(好きな作曲家100選 その27 ジャン=フィリップ・ラモー) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

「好きな作曲家100選」シリーズの第27回である。

 

 

前回の第26回では、17世紀の中・後期バロックのフランスの作曲家、フランソワ・クープランのことを書いた(その記事はこちら)。

さて、今回も引き続きフランスの作曲家を取り上げたい。

F.クープランと並ぶロココ期フランス音楽の大家、ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)である。

 

 

フランス中東部の町ディジョンに生まれたラモーは、最初は法学を学んだが、オルガニストだった父の影響か、音楽の道を選ぶこととなった。

20歳代、彼は留学先のミラノからフランスに帰国し、地方でヴァイオリニストやオルガニストとして働いた後、パリに移った。

ここで彼が出版した最初の作品である「クラヴサン曲集第1巻」(1706)は、15歳年上の先輩作曲家F.クープランの最初のクラヴサン(チェンバロ)曲集よりも早く出版されている。

ちょうど、ラヴェルのピアノ曲「水の戯れ」が、15歳年上の先輩作曲家ドビュッシーの「版画」以降の主要ピアノ曲よりも先に書かれたように。

ラモーのこの曲集は、ルイ・マルシャン(1669-1732)ら先人たちの形式に則りつつもより自由で情感豊か、「ヴェネツィアの女」という名の曲も取り入れるなど、後のF.クープランの標題的な組曲を先取りしている。

 

 

20歳代終わりに父の跡を継いで生地ディジョンのオルガニストに就いたが、この地に長居はせず、30歳代にはリヨンやクレルモン=フェランでオルガニストを務めた。

この間、彼はグラン・モテ「主こそ我らが避け所なり」(1713-15頃)「主がシオンの繁栄を回復された時」(1715-20頃)「汝の祭壇はいとも美しく」(1713-15頃)「叫びつかれて力は失せ」(1722)、室内カンタータ「見捨てられた恋人たち」「アキロンとオランティ」「焦燥」「オルフェ」「テティス」(1715-20頃)といった声楽曲を書いた。

 

 

パリに定住するようになった40歳代には、和声や調性の理論書を著して名声を博しつつ、「クラヴサン曲集と運指法 第1、2番」(1724)、「新クラヴサン組曲集 第1、2番」(1726-27)、室内カンタータ「忠実な羊飼い」(1728)を作曲した。

この4つのクラヴサン曲集は、F.クープランの影響を受けた個性的な標題の曲を多く含む、20歳代のときの第1巻よりもさらに自由度や幻想味の増した、ロココ期フランスを代表する曲集となっている。

また、「新クラヴサン組曲集 第1番」の終曲「ガヴォットと6つの変奏」など、F.クープランほどには自由を求めず一定の形式感を重視して、その枠内で音楽技法を駆使しメランコリックな情感を表現する、ラモーならではの面も見られる(この点でもドビュッシー風というよりラヴェル風)。

 

 

そして50歳を迎えたラモーは、満を持してオペラに着手する。

この約半世紀前の17世紀後半、パリ公演を開催したイタリアの作曲家フランチェスコ・カヴァッリ(1602-1676)(その記事はこちら)らの影響を受けつつ、イタリア出身のフランスの作曲家ジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)がフランス独自のオペラを確立した。

その後、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1643-1704)、マラン・マレー(1656-1728)、ミシェル=リシャール・ドラランド(1657-1726)、アンドレ・カンプラ(1660-1744)、アンリ・デマレ(1661-1741)、エリザベト・ジャケ・ド・ラ・ゲール(1665–1729)、ジャン=フェリ・ルベル(1666-1747)、ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレール(1667-1737)、アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ(1672-1749)、ルイ=ニコラ・クレランボー(1676-1749)といった数多くのフランス人作曲家がオペラを書いたが、リュリほど人気を博す人は18世紀になっても現れていなかった。

大家F.クープランは、オペラに手を付けることなく亡くなった。

 

 

作曲家としてのキャリアの半ばでオペラに取りかかるというのは、後年のR.シュトラウスにも似ている。

そしてR.シュトラウス同様、ラモーのオペラは大いに人気を博した。

50歳代には、抒情悲劇「イポリートとアリシー」(1733)、オペラ=バレー「優雅なインドの国々」(1735)、抒情悲劇「カストールとポリュックス」(1737)、オペラ=バレー「エベの祭典、またはオペラの才人」(1739)、抒情悲劇「ダルダニュス」(1739)といったオペラ、また室内楽では「コンセール形式によるクラヴサン曲集」(1741)を書いた。

ラモーが書いたこれらのロココ調の優美で繊細なオペラは、リュリの影響下にあったそれまでの古典的なフランス・バロックオペラとは一線を画すものだった。

フランス楽壇は、リュリ風オペラを支持する保守派と、ラモーのオペラを支持する革新派とに分かれ、ラモーの音楽は時代の先端を担った。

 

 

