しているチームがチャンスになるとドキドキしてしまいます。
ぜひ今度行くときは、おいしいビールを飲めるようにがんばってほしいです!

cabsign余談ですが、最終回にカブレラがホームランを打ちました。
入り口でくじが配られていて、地元の物産があたるプレゼントがあるんですが、
ライオンズの選手にホームランが出ると、その選手のサインが3人にあたるんです。
そして、なんとその3人に入ってしまいました!
試合には負けたけど、最後まで応援しててよかった!!

 

がんばれライオンズ。
「国家」というものは、今の自分にとってどのような意味があるでしょうか。
このことを考えずして歴史をみる「枠組み」は検討できないように思います。

現実の問題として、個人の利害を越えて自分を守ってくれる存在は、国家しかないと思います。
しかし、国家が個人にどれだけ影響を及ぼせるかを考えてみれば、その力は確実に衰退傾向にあるということができるでしょう。
本書でも触れられているし、昨今のグローバリゼーションをめぐる議論を検討してみれば、このことは明らかです。
例えば、現在の情報メディアのなかで大きな影響をもっている「インターネット」に対して、国家はどれだけの影響をもちうるでしょうか。
おそらく、マイクロソフトやソフトバンクをはじめとしたIT企業、あるいは2ch掲示板上の個人の発言の方が、より大きな影響をもちうるでしょう。
そしてこの世界においては、国家という存在がもはやすべてを規制する要因になることができないことを示しています。

インターネット上の世界に限らず、この傾向は実は身近な場面でいうことができるのだと思います。
経済、政治、文化、などなど…グローバリゼーションはあらゆる場面で体現されています。
しかし、その実感が湧かない…というのが正直なところかもしれません。
このことを高山氏は
「私たちの社会は、一〇〇〇年前のフランスの農村共同体のように閉じた共同体を形成しているわけでもない。一〇〇〇年間のフランスの農民は、自分の村の住民のほとんどを熟知していたし、村で生じた事件や問題となっている事柄を把握していた。しかし、現在の私たちは、自分が属する社会でどのような人が活動し、どのような出来事が起こり、どのような変化が生じているのか、ほとんどわからない。自分のまわりを、どのようなモノや情報が行き交っているのかも把握していない。一〇〇〇年前のフランス農村に比べると、私たちは、自分の認識能力をはるかに超えた広がりと複雑さをもつ社会のなかで生活しているのである。(P.172)」
「このことは、自分の生きる社会や世界と、自分の実体験とが大きく乖離していることを意味する。グローバル市場も、現実に存在しているにもかかわらず、多くの人にとって仮想でしか認識されない。直接かかわっている一部の人たちをのぞけば、ほとんど意識されることも実感されることもないだろう。(P.174)」
と表現しています。

大事なことは、大事なことが見えにくくなっている社会において、大事なことを見逃さない社会に対する見方を獲得することです。
歴史を見る見方が、現在を見通すための羅針盤になると仮定したとき、これまでの国家中心の歴史の枠組みに対して、疑問を呈さざるを得ません。
繰り返しますが、国家を見る必要がないといっているのではありません。
しかし、国家以外に着目した歴史を認識する枠組みをしっかり身につけていないと、現在の社会をしっかり見通すことができなくなってしまうのではないかと思うのです。

そういった意味で、高山氏が繰り返し述べている、過去と現在の比較という手法は、歴史教育においても有効なのではないかと考えます。
過去と現在の比較をどのような観点で実際に考えていけばよいのかということを、これからのひとつのテーマとしていきたいと思います。
前回、広大な歴史を認識するために「枠組み」が必要であることを論じました。
その「枠組み」は極めて恣意的なものであるといえます。
今の小学校から高校までの歴史の教科書ないし多くの授業を見てみると、最終的な記述は近代的な国家の形成とその歴史へ位置づくということができるのではないでしょうか。
このことを近代歴史学の特徴として高山氏は挙げています。

最近の教科書でも、図版を多く使ったりしながら、特に前近代においては社会史の成果を取り入れた記述や授業が出てきたように思います。
しかし、明治以降の記述はどうでしょうか。
明治新政府の西欧へのキャッチアップの歴史、そして戦争の歴史が中心になってはいませんでしょうか。
もちろん両者とも大切なことではあります。
しかし、せっかく前近代史学習において培われてきた「国家」以外への視点というものが、結局は明治以降の日本政府の語りに回収されていってはいないでしょうか。
もちろん、アジア・太平洋戦争にかかわる日本の戦争責任は認めなければいけませんし、そのことを伝えていく戦争学習・平和学習も非常に大事です。
しかしそのことが、逆に「国家」に縛られた歴史観を作ることになってはいないでしょうか。

もっと戦争のときの人々の声をただその時代を生きた人間の声として取り上げたり、近代史においても社会史的なアプローチやカルチュラル・スタディーズの視点からの研究成果を取り入れることを考えてみたいと思います。
このように考えるのは、はじめに述べたように、「国家」に収斂していくことのない「枠組み」を構想することはできないか、と考えるからです。


次回は思考の「枠組み」として「国家」が前提にあることのプラス面とマイナス面について、またグローバリゼーション下において求められる歴史像について考えてみたいと思います。

つづく。
高山博氏の『歴史学 未来へのまなざし』を読んで思ったことを書いてみたいと思います。(僕なりの解釈なので、誤読等あるかもしれませんが、ご容赦ください。)
高山氏は中世ヨーロッパ史家で、特にシチリア史、ヨーロッパの統治システムの比較研究をされています。
この本では、その研究と歴史学が持つ意味を、現在のグローバル化社会の問題と引きつけて論じています。
文体自体は極めて平易なもので、図版も多く、読みやすかったです。
何よりも、今自分が最も関心のある、「歴史」と「現在」との関わりについて論じられていました。

いっぺんには紹介できないので、ちょっとずつコメントしていきたいと思います。

まず、現在の自分の立っている場所を認識するためには、現在のことだけでなく過去のことを認識する必要があること。
そして、広大な過去の世界、あるいは広大な現在の社会を認識するためには、人間はどうしても何らかの「枠組み」をもたなければいけないということ。
この「枠組み」を作るのが歴史学であり、現代の課題に応じて「枠組み」を壊して再構成するのも歴史学であるということ。
そして教科書的ないし国家主義的な歴史の「枠組み」が再編される状況にあること。

歴史教育に引きつけて考えてみると、系統主義とその反論の議論に踏み込めそうです。
「枠組み」がなければ物を考えることができないが、その「枠組み」を絶対視してはいけない。
「枠組み」を与えるのが系統主義の発想であり、「枠組み」を絶対視しないで捉え、それを再構成する過程をむしろ大事にするのが思考や表現を重視する立場なのかな、と考えます。
当然どちらもやらなければならないのですが、発達段階と子どもがもっているものを勘案しながら、どうバランスをとっていくのかということが歴史教育の課題なのでしょう。
今はまだ答えが出せませんが、実践のなかでその答えに近づくものがあれば、またご報告したいと思います。

つづく。