みなさま、コメント、TB、ありがとうございます。

小難しい内容であるにもかかわらず、読んでいただけていることが非常にうれしいです。

いっぺんにお答えすることはできませんが、少しずつ、お返事していきたいと思います。


今日はまず、monoyaomouさんの記事について。

できるだけ具体的に、とのご指摘を頂きましたので、私のわかる範囲で具体的にお答えできれば、と思います。


私も、「日本」のこと、基本的には、好きです。

でも、嫌いなところもあります。


monoyaomouさんの記事を引用させていただきます。


「はしを使う。

漢字かな混じり文を用いる。

和食のご膳を食べる。

謙虚さを美徳とする。

折り紙が折れる。

手先が器用である。

勤勉である。

和服を着る。

家紋がある。

入浴が好きである。

お茶が好きだ。

空手や柔道・剣道などの武道がある。

家にたたみがある。」


確かに、どれも「日本」らしいですね。


「これらの文化や風習を大切に守っていくことが愛国であると考えます。

これらは、連綿と続く歴史に裏打ちされるものであり、それゆえ歴史を学ぶ意義があるのかなと考えます。

日本にはこのように大切にしたいものがあり、それを守ってくれるのは国家です。」


これ、あやしいと思います。

もし「日本」的な文化を守るべき、と思うのであれば、それを守ってくれるのは国家だけではないはずです。

市民団体であったり、NPOであったり、企業であったり、学校であったり、地方公共団体だったり…。

むしろ国家がこうした「文化」を破壊することだってあるでしょう。

どんぐりんさんにコメントいただいたように、組織はその内部の人の都合のよいように動いていくという側面は、事実だと思いますから。

極端な例かもしれませんが、たとえば諫早湾の干拓事業、あれはあの地域の伝統文化を破壊しているとはいえませんか?

それは、経済的な利益を最優先した結果でしょう。

国家こそが、「文化」を守ってくれるというのは、幻想だと思います。


つまり、「日本的な文化」を愛することと、「日本という国家」を愛することは別のことだと思うのです。

仮に、日本がアメリカの51番目の州になったとして、「日本的な文化」を守ることは可能ではありませんか?

現に中国のウイグル族やチベット族は、中国の中にありながら自治区として、彼らの文化を保持しているように思います。

私が危険だと思うのは、「日本的な文化」を「日本という国家」に同一視することです。


monoyaomouさんのおっしゃるように、自分の文化を愛することができれば、他者の文化を愛することができるのかもしれません。

でも、「文化」と「国家」を同一視することは、「国家」のなかの多様性を奪うことになります。

その「文化」をもたない人々は、「国家」のなかに存在できなくなるか、少なくともいづらくなるでしょうから。

もし教室のなかに「日本的な文化」をもたない子どもがいたとき(たとえば在日韓国・朝鮮人の子や外国人労働者の子ども、帰国子女の子など)、その子たちは「日本的な文化」を愛さなくてはならないのですか?

「日本的な文化」を知り、ひとつの文化として尊重する授業はできても、「日本的な文化」を愛することを強制する授業は、私にはできません。

(もちろん、子どもが自分自身の判断で「日本的な文化」を愛することはまったく構わないと思います。これをシステムとして強制しようとしたのが、都の日の丸君が代の強制でしょう。)


私は、「日本という国家」に所属し、「日本という国家」を愛しているからこそ、「日本という国家」のなかにさまざまな文化をもち、アイデンティティをもつ人がいっしょに暮らすことのできる、そんな「国家」であってほしいと思うのです。