60歳代になっても、彼の筆は止まらない。

コメディ=バレー「ナヴァールの姫君」(1744-45)、抒情喜劇「プラテー」(1745)、オペラ=バレー「ポリムニーの祭典」(1745)「栄光の殿堂」(1745)「イマンとアムールの祭典」(1747)、英雄的牧歌劇「ザイス」(1748)、アクト・ド・バレー「ピグマリオン」(1748)、オペラ=バレー「アムールの驚き」(1748)、英雄的牧歌劇「ナイス」(1749)、抒情悲劇「ゾロアストル」(1749)、英雄的牧歌劇「アカントとセフィーズ」(1751)、アクト・ド・バレー「花飾り、または魔法の花」(1751)とますます多くの舞台作品を書いた。

ただ、当時の人々の好みを反映してか、喜劇的あるいは牧歌的な軽めの内容のものが増えていった。

 

 

長く生きたラモーは、これまたR.シュトラウス同様、晩年に時代遅れの烙印を押される運命にあった。

1752年に、イタリアの作曲家ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)のオペラ「奥様女中」がパリで上演された。

神話や史実に題材を取った伝統的なバロック・オペラの手法を優美に洗練させたラモーとは異なる、身近な題材によるシンプルで活気ある新しいイタリア・オペラの流行の波が押し寄せ、ブフォン論争と呼ばれる大きな論議が巻き起こった。

フランス楽壇は、ラモーのオペラを支持する保守派と、新しいイタリア・オペラを支持する革新派とに分かれた(後者の代表はルソー)。

20年前には革新的だったラモーが、もはや保守的として批判された。

 

 

それでも彼はくじけず、70歳代には英雄的牧歌劇「ダフニスとエグレ」(1753)、アクト・ド・バレー「シュバリスの人々」(1753)「オシリスの誕生、あるいはパミリーの祭典」(1754)「アナクレオン」(1754)「アナクレオン」(1757)、抒情喜劇「遍歴の騎士」(1760)、抒情悲劇「ボレアド」(1763)を書いた。

これらを聴く限り、彼は新しいイタリア・オペラの要素を取り入れようとはせず、あくまで自己流を貫いたようである(十二音や新古典主義を取り入れなかったR.シュトラウスと同様に)。

1764年、彼は80歳で生涯を閉じた。

 

 

 

 

「カストールとポリュックス」 より 1737年版では第1幕(1754年版では第2幕)に配されたテライールのアリア「悲しい支度」(Tristes apprets)。

なお全曲聴くにはこちらなど(1737年版)。

 

 

晩年好きの私だが、キャリアの半ばでオペラを書き始めた後、様式を大きくは変えなかったラモーにおいては、初めの3作「イポリートとアリシー」「優雅なインドの国々」「カストールとポリュックス」のインパクトに大きな魅力を感じる(R.シュトラウスの「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」と同じように)。

中でも「カストールとポリュックス」のこのテライールのアリアにおける哀しみの表現は、後にモーツァルトが書いた伯爵夫人の嘆きの歌にもゆめ劣らない、貴族的ともいうべき高度の洗練に達している。

オペラ誕生の地イタリアの後塵を拝してきたフランス・オペラは、ラモーに至ってついに本場イタリアの最良の作品にも比肩しうる、フランスならではの優雅で美しい傑作を持つこととなった。

 

 

全体に、フランス・バロック音楽の全盛期を体現したF.クープランが明るい詩情を持つのに対し、その衰退期に生きたラモーの繊細きわまる音楽技法の中にどこかしら哀愁を感じるのは、私だけだろうか。

このF.クープランとラモーとの違いは、この200年前のジョスカン・デ・プレとラッソ(その記事はこちら)との違い、あるいはこの200年後のドビュッシーとラヴェルとの違いに、よく似ている。

16世紀のラッソがルネサンス音楽の終焉を(あるいはカトリック教会文化の終焉を)、20世紀のラヴェルがロマン派音楽の終焉を(あるいはブルジョワジー文化の終焉を)示唆していたのと同様に、18世紀のラモーは、隆盛を極めたバロック音楽、ないしは華やかなりし王政文化、これら愛すべきものが少しずつ翳りゆくのを見守り慈しむ、そんな音楽を書いた人であるように思えてならない。

 

 

ラモーの後、ジャック・オベール(1689-1753)、ジョゼフ・ボダン・ド・ボワモルティエ(1689-1755)、ルイ=クロード・ダカン(1694-1772)、ジャン=マリー・ルクレール(1697-1764)、フランソワ・フランクール(1698-1787)、ジャン=ジョゼフ・ド・モンドンヴィル(1711-1772)、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)、フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734-1829)といった作曲家たちが現れた。

しかし、ラモーに並ぶようなフランス・ベルギーの作曲家の出現には、革命の混乱もようやく落ち着いた19世紀、ロマン派音楽の時代を待たねばならない。

上述のラッソのときと同様、私はこの作曲家100選においてまたフランス・ベルギー音楽からしばらく離れることになるだろう。

 

 

なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。

 

前書き

1~10のまとめ 1500年以前(古代・中世とその周辺)

11~20のまとめ 1501~1600年(ルネサンスとその周辺)

21. フランチェスコ・カヴァッリ

22. ルイ・クープラン

23. アレッサンドロ・ストラデッラ

24. アルカンジェロ・コレッリ

25. ヘンリー・パーセル

26. フランソワ・クープラン

 

 


音楽(クラシック) ブログランキングへ

↑ ブログランキングに参加しています。もしよろしければ、クリックお願いいたします。