「国家」というものは、今の自分にとってどのような意味があるでしょうか。
このことを考えずして歴史をみる「枠組み」は検討できないように思います。
現実の問題として、個人の利害を越えて自分を守ってくれる存在は、国家しかないと思います。
しかし、国家が個人にどれだけ影響を及ぼせるかを考えてみれば、その力は確実に衰退傾向にあるということができるでしょう。
本書でも触れられているし、昨今のグローバリゼーションをめぐる議論を検討してみれば、このことは明らかです。
例えば、現在の情報メディアのなかで大きな影響をもっている「インターネット」に対して、国家はどれだけの影響をもちうるでしょうか。
おそらく、マイクロソフトやソフトバンクをはじめとしたIT企業、あるいは2ch掲示板上の個人の発言の方が、より大きな影響をもちうるでしょう。
そしてこの世界においては、国家という存在がもはやすべてを規制する要因になることができないことを示しています。
インターネット上の世界に限らず、この傾向は実は身近な場面でいうことができるのだと思います。
経済、政治、文化、などなど…グローバリゼーションはあらゆる場面で体現されています。
しかし、その実感が湧かない…というのが正直なところかもしれません。
このことを高山氏は
「私たちの社会は、一〇〇〇年前のフランスの農村共同体のように閉じた共同体を形成しているわけでもない。一〇〇〇年間のフランスの農民は、自分の村の住民のほとんどを熟知していたし、村で生じた事件や問題となっている事柄を把握していた。しかし、現在の私たちは、自分が属する社会でどのような人が活動し、どのような出来事が起こり、どのような変化が生じているのか、ほとんどわからない。自分のまわりを、どのようなモノや情報が行き交っているのかも把握していない。一〇〇〇年前のフランス農村に比べると、私たちは、自分の認識能力をはるかに超えた広がりと複雑さをもつ社会のなかで生活しているのである。(P.172)」
「このことは、自分の生きる社会や世界と、自分の実体験とが大きく乖離していることを意味する。グローバル市場も、現実に存在しているにもかかわらず、多くの人にとって仮想でしか認識されない。直接かかわっている一部の人たちをのぞけば、ほとんど意識されることも実感されることもないだろう。(P.174)」
と表現しています。
大事なことは、大事なことが見えにくくなっている社会において、大事なことを見逃さない社会に対する見方を獲得することです。
歴史を見る見方が、現在を見通すための羅針盤になると仮定したとき、これまでの国家中心の歴史の枠組みに対して、疑問を呈さざるを得ません。
繰り返しますが、国家を見る必要がないといっているのではありません。
しかし、国家以外に着目した歴史を認識する枠組みをしっかり身につけていないと、現在の社会をしっかり見通すことができなくなってしまうのではないかと思うのです。
そういった意味で、高山氏が繰り返し述べている、過去と現在の比較という手法は、歴史教育においても有効なのではないかと考えます。
過去と現在の比較をどのような観点で実際に考えていけばよいのかということを、これからのひとつのテーマとしていきたいと思います。
このことを考えずして歴史をみる「枠組み」は検討できないように思います。
現実の問題として、個人の利害を越えて自分を守ってくれる存在は、国家しかないと思います。
しかし、国家が個人にどれだけ影響を及ぼせるかを考えてみれば、その力は確実に衰退傾向にあるということができるでしょう。
本書でも触れられているし、昨今のグローバリゼーションをめぐる議論を検討してみれば、このことは明らかです。
例えば、現在の情報メディアのなかで大きな影響をもっている「インターネット」に対して、国家はどれだけの影響をもちうるでしょうか。
おそらく、マイクロソフトやソフトバンクをはじめとしたIT企業、あるいは2ch掲示板上の個人の発言の方が、より大きな影響をもちうるでしょう。
そしてこの世界においては、国家という存在がもはやすべてを規制する要因になることができないことを示しています。
インターネット上の世界に限らず、この傾向は実は身近な場面でいうことができるのだと思います。
経済、政治、文化、などなど…グローバリゼーションはあらゆる場面で体現されています。
しかし、その実感が湧かない…というのが正直なところかもしれません。
このことを高山氏は
「私たちの社会は、一〇〇〇年前のフランスの農村共同体のように閉じた共同体を形成しているわけでもない。一〇〇〇年間のフランスの農民は、自分の村の住民のほとんどを熟知していたし、村で生じた事件や問題となっている事柄を把握していた。しかし、現在の私たちは、自分が属する社会でどのような人が活動し、どのような出来事が起こり、どのような変化が生じているのか、ほとんどわからない。自分のまわりを、どのようなモノや情報が行き交っているのかも把握していない。一〇〇〇年前のフランス農村に比べると、私たちは、自分の認識能力をはるかに超えた広がりと複雑さをもつ社会のなかで生活しているのである。(P.172)」
「このことは、自分の生きる社会や世界と、自分の実体験とが大きく乖離していることを意味する。グローバル市場も、現実に存在しているにもかかわらず、多くの人にとって仮想でしか認識されない。直接かかわっている一部の人たちをのぞけば、ほとんど意識されることも実感されることもないだろう。(P.174)」
と表現しています。
大事なことは、大事なことが見えにくくなっている社会において、大事なことを見逃さない社会に対する見方を獲得することです。
歴史を見る見方が、現在を見通すための羅針盤になると仮定したとき、これまでの国家中心の歴史の枠組みに対して、疑問を呈さざるを得ません。
繰り返しますが、国家を見る必要がないといっているのではありません。
しかし、国家以外に着目した歴史を認識する枠組みをしっかり身につけていないと、現在の社会をしっかり見通すことができなくなってしまうのではないかと思うのです。
そういった意味で、高山氏が繰り返し述べている、過去と現在の比較という手法は、歴史教育においても有効なのではないかと考えます。
過去と現在の比較をどのような観点で実際に考えていけばよいのかということを、これからのひとつのテーマとしていきたいと思います。