この記事はmonoyaomouさんの記事、「戦争は悪なのか」 、「愛『国』心」 、「国へのアイデンティティー」 を参考にしています。
結論から先に述べます。
「愛国心」は必要です。
でも、私のいう「愛国心」は、monoyaomouさんのいう愛国心とは違います。
monoyaomouさんの記事を引用させていただくと、
(愛国心とは)「つまり、土地柄や風習や文化への愛なのか、統治組織への愛なのかということだ。
前者ならよし。後者ならキケンなやつめ。ということになる。
この話題も聞き飽きた感があるが、明確にしておくと、そんなの前者に決まっとるわい、ということである。」
私は、「そんなの後者に決まっとるわい」と考えます。
近代の国民国家は、もっとも効率的に戦争を遂行するために生まれました。
近年の歴史学における総力戦体制がもった意味を検討する諸論考が明らかにしているとおりだと思います。
総力戦体制下の国家と、大戦後生まれた福祉国家は、いわば双子の存在です。
国民国家は、「内」と「外」とに徹底的に境界線を引いていくということは、以前 にお話したとおりです。
国家は、世界のなかで唯一、公に「戦争」を遂行することのできる存在です。
国家は主権を行使できる唯一の存在ですから、「県」や「世界」といったものにアイデンティティを抱くこと、抱かせることとは、意味がまったく違います。
ですから、国家に対して排他的なアイデンティティを抱かせるような教育に、疑問を感じるのです。
「日本らしい」といわれるような「文化」や「慣習」などは、疑ってかからなくてはならないものがたくさんあります。
近代において、「日本」という共通の記憶を捏造する過程で生まれた「文化」「慣習」も多くあると思います。
そもそもそのような文化を共有していない人々だって、日本という国家に所属する権利はあるはずです。
ですから、「愛国心」の根源となるものが、「文化」や「慣習」といった不確定で排他的要素をもつものであることに疑問を覚えるのです。
繰り返しお話していますが、私が必要だと思うのは、国家、というものの存在を批判的にとらえ、そのもつ意味を考えることです。
私は、国家というものと自己との関係を考え、自己の安全と人権を保障する組織として、極めて機能的に国家をとらえなければならないと思います。
自分の「平和」と「人権」を守ってくれるからこそ、国家に対してアイデンティティをもつことができる。
そこにある「文化」や「慣習」の差異は、対立があれば乗り越えるべき課題として存在しこそすれ、アイデンティティのよりどころにすべきではないと思うのです。
そういった存在、システムや組織としての国家の存在を想定し、考えていくこと、このことがこれからの社会科教育において極めて重要です。
それは、国家というものがグローバリゼーションのもとで揺らぎを覚え、それに対して国家を絶対化してとらえる動きが活発になりつつあるからです。
歴史教育においては、そうした「国民国家」がどのようにこれまで人々を拘束し統合してきたのかということ、そして「国民国家」を絶対化する発想から自由になること、を学ぶ必要があるのではないかと思うのです。
詳しくは知らないのですが、アメリカの社会科においては、「クリティカル・パトリオッティズム」という考え方があるそうです。
日本語に単純に訳すと、「批判的愛国心」ということになるでしょうか。
(日本語に直すと原語の意味がずいぶん損なわれてしまいそうですが…。)
私は、批判的に国家の政策や存在をとらえながら、国家のもつ意味を考えていくこと、そういうかたちでこそ「愛国心」を育成する必要があるのではないかと思っています。