みなさんのコメント、TBへの解答キャンペーン第一回です。

今日は、私が「国家」というものをどういう存在として捉えているのか、ということについてお話したいと思います。


私は、「国家」というものをふたつの側面から考えています。

ひとつは、これから実現するべき「国家」のあり方、いわば「理想としての国家」というものです。

もうひとつは、政治家や官僚、経済界の思惑によって動き、個人によってコントロールされてしまいうる、いわば「現実としての国家」というものです。


今までの私が話してきた「国家」というものは、基本的には「理想としての国家」の話でした。

「国家」がこれからも果たしていくであろう役割について、「平和」を維持すること、「人権」を守ることなどに限定してお話をしたのは、そういった機能的な側面に限定して「国家」をイメージしてゆかねばならないと考えるからです。

これからの「国家」をどのようにイメージしていくのかについては、政治学や経済学の勉強をもっとしなければ語れるものではありませんが、少なくとも近代の「国民国家」が行ってきた、誰かが規定した「差異」をもとにして「内」と「外」をわけるやり方からは、脱しなければいけないと思っています。

例えば、金子勝がいうようなセーフティーネット論などは、国家が果たすべき役割だと思うのです。


しかし一方で、ふつう「日本」や「国家」という言葉でイメージするのは「現実としての国家」の方でしょう。

ここに議論を交錯させてしまった私のミスがあったと思います。


「国家というものと自己との関係を考え、自己の安全と人権を保障する組織って、本当でしょうか?組織というものは所詮出来てしまうと、組織の為の組織になって…。人間のやる事はそうなってしまいがち。」


というどんぐりんさんのご意見はごもっともだと思います。
この「現実としての国家」をどのように変えていくか、あるいは「現実としての国家」からいかに自由になるか、ここに私の問題意識があります。

「国家」に所属しその恩恵を受けて生活している以上、「国家」に対する義務と権利が生じるのは当然です。

しかしその一方、私たちが生活し行動する「場」が「国家」に限定されるものではない以上、「国家」を最優先しなければならないという発想からは自由にならなければなりません。


「歴史」には、知らず知らずのうちに「国家」を前提にした語りが非常に多く見られます。

だからこそ、「歴史」において「国家」がどのような役割を果たしていたのかを考えなければならないと思うのです。