なぜ私がこんなに「正答のない問い」にこだわるかと言えば、実際に社会に出てみれば、「正答」のあるような課題や問題などほとんどないだろうと思うからです。
さまざまな情報を適切に処理し、さまざまな意見があることを踏まえたうえで、「よりよい答え」を探し出していく力こそが求められているのではないかと思います。
それは単純に社会科的な知識があるだけではだめで、ある社会における「公共性」であったり、メディアリテラシーだったり、ディスカッションをする力だったり、さまざまなものを統合する複合的な力が必要なのではないかと思うのです。
そういう意味で、社会科の授業におけるもっとも中心となるべき発問は、「正答」が明確に見いだせるものではなく、「よりよい答え」を仲間とともに探っていけるような、「正答のない問い」なのではないかと思うのです。
ただ、このことは「正答のある問い」が必要ないと言っているわけではありません。
子どもの授業への取り組み方や授業者の意図の伝達の場面、あるいは単純に事実や知識を教授しなければならない場面など、「正答のある問い」の方が適している場面はたくさんあります。
(このことの大切さには、cyber-homunculusさん のブログで気づかせていただきました。)
私が主張したいのは、少なくとも社会科におけるもっとも中心となるべき問いという意味で、「正答のない問い」の方が適しているのではないか、ということなのです。