先日もお話した通り、私は決して国家の存在を否定しているわけではありません。
現在を生きる私たちが平和を享受するためには、国家の存在は必要不可欠です。
しかしその一方で、国民国家の存在は現実の問題として「国民」の「境界」にいる人々に対する抑圧を加えています。
国民国家は「内」と「外」とを常に線引きしつづけ、「内」に対しては「平和」「人権」を徹底的に保障します。
しかし一方で、「外」と判断された対象に対しては、徹底的に「排除」と「抑圧」を行っていきます。
日本の場合でいえば、古くはアイヌや沖縄の人々、今で言えば在日韓国・朝鮮人の人や外国人労働者の人がそれにあたるのではないでしょうか。
国家のシステムはもちろん、メディアの論調もそのようなものであるように思います。
一方で、国家以外への帰属意識をもつような、価値観の多様化もおこっています。
保守政治家はそれに対し危機感を覚え、エリートと一般大衆への二極分化を推進しようとし、一般大衆へは国家への絶対的忠誠心をもたせようとしています。
これが現在の教育政策の本質でしょう。
新しい学習指導要領には「愛国心を育成する」ということが入るのではないかということが言われています。
逆に言えば、そうしたナショナリズムの思想に対置されるような、グローバリゼーションの動き、価値の多様化が起こっているのでしょう。
国民国家は、戦争のための装置であるといってよいでしょう。
だからこそ国民としての共通の記憶、経験を掘り起こし、力を結集することが要請されます。
歴史教育はその意味での国民育成にもっぱら専念してきたといっても過言ではありません。
国家の存在の重要さは重々承知していますが、「戦争」の道具にならないための歴史教育を考えられないものでしょうか。