この記事はmonoyaomouさんのブログの記事「国語の授業で「気持ち」を問うな2」 を参考にしています。

 

歴史の授業において、いわゆる「歴史上の人物」の「心情」を問うことはどのような意味を持ちうるでしょうか。

あるいは弊害があるのでしょうか。

小学校における6年生の歴史学習は、人物学習が中心です。

私は小学校で歴史の授業をしたことはありませんが、おそらくある人物の人生や考えに基づきながら、その背景となる歴史的事象のイメージをつかんでいるのではないかと思います。

 

一方、中学校での歴史学習をイメージしてみます。

ある歴史上の人物の心情を考えたり、共感したりということは、その人物や社会を理解したりするには不可欠だと思います。

現在を生きる自分が異文化ともいえる歴史上の人物を共感的に理解するには、おそらく自分の心のなかで自分自身と重ね合わせたり、現在の社会と比べたり、さまざまなことを考えているのだと思います。

歴史への興味・関心をひきつけるためには、こういった過程を授業で保障することは大事なことだと思います。

(このことを重視した実践が、安井俊夫氏の実践だと思います。)

 

しかしこのことは、現在の社会観・価値観を、過去のさまざまな社会的背景を踏まえることなしに、単純に比較してしまうという欠点をもっています。

例を挙げれば、仮に江戸時代の農民の暮らしを授業で扱ったときに、その苦しい生活のようすを目の当たりにして、「この時代に生まれなくてよかった」という感想を導き出すことになってしまうのではないか、ということです。(本当なら、江戸時代なら江戸時代なりの「しあわせ」のかたちがあったはずだと思うのです。)

現在を絶対化して捉えないために、当時の社会的・歴史的事象を、俯瞰する立場で客観視するという思考方法が求められるのではないかと思うのです。

それが、例えば教科書に載っているような歴史だったり、教師が説明することだったり、あるいは子どもが史料から読み取ったりすることなのだと思います。

そういった「科学的」なものの見方を養うのも、歴史教育のひとつの役割なのではないかと思うのです。

 

「徳川家康はこのときどんな気持ちだっただろう?」と問うことはあまりにも安直に過ぎるとは思います。

が、ときと場合によっては、このような発問から立場の違いをクローズアップしてみたり、一般的な事象を導入してそれと対比してみたりというようなことがあれば、中学校における歴史の授業としても魅力ある発問になりうるのかなぁ、とも思うわけです。